第14話
そうそう、初めてのアルバイト先で常連客だった人と付き合うようになっていた。あたしにとって初めての正式な(はて?)彼氏。6歳上で、親が経営する寿司屋の手伝いをしている人だった。
ただ、きちんと従業員として働いているのではなく、気が向いた時や忙しい時だけ手伝っている道楽ぶりだったよ。自由出勤ってやつ?継ぐ気もなかったみたいだし。良い身分だねえ。だから暇みたいで、毎日店にコーヒー飲みに来ていた。
あたしを好きだ好きだと連発し、あたしと付き合えるならどんなことでもすると言った。
…だったら可愛がってくれるかな?と思っちまったよ。ただ、矛盾する所も多々あった。
「若すぎるんだよ。せめて18だったら付き合った」
と、付き合おうと約束なんてしていないのに言っているし。
「自分が27の時に21の嫁さんがいるなんて」
とも言った。って事は、結婚も考えてくれているって事かいな?と、ちょっとは嬉しかったしね。
正直言ってあたしはその人をそんなに好きじゃなかったけど、せっかく言い寄ってくれるんだから「据え膳食っとくか」って気がした。6歳も年上で大人に見えたし、親は愛してくれない代わりに神様はこの人を与えてくれたのかな、とさえ思った。
だがその人は初めてキスした時、妙にしつこかった。
「もう1回、もう1回」
とまたキスされた。顔が離れるとまた
「もう1回、もう1回」
とまたキスする。それを何回も何回も繰り返した。それこそ10回くらい繰り返した。なんてしつこいんだ。
そして翌日、その人はアルバイト先のみんなの前でこう言った。
「ねえ、イーってやってみて。昨日歯が全然なかった気がする」
ほかのみんなもあたしの口元に注目する。
あたしは歯並びが悪いのをじゅうぶん気にしていて、いつもあまり口を開けないようにして喋っているくらいだ。それなのにみんなの前でそんな事言うなんて。ましてや、キスした事がみんなに分かってしまうってーのに。
その人はあたしの口元を見ながらまだ言う。
「ねえ、イーッてやってみて」
「歯が全然なかったら、さしすせそ、も、たちつてと、も言えない筈じゃん。あたしは、さ行も、た行も、きちんと言えるんだから、歯があるって事じゃん」
苦手な反論したが、それでもその人はあたしの口元を見ながら何回もしつこく言った。
「ねえ、イーッてやってみて」
嫌なものは嫌だ。首を横に振る。
「ねえ、イーッてやってみてよう」
夕べも今も、なんてしつこいんだ。絶対にやらなかった。
そう言えば付き合う前にその人がこんな事を言っていた。
「20歳過ぎの処女なんて飲み開きのコーラだよ」
「何それ?」
と聞いたら得意そうにこう言った。
「気が抜けてる」
だがその人は、後日にやにやしながらこう言った。
「面白い話聞かせてやろうか?」
どうせ面白くないんだろうと思いつつ頷く。
「俺、キスしたのお前が初めてなんだよ」
面白くねーよ、22歳にもなって、気持ちわりーよ。ああ、だからあんなにしつこかったんだ。もう1回、もう1回って。
「マリはキスするの初めてじゃないんでしょ?」
って言うから正直に
「初めてじゃないよ」
って言ったら
「でも、処女でしょ」
って言う。自分に経験ないからって相手にも同じもの求めんじゃねえよ!って思いながら
「違うよ」
って言っても
「でも、処女でしょ」
って何回も言う。
「だって俺の友達が言ってたもん。あれはヤッタ顔じゃないって。だから処女でしょ」
だと!顔でやるんじゃねえよ!体でやるんだよ!どあほ!もうしつこいよ!うるさいよ!気持ちわりいよ!ハタチ過ぎの童貞なんて、飲み開きのコーラだろ!!
…別の日、その人は言った。
「君にひとつの課題を与える」
は?って顔をしたあたしに、得意気にその人は言った。
「たばこをやめる事。出来ない場合は別れる!」
「バカバカしい!自分だって吸うくせに!」
苦手な反論をすると、もっと得意満面で言い放った。
「俺は成人しているから。君は未成年!それに俺は吸い始めたの20歳過ぎてからだもん」
だと、何が「だもん」だよ。可愛ぶるな、あほ。
もうひとつ、その人の揺るぎない主張があった。
「女は子どもを生むから」
「あたし子どもなんか生まない。一生、生まない」
と言ってやった。
「俺の子も生まない気?」
と聞くので大きく頷いて言った。
「結婚なんかしない!」
結婚なんてしないよ!
子どもだって一生産まないよ!
結婚して、子ども生んで、不幸になった人たちを見て育ったからね。子どもだって一生生まないよ!生んだ子をいじめたくないしね!
自分の子なら可愛いよ、ってみんな言うけど、全然そんな事ないよ!現にうちの親は二人とも、実の娘であるあたしを滅茶苦茶にいじめたよ!本当だよ!事例ならいくらでもあるよ!
その人は未成年だからという理由で煙草を禁じておきながら、あたしを平気で酒場へ連れて行ってどんどん酒を飲ませたし、ポルノ映画もどんどん見に行くし、ラブホテルも当然のように行った。
「怖くないから、怖くないから」
と言ってどんどんあたしの体を触る。誰も怖がっちゃいないよ!汚い手で触られるのが嫌なんだよ!石鹸できれいに洗って清潔なタオルで拭いてからにしてくれよ!!
「お前は全然俺の言う事を聞かないな。煙草やめろって言ってもやめないし、何の楽しみもないのは可哀想だから、じゃあお酒は飲んでもいいって事にしてやったのに酒は飲みたくないって言うし、映画も嫌だと言うし!」
だと!どアホ!
ただ自分が酒好きで付き合わせたいだけだろうが!ホステス代わりに!!未成年だから煙草吸うなと言うなら、同じ理由で酒も禁じるべきだし、18禁映画もホテルも行くべきじゃないだろう!
あたしの前で平気で煙草吸って、副流煙どんどん吸わすし!屁理屈を極めるな!
ポルノ映画なんて最初興味本位で見たけど、1回で飽きたよ!見たかねーよ!普通の映画ならまだしも、もう見たかねーんだよ!!
酒だってまずいし、飲みたかねーよ!自分の好み押し付けんじゃねーよ!!
たばこやめられないなら別れる、上等だよ!
「じゃあ別れよう。あたしあなたよりたばこの方が好きだから!」
と言ったあたしにその人は慌てて言った。
「次のデート、いつにする?」
そしてその人は、あたしが何か言うたびにそれをいちいち覚えていて、なになにって言ったじゃない、と蒸し返す人だった。母さんそっくり!
「映画観るって言ったじゃない」
とか
「ホテル行くって言ったじゃない」
とかね。仕方なく頷いただけじゃん。
「全然言う事聞かない」
って怒っているから
「正しいと思わないから聞かないんじゃん」
って苦手ながら反論したら絶句してやんの。
苗字を聞かれ
「水原」
と答えると、わざわざ電話帳で調べて
「ないよ!嘘言ってんじゃん」
とあたしを責めるし。確かめるなんて、いやったらしいじゃん!
本名は言えないから言わないんだよ!親にうちの一員と認めないだの、沖本家の恥とか、言われているからね。本名を名乗れない奴だっているんだよ!
「またポケられた」
だって。そういうの「ポケる」って言うんだ。あーそー。ボケる、じゃないのね。あはははははははは。いっそボケてあたしを忘れろよ!
しかもその人は、あたしがアルバイトを変わるたびに毎回新しい店に偵察に来る人だった。
それも初日の朝に!にやにやしながら!!
そして必ずこう言った。
「どう?」
何がどう?だよ!答えようがねえよ!母さんみたい。
「知っている人?」
と新しい所の先輩に聞かれるし、見張られているみたいで嫌だった。
「来ないでよ」
って何回言っても来るし。
「ちゃんとやっているかなと思って」
だと。オマエの紹介でこの店に入った訳じゃねえし、あたしゃあんたの所有物じゃねえよ!しかも変に新しい店のみんなに馴れ馴れしくして、あたしの仕事ぶりはどう?とか聞くし、店の電話番号なんて教えていないのに、番号案内の104で勝手に調べて電話もどんどんかけてきて、
「どう?」
って聞くし、元々あんまり好きじゃないのにそんな事されて、どんどん嫌になった。
「やましい事がないならどこで働いているか言える筈。そこに行っても電話してもいい筈」
それがその人の言い分だった。
やましかないけど迷惑なの!
更にその人は、親に買ってもらったソアラってー車を得意気に乗り回していた。助手席に乗せてくれたはいいが、ある時降りようとした瞬間、強風に煽られてドアをガードレールにしたたかにぶつけちまった。勿論わざとじゃないし、すぐに謝った。
だがその人は間髪入れずに大声で怒鳴った。
「この車、360万もしたんだぞ!」
そして車を降り、ドアに傷がついていないか丹念に見ていた。あたしの心配は一切せず、車の心配ばかりしていた。親の金で買ってもらった車だろ!と言いたいのをぐっと堪える。
それにその人、変な角度から自慢してくるし。
「夕べマリちゃんからうちに電話あった時に最初にユキオが出て、その後俺に代わったでしょう?俺の親が、ユキオの友達とお前があんまり関わらない方がいいんじゃないのかって言っていた」
と、満足げな顔で言う。
ユキオ君というのは、その人の親が経営する寿司屋に住み込みで働いてる、あたしと同い年の見習いさんの事だ。
…何が言いたいのかよく分からない。
「だから?何が言いたいの?」
と聞いても
「ん、そうやって言うから」
と満足気な顔をやめない。要するに、自分の親は、ユキオなんかより俺が可愛いんだぜ、俺を愛しているんだぜ、と言いたい訳だ。
中卒のユキオ君は悪い子で、ユキオ君の友達とおぼしきあたしも不良だから、良い子の俺が悪い影響受けないようにして欲しいと、俺の親は俺の心配だけをしている、と言いたいんだろう。自慢しちゃって、大人げないねえ、22のくせに。
おまけにユキオ君をむやみにこき使い、気分次第でこれでもかとばかりにいじめ、円形脱毛症になるほど虐げていた。ユキオ君、可哀想に、どんどん髪が抜けて禿げていくの。
その人、いじめをやめるどころか
「ユキオの奴、禿げてやんの。その禿げがどんどん大きくなりやんの、ハハハハハ」
ってせせら笑っているし。
我慢しているユキオ君の気持ち分からないんだろうねえ。
「ユキオが死にたいって言うから首絞めてやった。そしたら死ぬじゃないかだってハハハ」
とも言ってた。
死にたいくらいお前のいじめが嫌なんだろうに。
その上その人はあたしに毎月の給料の額を聞き、
「8万円くらい」
と正直に答えたあたしにこう言った。
「俺より良い給料もらってんな。これからデート費用は全部そっちが持ってよ」
と言いやがった。冗談じゃないよ!こっぴどく振ってやった。もううんざりだ。こんな彼氏ならいらない。
何回振ってもまだしつこく付いてくるし。
「何でそんなにしつこいの?」
って聞いたら
「それだけ好きって事じゃん」
だって。本当に好きだったら相手の嫌がる事しねーだろ!つきまとっておいて
「俺にこんなに愛されてて嬉しいでしょ」
だと!全然嬉しかねーよ!そんなん愛情じゃないよ、ただ意地になってるだけだよ!
何回も電話かけてきて
「昨日の別れ話、あれキャンセルだから!」
だの
「君の行く先々に押し掛ける俺を嫌っていた実績を考えれば仕方ないかも知れない。でも、俺はまだ君が好きだから付き合いたい」
だの(実績ってそういう時に使う言葉じゃねーよ!)
「俺は一度でも付き合った女には最後まで責任持つ。別れたからハイさようなら、なんてそんな事しない!だからこれからもお前と会うしホテルも行く!」
だの、アタマ狂ってんじゃないの?って言いたくなるような事を次々に言う。
仮にこの人と結婚しても、子どもを生んでも、同じ事を言いそうな気がした。
「この結婚、キャンセルだから!」
とか
「この子が生まれた事、キャンセルだから!」
って。
その人はしまいにこうのたまった。
「俺はあの時、初めてだったから責任とって結婚してよ」
は?いまどき女だってそんな事言わねーよ。バーカ!
「親が喫茶店開業するんだ。俺、任されるんだよ。雇ってやるからお前コーヒー作れよ」
とも言った。誰も雇って欲しいなんて思わねーよ!
「俺、音楽とデザインの勉強の為に来月からアメリカに行く事になってるんだ。その前に会ってよ、会ってよ、会ってよ、会ってよう、ねえ、会ってようううう」
とミエミエの嘘もこくし、どこまで付きまとうんだ!
この人は今でいうストーカーで、後年、あたしが通うだろうと思った美容学校の夜間部に、自分も生徒として通学するというキチガイ沙汰をやった。気が向いた時だけ親の店を手伝う、つまり無職に近い状態だから、暇だからこそ出来た事だろう。親が喫茶店を開業するというのも嘘だったのだろうし、学費も親に出させたのだろう。
美容学校卒業後に受けた国家試験会場で姿を見かけ、一瞬で分かった。勿論さっと隠れて見つからないようにした。
免疫のない人と付き合うものではないと学んだ。
次に付き合ったのは、その次のアルバイト先で一緒だった人だった。
前に人にしつこくされて困っているあたしを心配してくれた。前の人が変過ぎたから、その人はまともそうに見えたよ。ホールのチーフやっていたし。
だがその人は初めてのデートに大幅に遅刻して来た。20分以上待たされ、もういい加減帰ろうかと思い、駅にある伝言板(当時は携帯電話などなく、風呂の蓋くらいのサイズの黒板が、どこの駅にもあった)に「もう帰るよ、マリ」と書いて立ち去ろうとした。
そこには「遅いぞスージー」だの、「先に行くぞライデン」とも書いてあった。ロックバンドやっている人たちのステージ名なんだろうねえ、何がライデンだよ、と思ったさ。
そこへやっと現れたその人は、何を言うかと思えばこう言い訳した。
「俺、お前が時間通り来ると思ってなかったんだよ、偉いじゃん、感心したよ」
あほ!初デートで遅れておいて言えたセリフか!
何回もデートしてあたしが毎回遅刻するから、とか言うならまだしも、1回目のデートであたしが時間にルーズだと勝手に決めつけて、遅れてきてごめんの一言もなく、そんな言葉でごまかすな!
しかもお腹が空いていると言うあたしに、なんやかやと理由を付けて食事をさせてくれなかった。
「この店はたいした料理出さないから」
だの
「ここはコックが代わってから味が落ちた」
だのと言って。
やっと入った店で料理を選ぶにしても、ああだこうだと通ぶってるし。ようやく運ばれてきた料理を食べようとすれば
「待て」
と言って鞄の中からなにやら怪しげなスプレーを取り出し、その料理に水をシュッシュッとかける。
「何すんのよ、汚い。断りもなく勝手な事しないでよ」
と言えば
「この水は魔法の水なんだ。毒を消してくれるからイイんだよ」
とのたまう。何の水だ!何の宗教入っとんのや!
デザートにパフェを注文すれば、自分のパフェの生クリームを食べきれないとばかりに、勝手にあたしのパフェの上にドカドカ乗せるし。
「何で断りもなくそう言う事するのよ。スプレーしていい?とか生クリーム乗せていい?とかちゃんと聞いてよ」
と言ってもヘラヘラするばかり。余計イライラした。
そしてその人は、手持ちのたばこがなくなるとごねる人だった。気が利く女だと思われたくて、その人がお気に入りの銘柄のたばこ、マルボロってのを密かに買っておき、なくなった途端にハイと差し出したんだよ。その時は勿論喜んでくれたよ。
だがその人は、あたしが差し出したマルボロも、あっという間に吸い終えてこう言った。
「ねえ、第二のマルボロないの?」
あたしゃ自販機じゃないよ!
しかもその人は、あたしが店でほかの人にいじめられているのを見て見ぬ振りをした。
「だって俺の立場で向こうの悪口言う訳にいかないじゃん」
それがその人の言い分だった。
更にその人は綺麗事を言う人だった。
「5年かけて得た信用を一度失うと、取り戻すのに10年かかるんだ」
だの
「仕事だけはちゃんとやりなよ、仕事だけは。俺もこれからはそんなに助けてやれないし」
とかね。
お前のやってる事はなんなんだよ!困っててもたいして助けてくれてないしね!
その上その人はお母さんの話をよくする人だった。
「昨日、お母さんがボクの事をよく我慢したねって褒めてくれた」
とか
「お母さんがマリちゃんと付き合うのやめなさいって言うの」
とか
「お母さん、若い頃すごく美人だったの」
とかね。ハタチのオトコの言う事か!
「お母さんに反対されてるなら別れようか?」
と聞けば
「でも、俺はお母さんの反対を押し切ってまで、マリちゃんと付き合ってあげてるよ」
だと。何が「あげてる」だよ。全然有り難くねえよ!
しかもその人は、当時浦安に出来たばかりのディズニーランドに行きたいというあたしに
「今月中には行こうと思う」
だの
「今年中には行こうと思う」
と言いつつ、決して連れて行ってくれない人だった。そんなに遠くないし、そんなに忙しくもないのに…。
その上その人は、喫茶店やレストランに入っても一発でメニューや席を決められない人だった。この席、と決めても
「やっぱりあっちがいい」
と言い出し、店員に頼んで替わる。
「はい、お引越し、お引越し」
とか言いながら新しい席に替わる。そしてしばらくすると
「やっぱりあの窓際の席がいい!」
と言い出し、また
「はい、お引越し、お引越し」
と席を替わる。店員も呆れていたよ。あたしも嫌だった。じっと我慢して付き合ったけどさ。
メニューも、最初に
「アイスコーヒー」
と注文しても
「作っちゃった?やっぱりアプリコットジュースがいい!」
とか言うし。しかもその直後に
「作っちゃった?やっぱりアイスココア!」
とも言っていた。この人と例え結婚しても、妊娠しても同じ事を言うような気がした。
「やっぱりあっちの女の子がいい!」
とか
「子ども出来ちゃった?やっぱり子どもいない方がいい!」
とか
「はい、離婚、離婚」
とかね。しかもその人は、あたしの神経を毎度毎度逆撫でする人だった。あたしがコンビニエンスストアで何か買うとこう言った。
「コンビニエンスストアがいちばん高くつくね!」
…うるさいねえ。だったら
「コンビニエンスストアで買い物すると高くつくから、ディスカウントショップで買えば?車で連れて行ってあげようか?」
等、プラスの言い方をしてくれてもいいのに。
もうひとつ、あたしはコーヒーや紅茶、緑茶といったカフェイン飲料と炭酸飲料が体質的に飲めなかった。酒も決して好きじゃなかったしね。まずいから!
喫茶店や自販機で飲み物を選ぶ時、必ず野菜や果物のジュースか牛乳を飲んでいた。腹を壊しちまうからしょうがないっつーのに、その人はそれも否定した。
「喉乾いた」
と本当に喉カラカラのあたしに
「どれ?」
と自販機を前に聞くから、飲めるものを選び
「オレンジジュース」
と言えば
「甘いの飲むとまた乾くよ」
と否定する。だから飲むなってか?
「もういい!」
あたしは自分でお金を入れてオレンジジュースを買って飲んだ。
「だから、甘いの飲むとまた乾くよ」
と壊れたテープレコーダーよろしく言うから、言い返してやった。
「また乾いたらまた飲めばいいじゃん!10本でも、50本でも!!」
別の時、トマトジュースを選んだあたしにその人はこう言った。
「トマトジュースじゃ乾き癒えないよ」
だから飲むなってーのか?カフェイン飲料と炭酸は飲めねーって前に説明したじゃん!忘れたか!ドアホ!
更にその人はあたしの気持ちをまったく考えず、自分がエッチしたければあたしが生理中だから嫌だと言っても押し倒す人だった。
今と違い「性的合意」なんて言葉もなかったけど…。
「俺は相手の気持ちを考えるんだ」
って言っていたくせに。口ばっかり、こんな奴嫌いだ。靴下の穴縫えとか、ボタン付けろとか、どんどん用事言いつけるし、有難うの一言もないし、もう嫌だ。
何だか機嫌良さげに電話を掛けてきて他愛もない事をべらべら話すから、話し合いを試みようと勇気を出してこう言った。
「ねえ、あたし、もうあんまり便利に使われてあげられないわ…」
その途端、不機嫌になり
「もう切る」
とガチャ切りされた。
ああ、話し合ってもくれないのか、とさびしい気持ちでいっぱいになる。
後日その人はまた電話を掛けてきてこう言った。
「俺あの時良い気分だったんだ。楽しい気分だったの。お前にぶち壊されたんだ。謝ってくれよ。さあ、謝れよ。早く」
…絶句したよ。あたしの良い気分、楽しい気分を年がら年中ぶち壊しておいて言えたセリフかいな。
決して謝らなかったらまたガチャ切りするし。
なんて勝手な人だろう。そう思っていたらその人が、あたしのいない所で自分の仲間に
「マリ?あいつたいした女じゃねえよ。最初いい女と思ったけど。本当にたいした女じゃねえよ。だって俺なんかと付き合ってんだもん」
と平気で言っていたというのを聞いた。
しかも
「マリを誘ってみろよ。洗剤みたいに落ちるかどうか。落ちたらくれてやるよ」
とも言ったそうだ。そんな事わざわざあたしに教えてくる人も酷いと思うけど。
「知らなきゃ可哀想だから」
だと。知れば可哀想じゃなくなるのかよ!
その人も、その人の友達も、どっちも耐えられなくて離れた。
綺麗事を言う人ほど心は汚れていると学んだ。
次に付き合ったのは、別のアルバイト先の先輩だった。その人も、いちばん最初に付き合った人に付きまとわれて困っているあたしを心配してくれたよ。
「俺が守ってやるよ。マリは保護してやらなきゃいけないタイプなんだな」
保護してくれるの?それこそあたしが求めていたものだよ。信じようと思った。
だがその人は、初めてのデートで分かれ際にこう言った。
「ほっぺた空いてる?」
何の事か分からず
「え?ほっぺた?」
と聞き返したら、断りもなく頬にキスしやがった。
「おやすみ」
と離れていくその人。
それであたしが痺れるとでも思ったのかね!バカか!
別の時は、塗ったばかりの口紅が取れるから嫌だと言うあたしに無理矢理キスしておきながら
「べったり付いちゃった」
って嫌そうに何度も口を拭いているし。なら最初からしなきゃいいじゃん!
その上その人は、あたしがアルバイト先に提出した履歴書を勝手に見てこう言った。
「得意な学科、数学だって?すごいじゃん」
…あたしはその人の履歴書を勝手に見て、書いてある事についてどうこう言わないのに。
その上あたしが卒業した中学にわざわざ行き、あたしの友達に勝手に会うという信じられない事もしたし、あたしの手帳まで勝手に見て、あたしの友達に勝手に電話して昔はどうだったの?等、何人にも連絡して聞きまわった。
「昔っから見栄っ張りだったんだって?ケッケッケッケッ」
と、さも馬鹿にしたように笑うし。
「いい加減にしてよ、今度やったら別れるよ」
と言ったあたしにその人は平気でこう言った。
「まあ、なんだかんだ言って、お前は俺に惚れているんだからなあ」
それで済ます気か!どあほ!
しかもその人は、エッチの時に
「リードして、リードして」
と言うばかりで手ひとつ動かさず、マグロみたいに寝そべっていた。1回で嫌になったよ。
その上その人は、映画を観ようとチケットを買った途端にこう言った。
「俺の兄貴が言っていた。映画観るほどつまらないデート法ないって」
…これから映画を観るってーのに何でそんな事言うんだろう。
「だって、2時間黙って前向いて、つまんないじゃん」
あたしが自分に「つまらない思いをさせた」って事なんだろう。
更にその人は、映画の帰りにこう言った。
「ねえ、100円だけパチンコやっていい?」
あたしといるよりパチンコの方が楽しいって事だろう。100円のパチンコに負けた訳だ。100円じゃ済まなかったしね。
ましてそのパチンコ屋で、他の客に絡まれて困っているあたしを置いて逃げやがった。助けてくれたのはそこの店員さんだった。保護すると言ったのは、ただの口説き文句だったのだ。
「俺が変に手助けしたら、マリはハプニングに対応できなくなるだろう?」
だと!屁理屈こくな!ただ怖かったから自分だけ逃げたくせに!二度と会わなかった。
保護する、と言う人ほど保護してくれないと学んだ。
次に付き合ったのは、助けてくれたパチンコ屋の店員だった。
「俺ならマリを守れる」
と言ってくれた。現に助けてくれた事があるし、信じてもいいんだろうと思った。
スカートのしわを気にしているあたしにアイロンを買ってくれたし。勿論嬉しかったよ。
だがその人は会うたびにアイロンをかける仕草をしながら言った。
「これ、使ってる?」
もう、うるさいよ。恩着せがましい。
そしてその人は、「きちんとものを言わない人」だった。
喫茶店で向かい合って話をしている最中に、急に顔をしかめて自分の肩を叩いて見せる。何の事か分からず、きょとんとするあたしにもう1回自分の肩を叩いて見せた。
…何が言いたいのかさっぱり分からない。ポカンとしていると、自分の肩をやけになってバンバン叩き続ける。
「なあに?これなあに?」
とあたしも自分の右肩を叩きながら聞いた。
「違う!こっち!!」
と切れそうになりながら、さも嫌そうに顔をしかめながら反対の肩を叩いている。
「なあに?帰れって事?」
訳が分からない。
「違う!だから!!!」
と、その人はひどい顔で肩を叩き続ける。
…結局、下着の紐が肩から見えているよ、と言いたいのだった。
だったら
「紐が見えているよ」
とか何とか、はっきり言ってくれればいいのに。それか手を伸ばして、すっと直してくれるとか…。肩をバンバン叩いて見せたって分からないし、みっともないのはあんただよって思った。
更にその人は「相手の立場に立つ」って事が出来ない人だった。電話をかけてきて、雑誌に載っていた店に行きたいと言うから
「場所は?」
と聞けば
「雑誌に地図載ってるよ」
と言う。
「何て言う雑誌?その雑誌の何ページに地図があるの?」
と聞いても
「名前忘れた。ほら、本屋にあるからさ。黄色い表紙。その雑誌をパラパラってやったら出てくるよ」
だと。あほ!
「その説明じゃ分からないよ。何て言う雑誌の何て言う名前の店で何ページ目の右上、とかそういう説明してよ」
と言っても
「だから表紙の黄色い雑誌、パラパラってやれば載ってる」
と自分にしか分からない事を言う。何がパラパラだ!一緒にいてイライラするぜ!
仕事先の人間関係について話を聞いて欲しかったんだけど、何言っても黙ってるし。解決策求めているのにさ。
その上その人は初めてエッチをした直後にこう言った。
「これをなかった事にして欲しい」
…なんのこっちゃ。さびしさを堪えながらひとりで帰ったよ。
だがその人は翌日電話をかけてきて
「本気になっちゃったからもう1回付き合って。付き合ってくれるなら今から千葉駅まで来て」
と、のたまった。
付き合いたくないなら行かなくていいんだろう、と放っておいたら何回も何回も電話をかけてきて
「来てよ!来てよううう!!どうして来てくれないのおおおおおおお!!!」
と絶叫しているし。
勿論絶対に行かなかった。なんちゅう大人げなさ!なんちゅう男らしくなさ!と呆れた。23歳のくせに。
そしてその人はどういう思考回路になっているのか知らないけど、家を出たがっているあたしの事情もよく理解せず、ただ出るな出るなと言い、女友達と一緒に暮らすと言ったあたしにこんな屁理屈をこねた。
「女同士で暮らしたら、その友達の彼氏とエッチな関係になっちゃうんだよ。そうなっちゃうんだよ、そうなっちゃうんだよ、そうなっちゃうんだよ、そうなっちゃうんだよおお」
は?なんだそりゃ。って事は、あんたがあたしの女友達に手を出すって事じゃん。もうその屁理屈も、嫉妬に狂った発言も聞きたくないよ!けなし文句も多いし。
「褒めたら自信持つだろ、自分をいい女と思って他の男に向かうだろ。だったら毎日けなしてけなして一切の自信を無くさせればいいだろ。俺と居るしかなくなるし」
と、父さんみたいな事を言う。けなされる方がずっと嫌だよ。とことん嫌になって離れた。
性別が男なら、男らしいとは限らない、中身は女みたいな男もいると学んだ。
次に出会ったのは、テレビ局で働きながらひとり暮らしをしている人だった。
「一緒に暮らそう」
初めて会った日にそう言われた。
親に毎日出て行けと言われている身、この人のアパートに逃げ込めばいいのかな、と思った。
だがその人は言った。
「俺、アシスタントディレクターなんだ。激務の上に給料安いんだよ。つまり徹底的に金も無ければ時間も無いの。マリちゃんが家賃や光熱費を払って。家事も全部やって。それなら一緒に暮らしてもいいよ。ずっとずうっと支払いと家事をしてくれるなら結婚もしてあげるよ。マリちゃん得意な料理ってなあに?毎月の給料は幾ら?」
どあほ!ヒモなんかいらねーよ!!!
付き合う前に蹴った。
女のヒモになりたがる男など相手にしないと学んだ。
次に付き合ったのは、友達の同棲している彼氏だった。勿論内緒で付き合った。
だが「不倫をしている状態」に酔いしれているその人が嫌だった。
だって彼女とあたしの両方に「同じ香水」をプレゼントしたり(移り香でバレるのが怖かったんだろうねえ。だからわざと違う香水付けてやったさ!あははははは!!!)、食事しようと入ったレストランでお茶しか飲まないし。
「どうして食べないの?」
と聞けば
「家で食べなきゃまずいだろ」
だって。しらけるぜ。
そして彼女とその人と3人で会うとわざとらしく
「久しぶりだなあ、こいつ久しぶりだなあ」
を連発する。それも彼女に背を向けて、あたしにパチパチウインクしながら。話を合わせろって事だろう。めんどくせー奴だ!後で文句を言ったら
「昨日はどうも、って言えってか?」
って言うし。
普通に
「いらっしゃい」
とか
「こんにちは」
って言えば良いんだよ。アホ!オマエなんかいらねえよ!
彼女がトイレに立った隙にあたしの耳元に口を寄せて
「愛しているよ」
とのたまう。
そして普通の声で
「忘れんなよ」
だって。忘れてーよ。全然嬉しくないし。それでうまく世渡りしてるつもりか!母さんみたい。
しかもその人は、あたしに「笑顔で我慢しろ」と要求してくる人だった。
「お前が俺のわがままをニコニコして我慢する女になれば、もっと愛してやるし一緒にいてやる」
だと!そんな都合のいい話があるか!!
待ち合わせしてあたしの姿を見ると、必ず手をパンパン叩いて呼ぶし。犬じゃないよ!名前くらい呼べってーの!!
「彼女にあたしとの事がバレたらどうするの?」
と聞いたあたしに笑顔爛漫でこう言い放った。
「任せて、俺嘘うまいから。俺嘘うまいから。俺の嘘にみんな騙されるから」
ああこの人、彼女とあたしの両方に嘘ばっかりつくんだろうなあ。嘘うまくも何ともないよ。むしろ下手だよ。
「床屋が混んでいたって言う」
だの
「昔の彼女が今の彼氏に暴力振るわれているらしくて、相談に乗っていたって言う」
だの
「昨日急に鼻血が止まらなくなってさあ。謎の病気だよ」
だの、彼女との約束を破るたび、あたしとの約束を破るたび、変な嘘を、極めて下手な嘘をこき続ける。口遍に虚しいって書いて嘘って読むんだよ。虚しくないのかい?
「子どもの頃、毎日芸能プロダクションにスカウトされた。親が断ってくれた。断らなければ俺も今頃スターだったんだけどなあ」
だの
「ある人がまだ高校生だった俺の前に2000万円の札束を並べて、これで会社を作って下さいと頭を下げた」
とか、おかしな作り話ばっかりするし。
「俺その時の事、今でもはっきり覚えている」
って嘘の上塗りしているし!
その上その人は電話魔で1日に何回も電話してくる人だった。
「今、彼女が風呂に入っているから」
だの
「さっき切り方が悪かったから」
だの
「声が聞きたくて…」
だの。我慢していたけど、段々嫌になった。
アルバイト先にまで電話してくるし。
「別に用って訳じゃないけど」
だと。あたしが水商売をしているのが気に入らず、「自分を常に忘れないでくれ」と言いたい訳だ。
店が終わる時間に待ち伏せまでしているし。
「いつからいたの?」
と聞けば
「1時間くらい前から。もしかして店が暇で、早く上げてもらえるかもしれないと思って」
と、同情して欲しそうにのたまう。わざとらしい!居たのは3分前からだろ!嘘つき嘘つきバレバレの嘘つき!こうして夜出歩いているのも、彼女に聞かれたら
「急に散歩したくなって」
とか変な下手な嘘をこくんだろうなあ。
駅までただ歩いて分かれる時もあったが、居酒屋に連れて行かれる事も多かった。
店員に注文を聞かれ
「何か栄養のあるものを」
とか言っているし。食い物ってーのはどれでもそれなりの栄養あんだよ!あほ!!俺はお前の体を気遣ってやっているんだって言わんばかり。
それでいて自分のせいで終電を逃したあたしをタクシーに乗せ
「じゃあお願いします」
と運転手に向かって言ってやがる。さも「俺は送った」って顔して。タクシー代くれないくせに!
その人といるとタクシー代がばかにならず、大変だった。何回かそれが続いた後、その人が待ち伏せしている場所を避け、わざわざ遠回りしてまで駅に向かった。電車賃の方がずっと安いしね!
「そんなに俺を避けるなら、わざわざ送る必要はないのだろうか」
だと!ねえよ!ねえよ!誰が送れと言ったんだ!貴様が勝手に待ち伏せして勝手に駅まで付きまとっているだけだろ!
話題と言えば、誰と誰が付き合う事になったんだって、とか、誰と誰がポシャったんだって、とか人の噂ばっかり。ワイドショーの解説員か!
「マリ、今日店を休んで俺と付き合え。日当払うから」
と言って何度も店を休ませ、ただの一度も日当を払ってくれなかったし。こっちが黙っているのをいい事に、あんたと居ても、稼ぎ損ねるばかりでなんにも良い事ねえよ!
しかもその人は「嘘泣き」する人だった。虚しくねえのか!!うんざりして
「もう別れよう」
と言ったあたしにすがって嘘泣きをし続けた。
「やめてよ」
と、もっとうんざりしながら言ったら
「だってマリちゃんが僕の言う事聞いてくれないんだもん」
だと。正しいと思わねーから聞かねーんだよ!頭使え!
「マリちゃん、僕はね、すごく良い子なんだよ。だって高校生の時、親に授業料をもらうのに済みませんって言ってたんだもん。普通、授業料出してもらうなんて当たり前でしょ?なのに僕は親に済みませんって言い続けたんだよ」
とも言っていた。あほ!
本当に良い子ってーのはそういう事を黙っているんだよ!わざわざ言って聞かすなんて、良い子でもなんでもないんだよ!ただの自慢なんだよ!!
それに高校生の時に2000万の札束で会社を作ってくれと頭を下げた人の話はどうなったんや!嘘つき!自分のついた嘘を忘れるドアホ!
その場で捨ててやった。21歳のくせに
「親に育ててもらったのは19年。最初の2年、里子に出されてた」
とかバレバレの嘘こいて同情して欲しそうにしているし。本当に2歳まで里子に出されていたとして、その頃の記憶があるのか!大嘘つき!
何回振っても振られたって認識出来ないみたいでしつこく電話をかけ続けてきて、泣き落そうとするし。てめえ認知症か!
「もういい加減にしてよ。あんたなんかいらない!」
と言ったら
「では、捨てられてしまったと解釈するしかないのだろうか」
だと!とっくにオマエなんか捨ててんだよ!解釈も何もあるか!脳みそねえのか!!受話器が壊れんばかりに叩き切った。
嘘つきほど嘘が下手だと学んだ。
次に付き合ったのは別の友達が同棲している人だった。前の人の事があるし、3人で会うのは避けた。また嫌な思いするのはまっぴらだったしね。
だがその人はあたしに髪型を変えろだの、化粧や服装を変えろだの、言葉使いを変えろのとうるさかった。
「支えてよ」
と言えば
「重い!」
と突き放すし、それでも愛して欲しくて
「好きだよ」
と言えば
「好きよ、でしょ」
と言うし、
「そうだよ」
と言えば
「そうよ、でしょ」
と言うし、
「いいじゃん」
と言えば
「いいじゃんか、でしょ」
だの、本当にいちいちうるさいし、鬱陶しかった。
何も言えないと思い黙り込むと
「何黙ってんだよ、何か喋れよ」
と言うし。それでいて何か無理に話題を探して喋っても
「それはお前が相手の気持ち考えないからだろう。相手の立場で考えろよ」
だの
「それはお前の知識が足りないからだろう。もっと勉強しろよ」
だの、否定ばっかりするし。
何も言えないと黙ると
「何黙ってんだよ、何か喋れよ」
とのたまう。で、また何か喋るとまた否定された。母さんみたいな人がまた現れた!
化粧や髪型を変えろと言われるのも不愉快だったが、言葉遣いを毎回直されるのも、何か喋れと言われるのも、本当に腹立たしかった。オマエはどうなんだよ!こっちはその人の髪型や服装に注文つけないし、言葉遣いを直しもしないのに!
その上その人はどうやら生活費を彼女に出してもらっているらしかった。それは何となく分かった。向こうはあたしが分かっていないと思っていたみたいだけど。
段々本気になり、彼女と別れてあたしと暮らすと言い出したその人が疎ましくなった。
「別れなくていいよ」
そう言ったが
「お前だってこんな状態、嫌だろう。彼女とは、はっきり別れてお前だけの俺になる」
と自己陶酔しながら言う。片方の目だけから涙を落とすっつー、女優並みの技を繰り出してくるし。
いいよ、彼女と別れなくて。別れてあたしのお金をあてにするようになったらそっちのほうが困るんだよ、と言いたいのをぐっと堪える。
…ほどなくその人は二股している方がいいやと思ったらしく、彼女とあたしの間を行ったり来たりする事に陶酔し始めた。
彼女がいない時に限りあたしを部屋に入れ、いつ彼女が帰ってくるかとビクビクしながらあたしとエッチをする。ホテル代がかからないからだろうねえ。薄給なんだろうねえ。気の毒に。
そしてその人は理解力がない人だった。
「電車の中からあなたの住むマンション見えるよ。いつも見ながら通っているよ」
と言った所、自分も見たいと言い出した。
一緒に電車に乗り、車窓からその人のマンションを指しながら言った。
「ほら、あれだよ」
「ええ…?あんな風に見えるうううう?」
その人は全然違う方向を見て顔をしかめている。
「どこ見てんの?あっちだよ、もっと右、ああもう見えなくなった」
と言ったら、その人はキョロキョロしながら混乱している。ああ、一緒にいてイライラする人だ、と思ったよ。
…そう言えばその人の事を、彼女がこんな風に言っていた。
「彼はね、お鍋作っても、あたしが取って、むいて、食べさせてあげないと絶対に食べないのよ」
ある時、その人が鍋を食べたいと言うから飲食店に入り、よせ鍋を注文した。
運ばれてきた鍋をその人は決して食べようとしない。
「どうして食べないの?」
と聞いたが
「ん、いい」
と言うばかりで、決して箸をつけようとしない。
あたしに取ってむいて食べさせて欲しいんだなというのは分かったが、彼女と同じ事をしたくなかった。
そう、その人はあたしを「試した」のだ。母さんみたいに。
取ってむいて食べさせてくれたらあたしを選ぶ、とか何とか思っていたんだろう。だがそうしないあたしはその人の「試験」に落ちた訳だ。受かりたかねーよ。子どもじゃないだからさ、自分で取ってむいて自分で食べなよ、と言いたいのをぐっと堪える。
その人はとうとう最後まで鍋に手を付けなかった。しらけきって店を出る。その人も、空腹やら不満やらでゲッソリしながら黙って店を出る。この人との別れも近いな、と思った。
家に戻り、わざわざあたしの前で彼女の勤め先に電話して、これ聞こえよがしに優しく話しかけちゃっているし。ホント、しらけるぜ。電話を切ってから
「何だよ、なんか文句あんのかよ」
だって。なーんにも文句ないよー。ただ、あたしが他にオトコ作っても文句言わないでね。あははははは。
あたしは心の中で毒づいた。それでいてその人はこう言った。
「お前、オトコ作るなよ」
勝手だねー。自分は女いるくせに!何かと言えば
「でも恋しているのはマリだよ」
って言い訳するし。だから?感謝しろってか?それに愛しているのは彼女だって事だしね。
別れる時に揉めたくなかったからさ。あたしは何回もその人に言ったよ。
「あたしはあなたに何も望まないし、絶対に迷惑をかけないわ」
言うたびにその人はニヤリと笑いそうになり、それを必死に堪えていた。心の中でシメシメと思っているのはミエミエだ。
そしてその人は偉そうに口先だけでこう反論してきた。
「何も望まない奴が恋愛なんてするはずない」
「違う、あたしそういう事、言いたいんじゃない」
「じゃあ、どう言う事を言いたいんだよ」
「分からない?それはあなたが自己中心的にものを考えているから分からないんだよ。あたしの立場で考えてみな。一発で分かるよ」
「何だよ、はっきり言えよ」
「はっきり言ってんじゃん。あたしはあなたに何も望まないし、絶対に迷惑をかけない。だから何だと思う?」
一瞬の笑いをかみ殺しながらその人は苛立った口調で言った。
「さあな」
「だからあたしを捨てないで、ではないよ」
と言ってやったら、その人はさも意外そうな顔で向き直った。
「どういう事だよ!」
「だからあなたもそうしてね。あたしに何も望まないでね、絶対にあたしに迷惑をかけて来ないでね!髪型や化粧や服装、言葉遣いを変えろとも言わないでね!鍋を取ってむいて食べさせてくれとも望まないでね!きれいさっぱり別れてね!引きずらないでね!」
次の瞬間、ブチ切れたその人はあたしを滅茶苦茶に殴った。あたしが自分に捨てられたくない一心で、何も望まないだの迷惑をかけないだのと言っていると思っていたのに、裏切られたと思ったようだった。
こんな男いらない!こっちも椅子で応戦し、部屋を滅茶苦茶に荒らした挙句にひとりでさっさと帰ってやった。
彼女が帰って来てからこの割れたガラス窓やら飛び散った食器をどう言い訳するんだろうねえ、と思いながら。勿論、それきりだった。
自己中心的な男も、依頼心の強い男も、相手にするものじゃないと学んだ。
次に付き合った人は最初こう言ってくれた。
「毎日会いたい。毎日顔を見たい」
親にあんたの顔を見たくないと言われ続けた身、そこは嬉しかった。
だがその人は、前の彼女の話ばかりする人だった。仕事の帰りに津田沼駅の近くで働いているその彼女に会いに行ったら、冷たくされたとか言ってあたしの前で落ち込んでやんの。
「だって乗った電車が津田沼行きだったんだもん」
それがその人の言い分だった。呆れていたらこう言い放った。
「じゃあ調べてみろよ。本当に津田沼行きだったんだから!」
そういう問題じゃねえよ。そのあと千葉行きの電車に乗り換えればいい話だろ!
その上その人は、当時ホステスのアルバイトをしていたあたしに日当がいくらか聞き、
「5000円」
と正直に答えたあたしに
「へえ、俺の前の彼女もホステスやってたけど日当1万5000円だったよ」
と平気で言い、あたしを馬鹿にした。
「3分の1か!」
とかね。
こっちはその人の給料の額なんて聞かないし、他の人と比べて馬鹿にしたりしないのに!
「前の彼女、料理うまかった」
とか言って、あたしの料理を食べないし。
「だってあたし、その人じゃないもん」
と苦手な反論をしても
「前の彼女やってくれた。よく出来た。だからお前もそうして。前の彼女みたいにやって」
だと!
「前の彼女とあたしの区別つけてよ」
と言ったら、子どもみたいに口をぶーっと尖らせて
「でも、前の彼女の方が良かった」
と、まだ言う。何が「でも」だよ!
一度そうめんを茹でようとした時、
「砂糖入れないでね」
とのたまう。そうめんに砂糖なんて聞いた事ねーよ!
「どうしてそんな事言うの?」
と聞けば
「前の彼女が砂糖入れてそうめん茹でる奴だったから」
と言う。
「じゃあその人に言えばいいじゃない。何であたしに言うの?相手を間違えてるよ」
と言ったけど
「でも、砂糖入れられたら嫌だから」
と口を尖らせて言う。あほか!頭直せ、この脳みそ縮み野郎!前の彼女は料理がうまかったと言った同じ口で何言うとんのや!ぼんくら!
待ち合わせしたらしたで、会った途端に
「ああそう言えば、前の彼女と会うのもだいたいこのくらいの時間だったんだよ」
と聞きもしないのに自分から言うし、しかもさっさと背を向けて歩いていくし!
そんな事聞かされたこっちが、どんな気持ちで後から付いて行くかなんて考えもしないんだろうなあ。この人はこういう目に遭わないんだろうなあ。
しかもその人は避妊をしてくれない人だった。
「生の方が気持ちいい!!」
だと!
「あたしが妊娠したらどうする?」
と試しに聞いたら
「なんだかんだ言っておろす事になるんだろうなあ」
だって。
お互い独身で、お互い働いているから結婚できない訳じゃないのに…。
もしあたしが妊娠しても、この人は本当になんだかんだ綺麗事を並べつつ、あたしに中絶手術をさせるんだろうと思うとたまらなかった。
友達の彼女の事を
「あいつの彼女、雑誌のモデルだって!」
ってさも羨ましそうに言っているし。
常に誰かと比較される方がどんなに嫌な思いするか、分からないんだろう。前の彼女だの、友達の彼女だの、いつまでも比べられるんだろう。
その上その人はあたしに向かって
「はまっちゃいねえよ。俺はお前なんかにはまっちゃいねえよ」
と連発する人だった。
要するにあたしなんか全然好きじゃないけど付き合ってやっている、前の彼女が忘れられないけど、あたしで我慢してやっているって事だろう。
しかもその人は、仲間の就職祝いのパーティーを盛大にやるからお前も来いと呼んでおいて、いざその席で大勢の仲間の前であたしを指さしながらこう言った。
「こいつはね、なまじっか美人だから男にモテないんだよ!だから俺が仕方なく相手にしてやってるんだ!ハッハッハッハッハッハッハ!」
と、大声で笑っている。仲間のみんなはびっくりして、誰も笑っていなかった。あたしが他の男の人と仲良く喋っていたのが気に入らなかったのか何だか知らないけど酷いよ!
更にその人は、就職が決まった人(その集まりの主役さん)の彼女にこれみよがしに優しくしていた。
「君は良い大学に行って賢くていいねえ」
あたしは中卒だから馬鹿だと言いたいのか?
人間扱いされていない気がして居たたまれず、黙って帰った。みんなの憐れむ眼差しに耐えられなかったし。
過去にとらわれ過ぎている人も、罵倒してくる人も、相手にするものじゃないと学んだ。
次に会った人は1回キスしただけで
「ドツボにはまった。ドツボにはまった」
と言ってくれた。
前の人に「はまっちゃいない」と言われ続けた身、そこは嬉しかった。
だがその人は、親がひどすぎるから家を出たいと言うあたしの話を否定した。
「お前の親は正しいんだよ。お前がおかしいんだよ」
と真っ向から反論してくる。
「凄い暴力振るうし、出ていけ、そればっかり言うよ」
と言ったが、信じられないって顔して
「それはお前がなんか悪い事したからだろう」
と否定する。
「お父さんはお酒飲んで暴れるの?」
だの
「血は繋がっていないの?オマエ、ままっ子なの?」
とかね。
父さんは酒なんか飲まなくても暴れるっていうか、抑えきれずにって感じで暴力振るうし、血は繋がっているよ。ものすごーく嫌らしいし。
ああ、この人もあたしを理解してくれない人だ。うんざりして言う。
「あなたには分からないよ。あなたは愛されて育ったんでしょう?あたしは疎まれて育ったの」
その人は間髪入れずに反論してくる。
「自分でそう思っているだけだよ!」
「飯抜きなんてしょっちゅうだったし、体罰も毎日だったよ」
と、苦手な反論をしても
「そりゃあ、たまーにそう言う事あったかも知れないけど、毎日ではなかった筈だよ。お前がそれをあまりにも強烈に覚えていて、毎日だったって思い込んでるだけだと思うよ」
あーもう、説明するのめんどくせー。もう黙るしか、あきらめるしかなかった。
特にやりたい事もなく、アルバイトをしょっちゅう変わりながら
「俺は40歳くらいになったら、さあこれから何しようかなって考えるつもりだよ」
とも言ってたし。それじゃおせーっつーの!
しかもその人は、母さんみたいに脅したり、交換条件を出してくる人だった。
「マリ、家を出ないんだったら、この後この前行った居酒屋に来て」
家を出ないなら来い、という事は、家を出るなら行かなくていいんだろうと思い、行かなかった。その人はあきらめきれず、何回も何回も電話をかけてきて
「来てよおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
と絶叫した。誰が行くかよ、自分の言った事に責任持てってーの!居酒屋には他にもたくさん人がいるだろう。自ら恥かいちゃって、嫌じゃないのかい?
結局来ないあたしへの当てつけか何だか知らないけど、その店の階段から飛び降りて足を打撲して、それさえあたしのせいだと言うし。何でも人のせい。父さんみたい。
「家を出るなら別れる」
と脅すから、
「じゃあ別れよう」
と言えばキレるし、泣きつくし、何か気に入らない事があれば、何時間でもあたしと口をきかなくなるし、手を焼いたぜ。
勇気を出して
「そういうの、やめてよ」
と言うとこんな答えが返って来た。
「お嬢ちゃん、おいくつ」
…絶句した。あたしより5つも年上のくせに。
「お嬢ちゃん、おいくつ」
何回も何回も言う。しかも毎回舌打ちしながら。
その舌打ちは「呆れているよ」という事だったし、「お嬢ちゃん、おいくつ」というのは「黙れ」という事だった。
黙り込むとその人は笑いながらこう言った。
「ハハハハハハハハ。ヤンキー女が!」
黙らないと怒鳴られた。
「おじょうちゃん!おいくつ!!」
この人、どうしてあたしといるのかなあ、そんなにあたしが嫌いなら一緒にいなきゃいいのに。
「おっじょうっちゃんっ!おっいっくっつ!!!!」
一字一句、区切って言う事もあったし
「おじょーちゃん、おいくつー、おじょーちゃん、おいくつー」
と変な節をつけて歌う事もあった。お嬢ちゃんおいくつ、以外の事を言うボキャブラリーがないんだねえ。呆れて黙るしかなかった。
「もうぐれてる年じゃないでしょ!」
とかね。
しかもその人は、デートの約束を平気でドタキャンする人だった。
「どうして?」
と聞くと
「選挙だから」
と答えにならない答えが返ってくる。
「どうして選挙だと会わないの?」
と聞いても
「だから、選挙だから」
としか言わない。
要するに、あたしとはいつでも会える、多少の事をしてもあたしが自分から離れて行かないとたかをくくっているのだった。
馬鹿にするな! 都合が悪くなると電話でも黙りこくるし。電話で黙られるとイライラするんだよね。
「聞いてる?」
と聞けば
「マリが喋るのを待っていた」
ってあたしのせいみたいに言うし。デートの約束をして待ち合わせ場所に現れた途端に
「兄貴と飲みに行く約束入っちゃった!」
と言って平気でそれを優先するし、ああしろ、こうしろ、言う事聞け、聞かないなら別れるって毎回交換条件付けて、脅して、他にする事あんだろ!それでいて
「じゃあ別れよう」
と言うと慌てて
「嘘、嘘だよ、うーそー!!」
って半泣きで言うし。
それが何回か続いた後
「何か、段々腐れ縁って感じになってきたね」
と言うから
「どうして?」
と聞けば
「だって何回別れても元に戻るから」
とのたまう。
「そっちが別れたくないって泣きついてくるんじゃん」
と言えば
「そうだけど」
と口ごもる。
「腐れ縁なんて、そこまで言うならもう今度こそ別れよう」
と、冷たい背中を向けて去ってやった。その後何回も電話してきたが、毎度叩き切り、絶対相手にしなかった。
変に安心してたかをくくる男も、脅す男も相手にするものじゃないと学んだ。
次に付き合った人は、毎回あたしをホテルへ誘う人だった。前の彼女とは「義務」でエッチをしていたと豪語していた。
「君のファンだ」
と熱心に口説いてくれたので、可愛がってくれるかなと思った。
愛されずに育った身、どんな愛でも無いよりは良いような気がした。
だが何回目かのエッチの時、その人は急に枕をべろりと舐めた。
ドキリとした。
その後もシーツやらなんやら、色々なものをべろべろ舐めていた。
あたしの体が汚くて、あたしとエッチをするのが嫌で、枕やシーツで舌を拭いているのだった。あたしの目の前で何回もやっているんだから、分からない筈がない。でもその人はあたしが気付いていないと思っているらしかった。何回も何回も枕やシーツを舐めているその人。あたしから目をそらしながら、あたしから顔を背けながら。
それこそ「舐めんじゃねえよ」だった。
ああこの人、あたしとも義務でエッチするようになったんだ…。だったら最初からホテルなんかに誘わなきゃいいのに…。決して「あたしのファンではない」人だった。
しかもその人は、せめて会話を楽しみたいと、エッチの後色々話しかけるあたしの話を無視する人だった。
「あたしのどこが好き?」
勇気を振り絞り、震える声で聞いても答えてくれないし(この時、幼い頃父さんと母さんに、マリ可愛い?と聞き続けた事を思い出していた。小さい頃も、大きくなってからも、あたしは惨めだった)。
要はどこも好きじゃないって事だろう。いつも何か別の事を考えて、他の人の事を考えていて、心ここにあらずだし。
義務のエッチも耐えられなかったが、何を言っても無視されるのも、あたしときちんと向き合ってくれず他の事を考えていられるのも、本当につらかった。はけ口としか見てもらえないなんて、酷いよ。
「もう会うのよそう」
と言ったらこんな答えが返って来た。
「俺あなたに対して、捨て猫拾って餌やるような気持ちだったんだ」
…あたしゃ猫じゃねーよ!人間だよ!人間扱いしてくれてねーよ!
無い方が良い愛もあると学んだ。
次に付き合った人もすぐにエッチな関係になる事を望んだ。
だが前の人との心の傷が癒えていないし、簡単にそうなりたくなかった。
そう、あたしは「エッチにより傷ついた」のだったから。なかなか「そうなりたがらない」あたしにその人は焦れていた。だがあたしはあたしを大事にして欲しかったから、決して密室には行かなかった。
映画(勿論普通の恋愛映画。ポルノ映画は嫌だ!)を見て、食事をして、普通のデートを楽しみたかった。そして何より、会話を楽しみたかった。前の人とは会話が成り立たなかったし…。
仕事先の人間関係に悩むあたしの話を聞いて欲しかったんだけど、その人はこう言った。
「君は君で税金を払っている身だ。まして俺が使っている部下という訳でもない。つまりその問題は俺の管轄外だ」
…絶句したよ。突き放されたと思った。税金とか管轄とか…。
もう何も言えない。悲しく口を閉じるあたし。
「黙ってるなら帰ろうよ」
その人が言う。頷くしかない。
「じゃあね」
と改札前でその人に背を向け、試しにすぐ振り向いてみた。どんな顔で見送るか、見てみたかったんだよ。
…と、そこで実際凍り付く事になる。
その人は、まるで鬼のような形相で思い切り舌を出しながら、あたしに向かって中指を立てていたのだ。
びっくりして固まっちまう。その人もまさかあたしが一瞬後に振り返ると思っていなかったんだろう。お互い茫然とする。
すううう…、とその人の舌がひっこみ、中指も下がる。どうしていいか分からず、お互い固まったままだ。
…気まずそうに、その人は背中を向けて走り去っていった。恐ろしいものを見たあたしもその場から逃げた。
こういう人を性格異常者っていうんだと学んだ。
次の人は、初めて会った時にこう言ってくれた。
「君は箱に入れて、たいせつに取っておきたいような綺麗な女の子だ」
勿論嬉しかったよ。
「君が20歳になって気持ちが変わらなかったら結婚しよう」
とも言ってくれたしね(未成年の頃って、むやみにプロポーズされた気がする)。笑顔で頷いたよ。
16歳にして婚約したぜ!って安心した。最初、大盤振る舞いしてくれたし。
だが段々ケチになり、しまいにデートの場所はその人のコキタナイアパートの一室に限定された。金がかからないからだろうねえ。
「マリは安上がりでいいね!前の彼女、この部屋嫌がっていたから、ホテル代も飲み食い代も馬鹿にならなかった。本当にマリは安上がりでいいね!!」
とか平気で言うし。人ってここまで変わっちゃうのかと悲しかった。
親に無理やり家事をさせられ続けた身、家事を押し付けられるのはごめんだった。一切財布を出さない上、食事の支度や後片付け、掃除や洗濯をあたしにさせたがるその人が嫌だった。
あたしが自分の為に、掃除だ洗濯だ料理だ後片付けだと忙しくバタバタ働いているのに、寝転んでテレビ見てるしね!タダで使える家政婦かいな?さぞかし便利だろうね!母さんみたい。
しかも!あたしを呼び止めてうちわで扇げと命令して
「王様気分~!」
とか歌っているし。飛び蹴りしたろか!
その人は本当に何をしてやっても喜ばず、文句ばかり言う人だった。焼き肉をしても
「この焼き肉のたれは好きじゃないので別のにして」
と言う。別のたれを買ってきても
「これも好きじゃないから別のにして」
とのたまう。冷蔵庫の中に、使いかけの焼き肉のたればかりゴロゴロ溜まっていく。
ついに、一緒に買い物に行き
「どれ?選んで」
と焼き肉のたれのコーナーで本人に選ばせたら、すっと進み、あたしが思いもよらないたれを選んだ。ああこの人とあたしは味覚が違う、と思った。
「焼酎のお湯割りを一杯だけでいいから作って」
と言うから作ってやったらすぐ飲み終えて
「もう一杯だけ」
と言う。仕方なく作ってやったら
「あと一杯だけ」
と言う。さっきもそう言っただろ!と言いたいのをぐっと堪えて作ってやれば
「もう一杯だけ」
とのたまう。それを12回くらい繰り返した。きりがなくてイライラしたぜ。普通に、おかわりって言えばいいものを。もう一杯だけで終わるのかと思うじゃん!ムカつくぜ。
その上家事に疲れ果て、横になろうとするとすかさずエッチを試みて来るし。疲れてんだからそんな事したかねーよ。エッチすれば疲れが取れるとでも思ってんのか?ドアホ!
そしてその人は「説明が出来ない」人だった。父さんみたい。食事に関しては
「普通のものを普通に用意してくれればもうそれでいいから」
だと!ふざけるな!
「それじゃ分からないよ。どんなものが食べたいのか言ってよ」
と言っても
「だから普通のものが食べたい、普通のもの!」
と言うばかり。さっぱりわかんねーよ!
「何を指して普通のものって言っているの?」
と聞けば
「普通のものを指して普通のものって言ってる」
と答えにならない答えが返ってくる。
「だからどんなんよ!」
と切り返しても
「だから普通のものは、普通のもの」
と言うばかり。
「材料は?」
と聞けば
「普通の材料」
と、やっぱり答えになっていない。
「これ、変な材料?」
とあたしが作った料理を指しながら聞くと黙っちゃう。
「どんな色?どんな匂い?どんな形?」
と聞けば
「普通の色、普通の匂い、普通の形」
と、ますます答えになっていない。
「だからどんなんよ!ちゃんと説明してよ!その通りやってあげるから」
と言ったら
「だから普通のもの!普通のもの!ふっっっつーーーーーーのもの!!!」
と苛立ちながら言う。
お互い意志の疎通が図れず、気が狂いそうだった。
「分かるように言って」
と言うと目と口を大きく開けて
「ふつうの、ものが、たべたい」
と一字一句はっきりと言ってみせる。
「あたしは耳の遠いぼけ老人じゃないの!内容が分からないの」
と言えば
「普通の内容」
と返してくるし、それで分かる奴いねえっつーの!!
「漠然とし過ぎていて分からない。具体的にどんなもの?」
と聞けば、混乱しながら
「具体的に、普通のもの」
だと!
何作ってやってもさもまずそうに一口だけ食べてから、これ見よがしに三角コーナーに捨てに行くし(おかげであたしゃ、大人になっても三角コーナーが嫌いだ!)。
一度なんて、カレーを作り、付け合わせのサラダをテーブルに出した途端に
「サラダでご飯食べろって事?」
って突っかかってくるし。誰がサラダおかずに白米食えっつったんだよ!そうしたきゃしろよ!あほ!!
その後カレー出したらおとなしく食べ始めたけどさ。面倒みきれねーよ。
掃除洗濯に関しても
「普通の事を普通にやってくれれば、もうそれでいいから」
だと!ふざけるな!自分は何もせず口ばっかり!しかも靴下から下着からシャツから全部裏返しに脱ぐし!
「いちいち表返すの大変だから裏返しに脱ぐのやめてよ」
と言っても、にやにやするばかりで全然改めてくれないし。家事労働がどんなに大変か、分かってんのか!!
「チャッチャッチャて、やってってくれれば、もうそれでいいから」
だと!何がチャッチャッチャッだ!それじゃ説明になってねーだろ!場所の説明も、勿論出来ない。
「近くに薬局ある?」
と聞いたあたしに
「そこ」
と、あらぬ方向を指さして言う。
「このアパート出て左へ行って、最初の角を右へ、細い坂を上がって信号を渡って、とかそういう説明してよ」
と言っても
「だから、そこ」
と相変わらずきょとんとしながら、あらぬ方を指さしているばかり。自分にしか分からないものの言い方しか出来ない。
その人が何か言うたびに、よく分からない要求をしてくるたびにイライラした。
しかもその人とあたしは趣味も考え方も何もかも違っていて、一緒にいてもほんの少しも楽しくなかった。同じテレビを見ていても笑う所が違ったしさ。
食事を用意してちゃぶ台に並べ
「食べよう」
と言ったけど、あたしに何かを「目で訴える」ばかりで食べないんだよ。腹が減ったっつーから作ってやったのに。
「早く食べなよ」
と言ったら、何と!手づかみで食べだした。そこでようやく箸を出すのをあたしが忘れていたって事に気付いたけど、呆れたよ。
「箸ちょうだい」
そのたった一言が言えないし、言わない、自分で箸を取りに行く事さえ出来ない。100%面倒見なきゃいけないなんて、疲れるぜ。
仕方なく箸を取りに行き呆れながら渡したら、ご飯粒の付いた手で黙って受け取り、続きを食べていた。熱い味噌汁にも手を突っ込む気だったのかねえ。
食事する時も新聞ばかり読んで、あたしと一言も口きかないし。黙って食べるご飯は味気なかったしさびしかった。
この人と例え結婚しても、こういうさびしい生活になるんだろうなあと思ったら付き合い続ける気にはならなかった。
その上その人は聞き間違いと被害妄想がひどく、話にならない人だった。一緒にテレビを見て、がん保険のコマーシャルが流れた時の事。
「がんになった人がね、死ぬときに千年も万年も生きたいわって言って死んだんだって」
と何の悪気もなく言ったあたしに急に激高した。
「おきれいだな、お前はおきれいだな。千年も万年も生きたいだと?がんになった奴がそんな事言うか、そんな事言うもんか」
と、あたしの胸ぐらをつかんで迫ってくる。
「何て聞こえたの?あたしは何の悪気もないよ」
と言ったが
「俺の知っている35の奴ががんになったんだ。お前に分かるか?がんってどんな病気か」
とひとりで興奮している。この人、母さんみたい。勝手に勘違いして勝手に荒れ狂うんだから。
「お前に分かるか?18の女の子が抗がん剤の影響で髪がすっかり抜け、苦しむ姿を。見舞いに行っても呻き声しか聞こえない。お前に分かるか?」
だと。作り話もいい所だろう。何良い人ぶってんの?このぼんくら、頭直せよ。俺の知っている35の奴が、いつの間に18の女の子になったのか知らないけど。
あたしを勝手に悪者にして、自分が良い人ぶって、悪者のあたしを正してやっている正義の味方のつもりなんだろう。1時間も2時間も説教たれてくるし、暴力振るうしもう嫌だ。
それでいて暴れた後
「マリ、ごめんな。二度とやらない」
って泣いて謝るし。そうかと思えば
「お前は散々酷い目に遭ってきたんだろう、だったら俺を有り難く思え!もっと幸せがって、俺に精一杯尽くせ!」
とのたまうし。全然有り難くないし、ちっとも幸せじゃないよ。むしろ不幸だよ。
「別れよう」
耐えられなくてそう言ったら、こんな答えが返って来た。
「俺、本当はね、マリちゃんとは友達でいたかったの」
だったら最初からそうすりゃ良かったろ!今更そんな事言ってもしょうがねえだろ!あんたなんかいらねえよ!
勘違いする人を相手にしてはならないと学んだ。
次に出会ったのは50歳くらいのおじさんだった。
「マリちゃんって、時々ふっとさびしそうな顔するんだね」
って言われた。そうかなあ。無意識にそう言う顔してるのかなあ。確かにさびしいけどさ。
そのおじさんは食事やお茶を一緒にするだけで、奢ってくれる上に毎回1万円もお小遣いをくれた。
何となく、天涯孤独で病気らしいという事は分かったが、心の中でそれがあたしとどういう関係あるんだよ、とも思っていた。
会うたびに顔色がスゲー悪くなっていくし痩せていくので、もしかして病気が進行しちまっているのかとも思ったが、3万円くれるようになったので、まあいいやくらいに思っていた。
おじさんだし、恋愛の対象にはならなかった。向こうもそうだろうとタカをくくっていたら、ある時分かれ際にこう言われた。
「マリちゃん、今日、女になれよ」
…エッチをさせろという事だろうというのは分かったが、おじさんだし、不細工だし、全然好きじゃないし、気持ち悪いし、とにかく嫌だった。
びっくりしてはいかん、と思いながらびっくりしていたら、必死になってこう言う。
「ちゃんとしてあげるから。ちゃんとしてあげるから」
お金をたくさん渡す、財産を全部くれるという事なんだろうというのも分かったし、もうひとつ、あたしが自分を全然好きじゃないのも分かっている、それでも、と言いたいのも分かった。だが嫌なものは嫌だった。
「ごめん」
そう言ってちょうど来たタクシーに手を上げ、ひとりで乗った。一刻も早くそこを離れたい一心だった。捕まって無理やりホテルに連れて行かれるのは死んでも嫌だからね。
立ちすくむおじさんが、茫然としながら手を振っている。追いすがりたいのを懸命に堪えているのが分かる。
悪いな、と思いながら手を振った。タクシーは遠ざかる。おじさんが追いかけて来ない事に心底ほっとする。タクシー代は痛いけど、好きでもないおっさんとエッチするよりなんぼかましだった。
それきり、逃げたよ。
…しばらくしてから、人づてにその人が死んだと聞いた。末期癌だったそうだ。そして本当に天涯孤独だったのだ。
「あんたが冷たくするから」
と言われたが、やっぱりおじさんの相手はどうしても嫌だった。そのおじさんとしたら、あの世にお金を持って行けないし、財産なんかあたしにくれてやるから、看取ってくれ、孤独死だけは嫌だから、面倒を見てくれという気持ちだったんだろう。悪かったな。
あたしがその人から学んだ事は…何だろう…?
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