第4話

 母さんが言う。

「物心付かないくらい小さい頃から海外旅行なんて連れて行ってもよく覚えていないから、勿体なかったねえ」

 だったら大きくなってから連れて行くのは「勿体ある」のかよ。否定ばっかりするねえ。


  母さんがまた言う。

「あんた、部屋ちゃんと片付けなさいよ!うるっさいお姑さんの所に行く事になるよ!」

 部屋を片付ければ静かなお姑さんの所へ行けるのかい?また決めつけて!うるっさい母親だねえ。


 母さんがまたまた言う。

「あんた、身だしなみ整えなさいよ!嫁に行き遅れるよ!」

  苦手な反論をする。

「結婚なんかしない」

  母さんが不思議満面で言う。

「どうして?」

「してもしょうがないから」

 母さんが切り返してくる。

「でも、この前あんたの事占ってもらったら結婚するって言ってたよ!」

「しない。したくない」

「オールドミスになってもいいの?」

 大きく頷く。

「どうして?」

 どうしても納得できないって顔の母さん。

「だって、その占い、当たるよ!」

 母さん、馬鹿だねえ。どうせ向こうの口車に乗ったんでしょう。おたくはああでしょう、こうでしょう、とその占い師がちょっと言っただけで、そうなんですよ、うちはああなんです、こうなんですって母さんがベラベラ喋って、それで当たってるって勘違いしてんでしょう。

 あたしは結婚なんかしないよ!結婚に夢を描くって事がどうしても出来ないからね!


 母さんがまたまたまた言う。

「あんた、好き嫌いしないで何でも食べなさい!好き嫌いの多い子が生まれるよ!」

 また苦手な反論をする。

「子どもなんか生まない」

 母さんが切り返す。

「でも占いの人があんたは子ども生むって言ってたよ!」

 また占いかいな。

「とにかく生まない」

「でも、愛し合っていたらそういう事になるの!」

「なんで?」

「とにかく、愛し合っていたらそう言う事になるのよ!」

 顔を赤らめながら言うおかしな母さん。汚れなき子どものあたしの頭の上にまた大きな疑問符が浮かぶ。

 どうしてあたしの人生を決めつけるんだろう。そういうのって本人が決める事じゃん?

 ところで、父さんと母さんは「愛し合って」姉ちゃんとあたしを生んだのかい?


 人はどうして結婚したり、子どもを生んだりするんだろう?どうしても分からない。

 何の為に結婚して子どもを生むのかなあ。本当に分からない。

 母さんは、周りがそうしろって言うからそうしたって言うけど…。

 あ、もしかして生んだ子に老後の面倒見てもらう為なのかな?きっとそうだね!


 母さんはあたしのやる事なす事、気に入らないらしくて口を出す。ああしなさい、こうしなさい。1から10まで。

 もううるさいよ!黙っててくれよ!自分で決めさせてくれよ!老後の面倒みてやらないよ!


 母さん手製のワンピースを着て学校へ行った。

 みんなが集まって来て

「可愛いね」

と褒めてくれた。嬉しかったよ。

 高橋さんだけは

「服、可愛いね」

と「服」を強調して言った。

 厭味ったらしいねえ。ぐっと堪える。


 母さんが朝、あたしの髪を編み込みにしてくれた。みんなが集まって来て

「似合う」

と褒めてくれ、ニコニコしちまった。

 高橋さんだけは

「髪型、いいね」

と、「髪型」を強調して言った。

 また嫌味かいな。ぐぐっと堪える。


「沖本さんのお母さんって器用だね」

 先生も、みんなも言う。

 確かに、器用は器用だ。急に人格を切り替えるし。

 宿題の刺繍を提出した時に、高橋さんがしたり顔でこう言った。

「お母さんにやってもらったんだ」

 違うよ。自分でやったんだよ。たまらなく不愉快だった。


 うちの電話が鳴った。出ると明らかに高橋さんの声で

「山口百恵ですけど」

とのたまう。なんてアホなんだろうと呆れる。

「沖本マリさんですよねえ?山口百恵です」

 電話の向こうでクスクス笑っている数人の声が聞こえてくる。大スターの百恵ちゃんがあたしなんかに電話してくる訳がない。何でこんないたずらするかねえ。


 翌日学校で高橋さんに言った。

「変ないたずら電話やめてよ」

 高橋さんは開き直って言った。

「電話代、払っているのはこっちなんだから文句ないでしょ」

 …そういう問題じゃないよ。そんなにあたしをいじめたいかねえ。


 授業で新聞紙を使うので、うちにあった英字新聞を持って行った。深い理由なんてない。ただ家にあったからだ。

 みんなは日本語の新聞なのに、あたしだけ英字だったので、珍しがって友達が集まって来た。

 高橋さんがにやにやしながら言った。

「沖本さん、本当に外国に行った事あるって証拠見せようとして」

 英字新聞は日本でも取れるんだよ。妬ましいのか何だか知らないけど、うるさいねえ。


 その日の放課後、高橋さんが言った。

「日曜日、うちで遊ばない?誰もいないし」

 どういう風の吹きまわしかなと思ったが、

「いいよ」

と答えた。

 …日曜日、高橋さんの家に行ってチャイムを鳴らしたが返答がない。1時間くらい待ったが、誰も帰って来なかった。嫌な気持ちで家に帰る。

 翌日、学校で高橋さんに聞いてみた。

「昨日どうしたの?家に行ったけどいなかったじゃん」

 高橋さんは意地の悪い目つきで言った。

「だから言ったでしょ、誰もいないって」

 ぞっとした。言っても無駄だと思い、黙って離れた。もう関わりたくないし。

 …その話を聞いたらしい加藤さんが、にやにやしながら言った。

「ねえ、沖本さん。今日の夕方、教室で遊ばない?誰もいないし」

 どうせ罠なんだろう。黙って首を横に振り離れた。どいつもこいつも、意地が悪いねえ。あんたらはこういう目に遭わないんだろうねえ。


 …面白くない気分で廊下を歩いていた。友達がみんな、あたしを見てクフフ、とか笑ってやがる。何だかみんなであたしをからかっていじめようとしているように思えてくる。

 もう嫌だ、こんな学校来たくない。


 高橋さんにされた事と、加藤さんに言われた事を先生に話した。先生は素っ気なかった。

「そんなん知りませーん」

だと!ああそうですか!


 学校の帰り道、あたしの前を並んで歩いている友達が4人。みんなわざとゆっくり歩き、しかも道を塞ぐように広がって、しかもそれぞれ間をあけないよう荷物をお互いの中間に持って、行く手をカンペキ塞いでやがる。

 …あたしに何か恨みでもあるのかねえ。


 家に帰り、友達にされた事を父さんに話してみた。父さんはテレビから目を離す事なくこう言った。

「お前も同じ事やり返せばいいだろう」

 ぜんっぜん共感してくれないんだねえ。


 今度は母さんに話してみた。そしたら急に泣き出す母さん。それも例によって最初に泣き顔を作り、大声で泣き声を上げ、後から無理矢理涙を出す嘘泣き。

「あんたって可哀想ねえ、本当に可哀想な子ねえ。何でこんなに可哀想な子なんだろう」

 可哀想がればいいってもんじゃないよ。解決策を求めているのに、全然嬉しくない!


 次の日の学校の帰り、歩いていたら急に男の子たちに突き飛ばされ転んだ。笑いながら走り去っていく男の子たち。擦りむいた膝が傷むぜ。

 家に帰って、母さんに言った。

「男子たちに急に突き飛ばされて転んだ。見て、痛いよ」

 母さんがベランダのアロエをむしり、差し出しながら言う。

「その子たちは何でそんな事したの?あんたが何かしたからじゃないの?」

「何もしていないよう!」

「何もしていないのにそんな事する訳ないよ。何かあるよ。あんたが悪いんじゃない?」

 絶句した。何であたしが悪いんだよ!


 母さんがまた父さんと喧嘩して殴られ、あたしの部屋に来た。

「父さんに殴られた。見て、痛いわ」

 ムカついたあたしは母さんの真似をしてベランダのアロエをむしり、差し出しながら言ってやった。

「父さんは何でそんな事したの?母さんが何かしたからじゃないの?」

「あたしは何も悪くない!」

「何も悪くないのにそんな事する訳ないよ。何かあるよ。母さんが悪いんじゃないの?」

「あたしが悪いって言うの?!」

 母さんがキーっとヒステリーを起こし、つかみかかって来た。滅茶苦茶に殴り、蹴り、髪を引っ張り、怒鳴りまくり、好き放題暴れる母さん。

「あたしを可哀想って思いなさいよ!!」

 あたしはただ母さんの真似をしただけだ!おかしいのはあんただ!


 リビングでテレビを見ていたら、外出先から帰って来た母さんがまた怒った。

「勉強しなさいようッ!」

 そしてあたしの腕を掴み、部屋に押し込み、机の前に無理やり座らせた上に教科書とノートを自ら開き、強引に鉛筆を握らせる。その上あたしの頭をピシャッとひっぱたいた。

「あんたが今に壁にぶち当たるのよっ!」

 頭上から、おなじみのセリフも降って来る。

 …よく怒るねえ。


 雨が降っていた。外出先から帰って来た母さんがまた怒る。

「洗濯物取り込んでよう!」

 凄い勢いで洗濯物を入れ、またあたしの頭をバシッと殴る。

 …よく叩くねえ。


 雑誌に「写真だけの結婚式」というのが載っていた。

「これいいなあ」

と言ったら母さんがまた大げさに泣き出した。

「あんたって本当に可哀想な子ねえ。結婚式さえ挙げられない人生なんて」

 …よく泣くねえ。


 母さんとマドレーヌって洋菓子を作った。まあまあおいしかった。

 …今日は怒らないんだねえ。


 あたしの誕生日祝いに母さんがローラースケートを買ってくれた。

「5000円もしたのよ」

 恩着せがましく何回も言う。はいはい、分かったよ。

 夢中になって毎日遊ぶ。

 …ある時、遊んでいる最中に友達に会い、ローラースケートをうっかりその場において公園に行っちまった。

 置いたままのローラースケートを発見した母さんが、帰って来たあたしを怒鳴る。

「あんた、5000円をどぶに捨てるの?!」

 はて?何の事か分からない。

「あんた、5000円をどぶに捨てるの?!」

 何回も言う。

「あんた、ローラースケートを置いてどっか行ったんでしょう!あたしが拾って持って帰らなかったら誰かに盗られたじゃない!」

 ようやく母さんが怒っている訳が分かった。だけどどぶに捨てた訳じゃない。

「ごめん」

と何回も謝ったが、母さんの怒りは止まらない。

「もう何も買ってやらないよ!あんたなんかに買ってやらなきゃ良かった!もう二度と何も買ってやらないからね!」

 …よく脅すねえ。


 牛乳を飲もうとコップになみなみと注いだが飲みきれなかった。

「これ捨てるね」

と悪気なく流しに捨てたら、また母さんが怒った。

「何すんのよ!勿体ない!」

 いつまでもいつまでも怒る母さん。

「もうあんたなんかに二度と牛乳飲ませない!二度と飲まないでよ!」

 …娘より牛乳が大事かねえ。


 母さんが浴衣を着せてくれた。だが思うようにいかずイライラし始めた。

「ああもうイライラする!くねくねしないでちゃんと立っていてよ!」

そう言いながらあたしを突き飛ばす。突き飛ばしたら余計ちゃんと立っていられないよ。

 …狂暴だねえ。


 母さんはリンゴ等の果物を剥く時に必ず皮を少し残す。

「ここに皮が残っているよ」

と言っても

「このくらい残っていてもいいの」

と取り合ってくれない。

「何の為に皮剥くの?」

と聞くと

「農薬付いているから」

と答える。

「残った皮に農薬付いているんじゃないの?」

と聞くと

「だからこれくらいいいの!」

と「キレる寸前」って顔して言い切る。

 …中途半端な事するねえ。


 母さんがまた泣いている。原因は何だか分からない。分からないから慰めようもないし、励ましようもない。が、原因は何かと聞く気もしないので、父さんも姉ちゃんもあたしも知らん顔していた。 

 これ見よがしに泣き、しばらく待っても誰も慰めないと分かると怒り出すおかしな母さん。

「あたしは泣いている時は慰めて欲しいのっ!」

 …我がままだねえ。


 アイスティーを作って飲んでいた。

 耐熱のカップに紅茶のティーパックを入れ、沸かしたお湯を注ぎ、じっくり蒸らして濃い目に紅茶を出し、砂糖を入れて溶かす。氷をたくさん入れたグラスの中にそれを注ぎ、更にレモンを絞り入れる。

 あたしのやり方をじっと見ていた母さんが、したり顔で言う。

「アイスティーの作り方知らないの?砂糖はいちばん上に乗せるのよ」

 冷やした紅茶のいちばん上に乗せても、砂糖は溶けないから、酸っぱくておいしくないじゃねえか。

 …アホだねえ。


 母さんは食事のたびに

「早く食べなさいようっ」

と怒る。それでいて

「よく噛んで食べなさい」

とも言う。よく噛んだら時間がかかる。早く食べるには、どこかの鳥か、爬虫類のように丸飲みし、胃に噛ませるしかない。

 …どっちがいいんだろうねえ。


 母さんが誰かと電話で話している。

 学校から帰って来たあたしの顔を見るなり、これ聞こえよがしに言った。

「あたし、上はともかく、下は生み外したわ」

 上って姉ちゃんの事だよね?下ってあたしの事だよね?生み外したって、変な子を生んだって事だよね?グリコのおまけのハズレってか、あたしはグリコのおまけ以下って事だよね?生んだはいいけど、ハズレだったって事だよね?自分が生んだ事と育て方は間違っていないけど、勝手に変な子に育ったって事だよね?

 …そうだよねえ?ねーっ!!


 家族で山登りに行った。

 …が、あたしが首の後ろを蜂に刺されちまうハプニングに見舞われちまった。

「痛い痛い痛い痛い痛い痛い!痛い!痛い!痛いいいいいいっ!!」

 半狂乱で転げまわるあたし。

 すかさず大声でケラケラ笑い出す母さん。

「泣きっ面に蜂ってこの事ね」

 母さんは何度も何度もそう言って、本当におかしそうに笑い続けた。痛がっているあたしを病院に連れて行く訳でもなく、励ましたり患部を冷やしたりする事もなくただ大声で笑っている。父さんも姉ちゃんもただびっくりして見ているだけで、何もしようとしない。

 苦しんでいるあたしに、誰も何もしてくれなかった。あたしは水筒に入っていた麦茶でハンカチを濡らし、自分の首に当てた。酷く熱を持ち、真っ赤に腫れ、あっという間にハンカチは熱くなった。

 母さんはまだゲラゲラ笑っている。

 …母さんは家に帰ってからベランダにあったアロエの葉をむしり、

「これ塗っとけば大丈夫よ」

と言っただけで、それ以上何もしてくれなかった。

 そしてその後も、来客の度にあたしの前で平気で笑いながら言った。

「この子、この前蜂に刺されたのよ。泣きっ面に蜂ってね、クックックッ」

 お客さんはびっくりした顔で、誰も笑ってなんかいなかった。

 あたしはただ悲しくて黙っていた。


 それでいて、その少し後に自分が子宮筋腫ってーのになった時(痛み等の自覚症状がない上に、命にも関わらない病気だと近所のおばさんに聞いた!)前代未聞の事態だ、とか言って、食卓に家族全員を集め、これ見よがしに泣きながら

「あたし、あんたたちの為に病気と闘うからね」

と感動して欲しそうに言っていた。

 父さんは、ただ目を伏せて黙っていた(父さんは突発的な出来事に対応する能力ってーのに欠けていた。蜂に刺された娘を前に何もしないくらいだから!)。

 姉ちゃんは本当か嘘泣きか知らないけど、涙目で母さんを見つめながら頷いていたよ。

 あたしが痛くて泣いている時に笑っていたくせに、とあたしが知らん顔していたら

「マリは平気そうねえ」

と不満げに言う。

「マリは母さんが病気になっても平気?」

と聞くのでウンっと頷いてやったよ。

「どうして?」

と、さも不思議そうに聞く母さん。あたしが自分の目の前で、蜂に刺されて痛くてつらくて泣いている時に、あんたは平気で笑っていただろ、そのくらい分かれ!と思いながら黙っていたよ。

 何度も何度も

「どうして?」

と聞く母さん。黙っている父さんと姉ちゃん。

 突然怒り出す自己チュー母さん。

「どうせあんたはあたしが病気になったって、死んだって、平気なんでしょうよ!」

 大声でがなりたてる。

「恐ろしい子だねえっ!病気の母さんに!母さんは病気なのに!」

 死なないだろ、その病気じゃ。それにそんなに元気に怒鳴っていられるんなら大丈夫だよ。じゅうぶん元気だよ。病気を克服しちゃっているよ。

 だいたい人が苦しんでいる時に笑うのは良くて、自分が命に関わらない病気になったのを心配してもらえないのは許せないなんておかしいじゃん!こっちはそれこそ許せないよ!反論の苦手なあたしは、心の中で叫んだ。

 それに母さんよく言ってるよね?

「病気や事故に遭ってスッと死ぬならまだしも、重い障害を負ったりしたら大変よ」

って事は、何かあった時には「治す努力、生きる努力」をするのではなく「スッと死ぬ努力」をすべきって事でしょう?違うの?母さん。

 じゃあ病気になった今、母さんは「スッと死ぬ努力」をすべきなんじゃないの?何で怒るの?言う事、なす事、めちゃくちゃじゃん。

「そんな事するなら死んでよう!いっぺん死んで完璧な状態で生まれ直してきてよう!」

とも、しょっちゅう言っていたしね。

 父さんと同じで弁の立たないあたしは、心の叫びを日記に書いたよ。

「母さん、ベランダのアロエをむしり取って、子宮にこれ塗っとけば大丈夫よって言ってやろうか? どんな気持ちになるか?言ってやろうか?母さんこそ死んでよ、そんな事言うなら死んでよ、そんな事するなら、死んでよ。いっぺん死んで、完璧な母親に生まれ直してきなよ。母さんっ!自殺しろよ!」

 そしてその日記を、母さんは勝手に盗む読みして、勝手に荒れ狂ったよ。


 学校から帰って

「ただいま」

というあたしに、母さんが何の前置きも、脈絡もなく、怒鳴りつける。

「あんた!あたしが自殺すればいいと思っているんでしょう!」

 ただいま、に対する答えじゃないだろう、と思いながら

「何でそんな事言うの?」

と聞いたら、また同じ事を言われたよ。

「あんたはあたしが自殺すればいいと、そう思っているんでしょう!」

 不思議に思いながら

「何でそんな事言うの?」

と何回も聞いたけど、そのたびに

「でもそうなんでしょう!」

って、怒りながら泣いてやんの。

 何なんだろ?不思議気分いっぱいのまま自分の部屋に入ったら、あたしの机の引き出しが開けっ放しで、しかも日記が開いてあった。

  あ、日記を勝手に読みやがった。猛烈に腹が立ってリビングに行ったよ。

「マリの日記、勝手に見たの?」

って聞いたら、代休で家にいた父さんがこう言ったよ。

「見られて困る事を書くな」

 屁理屈もいい所だろう、こんな時ばっかり夫婦で結託すんのかよ。

 自分の日記に何て書こうが、そんなんあたしの自由だろ。人の日記を勝手に見るのは悪くなくて、思ったままを書くあたしが悪いなんて、見られて困る事を書くななんて、誰が考えたっておかしいよ。もう、日記さえ書けねーよ。汚らわしい!こんな日記、もういらねえよ!

 ごみ箱に捨てながら、また悔し涙がこぼれる。


 自分で本を作った。

 不幸な女の子が、努力して幸せになるストーリーだ。心を込めて挿絵も書いた。表紙も作り、完成した作品にしばし見とれる。うん、なかなかの出来栄えだ。あたしの宝物にしよう。

 そっと引き出しにしまおうとしたら、急に母さんが入って来た。

「あんた、風呂掃除まだじゃない」

と、不満満面で言う。

「なに?これ」

と強引にあたしの作品を取り上げ、乱暴にパラパラめくる。何するんだ、あたしの大事な本を。

 慌てて取り返そうと、思わず母さんを突き飛ばしちまった。

 母さんはひっくり返り、尻餅をついて怒鳴る。

「何すんのよ!親に乱暴する気?」

 年がら年中、娘に乱暴しておきながら、言えたセリフかよ!

 本は破れ、悲惨な姿になっている。ああ、もうこの本も汚らわしい存在になった。ごみ箱行きだ。


 母さんのジコチュー伝説はまだあるよ、あるよ、いくらでもあるよ。


 家庭科の授業で割烹着を作る事になった。

 先生から縦横何センチの布を持ってくるように言われ、母さんにそのまま伝えた所、押入れから古布を引っ張り出して

「これ持っていきなさい」

と言われた。

 その布は何かに使った余りで、大きさも合っていなければ、切り取った跡があり、みっともなかった。

「ちゃんとしたのを用意して」

と何度も頼んだが

「いいよ、これで。これでいいよ」

と取り合ってくれなかった。

 仕方なくその布をもって学校に行ったが、いざ家庭科の授業の際に先生に

「あら、あなた切れた跡があるじゃない。これ何に使ったの?」

と聞かれちまった。返事のしようがなく黙り込んでしまう。

 先生にもみんなにも変な目で見られ、恥ずかしくて居たたまれず、早く授業が終わって欲しかった。

 家に帰ってから母さんに言ったがやはり取り合ってもくれず、あたしの気持ちを理解してもくれず

「え?そうお?んー?」

と、のんきな答えしか返ってこなかった。


 学校で山登りに行った。

 みんなで長い道を歩き、へとへとになった頃に、休憩になった。ジュースが配られる。

 ああ、喉がカラカラだよ。飲もうとしたら、先生が口に手をメガホンのように当ててこう言った。

「配ったジュースは今飲まなくてもいいです」

 じゃあ何の為に今配ったんだよ。あたしゃ喉が乾いているんだから、と飲もうとしたら友達が言う。

「今飲んだら、後でみんなが飲んでいる時に、沖本さんだけ飲めないんだよ」

 いいじゃん、あたしの勝手じゃん、と思いながら飲んだ。

 …勿論、頂上でみんなが飲んでいる時にあたしだけ飲めなかったが、別に気にしなかった。

 その話を先生から聞いた母さんが言った。

「あんた、何でみんなと同じようにしないの?」

 …みんなが飲むから自分も飲むっておかしいだろう。喉が乾いているか、いないか、だろう。自分が悪いとも変わっているとも思えなかった。

 母さんは独り言のように

「この子は協調性がないんだわ」

と言いながら、異常児を見る目をしていた。


 授業で「畑を写生する」ってのがあった。

 畑で描いてもいいし、教室から見える畑を写生しても、どっちでも良いと先生は言った。

 天気も良いし畑で描こう、とぞろぞろ外に行っちまうみんな。

 あたしは教室から描きたかったから、ひとりでそうした。その時も、自分が悪いとも変わっているとも思わなかった。

 その話を先生から聞いた母さんが、また言った。

「あんた、何でみんなと同じようにしないの?」

 みんなが外に行くから、自分も外に行くってのはおかしいだろう。どちらから描きたいかだろう。それを選ぶのは、あたしの自由の筈だ。

  母さんは相変わらず、異常児を見る目で言った。

「やっぱりこの子はどっかおかしいんだわ」


 学校でスポーツバックを用意するように言われた。

 母さんに言ったら、押し入れから使い古しのバスケットを引っ張り出してきて

「これ持って行きなさい」

と言う。

「スポーツバックを用意してよ」

と何度も言ったが、取り合ってくれなかった。 

 仕方なくそのバスケットを持ち、学校へ行く。

 校庭にみんなで並んでいる時に見たが、やはりバスケットなんぞ持っているのはあたしだけだった。クラスの男子がじろじろ見て

「おもしれえ」

とか言うし。女子は

「沖本さんって変わっているね」

と言うし。

 いちばん協調性ないのも、変わっているのも、おかしいのも、異常なのも、母さんじゃないのかなあ。


 学校で給食当番の人はその週末に使った白衣を持ち帰り、洗濯してから月曜日に持参する。

 ある月曜日の昼前、給食の準備をしている時に、その週の当番の男の子が白帽をかぶろうとして

「わあ!パンツ!!」

と言って白いパンツを放り投げた。見ると本当に白いパンツが床に落ちている。先生も笑っている。

「先週の給食当番だあれ?」

 高橋さんが言う。

 …言えないよ、あたしだなんて。母さんが間違えたなんて、言えないよ。とぼけ通した。

 その日、帰ってから母さんに言ったけど

「え?そうお?んんんん???」

だって、しっかりしてくれよ!協調性ない上にドジな母さん!


 お小遣いで鉛筆のキャップを買った。大事にしていたら、母さんがまた怒った。

「こんなんだって50円くらいするでしょう」

 あたしは50円も自由に使えない身分だった。


 母さんが古くなったストーブを捨てようとしていた。

「売ればいいじゃん」

って言ったら、また怒った。

「こんなん売ったって50円くらいにしかならないのよ」

 苦手な反論をした。

「売ればいいじゃん。で、その50円を、このキャップのお金に充てればいいじゃん」

「バカバカしい!たかが50円で!」

 母さんは冷たい背中を向けて行っちまう。

 その50円にこだわったのは誰なんだよ。こっちが怒りたかった。


 父さんの給料は少ししか上がらないが、物価はどんどん上がる。

 家計簿をつけながら母さんがため息をつく。

「あんたたち、節約してね。節約。もうおかずなんかもあんまり良いの出来ないからね」

 そんな事を言われたら、そりゃ心配になる。

「母さん、うち大丈夫?うち大丈夫?」

 何度も聞くが、全然取り合ってくれない。心配で、心配で、張り裂けそうだ。

 母さんが言う。

「マリ、そう思うなら勉強しなさい、勉強」

 勉強したって金は入ってこないだろう。勉強するくらいなら働いた方がずっといい筈だ。

「マリ、中学出たら働くね」

 それでうちが助かるなら、親が喜ぶならそうしようと本気で思った。

 だが母さんが慌てたように言う。

「高校は行きなさい。それくらいのお金はあるから」

 たった今、おかずを買う金さえないと言ったじゃないか。だったら高校行く金などどうやって捻出するんだ。出来る筈がない。小学生のあたしにもそれくらい分かる。

 母さんが言い訳をし続ける。

「マリ、あたしそう言う事を言いたかったんじゃないのよ。だから…だから…勉強してよ」

 答えになってない。中学を出たら働く、その意志だけが固まっていった。


 うちの近くのデパートで、素人が出られる歌のお祭りが開催される事になった。出場者はノートがもらえる。ノート一冊でも、ただでもらえるならこんな良い事はない。家計の足しになる筈。

 友達と出場を決めた。歌う曲も、何を着るかも決めた。

 家で友達と練習していたら、母さんが真っ向から反対する。

「恥ずかしいからやめてよ」

 何が恥ずかしいものか。

「ノートがもらえるんだよ」

と言ったが

「ノートくらい買ってあげるよ」

とのたまう。あたしの頭の上にまた疑問符が並ぶ。

「おかずを買うお金もないんだよね?だったらノート代を節約する事で…」

 母さんがあたしの言葉を遮って言う。

「とにかく出ないで。恥ずかしいものは恥ずかしいから」

 訳が分からない。家計に協力しようという小学生がここにいるんだ!

 …結局、あたしは友達と歌のお祭りに出た。ノートをもらい、家計を助けた誇らしい気持ちで家に帰ったら、母さんが冷たい背中を向けながら言った。

「ああ恥ずかしい。そんなお祭りに出て、音痴な歌を披露しちゃって、ノートなんかの為に。ああ恥ずかしい」

 あたしはどうしても、こうしても、恥ずかしい娘らしかった。


 友達の家に遊びに行ったら、そこのお母さんが

「食べきれないから」

と言って、あたしに野菜をたくさんくれた。お礼を言い、重いのに頑張って家に持ち帰る。

 父さんも母さんも喜んでくれたよ。2人の笑顔を見て嬉しくなったさ。

「これで食費が助かるね」

と悪気なく言ったら、父さんが急に怒り出した。

「何だ、お前、俺は金に困ってなどいない!ふざけるな!」

 殴られ、座っていた椅子から落ちた。

「俺は乞食じゃないぞ!」

 倒れているのに、なおかつ蹴られる。

「乞食じゃない!乞食じゃない!乞食じゃない!」

 さも悔しそうに顔をしわくちゃにして蹴ってくる、切れ切れ父さん。乞食なんて、そんな事ひとことも言っていないし思ってもいない。冗談じゃないよ。

「今度の旅行もお前が行くなら俺は行かない!お前が行かないって言うなら俺は行く」

と関係ない話まで持ち出してくるし。何で関係ない夏休みの家族旅行の話に飛ぶんだよ!

「あたしは行くよ」

と答えたら

「じゃあ俺は行かない!お前が行かないって言うなら俺は行ってやる」

だと!なんちゅう大人げなさ!もう言い合いしている場合じゃない。慌てて自分の部屋に逃げ込む。

「父さんに何言ったのおー?」

 母さんが大声で、父さんに聞こえよがしに言いながら、あたしの部屋に入って来た。

 そして襖をぴしゃりと閉めてから、あたしに顔を近づけ小声で囁いた。

「どうしたの?何があったの?」

 それでうまく世渡りしているつもりかよ。

 この人っておかしいと、はっきり思った。


 姉ちゃんの誕生日に、お小遣いでハンカチをプレゼントした。

 母さんが珍しく

「あんた優しいねえ」

って言ってくれた。

 姉ちゃんも嬉しそうだった。


 あたしの誕生日が近いから、姉ちゃんに言った。

「本が欲しいな」

 その途端に母さんが激高する。

「あんた、自分からものをねだるなんて、最低だよ!あんたは最低の子だよ!」

 ねだったつもりはなかったんだけどな。

 ましてや「行為」を咎めるならまだしも、あたし自身を最低の子だ、と「人格否定」するなんてさ、もう何も言えないよ。


 友達の家に遊びに行くと言ったら、母さんがにやにやしながら言った。

「また野菜もらって来てよ」

 あんただってねだってんじゃねえか。また修羅場を望むのか?


 担任の先生が結婚する事になった。

 父兄でお祝いをしようと言う事になり、プリントが配られた。お祝いのお金を集めるのでいくら寄付するか丸で囲んで下さいと書いてある。200円、300円、400円、と3通り。

 お世話になっている先生だし、一生一度の結婚祝いだし、好きな先生だから少しは奮発して欲しかったが、母さんは躊躇なく200円の所に丸を付け、100円玉をふたつ袋に入れる。母さんは少しでも節約する人だった。


 それでいて自分の仕事に使う布や染料は、いつも最高級のを躊躇なく買っていた。

「あたしは第一線で活躍する身だから」

とか言って。

 自分には奮発、人にはケチ、勿論家族にもケチ、おかずもケチ、ご飯のお代わりも駄目、…なんなんだろうねえ。


 母さんの友達がうちに来た。今も独身のその人が言う。

「あなたが羨ましいわ。結婚して、子どもを2人も生んで」

 母さんが間髪入れずに言う。

「いない子に泣かされる事ないよ」

「…泣かされているの?」

「上はともかく、下はどうしようもないからね」

 …その人が絶句しながらあたしの顔を見る。あたしも絶句する。あたしはどうしようもない、いない方が良い存在という事か?

 その人はあたしを憐れむ目で見た後、いたたまれないように、そそくさと帰って行った。

 そして2度と来なかった。


 母さんの別の友達がうちに来た。

「この化粧水がとってもいいのよ」

そう言いながらポンプ式の化粧水をコットンに取り、自分の肌になじませてみせる。大人になると、こういうものを使うようになるんだと思いながら見ていた。

 母さんが言う。

「手に取った方が節約になるんじゃない?」

 母さんの友達が言う。

「栄養分を手に取られるからコットン使った方がいいわよ」

 母さんがすかさず言い返す。

「コットンに取られるじゃない」

 母さんの友達が困った顔になる。せっかくいいものを勧めてくれているのに、あたしはその人が心配になる。

 母さんが更に憎々し気に言う。

「ポンプ式って早くなくなるのよね。いくらでも汲み上げるから。新しいのを早く買わせようって化粧品会社の魂胆ね」

 母さんの友達が、更に困った顔になる。

「今の化粧水が肌に合わないって言うから持ってきたんだけど…」

 母さんの友達は、明らかに気分を害している。

「そんなん、特別良いと思わないけどねえ」

 母さんが平気で混ぜ返す。母さんの友達が黙って目を伏せる。

 ああ母さん、そんな事言わないで、友達怒っちゃうよ。教えてくれて有難う。使うかどうかは考えておくね、とか何とか言えばいいのに。子どものあたしに分かる事が、大人の母さんには分からない。

 …結局、その化粧水を持って母さんの友達は黙って帰って行った。母さんが言う。

「あー、良かった。無駄なお金使わなくて済んだわ!」

 母さんは友達の好意も無にする人だった。

 勿論その人も2度と来なかった。


 母さんの別の友達がうちに来た。

「うちの夫の再就職がやっと決まったのよ」

 ほっとした顔で言っている。

 母さんが不満げな顔で言う。

「ふうん、その会社、社員は何人いるの?」

 その友達が嬉しそうに言う。

「300人よ」

 母さんがさも馬鹿にしたように言う。

「ふうん、小さい会社ね」

 友達がびっくりして、もう一度確認するように言う。

「300人よ」

 母さんが居丈高に切り返す。

「だって、うちの主人の会社なんて何万人よ!」

 その人が絶句する。せっかく良い気持ちでいたのに、馬鹿にされてどんな気分だろう。

 あたしはその人が心配になる。再就職おめでとう、とか、良かったね、とか言えばいいのに、子どものあたしに分かる事が、大人の母さんには全然分かっていない。

 母さんは、得意満面な顔を友達に向け続けている。

 その人は「言っても無駄だ」という顔になり、黙って帰って行った。

 母さんが言う。

「あー、良かった。父さんがJELで!」

 母さんは友達の事も馬鹿にする人だった。

 勿論その人も、2度と来なかった。


 社宅で隣の奥さんが来た。

「やっと一軒家を買ったのよ」

 嬉しそうに言っている。

 妬まし気な母さんが言う。

「そう、場所どこ?」

 その人が笑顔で答える。

「橋の向こう。子どもたちも転校しなくて済むし、中古だけど良かったわ」

 母さんが不満げに聞く。

「中古?」

 その人は笑顔を崩す事なく言う。

「中古よ。新築はとても手が届かないわ」

 謙遜しているのは小学生のあたしにも分かる。

 母さんがすかさず混ぜ返す。

「あなたも可哀想ね。そんな中古物件つかまされて喜んでいるなんて」

 その人が絶句する。やっとマイホームを買ったというのに、どんな気持ちだろう。

 おめでとう、とか良かったね、とか言えばいいものを、中古とか馬鹿にして、可哀想がるなんて。子どものあたしに分かる事が、大人の母さんにはまったく分からない。

 その人は怒った顔のまま黙って帰って行った。

 母さんが言う。

「あー、あたしは新築の家が欲しい!」

 勿論その人も、引っ越しするまで知らん顔していた。


 母さんの別の友達が来た。

 結婚して10年になる旦那さんの事を話している。

「優しくて穏やかな人で、感謝しているわ」

 いいねえ。母さんも父さんの事をそんな風に人前で褒めてみたらどうだい?

 人の不幸が大好きな母さんが言う。

「あなたの旦那さんって確か高卒だったわよねえ。年収いくら?」

 何て事を聞くんだ。あたしはまた母さんが人を傷つける所を見たくなかった。

「高卒だけど…。頭のいい人よ。年収は知らないわ」

 母さんが急に身を乗り出すようにして、その人に迫る。

「自分の旦那の年収知らないってどういう事よ」

 その人はびっくりして、椅子の背もたれに倒れんばかりにのけぞっている。

「うちの主人は大学院を出ているの!大学、イン!乗れるレールがあなたたちとは違うの!」

 居丈高にまくしたてる母さん。

 絶句しているその人。

「あたしは主人の会社の人の年収を知っているわよ!誰の給料が幾らで、誰のボーナスが幾らか、全部知っているわよ!」

 指折り数えて見せながら、言い放つ母さん。

「本当よ。誰の給料がいくらで、誰のボーナスがいくらか、全部知っているわ!誰がどこの大学を出ているか、その大学の偏差値がいくつか、そこまであたしは知っているわ!うちはそれでうまくいっているわよ!」

 ほんまかいな。仮に本当に知っているとして、相手にそう言えるの?言えないでしょ。母さん、そんな事言わないで。その人、嫌な気持ちになっちゃうよ。それにうちはうまくいってねーだろ!

「年収知らないなら、旦那さんが他に家庭をもうひとつ持っても分からないじゃないっ」

 母さんの勢いは止まらない。

「浮気するような人じゃないわよ…」

 その人が細い声で言う。

「あなた、旦那さんに年収ひとつ聞けないのは、自分に自信がないからじゃないかしら」

 母さんはもう他の事は何も見えないかのように、その人に迫る。

 その人はただびっくりしている。

「じゃあ何かで生活費が足りない時はどうするの?」

 その人はあまりにびっくりし過ぎて返事が出来ないでいる。

「どうするのっ?」

 その人は答えない。ってか、答えられない。

「どうするのっ???」

 母さんが椅子から腰を浮かしてまで詰問している。母さん、その浮いた尻を椅子に落ち着けなよ、それで気持ちも落ち着けなよ。

「あたしはね!大学院を卒業している人と結婚する為に自分も大学に行ったの。自分を同じレベルにする為にね!あなたもあたしみたいな考え方持っていれば大学院か、低くても大卒の人と結婚出来たんじゃないのかしら?」

 その人が細い声でやっと反論する。

「私は彼の人柄が好きで結婚したから…」

 母さんがまた切り返す。

「あなた!あたしと重視する所が違う!」

 その人の開いた口がふさがらない。

「うちの主人が入社した時に主人の上司だった人たちは、今や主人の部下なのよ、部下!二流大卒だからね!」

 帰りたそうな顔をするその人と、帰すまいと喋り続ける母さん。

「うちの主人はね、人員整理する側なの!する側!!前にも人を何人か切らなきゃいけないけど、この人は子どもが障害児で、この人は要介護状態の親がいるからって8人くらいの身上書を見ながらウンウン悩んでいる時に、あたしがこの人とこの人は残して後はクビ!って言って決めてやったの!あたしが!主人はその通りにしたわ!あたしが主人の部下を切ってやったわ!あたしは人の人生を左右出来る立場なの!!」

 顎を天に向けて言い切る母さん。

「あたしたちはクビを切る側!あなたたちは切られる側!あたしたちが上!あなたたちは下!決定的な違いね!」

 その人は悪魔を見るような目で見ている。

「あたしは子どもたちの学校へ行くとね、綺麗なお母さんって囁かれるのよ」

 自慢気な母さん。

「本当よ、行くたびに綺麗なお母さんって囁かれるの!」

 断言する母さん。その人が仕方なさそうに言う。

「はい、そうね」

 早く話を終わらせて帰りたがっているのが分かる。

 …と、そこでその人の手提げから難しそうな本がバサッと落ちた。

 母さんがすかさず言う。

「あら、まあ!あなた中卒なのに本読むの?」

 その人のふさがらない口がもっと大きくなる。よせばいいのに、そんな優しそうな奥さんを傷つけなければいいのに。

「あたしは自分に自信あるわよ。大学出ているし、元銀行員だし、今は経営者だし」

 得意満面な顔を向け続ける母さん。そこまで自慢したり、学歴や職業や権力にしがみつくって事は、それこそ自分に自信がないって事じゃないのかい?

 その人は黙って立ち、本を拾い、静かにうちから出て行った。

 母さんが言う。

「あら、あたし何か変な事言ったかしら?分かってないみたいだから、懇切丁寧に教えてあげたんだけど」

 分かってないのは母さんだよ。あの人もきっともう二度と来ないんだろうなあ。

 母さんは友達を次々に失う人だった。


 その夜、母さんが父さんに言うのが聞こえた。

「親が絶対って思わせるのよ。親が絶対って」

 …「絶対に」間違っていると思うけどねえ。


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