第17話
4月、春めいていた。そして万事がうまくいっていた。
あたしは尼でもないのに、園内を自由に歩き回り、事務所の仕事のみならず、新入園者の管理や、反省室の看護、さらにはお迎えの担当にまでなっていた。
本祥さんのいちばんのお気に入りとなり、お上人さんや奥さんにまで可愛がられ、一目置かれる存在になっていたさ。
昨日、17歳の誕生日を迎えたけど、園内のどこで誰に会っても
「お誕生日おめでとうございます」
って言ってもらえたし、なんだかスターになったような気分だったぜ。こんなとこでスターになったって嬉しくも何ともないけどね。あははははははははは。
この分ではあと少しで退園出来るだろうと思っていた。
退園。それはこの光の園に生活するすべての人々の願いだった。
しかしあたしは、みんなの信用を一気に失う事件を起こしてしまうのである。
欲求不満という言葉がある。それは多くの場合、性的に満たされていない場合に使われるのではないだろうか。そんなものは異性に縁がなく、どこに行ってもモテない中年がいだくものだろうと思っていた。
しかし、あたしたち10代の少女にそれが起こったのだ。
当時、光の園には老若男女問わず250名ほどの人々が収容されていた。大きく分けると精神病者と非行に分かれる。それは半々といった所だ。
男子の方が圧倒的に多く、非行の女子は全体から見れば極めて少ない。病人さんは恋愛の対象としては除外されていたので(妙な差別である)非行の女子は希少価値だった。そんな所に(施設や寺に叩き込まれるなんて、どいつもこいつもロクな奴じゃない)いながらも、人々は男を、あるいは女を捨てられなかったのだ。何と園内のあちこちで「男女交際」が始まっていたのである。
あたしは心底驚き、心底呆れていた。こんな所に(くどいようだが)入れられてまで恋人が欲しいなんて。
サナエは平然として言い放った。
「よかじゃなか、ないもすっ事なかし」
横からミキも口をはさむ。
「そりゃ誰だってシャバの彼氏がいちばん好きよ。だども何も楽しみがなえなんて、面白うも何ともなえじゃなえ」
確かにここの生活は面白くも何ともない。二人ともシャバに彼氏がいながら、光の園にもシッカリと男を作っていた。
「マリのシャバの彼氏だって待っちょってくれーかどうか分からんよ。新しえ女おーかもよ」
「そうだよ、ここで男作ってしまえなよ」
「あたしは、ここで作る気はないよ」
まったくここまで来て信じられないよ、と喉元まで出かかったが飲み込む。しかしそう言うあたしも、欲求不満になりつつあったのは事実だ。
そしてもうひとつ、井の中のかわず、大海を知らずという言葉がある。
狭い世界に慣れ(ここはひとつの国であり、世界だった)、視野も何も思いきり狭くなっちまっていたあたしたちは、まさに井の中のかわずだった。
ここで男を作った者の多くはどういう訳か、もうこの人しかいないと思い込み、必要以上に惚れ込んじまうのだ。
冷静になってみればたいした男ではない。しかし小さな世界に浸りきって盲目的になってしまった少女たちにはそれが分からない。仕方ないと言えば仕方ないが、結婚式には誰を呼ぶだの、新居はどこにする、間取りはどうするだの、ましてや育児方法などを真剣に話し合っている姿はこっけいだった。結婚さえすれば幸せになれると信じられていた時代だったというのもあるが。
結婚したって幸せになれない。それが結婚して不幸になった人たちを見て成長した、あたしの持論だった。
今月19歳になるノリコは(非行グループでは最年長者だった)、園内で3才年下のケンジという男と付き合っていた。自分はもうトシだからというのが口癖で、ケンジを若い女に取られる事を何より恐れ、ケンジが18才になったら(まだ結婚できないというのが10代の恋愛の美しく儚い所である)結婚するのを夢みていた。
あたしは自分で言うのもナンであるが、園内では結構人気があったぜ。
仕事をガンガンこなし、お上人さんたちにも気に入られ、目立っていたという事もさながら、男好きする女の典型である(自分で思ったのではない。人様によく言われるのだ!)という事が、その理由だった。
入園してから何人かの少年に、自分と付き合って欲しいと言われていたが、こんな所で男などいるかと頑なに断り続けて来た。
しかし半年も監禁され、光の園に染まりきり、慣れに慣れ、次第に退屈し始めたあたしは相当危険な状態にあった。
ある時、あたしを気に入っていると分かっていた幹部僧侶のひとりと話をしてみた。
あたしに舐めるような視線を送ってくる、33歳、シャバでチンピラやってたおじちゃん。
何か便宜をはかってくれるのか?と、よこしまな考えが頭をかすめる。
だがその人は言った。
「マリはここで相当目立っちゅーけど、シャバに出たらどうかなあ。わしの女房が務まるかなあ。われみたいなどうしようもない奴、どっかの寺に3年くらいぶち込んでおこうかな。そうすりゃちっくとはましになるろうき」
…冗談じゃない言葉だった。ここで監禁され、またどこかに3年も監禁されるなんて、だったらもう死んだ方がましだ。
そのおじちゃんとは、二度と口をきかなかった。やっぱりここで男は作らない!と決意を新たにしながら。
ところで10代の少女、それもいわゆる不良少女が退屈を通り越して欲求不満状態に陥ったら、どうやってそれを紛らわすだろうか?
答えは二つあると思う。ひとつはシャバにいた頃のあたしのように、手当り次第に男を喰う事。
そしてもうひとつ、それはリンチだ。
あたしは光の園に生活する、すべての人々に思いやりを持って接していた(元チンピラのおじちゃんだけは例外だったが)。それが病人さんであれ、借金地獄から逃げてきた人であれ、誰に対してでも愛想良く接した。人に優しくする事に酔っていたのだ。調子に乗り、のぼせ上がっていたその八方美人的行為が裏目に出た。
ある日あたしは熱を出したケンジに、事務所の人にバレないように、解熱剤を持ち出して欲しいと頼まれた。言うと自己管理がなっていないと叱られると、困った顔をしている。
同情したあたしは言われるままに事務所から解熱剤を持ちだし、その上ちょうどそこにあった菓子まで失敬して、ケンジに持って行ってやった。その時、男子部屋にはケンジの他にマモル(こいつはタカエと付き合っていた)やナオキ(こいつはアサコの男だった)もいた。
彼らは日頃からあたしを「ミス光の園」と誉めたたえ(そんなもんに選ばれたって嬉しくも何ともない!)、マリさんはキレイだキレイだと言ってくれるカワイイ奴らである。本当につい魔がさしてしまった。男子部屋に女子は決して入ってはならないという規則をブチ破って、あたしはすすめられるままに室内に入ってしまった。
そして20分を経て、部屋から出て来た所で運悪く、尼の栗原さんと奥の院で同室のマユミとハチ合わせしてしまったのだ。
噂はたちまち光の園中に広まった。退屈している奴というのは、ちょっとした事ですぐ大騒ぎするものだ。
あたしは事務所に呼ばれ、薬と菓子を盗んだ事と、男子部屋に入った事を目茶苦茶に怒られた上、すべての仕事を降ろされてしまった。
がっくりと肩を落として奥の院に戻ったあたしを、今度はマユミから話を聞いて怒りに燃えたノリコたちが待ち構えていた。
あたしは確かに男子部屋に20分いたが、ケンジとも誰とも何もしていない。ただ話をしていただけだ。しかし嫉妬に狂ったノリコに、そんな言い訳が通用する筈はなかった。
不良っちゅーのは変な所に真面目で義理堅い(そう!「真面目に非行に取り組んでしまう」のである!)。どんな悪事をしても友達同士では許し合い(親や学校や世間は許してくれないから、せめて仲間同士では許すのだ)無罪とするのだが、友達の男を寝取る事だけは重罪、即!極刑だった。
ほんの何時間か前まで、本当に仲良しだったみんなの豹変ぶりには驚いた。人ってここまで変わっちまうのかよ!
ヨウコが必死になって言ってくれた。
「マリちゃんをいじめねぁーで」
そんな言葉、誰も聞いちゃいない。
ノリコが、タカエが、クミコが、マユミが、ミナコが、チカコが、アサコが、キミコが、室内の非行少女全員が、鬼と化してあたしを襲った。顔と言わず、頭と言わず、あたしの全身を、満身の力を込めて殴打する。みんな腕力がありあまっているので、その痛さときたらハンパじゃなかった。
殴られた瞬間、本当に火花が見えた。とにかく手加減も何もしやしない。日頃のうっぷんを晴らすかのように、所構わず痛め付ける。謝っても無駄だった。いくらゴメンと言っても聞く耳なんて持っちゃいない。
ノリコが怒るのは分かる。しかし関係ない奴らにまでヤラレるのには頭に来た。しかしみんな欲求不満なのだ。あたしをリンチする事でそれを解消しようとしている。何て事だ。ここは何て所なんだ。
遠くからヨウコの声がおぼろげに聞こえる。
「もうやめで、みんなもうやめで」
やっぱりここは狂っている。
光の園は狂っている。
狭い檻に閉じ込めて、病気や非行を治すどころか狂気に走らせ、人を野獣に変えてしまう。
約20分、あたしは仲間のリンチに耐えた。20分も良い思いをしたのだから、同じ時間リンチを受けるのは当然だろう、そう言ってノリコは最後に唾を吐きかけた。
あたしは朦朧とした意識の中で、ようやく恐ろしいリンチが終わった事を心から喜び、そのまま深い眠りに落ちていった。
どのくらい経ったろう。うっすらと意識が戻って来た。起き上がろうとしたが、体中に砕けそうな痛みが走り動けない。極端に体温が低下しているのを感じる。もう目鼻の区別も付かないほど腫れあがっているらしい。おかげで呼吸困難に陥っている。
誰かがあたしの肩をそっと揺すった。ヨウコか?しかし返事をする気力はおろか、目を開ける事もできない。
たったひとつ分かるのは、「自分がまだ生きている」という事だけだ。そう「痛い」という事は「生きている」という事だ。あたしの肩を揺すった誰かは、しばらくとどまっていた様子だったが、やがてあきらめたように立ち去った。
あたしは微動だにせず、そのまま眠り続けた。もうこれで終わったのだ。そう思いつつ。
しかしそれでは済まされなかった。獲物を手にしたノリコたちが、あたしというおもちゃを手放す筈はなかったのだから。
公判のない成敗は、まだまだ続いたのである。
このままでは、リンチ殺人に発展しかねない。そう思ったのは、何度目のリンチの時だったろう。
この光の園ではあたしのように、何らかの理由で集団暴行を受ける人は何人もいた。リンチの対象になった者は大概脅えに脅え、みんなの言いなりになってしまう。そして調子づいた奴らに更にこてんぱんにやられる。堂々巡りだ。悪循環とはこの事だ。
「殺したって3年で出て来られる」
ノリコがそう言っているのが聞こえる。少年法の事を言っているのだろう。
「やっちめー。みんなでやれば怖ない」
タカエの声が聞こえる。
「どっかに埋めちまえば良いんだよ」
マユミの声がする。
なんてこった。みんなであたしを殺そうとしてるなんて。
ただ、みんなそれだけ刺激を求めているのだ。退屈から逃れる為に、何かしらの理由をとって付けて誰かを襲う。監禁されている者なら尚の事、退屈ほど怖いものはないのだから。
そしてもうひとつ、早くシャバに出たいのになかなか出られない、その苛立ちもあった。だがそんな欲求不満のはけ口にされたのではたまらない。
あたしは朝が来るたびに思ったよ。ああ、また朝が来やがった。もう来なくていいのに。また恐怖の一日が始まっちまう。今日はどんな目に遭わされるのか?
人は例え、死にたいという口癖を持っていたとしても、本当に命をおびやかされれば、死にたくないと願う。往生際が悪いと言われようがどうしようが、いざとなると死ぬのを拒む。そして猛烈なパワーを発揮して立ち上がる。
あたしは本当に殺されかけていた。本当に。
そしてリンチされるたびに、「まだ生きているぞ」と実感していた。
まだ、生きていたかった。
だから
反撃を
開始した。
頭の中で闘いのゴングが鳴り響くのが、はっきりと聞こえた。
あたしはまず、ひとりでいる事を選んだ。暴行がエスカレートするのに比例して、あたしに同情を寄せる者も増えてきたが、安心するもんかと歯をくいしばった。
ヨウコ以外の誰が話しかけて来ても無視した。アユミさえしばらく相手にしなかった。
あたしを使い走りにしようと、誰に何を言い付けられても無視した。
ただでさえ少ない食事を取られたり、持物を盗まれたりしたが、強引に取り返した。
消灯後、ベッドの回りを囲まれた時は大声を上げて追い返した(この時、高校で教室の前にあたしをリンチしようと、上級生が大勢集まって来た時の事を思い出した。あの時もそうすれば良かった)。殴られれば殴り返した。
奴らは過剰反応し、ますますむきになって殴ってきたが、こっちもむきになって殴り返した。怒らせない方が良いと言う、誰の助言も聞かなかった(すでに怒らせた後だ!)。
奴らは怒りをたぎらせ、何とか言いなりにしようと躍起になったが、あたしは決して負けなかった(この時、小学校で河野さんという女の子があたしを使い走りにし続け、反撃した途端に何も言わなくなった事を思い出していた。また、アルバイト先であたしに、ああこのお金よこせってそう言うんでしょう、と声を荒げ続けたチアキさんも、やめてくれとはっきり意思表示した途端にそう言わなくなった。いっとき相手が過剰反応してもこちらが反撃し続ける事でいじめはやむ、そう信じてあたしはあらん限り踏ん張った)。
彼女らが怒りを緩和させない理由のひとつに、ケンジたちがあたしをかばった事という事がある。ケンジたちはあたしが男子部屋にいた事がバレたと知った時に、それぞれ自分の彼女にマリに手出しするな、変な目で見るな、もしそんな事をしたら別れると宣告し、何とかあたしを守ろうとしてくれたのである(ご厚意は有り難いが、裏目に出たご行為だった。駄洒落ではない)。
しかしそれがかえって、ノリコたちの逆鱗に触れた。そこまでかばうと言うことは、やはりヤッタのだろう。それがノリコたちの結論だった。
そしてノリコたちが、あたしをメッタ打ちにしたのを聞いたケンジたちは、何故自分の言う事を聞かないんだと彼女らを責めたて、本当に別離を言い渡したのだった。
ノリコたちは泣きわめいて荒れ狂い、すべてをあたしのせいにして、これでもかと圧力をかけ、益々ひどいリンチを加えるようになった。
それでもあたしはひるみもへこたれもしなかった。
1発殴られたら3発殴り返し、5発蹴られたら10発蹴り返した。
言いなりになったらもっとやられる。
我慢したら終わらない。
だったら闘う!
命がけで闘ったる!
ゴングはガンガン鳴り響いている!
おーおー!あたしってこんなに強かったんだ!
こんなに闘えるんだ!
ヨウコがあたしを頼もし気に見ている。
アユミも「ほう」って顔で見ている。
ノリコたちは「こんなに歯向かってくるんだ、こいつ」って顔で見てる。
尼さんたちは「手に負えない」って顔で見てる。
坊さんたちは「スゲーねえちゃん」って顔で見てる。
ケンジたちは「かばうまでもないのかな?」って顔で見てる。
お上人さんも、奥さんも、本祥さんも、絶句して、ただ見てる。
みんな、みんな、あっけに取られている。
傷だらけでもまだ立ってるぞ!
まだ生きてるぞ!
見ろよ、こんなになってもまだ闘えるんだ!
闘うぞ!闘うぞ!闘うんだ!沖本の乱だ!
負けるもんか!負けるもんか!
負けるもんかあああああああああああああ!!!
実は負けなかったのには、このいじめを何としてもやめて欲しいというのとは別に、もうひとつ理由があった。当時あたしは夢を持ったのだ。
「メイクアップアーチストになりたい」という夢を。
それはあたしが初めて持った夢だった。その夢を叶えたかった。命さえあれば、いつか夢は叶えられる。だから死ぬもんか、絶対に負けるもんか。生きてここから出て、メイクアップアーチストになるんだ、その一念だった。
逃れられない場所において、絶体絶命の危機にさらされようとも、あたしはこの夢の為にくじけずにいられる。そうそうこんな経験は出来まい。まんざらここに来た事は無駄ではなかったようだ。
…と言っても、あたしもいい加減疲れつつあったのは事実だ。一日も早くここを退園したくて焦るようになっていた。
ちょうどその頃、父さんと母さんが揃って面会に来た。
助かった!心底そう思った。
あたしは二人を前に、必死で帰らせてくれと哀願した。ここでひどいリンチを受けている。我慢できない、早く出してくれ。あたしは必死で頭を下げ、プライドを捨てて頼み続けた。
しかしである。父さんも母さんも承知してくれなかったのだ。父さんは、顔も体も痣だらけの惨めな姿のあたしにこう言った。
「お前は親に対して酷い事をしてきた。盗みはするし、親を殴った事もある。その報いが来ているのだ。当然の償いだ。我慢しなさい。まあ1年くらいはここにいなさい。お前の為だ」
父さんは、自分が家族に散々暴力を振るった事をすっかり忘れている。あと1年もリンチされていろってか?あと1日も嫌だよ。あと1回殴られるのだって嫌だ。冗談じゃない!
「リンチされているんだよ」
と言ったが
「お前がまた悪い事しないなんて、そんな保証どこにもない」
と子どもみたいに口を尖らせて言う。
絶句したぜ。散々いじめておいて、逆撫でしておいて、暴力振るっておいて、やる方は悪くなくて、耐えきれなかった方が悪いなんて。
母さんは母さんで、得意気に質問してくる。
「あんた、ここに来てどんな事が分かった?」
仕方なく答える。
「今まで自分がどんなに恵まれていたか分かった」
本心じゃないよ、実際恵まれてなんかいなかったしね。
母さんがこれ見よがしに聞く。
「それでこれからどうしようと思う?」
シャバに出たい一心で答える。
「父さんと母さんを大事にしようと思う」
母さんがまた聞く。
「それからどんな事が分かった?」
母さんが答えて欲しそうな事を言う。
「学校を続ければ良かったという事が分かった」
母さんが満足そうに聞く。
「それでこれからどうしようと思う?」
「美容学校に行こうと思う」
これは本心だ。
「それからどんな事が分かった?」
母さんがまた聞く。
「殴られたら痛いという事が分かった」
仕方なく答える。実際、毎日リンチされてイテーよ。
「それでこれからどうしようと思う?」
得意満面の母さんが言う。
「人を殴らないようにしようと思う」
いいから早くここから出してくれよ、と思いながら答える。
「それからどんな事が分かった?」
母さんは、自分の方が立場の強い事を誇示しながら言う。
「派手な格好をやめようと思う」
母さんの顔色を見ながら言う。
「それでこれからどうしようと思う?」
母さんが居丈高に言う。
「地味な格好をしようと思う」
母さんの勢いは止まらない。
「ほかにどんな事が分かった?」
仕方なく答える。
「男遊びは良くないという事が分かった」
母さんがにやりとする。
「それでこれからどうしようと思う?」
本心じゃないが答える。
「真面目になろうと思う」
母さんは黙らない。
「ほかにどんな事が分かった?」
まだあるのかよ。
「水商売は良くない事が分かった」
母さんの口が動き続ける。
「それでこれからどうしようと思う?」
何でもいいから早くここから出してくれ、その一念で答える。
「真面目に働こうと思う」
母さんは止まらない。
「ほかにどんな事が分かった?」
何を言えば母さんは満足するのか?
「姉ちゃんや友達と喧嘩するのは良くない事が分かった」
母さんは更に満足そうに言う。
「それでこれからどうしようと思う?」
マニュアルがあるのかい?と思いながら答える。
「姉ちゃんや友達と仲良くしようと思う」
母さんがまた言う。
「ほかにどんな事が分かった?」
なんてしつこいんだ。
「勉強は、した方がいい事が分かった」
母さんが言う。
「それでこれからどうしようと思う?」
「勉強しようと思う」
母さんが間髪入れずに聞く。
「ほかにどんな事が分かった?」
まだあるのかよ。いい加減にしてくれよと思いながらも答える。
「目立つのは良くない事が分かった」
母さんが顎を上げながら聞く。
「それでこれからどうしようと思う?」
「目立たないようにしようと思う」
母さんがまた言う。
「ほかにどんな事が分かった?」
…もうない。もう答えられない。茫然として黙る。
母さんの眉が吊り上がる。
「なあに?もうないの?」
どうせ後から、あんたはあの時ああ言ったこう言ったと蒸し返すのだろう。
「あんた、勉強するって言ったじゃない」
あたしの好きな漫画を捨てようとつかみかかる母さん。
「あんた、交換日記やめるって言ったじゃない」
あたしがたいせつにしている日記につかみかかる母さん。
「あんた、ちゃんとご飯食べるって言ったじゃない」
山盛りのご飯を前にした母さん。
「あんた、加藤さんとは付き合わないって言ったじゃない」
不満満面の母さん。
なになにって言ったじゃない。まだ幼かったあたしに声を荒げ続ける、居丈高な母さん。
その光景が、
ひとつ、ひとつ、
ありありと、蘇る。
今、目の前で、母さんが不満満面の顔を向け続けている。
「早く言いなさいよ。他にどんな事が分かったのか、ほら言いなさいよ」
唖然とする。もうない。それにどうせ答えたって、それでどうしようと思う?ほかにどんな事が分かった?と1万回でも2万回でも聞くつもりなんだろう。
立場の弱いあたしを永久にいじめ続けるつもりなんだろう。もう嫌だ。うんざりだ。
黙り込んだあたしに母さんが詰め寄る。
「なあに?たったそれだけ?」
もう言葉なんて出て来ない。同じ事を繰り返し繰り返し聞かれるだけだ。母さんは弱い立場のあたしをいじめたいだけだ。
まだ幼稚園にも上がらない幼い日、
「父さんと母さんどっちが好き?」
と拷問のように繰り返し聞かれた事を思い出す。答えられず、幽体離脱するまであたしを追い詰めた母さんは、あの時と寸分も進歩していない。
「なあに?なに黙ってるの?」
目の前の母さんがあたしをいたぶる。
テレビに夢中になっている幼いあたしに自分の言う事を聞かせようと
「マリ、あんたみたいな子は施設に引き取ってもらうよ」
と脅し、ダイヤルを回す事なく、ただ受話器を耳に当てたまま睨みつける母さんを思い出す。
母さんは10数年経ってからそれを実行したのだ。
小学生のあたしに
「食事はおしゃべりしながら楽しくするものよ」
と言い、あたしが無理に話題を探して何か言うたびに、それはあんたがああだからでしょう、こうだからでしょう、と否定した母さん。
絶句するあたしに
「何黙ってんのよ、何か喋りなさいよ」
と更にいたぶった母さん。
今、目の前の母さんが言う。
「あんた、なんにも変わっていないじゃない。直っていないじゃない。出してやらないよ」
…愕然とする。
「出してやらないよ」という言葉が頭にこびり付く。
小学校2年生の時、あちこちの医者や宗教団体のお偉いさんの所へ連れて行かれた事を思い出す。
「どっかおかしいんじゃないでしょうか?」
と、丸聞こえなのに囁く母さん。
今よりもっと若かった母さんと、幼かった自分が蘇る。
変わっていないのはこの人だ。おかしいのもこの人だ。逃げられない場所でのリンチがどれほど恐ろしいか、悔しいか、あんたに分からないんだろう。
どうしても我慢できない。後1年もリンチされたくない。1日も、1回も、嫌だ。だからここから出して欲しいんだ。もう誰からもいじめられないように家に逃げて帰りたいんだ。
どうして分かってくれないんだ。こんな土壇場で裏切るなんて。こんな緊急事態にも対応してくれないなんて。
自分を満足させる言葉を散々言わせ、まだ言わせようとし、言葉を尽くしたあたしにまだ言えと迫り、「出してやらないよ」で済ますなんて。
まだ交換条件を掲げる気か、きりがない。
悲しさやら悔しさやらじれったさやらで、気が狂いそうだった。自分の娘がリンチされているのに助けないなんて。あたしはあんたらをかばい続けたのに!
あたしは頭の中で、何本もの血管がちぎれていく音を聞いた。ゴングもガンガン鳴り響いていた。
次の瞬間、二人に湯飲みをブン投げ、どこかの頑固オヤジのようにテーブルを引っくり返し、二度と来るなと啖呵を切り、奥の院に戻っちまったのである。
ああ、短気は損気。
あたしはこれで何もかもブチ壊し、振り出しに戻った訳だ。もはやここからは当分出られまい。
もう溜息も出なかった。
ノリコたちの怒りがようやく静まったのは、それから二カ月後だった。それはとてつもなく長い二カ月間だった。頭の中で毎日ゴングが鳴り響いていたし。
「マリは何を言っても聞かない。どうせ無駄だ。もう放っておこう」
ノリコ自身がそう言ったらしい。その頃からあたしは再び園内の仕事をするようになり、少しずつ信用も取り戻していった(この時、5年かけて得た信頼を一度失うと取り戻すのに10年かかるという言葉を思い出していた。10年も、やってられるか)。
この間、アサコとチカコとマユミが退園していった。男子ではケンジとマモルが(ケンジが退園したのもノリコの怒りが静まった原因のひとつだ。しばらくノリコは腑抜けのクラゲだった)。
それぞれ様々な思いが胸をよぎった事だろう。ひとりひとりに元気でと言って去って行った。あたしたち見送る側も胸が詰まるような思いに浸りつつ、頑張ってねと送りだした。送る方も送られる方もつらい。しかし新しい門出なのだから、精一杯祝ってやらなければならないだろう。何もしてあげられなくとも。
新入園者は相変わらず、日々続々と入って来る。これもなかなかつらい。迎える方も迎えられる方も。この少年少女たちが退園出来るのは、一体いつの事だろう。
そして何より、あたし自身が退園できる日が果して来るのだろうか。
今、シャバはどうなっているのだろう。
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