泪声

幻中六花

第1話 砂糖に群がる蟻のように

 ある真冬の夜、明音あかねはいつものようにストリートライブをしていた。ここは岩手、真冬に外で歌うなんて、そんなバカなことある? と思うかもしれないが、案外アコギを抱えて何重にも厚着をして歌っている人は多いものだ。

 岩手の田舎の夜は、都会生まれの人が想像できないほどに暇なのである。


 飲み屋街くらいしか夜の人出がないため、明音はいつも飲み屋街に場所を取って歌っている。明音自身はあまりお酒を飲まないが、適度に酔った人はノリがよくて話しやすいので好きだった。


 誰も集まらない時間もあるが、数人が囲んで盛り上がってくれる時間もある。

 たいていは、二軒目に移動する団体が立ち寄ってくれる流れだ。


「お姉ちゃんなんか歌ってよ!」

 顔を赤らめたおじさんが明音に曲を歌えと催促する。

「いいですよ〜! じゃあ……あ、そうだ。私昨日、彼氏と別れたんですよ〜!」

 こういう話に、酔ったおじさんはとてもよく食いつく。


 ──砂糖に群がる蟻のように。


「傷心かい? じゃあ別れの歌とか歌ってよ!」

「じゃあ、すごい暗い歌歌いますね! ちゃんと聴いてってくださいよ〜?」

 明音は、酔ったおじさんを相手にすることには慣れていた。もう何年も、ここで歌ってきたから。


 田舎だからか治安も悪くなく、ここにいるとみんなが知り合いのように話せて楽しい。

 明音の失恋ソングに拍手を贈ったおじさん達は、開かれたギターケースに500円玉を入れて

「頑張れよ!」

と言って去っていく。二軒目に向かったようだ。


 明音が飲み屋街で歌うことの理由に、『ここしか賑わっていないから』というのとは別に、『みんなの財布の紐が緩いから』ということがあった。

 明音くらい若い女が一人でギターを抱えて歌っていると、おじさんたちは絡みやすく、仲良くしてもらって上機嫌になると小銭をくれるのだ。

 たまに、お金ではなく自分では使わないどこかのクーポン券の類や、四葉のクローバーをくれる人もいた。

 自分と絡んで何かをくれるということは、嫌われてはいないということ。明音はそれがはっきりと見て取れるこの場所が好きだった。


 人の流れが一旦落ち着き、明音が差し入れで貰ったホットコーヒーの缶を開けた時、数人の団体が明音の前を通った。

「おう、ねーちゃん! 寒いのに頑張るね!」

「あとで来てくださいよ!」

 そんな、本気で思ってもいないような会話が交わされ、それに腹が立たないのも、ここで歌っている醍醐味かもしれない。


「っていうか寒くないの?」


 さっきの団体はみんな去ったと思っていたら、1人、明音の前に残っていた。何かもっと話したそうに絡んでくるので、明音は

「みんなと行かなくていいんですか?」

と聞いた。


「いいのいいの! 会社のメンツなんて明日また会うし、俺酒飲めないからつまんなくて。始まりから終わりまでずっとオレンジジュースよ。辛くない?」

「たしかに、それは辛いっすね」

「それ、手袋反対じゃない?」

 明音に絡みたい男は、明音の指なし手袋の滑り止めが手の甲側に付いていることに気づいて突っ込んだ。


「これはわざとです。滑らないとギター弾けないんで」

「あー! 頭いいー!」


 こういう軽い会話。一期一会という言葉が相応ふさわしいこの瞬間。

 明音は数ヶ月後に、この男に対して曲を作っているなんて思いもしなかった。

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