第2話

「あんたは小さいうちに死んだものと思っているからねッ!」

 これはあたしが物心ついた時から頻繁に母さんに投げつけられた、言葉の暴力だ。

「マリッ!あんたは小さいうちに死んだものと思っているからねッ!」

 聞くたびに心が凍りついた。

 ああ、あたし生きていたら悪いんだ。小さなあたしは素直にそう思っちまった。

「あんたは小さいうちに死んだものと思っているからねッ!病気か何かで!」

 一日に二度言う時は、この「病気かなんかで」がついた。

 ああ、あたし「病気かなんか」で死ななきゃいけないんだ。じゃあ病気にならなきゃ。聞こえない振りをしながらそう思った。うん、実際聞きたくなかったからね。

「あんたは小さいうちに死んだものと思っているからねッ」

 ああ、今日中に死ななきゃ。明日になったらまた同じ事を言われる。だから、今日中に何とかして死ななきゃ。急がなきゃ。急いで死ななきゃ。もはや他の事は考えられなかった。

「あんたは小さいうちに死んだものと思っているからねッ」

 ああ、また心が殺される。毎日、毎日、生き返っても、生き返っても、また殺されて、また殺されて、またまた殺される。


「お前にはもうサジ投げたよ」

 これは父さんの言葉だ。サジ投げたって何の事だろう。何だかよく分らないけれど、父さんがあたしにこの家にいて欲しくないんだという事だけはよく分った。

「お前は異常だ。お前は異常だ。お前は異常なんだっ!」

 父さんがあたしを指差しながら怒鳴りまくる。

「俺は普通の子どもが欲しかったんだ!お前のような異常な子どもは欲しくなかったんだ!お前が生まれてきたせいで、俺がどんなに迷惑しているか、お前ただの一度でも考えた事があるか!お前のせいで!お前のせいで!」

 頭をむしりながら、父さんがあたしを力いっぱい睨み、言い捨てる。

 ああ、あたしは父さんの意にそぐわない子どもなんだ。あまりに惨めで、いたたまれなくて、いつも消えちまいたかった。

「生まれてきちゃったものはしょうがないから、一応は育ててやる。お前はそれを有り難く思え、そして俺の言う事を全部聞く良い子でなければならないんだ!分かったかっ!」

 そんな事を言われて、誰が良い子になれるんだろう。この人おかしくないかなあ、不思議でたまらない。

 立ち上がった父さんが、あたしを指差しながら母さんに向かって怒鳴る。

「子どもはお姉ちゃんだけで良かったんだ!お前がどうしても、もうひとり欲しいって言うから生ましてやったのに、何だよ、こんなん…、こんなん…」

 こんなんってあたしの事だよね?生まなきゃ良かったって事だよね?

「ここは俺の家だ!出て行け!」

 父さんが火を噴くように怒鳴る。どこにも行く所なんてないのに、一体どこへ行けばいいんだろう。それこそ火がついたように泣き叫ぶ、小さなあたし。かばってくれる人は誰もいなかった。


「死んでくれよ!そんな事するなら死んでくれよ!!」

 感情的になり過ぎ、わめく父さん。滅茶苦茶に殴られながら、ふとこんな考えが頭をよぎる。あたしまだ人間の形をしているかな?もしや壊れてバラバラになっていまいか?

「死んでよう!そんな事するなら死んでよう!」

 ヒステリックになり過ぎ、わめく母さん。滅茶苦茶にあたしを殴る母さんの向こうに見える、薄汚れた天井。あたしの心はまだ壊れていないか?もしや飛び散っていまいか?


 いちばん困ったのは「何故、今自分が怒られているのか」内容が分からなかった事だ。

 父さんは散々殴った後、まるで自分の暴力を正当化するように

「これに懲りて二度とやるな!」

とよく言っていたけど、痛いばっかりで内容はまるで分からなかった。

 分かったのは、「死んでくれ」というのと、父さんと母さんが「キレている」という事だけで、自分が何をして怒られているのか、これから先どうすればよいのか、その肝心な所がさっぱり分らなかった。

 父さんも母さんもいつもいつも「気がつくとキレている」人だった。


 パンッ!夜の夜中、蚊でも叩くような音が聞こえる。

 パンッ!父さんと母さんの寝室から聞こえる。

 パンッ!パンッ!その音は止まらない。

 パンッ!パンッ!母さんの悲鳴。

 慌てて子ども部屋を飛び出す姉ちゃんとあたし。

 パンッ!パンッ!パンッ!その音は、決して止まらない。

 それは父さんが、母さんに馬乗りになり、殴っている音だった。

 あまりの光景に、ただ立ちすくみ、ただやめてほしくて、ただ泣き叫ぶ、無力な、小さなあたしたち。

 父さんはやめてくれない。そして母さんは下敷きにされながらも、何事か大声で怒鳴りまくっている。何を言っているかはまったく分からない。

 パンッ!パンッ!パンッ!黙らせようと殴り続ける父さん。決して黙らない母さん。気が狂いそうな姉ちゃんとあたし。

 やっと逃れた母さんが、子ども部屋に逃げ込む。

 凄まじい緊張と恐怖に、ガタガタ震えるあたしたち3人。

 部屋の前まで追いかけてきた父さんが母さんに叫ぶ。

「死んでしまえ!」

 さあ、眠れない夜の始まりだ。


 翌日、気が付くと今度はあたしにキレている父さん。

「口で言って分からないなら、体で分からせる!」

 原因は分からない。どうしても、どうしても、ああどうしても、分からない。それでも父さんの拳が唸る。

 1度、2度、3度、頭に、背中に、顔に、拳が振り下ろされる。

 4度、5度、6度、ああ、痛い。

 7度、8度、ああ、苦しい。

 9度、10度、ああ、やめてくれ。

 11度、12度、ああ、もう数えられない。


 そう、あたしは、修羅場の絶えない家庭に生まれ育ったんだ。家の中はまるでナチスドイツだったよ。ガス室だってこんなに苦しかねえだろ。ガス室なら死んで楽になれるんだし。肉体的にも精神的にも、酷い暴力を受け続けながら育つ羽目になっちまった。

 そうそう、あたしよりずっと賢かった3歳上の姉ちゃんは、これ以上言ったら殴られると思ったら悔しくても黙る性格だった。お陰であたし程殴られても怒鳴られてもいなかったよ。

 だが幸せな少女とは言いがたい。勉強だけはそれはそれは熱心にしていたけど、あたしは姉ちゃんが勉強する事で早く自立しようとしている事が、良い学校へ行く事でいつか必ず親を捨ててやろうと思っているのが、当時から何となく分かっていた。姉ちゃんも密かに親を憎んでいた。はっきりそういえない分、あたしを思いっきり軽蔑してみせた。

 あたしは父さんからも、母さんからも、姉ちゃんからも、来る日も来る日も力いっぱい憎まれ、蔑まれ、罵られ、殴打され、無視され、いじめられて育ったよ。つらくて、つらくて、ああつらくて、いつも死んでしまいたかった。

 実の親に異常呼ばわりされ、生まれてきた事を否定されるという「非日常的な事が日常的に起こる家庭」それがうちだった。

 常にビリリと緊張していなくてはならない、それが幼少期のあたしだった。


 もうひとつ、あたしは自分が殴られるのも怒鳴られるのも勿論嫌だったが、父さんと母さんの夫婦喧嘩を見るのも同じくらい嫌だった。それは目を覆いたくなる程の惨状を生んでいた。

 この人たち、何で結婚したのだろう?いつもそう疑問に思っていた。2人はお互いを憎み、忌み嫌い、いじめ抜き合っていた。

「やかましい!」

 父さんが容赦なく母さんを殴る。子ども心にも男の方が腕力あるってのは分かっていたから、母さんが殴られているのを見るのはつらかった。


「何よ、あんた口ばっかりじゃない!この口先男!!」

 母さんの口から、機関銃のような勢いで罵詈雑言が飛び出してくる。子ども心にも女の方が弁が立つってのは分かっていたから、父さんが言葉でやり込められているのを聞くのは悲しかった。


 弁の立たない父さんが、腕力のない母さんを「黙らせる為に」何度も殴る。

「ああ、また始まった」姉ちゃんとあたしは、ハラハラしながら見ているしかない。昼夜を問わず、悪夢のような光景が、幼いあたしたちの目前で繰り広げられる。母さんが父さんを、非力ながらも殴り返す。罵倒しながら殴り返す。

「口先男!くーちさーきおーとこ!」

 父さんがもっと怒って、母さんを殴る。

 ああ母さん、早く黙って。母さんが黙れば、父さんの暴力は終わる。幼児のあたしに分かる事が、大人の母さんには分からない。

 それは「恐ろしい社交ダンス」だった。父さんと母さんが向き合い、少しでも優位に立とうとピンと背筋を伸ばし、互いの顔を力いっぱい打ち合う。

 パンッ!パンッ!パンッ!母さんが髪に巻いていたホットカーラーが、ひとつずつバラバラと外れて床に散らばっていく。

 パンッ!パンッ!パンッ!カーラーを踏み、躓きながらも、父さんは母さんを、母さんは父さんを殴る事をやめない。やめてくれない。

 パンッ!パンッ!パンッ!無言で、お互いを睨みつけ合いながら、まだ社交ダンスは続く。

 パンッ!パンッ!パンッ!もう耐えられない。もう見ていられない。

「やめてよう!」

 あたしと姉ちゃんの泣き叫ぶ声は、2人の耳に届かない。

 2人とも、何も、何も、なあんにも聞こえない。

 もう負けそうと思った母さんが台所へすっ飛んで行き、あたしたちの見ている前で包丁を振り回して手首を切った。そしてどうだと言わんばかりに血の垂れる腕を掲げて見せる。派手なパフォーマンスだ。父さんは大きなため息をついて外に出て行っちまう。姉ちゃんとあたしは、血だらけの母さんにタオルを持っていきながら、自分も気が狂いそうだった。


 我が家はそれが日常茶飯事だった。だが姉ちゃんもあたしも何度目にしたところで、どうしても二人の凄まじい夫婦喧嘩に慣れる事は出来なかった。泣いてやめてくれと頼む毎日だった。

 自分が殴られる以上に、自分が罵倒される以上につらい事、それは「親が喧嘩をしているのを見る事」だった。


 そうなんだよ。あたしはね、そういう家庭に育っちまったんだよ。事例ならいくらでもあるよ。誰も信じてくれないけどね。

 例えば、そう、例えばね。


 その日も父さんは、カッとなって母さんを拳で殴ったよ。原因は全然分からない。すかさず母さんがあたしの所へ飛んできて、同じように拳であたしを殴ったよ。

 父さんが

「何すんだ」

と怒鳴り、母さんを足で思い切り蹴ったら、母さんはまた同じようにあたしを足で思い切り蹴って、怒鳴ったよ。

「あんたがあたしを殴る度に、あたしはマリを殴るからね!こっちにはマリって人質がいるんだ!」

 父さんが呆然とする。直立不動ってやつ。

 殴られ、蹴られ、壁まで吹っ飛ばされたあたしは、痛みやらショックやらで目を回しながら畳の上に倒れたままだった。

 ヒトジチって何の事だろう?分からないけど、自分がとてつもなく悪い立場にいる事だけはよく分かった。もしかして、母さんってあたしを自分の持ち物って思っているのかな?誰もあたしを助け起こしてくれなかった。あたしはいつまでも畳の上にのびていた。そんなあたしに母さんの鋭い声が飛ぶ。

「いつまでそんな所に寝っ転がってんのよ!さっさと起きなさいよ!!」

 慌てて起き上がる惨めなあたし。ああ、殴られても蹴られても、床にのびていてはいけないんだ、そう思いながら。

 そして今度は、どうすれば良いか分からず突っ立っていた。

 そう、いつまでも、いつまでも、突っ立っていた。


 あたし、何で生まれてきたんだろう。何で生きているんだろう。死にたいな、死にたいな。

 小さな頃からそんな事ばかり考えていたよ。死ぬ事こそが、自分に課せられたノルマのような気がしてならなかった。死ねば逃れられる、死ねば楽になれるってーのも分かっていたしね。

 友達に

「死にたい」

と言ったらびっくりされて、こっちがびっくりした。え?この人は生きていて楽しいのかな?って。 

 だって、一昨日も昨日も今朝も、母さんは怒鳴りまくったよ。

「あんたなんか出てけ!出てけ!出てけえええええ!!!」

 あたしが大事にしているヌイグルミを紙袋に押し込んで、それを突き付けながらね。

「これ持って、出てけえええええええええええええええええ!」

 どこ行けっていうの?ねえどこ行けっていうの?出て行っても行く所なんかないんだよ!半狂乱で泣きわめくあたしを、それでも容赦しない母さん。

「早く出てけええええええええええええええええええええええええええええ!!!」

 助けを求めて父さんの所に走って行った。父さんは、かばうどころかこう言ったよ。

「お前は自分がおかしいという事が分からないんだよ。教えてやるよ。お前は頭がおかしいんだよ!明日キチガイ病院に連れて行くからな!」

 姉ちゃんは幼稚園へ行っていていなかった。

 あたしをかばってくれる人は、家の中にひとりもいなかった。

 あたしを助けてくれる人は、世界中にたったのひとりもいなかった。

 キチガイ病院って何だろう。やっぱりあたし、この家から追い出されるのかな。慌てて積み木遊びを始めながら、このお城がうまく完成したら追い出されなくて済むのかな、なんて考えていた。あたしはほんの少しも楽しくない積み木で、いつまででも遊び続けたよ。


 うちの親は二人とも子どもが嫌いで苦手だったんだろうね。

 父さんはテレビが趣味みたいな人でさ、いっつもテレビ見てたよ。それも座椅子の形通りに座って。いっつもその恰好!

 母さん殴った後も、興奮したままテレビつけて、怒った顔のまま見ていたし。

 母さんと姉ちゃんが出かけて、自分があたしの面倒を見なきゃいけないって時も、おもちゃをたくさん持ってきて

「はい、これで遊びなさい」

と言って、自分は知らん顔で座椅子の形通りになってテレビを見ていた。

 テレビで軍歌が流れるたびに拳を振りながら一緒に歌っていたしね。

 あたしはたったひとり、おもちゃで遊びながら思ったよ。つまんないなってね。父さん一緒に遊ぼうなんて、言えない雰囲気はよく分かったしね。


 母さんは母さんで、「つまらなそうに」遊んでくれた。母さんがつまらない、早く解放されたいって思っているのはよく分かった。

 …あたしもつまらなかったよ。

 そして、さびしかったよ。


 あたしは確かに「変わった子ども」だった。誰からも愛されていないって事が分かっていたから、いつも親の関心を引こう、引こうとしていた。

「ねえ、手のひらにほくろが出来たよ。毎日だんだん増えていくよ」

だの

「目をつぶると文字が見えるよ」

と言った。あたしはただ単に、関心を持って欲しかった。愛して欲しかった。

「大丈夫だよ、マリ」

そう言って欲しかった。本当にそれだけだった。

 けれど父さんはこう吐き捨てた。

「それはキチガイの証拠だから、お前をキチガイ病院に連れていく」

 母さんは異物を見る目でこう言ったよ。

「この子はどっかおかしいんだわ…」

 …やはりそんな事では、親の同情も愛情も買えなかった。

 あたしは世界一ひとりぼっちだった。


 だが不幸の中に、ぽつんぽつんと幸せと感じる瞬間も、あるにはあった。


 母さんとスーパーへ買い物に行った。

 お菓子やら、おもちゃやら、魅力的なものがたくさんあり、夢中になって見とれていたら母さんとはぐれちまった。パニックになり泣きわめいていたら、親切な人が交番へ連れて行ってくれた。  

 そこでもお巡りさんを手こずらせながらギャーギャー泣いていると、母さんが探しに来てくれた。

 ほっとして母さんにしがみつき、もっと泣く。本当に母さんなのか確かめる為にいったん泣くのをやめ、しげしげと母さんの顔を見て、間違いなく母さんだと分かったら、安心してまた泣く。それを何回も繰り返した。

 ようやく泣き止んだら、母さんが優しく言ってくれた。

「じゃあ帰ろう」

 嬉しくなって言ったよ。

「母さん、抱っこ!」

 母さんが困った顔で言う。

「重いよう」

 どうしても抱っこして欲しかった。

「抱っこ!抱っこ!抱っこして!」

 母さんのセーターをつかみ、小さな手で母さんに登る。本当は母さんが、あたしの脇の下に手を入れて抱え上げてくれたんだけど、あたしは自分で登ったつもりだった。

「重いぞ」

 母さんが笑いながら言う。

「重くない!」

そう言いながら、助かった安堵でいっぱいになる。

「ありがとうございました」

 母さんがお巡りさんに、丁寧にお礼を言う。歩き出した母さんにしがみついたまま、嬉しくて嬉しくて母さんの顔の前に自分のニコニコ顔を差し出したら、母さんもちょっとだけ笑ってくれたよ。

 ああ、良かった、母さん笑ってくれた。そう思ったら、遠ざかりつつあるお巡りさんと目が合う。

 何故か疲れ切った顔をして、ゼイゼイ肩で息をしながらあたしを見ている。面倒を見てくれたお兄さんだと、何となく分かった。急に楽しくてたまらなくなり、バイバイと大きく手を振る。するとお巡りさんが仕方なさそうに笑いながら、手を振り返してくれた。

 あれ?何であんな顔するんだろう。きょとんとする。母さんが迎えに来てくれた事がとにかく嬉しかった。

 …幸せだった。


 母さんと姉ちゃんと3人でスーパーへ買い物に行った。

 母さんが言う。

「マリ、あんたすぐに迷子になるから、あたしの前を歩きなさい」

 前を歩かされ、何回も振り返る羽目になった。だってどっちへ行けばいいか、分からないんだもん。あらぬ方向へ歩いていこうとすると、後ろから鋭い声がする。

「ほら、こっちよ」

 慌てて付いていく。その繰り返しでへとへとになる。

 ふっと気を抜いた瞬間、前を歩いていた知らない人につられ、うっかり上りのエスカレーターに乗っちまった。

 振り返ると、母さんと姉ちゃんが売り場の前に立ったまま、二人ともあたしを見てにやにや笑っている。慌てて降りようとしたが、どんどんエスカレーターは上って行ってしまう。どうしよう、どうしよう。いくらエスカレーターの階段を降りても降りても、下には着かない。

 ついに降りるのを諦め、遠ざかる母さんたちを見ながら半狂乱で泣き叫ぶ。近くにいたおばさんが、見るに見かねてあたしを抱き上げてくれた。

「お嬢ちゃん、大丈夫だよ。おばちゃんと一緒にいっぺん上まで行こう」

 おばさんはギャーギャー泣くあたしを抱っこして、いったんいちばん上まで行き、下りのエスカレーターに乗り、母さんと姉ちゃんの所まで連れてってくれた。

 母さんはさっきまでの、さも馬鹿にしたようなにやにや笑いを引っ込め、神妙な顔になりそのおばさんにそれはそれは丁寧にお礼を言う。

「まあ、すみません。娘がお世話をかけました」

「いいえ」

 おばさんはちょっと不審な顔を母さんへ向け、不憫そうにあたしをちらりと見ると行っちまった。 

 母さんは、そのおばさんがいなくなった途端に言った。

「あんたって本当に馬鹿ね。上りのエスカレーターをいくら下ろうとしたって、そんなの無理に決まっているじゃない」

 不安で張り裂けんばかりだったあたしの気持ちなんてものは、母さんにはまるで通じなかった。

 …不幸だった。


 父さんが言う。

「迷子になった時にうちの住所を言えればいいんじゃないのか?」

 母さんが言う。

「どうやって?」

 父さんが高らかに言う。

「住所を歌にして歌えばいいんだよ」

 そして子ども番組でよく流れる歌の歌詞をうちの住所に替え歌して、姉ちゃんとあたしに歌わせた。父さんにしてはナイスなアイデアだった。姉ちゃんもあたしも楽しく歌い、その替え歌を覚え、子ども番組でその曲が流れるたびにうちの住所に歌詞を替えて歌った。

 …が、いざ迷子になるとあたしはパニックになり、見知らぬ大人を相手に歌を歌うどころではなく、父さんのアイデアは何の役にも立たなかった。

 父さんが不満満タンで言う。

「お前、何で歌わないんだよ」

 …そんな緊急事態に歌なんか歌う訳ねえだろ。


 母さんと手をつないで出かけた。歩きながら誰かれ構わず手を振ると、知らない人が微笑んで手を振り返してくれる。

 …世界中が自分に微笑みかけているような気がした。


 父さんとスーパーへ買い物に行った。レジで並んでいると、前の人の荷物をふと触ってみたくなった。すっと前へ出て、その人の荷物を指先でちょこんと触り、また父さんの隣に戻った。父さんも前の人もただ茫然としていた。

 父さんは家に帰ってから言ったよ。

「お前、何であんな事するんだよ」

 …答えようがなかった。本当にただ急に触ってみたくなっただけだから。

 母さんはまた言った。

「やっぱりこの子はどっかおかしいんだわ」

 父さんも母さんも姉ちゃんもあたしにそっぽを向いちまった。

 …世界中が自分にそっぽを向いているような気がした。


 母さんが朝食を作っていた。背伸びをしたら食卓の上に小皿が見えた。手を伸ばし小皿を傾けたら、中に入っていた生卵がつるりとテーブルの上にこぼれ出た。白身の真ん中に黄身がお月さんみたいにあるのが面白くて、指でつんつんとつついていたら母さんが

「もう何すんのよ!」

と怒り、布巾でさっと拭いてしまった。楽しかったのに…。

 大声で泣いたら、姉ちゃんがあたしの頭を撫でてくれた。

 …ちょっと幸せだった。


 母さんが自分の友達に葉書を書いていた。途中で電話が鳴り、母さんは行っちまった。

 …急にその葉書にいたずらしてみたくなった。余白に母さんがあたしを怒っている時の顔を描いたよ。

 電話を終えた母さんが戻ってきて、唖然としていた。

「あんた、何でこんな事するのよ!何でよ!」

 答えようがなく黙っちまう。本当にただ急に思いついただけだったから。

 しばらくわめいていた母さんは、諦めたようにこう言った。

「やっぱりこの子はどっかおかしいんだわ」

 …とっても不幸だった。


 家族4人で出かけた。

 よちよちと歩き、父さんと思って男の人の足に抱きつき、ニコニコと見上げたら知らないおじさんだった。びっくりして離れ、あらぬ方向へ行こうとしたら

「マリ!」

と父さんの声。

「駄目じゃないか、よその人に」

そう言いながらあたしを抱っこしてくれた。

 …そこはかとなく幸せだった。


 母さんがよその子を見ながら言う。

「あの子は良い子よねえ。あんな子が生まれていたらなあ…」

 …底知れず不幸だった。


 おもちゃで遊んでいるうちに眠ってしまった。父さんか母さんか分からないけど、抱っこして布団へ移してくれた。そのまま眠る。

 …安心だった。


 母さんがあたしの髪を切りながら言う。

「この子はつむじが二つあるから、言う事を聞かないんだわ」

 …なんのこっちゃい。


 その頃、世の中に男は父さんだけだと思っていた。だから言った。

「マリ、大きくなったら父さんと結婚する」

 父さんが嬉しそうに言う。

「父さんと結婚するの?」

 そうするしかないんだろうと思っていたから、うんと頷く。

「本当に父さんと結婚するの?」

 何回も聞くデレデレ父さん。何でそんなに喜ぶんだろうと不思議だった。

「マリ、俺と結婚するんだって」

 嬉し気に母さんに報告する、幸せそうな父さんだった。

「じゃああたしはどうなるの?」

 不機嫌全開の大人げないプリプリ母さんだった。


 姉ちゃんはあたしが遊んでいるおもちゃを、横からどんどん取り上げる。人形も、ぬいぐるみも、ブロックも、積み木も、ミニカーも、粘土も、何もかも。

 全部取られ茫然としていると、母さんが見かねたようにしゃもじを渡してくれた。しゃもじを裏返したり、おもて返したり、遊び始めたらそれさえ姉ちゃんに奪われた。

 仕方なくカーテンをゆらゆらさせて遊び始める。すると姉ちゃんがあたしを押しのけ、自分がカーテンをゆらゆらし始めた。

 …横取りするんじゃねえよ。


 食事の時、母さんは毎回言う。

「お茶碗を左手で持って食べなさい」

「その箸の持ち方はいけないよ」

「音を立てないで吸いなさい」

「野菜から食べなさい」

「犬食いしないの!」

 …うるさいなあ。ちっともおいしくない。


 出かける時、母さんは毎回言う。

「きちんと挨拶をしなさい」

「背筋を伸ばして歩きなさい」

「片足に重心を掛けずにぴしっと立ちなさい」

「姿勢よく座りなさい」

「美しく立ち振る舞いなさい」

「表情に気を付けなさい」

 …うるさいよ。ちっとも楽しくない。


 毎日何を着るかは母さんが決めていた。自分で決めたかったが、洋服も靴下も全部母さんが決めていた。

 あたしのお気に入りは背中にリボンのついたワンピースだった。母さんはリボンを結び終えると、必ず背中をポンと叩く。それを合図にそれまでじっとしていたあたしは動き出す。

 …幸せな合図だった。


 母さんは父さんに殴られた後、必ず大声で泣き、両手を広げて壁につかまりながら段々膝を折り崩れていく。すっかりしゃがみ込んだタイミングで、姉ちゃんとあたしは母さんを慰めなくてはならなかった。

 今日も母さんは父さんに殴られ、早く慰めろと言わんばかりに壁を前に崩れていく。ああ、母さんがすっかりしゃがみ込んだ。慰めなくては。

 …不幸な合図だった。


 母さんを殴った後、父さんは必ず喘息の発作を起こす。

 ゲホッゲホッゲホ!!!ゲーホー!ゲエエエエエホオオオオオオ!!!

 全身で咳をし、手足を引きつらせる父さん。

 知らん顔している腫れ上がった顔の母さん。

 部屋にこもり出て来ない姉ちゃん。

 あたしが面倒見るしかないんだろう。コップに汲んだ水を差しだし、ティッシュを差し出し、ごみ箱を差し出し、喉飴を差し出し、背中をさするあたし。 

 …あたし、この家の何なのかなあ。女中かなあ。

 喘息の発作も、じゅうぶん不幸な合図だった。


 朝、母さんが忙しそうにしていたので自分で箪笥を開き、自分で着る服を決め、自分で着替えた。

 着替えた姿で威張って台所へ行ったら母さんが言った。

「あら、あんた自分で着替えたの?」

 深く頷く。やれば出来るんだ。

 …物凄い達成感だった。


 信号を渡る時、母さんはいつも左右を何度も確かめてからあたしの手を引いて、急ぎ足で進んでいた。あたしは転びそうになりながら、必死に母さんに付いて信号を渡った。

「危ないからひとりで渡っちゃ駄目よ」

と、何度も言われていた。確かに車がどんどん通るので信号は恐かった。平気で渡る人を見ながら、この人たちは凄いなと思っていた。

 …ある時、この信号をひとりで渡って向こう側へ行ってみようと思い立った。だが、恐ろしくてなかなか渡れない。今度こそ、今度こそ、と何回も青を見送り、赤になる信号を見ていた。

 20回を数えた所で、さあ今だと物凄い勇気を振り絞って足を踏み出す。

 天を歩いているような気がした。もう一歩、もう一歩、赤になると困るので、半分渡った所で走って向こう側へ行った。

 …やった!やった!渡れた!振り返ると、景色が違って見えた。

 わあ、あたし信号を渡れたんだ!今度は戻るぞ。さっきの半分の勇気で渡れる!次の青で戻った。赤を待ち、次の青でまた向こう側へ。

 それを何度も繰り返した。もう振り絞らなくとも、勇気はあたしの中にあった。楽しくて、嬉しくて、跳ねるように信号を何往復もした。

 やった!本当にやれば出来るんだ!今度は大きな交差点の信号を渡ってみよう。きっと出来るから。

 更に大きな達成感と、成功体験を得た。


 会社へ向かう父さんの後をつけた。あたしはもう信号だって渡れるんだ。だからどこまでもついて行く気だった。

 角を曲がったら、父さんが振り返ってあたしを待っていた。

「なあに?父さんの後をつけているの?」

だって。

 なあんだ、父さん気が付いていたんだ。笑って頷く。

「車に気を付けて帰りな」

と言ってくれた。

 うん、父さんも車に気を付けて会社に行きなよ。

 威張って家に向かう。


 うちには大きなロバのぬいぐるみがあった。ロバ君と名前を付け、家にいる間はよく乗っていた。動かないロバ君が、このままあたしをどこかへ連れて行ってくれるような気がしていた。

 何か、何でもいいから、どこか、どこでもいいから、あたしを連れて行って欲しかった。


 大きくなったら何にでもなれると信じていた。どんなものにでもなれると、どんな事でも出来ると、頑なに信じていた。だから言った。

「マリ、大きくなったらウサギになる」

 母さんが言う。

「なれる訳ないじゃない」

 …否定された。それでも言う。

「マリ、大きくなったら外人になる」

 父さんが言う。

「なれる訳ないだろう」

 …また否定された。それでも負けずに言う。

「マリ、大きくなったらロバ君と結婚する」

 父さんと母さんが同時に言う。

「出来る訳ない」

 …何度否定されても、まだ言う。

「マリ、大きくなったらケーキになる」

 姉ちゃんが言う。

「食っちまうよ」

 …食われてたまるか。


 耳掻きしてもらうのが、好きだった。耳掻きを持ち、母さんの所へ行く。

「耳ここ、掻いて」

と母さんの膝にころりと頭を乗せる。掻いてくれた母さんが言う。

「はい、反対」

 反対の耳を向ける。掻いてくれた母さんが言う。

「はい、おしまい」

 いったん起き、綿棒を持って母さんに言う。

「鼻ここ、取って」

 母さんが綿棒であたしの鼻を掃除する。ツルリ、と大きな鼻ここが取れる瞬間が好きだった。

 …やっぱり幸せだった。


 父さんが昼寝をしていた。急にいたずらしてみたくなり、耳の中に涎を垂らした。飛び起きる父さん。瞬間的に頭に血がのぼったらしく、あたしをバシッと叩く。

 あれえ?そんなに腹が立つかねえ。じっと顔を見る。

 またバシッと叩く父さん。そして怒り足りないのか、あたしの首を両手でつかみ揺さぶる。

「俺を舐めるなああああああああああああ!!!」

 …やっぱり不幸だった。


 クリスマスの朝、枕元にプレゼントが置いてあった。

 嬉しくて、嬉しくて、母さんの所へ走って行った。

「マリのとこ、サンタさん来たよ!」

 大声で言う。母さんがにっこり笑ってくれた。

「良かったね」

 興奮冷めやらぬあたしはお隣のチャイムを鳴らし、ドアを開けてくれたおばさんに高らかに言った。

「マリのとこ、サンタさん来たんだよ!」

 おばさんもにっこり笑ってくれた。

「良かったね、何くれたの?」

「この、ご本」

とプレゼントを掲げて見せる。

「マリのとこ、サンタさん来たんだよ」

 何回も言う。

 そのたびにおばさんと母さんがニコニコする。

 本当に本当に、幸せだった。


 家族のクリスマス会、先にケーキを食べようとしたら母さんが言う。

「先に野菜を食べなさい」

 野菜なんておいしくない。おいしいのはケーキだ!ケーキを口に入れたら、母さんがまた激高する。

「あんた!ケーキは最後よ!」

 だったら最初からテーブルに並べなきゃいいのに…。

「もうサンタさんに来ないでって言うよ!」

 怒りのおさまらない母さんが、あたしの頭をパシッと叩く。痛くて悔しくて、大声で泣く。

「こんな事なら、サンタさんに来てもらわなければ良かった」

 怒り足りず、いつまでもガミガミ怒る母さん。

「もう来年からサンタさん断ろう」

 父さんも言う。姉ちゃんは知らん顔をしている。楽しい気分が台無しだ。

 本当に本当に、不幸だった。


 母さんが、あたしを寝かしつけようとして、トントンと背中を叩き続けていた。そのトントンというのがうっとうしくて寝られない。嫌で泣いているのに、母さんはもっとトントンする。もっと泣いたら、もっと強くトントンする。

 しまいに母さんはやけになり、ひっぱたく勢いでトントンというより、バシバシ叩き続けていた。

 …母さんは、小さい子どもに接してはならない人だった。


 あたしはいつも右側を向いて寝ていた。

 母さんが言う。

「左側を向いて寝なさい」

 何故そうしなきゃいけないんだ。右側を向くと力づくて左を向かされる。嫌なものは嫌だ。右を向くと物でふさぐ。左を向いてほしいなら、そっち側に好きなぬいぐるみを置くとか何とかしてくれればいいのに…。

 母さんは、工夫をしない人だった。


 家事やらなんやらで忙しく、キレそうな母さんが言う。

「もう寝なさい」

 あと一回だけ抱っこして欲しい。しがみつこうとするあたしを、敷いてある布団に向かって突き飛ばす母さん。ひっくり返り、それでも母さんにしがみつこうと、懸命に起き上がるあたしを遮るように、襖がぴしゃりと閉められる。

「母さん!」

 襖を叩き、大声で泣く。襖の向こうで母さんが、あたしが開けられないように力づくで閉め続けているのが分かる。

「かあさーん!」

 あと一回でいい。抱っこして欲しいだけだ。それなのに…。

「かあさああああああああん」

 あたしの叫びは、満たされない心は、届かない。

「かあさああああああああああああああああああん」

 …気が付くと眠っていた。

 母さんは子どもより自分を優先させる人だった。


 母さんが子ども服売り場で、姉ちゃんに買う洋服を選んでいる。

「少し大きめの買っておくわ。すぐ小さくなるから」

と、憎々し気に言いながら、少しどころか随分と大きいのを買っている。

 母さん、洋服が小さくなるんじゃないよ。姉ちゃんとあたしが大きくなっているんだよ。大きくなったら悪いのかよ。その洋服がぴったりになるのに何年かかるんだい?

 母さんは子どもの成長を喜ばない人だった。


 母さんが姉ちゃんの為に冬物のセーターを買ってきた。

「母さんは自分が欲しいものを我慢して、あんたに買ってあげたんだからね」

 恩着せがましく言っている。そのセーターは肌障りが悪い上にデザインも色も何もかも姉ちゃんの好みではないらしく、姉ちゃんはちっとも喜んでいなかった。

「何よ、あんた!あたしは自分が欲しいものを我慢して買ってやったのに!」

 また切れている母さん。不満そうに黙っている姉ちゃん。

「もっと喜びなさいよ!もっともっと嬉しがりなさいよう!」

 …母さんは相手の立場に立って考える事が出来ない人だった。


 出掛けて遅くなった帰り、母さんと姉ちゃんと3人で夜の道を歩いていた。

 暴走族が通りがてら、

「ねえちゃん!」

と、大声であたしたちに向かって言った。びっくりしたのか、母さんが胸を押さえながら

「きゃあああ!」

とわざとらしく叫んだ。

 …母さんは大人のぶりっ子だった。


 金魚鉢の金魚にふと意地悪してみたくなって、鉢の外側にごはん粒をくっつけた。金魚は鉢の外側という事が分からず、何度も口を開けてご飯粒を食べようとしていた。

 面白がってずっと見ていたら母さんに怒られた。

「あんた、何意地悪しているのよ!ちゃんと食べさせてあげなさいよ!」

 ああそうか、悪かったなと思い、今度はちゃんと金魚鉢の中へご飯粒を入れた。いくらでも食べるから、面白くてどんどんご飯粒を入れた。

 …度が過ぎたらしく、金魚は死んでしまった。

 母さんが怒鳴りまくる。

「あんたが悪いのよ!あんたが金魚を殺したのよ!金魚に謝りなさい!」

 金魚鉢の中で、おなかを上にして死んでいる金魚に泣きながら謝った。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 母さんはそれからもずっと言い続けた。

「金魚殺したくせに」

 …故意ではなく、過失だったのに、居たたまれなかった。


 母さんの財布から、500円札がはみ出していた。すばやくつかみ、自分のポケットに入れた。入れてしまえば自分のものになると思った。

 …母さんが滅茶苦茶に怒る。

「泥棒!泥棒!あんたは泥棒の子だ!」

 …早くお金を貯めて、一刻も早くこの家を出たかったのだ。子どもでありながら、家を出たがる気持ちなんて、誰にも分からないんだろう。母さんは、それからも

「またお金が無くなったら、真っ先にマリを疑えばいいわ」

だの

「家の中に泥棒がいるなんて、油断も隙もないんだから」

と言い続けた。

 …確かに故意だったが、家を出たいという理由があってこその事だった。それに未遂で終わったのに、いつまでも言い続けるなんて…。

 げんなりだった。


 たまには褒められたいなって思った。

 だから家の鍵を食卓の真ん中にあるミカンの籠の下に隠した。親が騒いだら、ここにあるよと出して、よく見つけてくれたねと褒められたかった。

 …外出寸前の父さんと母さんが、鍵がないないと大騒ぎし、あちこち探し回り、疲れ果てたタイミングで得意げに差し出したあたしを、褒めるどころかひっぱたいた。

「なんでこんな事するのよ!」

 ふっ飛ばされ、動揺しながらも必死に言い訳を考えた。

「鍵さんを、かくれんぼさせていたの」

 …やはりあたしは異常児扱いされるばかりで、決して愛されなかった。


 その翌日、父さんが自分のテニスラケットがなくなったと騒ぎ出し

「こんな事をするのはマリに違いない」

と決めつけられ、激しく責め立てられた。

 テニスラケットをどこに隠したか言え、さあ言え、と何度も殴られた。

 知らないと泣いて訴えるあたしを、父さんは何度も殴り、蹴り、首がガクガクになる程揺さぶり、母さんは痣になるほどきつくつねり上げ、何とか隠し場所を吐かせようとした。白状するまでご飯は食べさせないと、その日の昼食も夕食も食べさせてもらえなかった。本当に知らなかったので、白状のしようがなかった。

 二人が口々に言う。

「俺は知らないし、母さんも知らない。お姉ちゃんがそんな事する訳ない」

「そんな事するの、あんたしかいない」

「じゃあ誰が隠したんだ。言ってみろ!さあ言え!」

「泣き落そうったって、そうはいかないわよ!」

 …夜、寝る少し前になり、姉ちゃんが箪笥の後ろを見て言った。

「ラケット、そこに落ちているよ」

 父さんと母さんは急に笑い出した。

「なあんだ」

なんて言っている。散々いたぶったあたしに、ごめんの一言もない。

 母さんは開き直ってこう言った。

「あんたがラケットをかくれんぼさせたのかと思ったのよ」

 父さんは言った。

「お前は普段が普段だからな」

 やっと出された食事は何の味もせず、容疑が晴れても全然嬉しくなかった。


 よく子どもは親を憎めない生き物と言うが、当時のあたしがまさにそうだった。

 どんなにいたぶられても、理不尽な扱いを受けても、やはり親が好きだった。

 この親があたしを愛してくれれば、と思っていた。

 そう、この親があたしを愛してくれれば。愛してさえくれれば…。

 いつもいつも念じるように、心の底からそう思っていた。

 そんなあたしを母さんはよく脅したよ。

「マリ、あたしの言う事を聞かないなら、あんたの耳をちぎり取って、あすこにいる野良猫にやってしまうよ。それでもいいの?あの猫、喜ぶよお」

 あたしは窓から見える野良猫を見ながら、そうかなあ?と思った。あの猫が、あたしの引きちぎられた耳なんかもらって喜ぶかなあ?

 あたしの頭の上には、大きな疑問符が乗っかっていた。


 母さんが絵本を読んでくれた。だが内容は、親の言う事を聞かない子どもがおばけにされ、おばけの国へ連れていかれる話だった。読み終え、母さんはじっとあたしを見据えて言った。

「あんた、おばけになって、おばけの国へ連れて行かれたいの?」

 …返事のしようがなかった。

「あんた、あたしの言う事聞かないと、おばけにされておばけの国行きだよ」

 …そうかなあ?あたしの頭の上は、また大きな疑問符が乗っかっていた。


「マリ、あんたみたいな子は施設に引き取ってもらうよ」

 母さんが電話の受話器を上げる。連れて行かれたのではたまらない。慌ててフックを押し、阻止しようとする小さなあたし。母さんがにやりとしながら言う。

「あたしの言う事、聞く?」

 仕方なく頷く。ご満悦って顔で受話器を置く母さん。

 母さん、その施設の電話番号知っているのかなあ?

 あたしの頭の上は、さらに大きな疑問符が乗っかっていた。


 夢中で好きなテレビ番組を見ている時に、遠くから何だか声がするけど気にならない。…ってか、聞こえちゃいなかった。

「マリッ!マリッ!」

 母さんのヒステリックにわめく声が遠くに聞こえる。

「聞こえないのっ?マリッ!マリッ!!」

 あたしの関心はテレビにしかない。

「マリッ!いつまであたしを無視すれば気が済むの?」

 ああ、この歌大好きだな、きれいなお姉さんの歌をうっとりと微笑みながら聞くあたし。

「マリッ!どこまであたしを馬鹿にするのっ」

 気がつくと、目の前に母さんが怒り心頭で立ちはだかっていた。

 はて?今初めて気がついたよ。本当に。凄まじい勢いで顔を何度もひっぱたかれる。

 痛い。どうして?訳が分からないまま母さんを見上げる。

 母さんが目を吊り上げたまま電話機へ突進し、受話器を上げる。

「マリ、あんたを施設に連れて行ってもらうよ」

 黙ってじっと見ていた。母さんはあたしを睨みつけたまま、受話器を耳に当てているだけで、決してダイヤルを回そうとしない。

 …やっぱり施設の番号なんか知らないんだ。

 殴られた頬だけがジンジン痛んでいた。


 好きなテレビを見ていたら、母さんが急にチャンネルを変えた。

 そんな、酷い。必死に抵抗したが、母さんは譲らない。

 あたしの顔を力づくで、畳にごしごしとなすりつける。痛い、やめてくれ。

「テレビは大人のものです!」

 いちばん子どもなのは母さんだった。


 姉ちゃんと喧嘩になった。

「あんた、バナナをつまみ食いしてたでしょ」

なんて、せせら笑うから。

 馬鹿にするな!あたしの方が小さいけど、悔しいからやり合う。髪をひっぱったり、叩いたり、きょうだい喧嘩は止まらない。

 そりゃあ子どものうちは、どこの家庭でもよくある話だ。ただムカついたのは、いつも父さんが姉ちゃんをかばう事。

「お前が悪い!お前が!」

 父さんに殴られた顔がヒリヒリする。何で姉ちゃんばっかりかばうんだよ!もっとムカついてムカついて、張り裂けそうだ。

「これに懲りて二度と喧嘩するな!」

 姉ちゃんに言えよ、何であたしばっかり殴って怒鳴って、おかしいだろ!


 姉ちゃんがあたしのふくよかなほっぺたを、いつもしつこく触る。人差し指と中指でチョキチョキってする。嫌だと言っているのに、どうしてやめてくれないんだろう。

「お姉ちゃんがチョキチョキする」

 泣いて母さんに言っても知らん顔される。今日も姉ちゃんは、にやにやしながらあたしを追い回す。嫌なものは嫌だ。なんてしつこいんだ。


 ひとりでトイレに入るのは怖かった。だからドアを開けて用を足した。

 恥ずかしいから見ないでと言っているのに、姉ちゃんはわざと見る。

「見ないでよう」

 何回言ってもまだ見る。

「見ないでってば」

 まだ見ている。しまいにお尻のほっぺたもチョキチョキするのか?


「脱ぎ脱ぎポン!」

そう言いながら洋服を脱ぎ、高く放り投げる。

「可愛く言えばいいってもんじゃないよ」

 母さんが床に散らばる洋服を拾い集め、洗濯機に入れながら言う。

「脱ぎ脱ぎポン!」

 パンツを放り、いざ風呂場へ。母さんが仕方なさそうに笑う。

 ほんのりと、幸せだった。


「母さん、喉が乾いたからジュースを頂戴」

 姉ちゃんが言う。母さんが冷蔵庫からジュースを取り出し、コップに注いで姉ちゃんに渡す。

 あたしも真似して言う。

「母さん、喉が乾いたからジュースを頂戴」

 母さんが慌てたように言う。

「もうその一杯で終わりだから、二人で分け分けしなさい」

 …何でも可愛く言えばいいってもんじゃないよ。

 不幸も分け分けしてくれるのか?


 公園で姉ちゃんが得意の竹馬に乗り、高い位置からあたしを見降ろす、

「マリ、あんた出来ないから悔しいでしょ」

 憎まれ口も漏れなく付いてくる。厭味ったらしい奴だ!だから言ってやった。

「パンツ丸見えだよ」

 そしたら怒って竹馬から降り、あたしの頭を固い竹馬で遠慮なく叩くんだよ。痛いよ、もう!

 走って家に帰り、泣きながら父さんに訴えた。

「お姉ちゃんが竹馬で叩いた」

 帰ってきた姉ちゃんを父さんが珍しく咎める。

「お前、竹馬で叩くなよ」

 へえ、竹馬みたいな固いもので叩いた場合は、あたしをかばってくれるんだ。


 姉ちゃんがスリッパを触ってから言った。

「あ、汚い。スリッパなんか触っちゃった」

 そしてその手をあたしの顔になすりつけるんだよ!きたねーだろ!

 頭に来てまた喧嘩が始まる。この前のお返しだ。フライパンで頭を思い切り叩いてやった。へへ!ざま見ろ!

 …と思ったら、父さんが飛んできてあたしを吹っ飛ばした。

「フライパンで叩くな!」

 あ、そうか。父さんは遅番でまだ家にいたんだった。そしてフライパンは固かった。


 今日は父さんが会社に行っていて家には居ない。ざまみろ、お前をかばってくれる奴はいないんだ!姉ちゃんと悪口の言い合い、取っ組み合いの大喧嘩、どんどんエスカレートしていく。

 そしたら母さんがやってきてぺたりと座り込み、芝居がかった口調でこう言った。

「たった二人のきょうだいじゃないですか、どうして仲良く出来ないんですか」

 そして泣き崩れる。自分だって年がら年中、たったひとりの夫と喧嘩しているくせに。

 …その日の夕飯の時に、あたしは父さんに言ってやったよ。

「母さん、今日泣いたんだよ」

 母さんがやおら怒りだす。

「何よ!親を馬鹿にして!」

 そのままベランダに蹴り出され、泣いてもわめいても入れてくれなかった。父さんも姉ちゃんも、知らん顔だった。

 泣き崩れた事も、ベランダに放り出した事も、親が子どもにする行為ではなかった。


 父さんが会社の飲み会でしたたかに飲み、酔っぱらって帰って来た。へべれけになり布団へ倒れ込んだ父さんを、母さんが洗面器を持って看病する。

「は、吐く」

と言って父さんは、その洗面器に吐く。

 …何故トイレで吐かないのか?何故酒に弱いのに飲むのか?不思議でたまらない。


 友達の家に遊びに行った。そしてびっくり!そこのお父さんもお母さんも、その友達にすごーくすごーく優しいの!家に帰ってから、父さんと母さんに興奮したまま言ったよ。

「エミちゃんのお父さんとお母さんはね、エミちゃんにすごーく優しいんだよ」

「だから?」

 母さんがそっけなく言う。

「だから、すごく優しいんだよ」

 父さんと母さんもあたしに優しくしてくれよ、って言いたかっただけだ。

「そんなにその家が良いなら、その家に行ってその家の子どもになればいいじゃない」

「そうだ、今すぐそうしろ、今すぐ出ていけ」

 …そんな事、出来る訳ないじゃん。


 母さんが自分の友達の家に遊びに行った。帰ってから興奮気味にこう言う。

「ミネコさんの旦那さんはミネコさんにすごく優しいのよ。子どもたちはすごく優秀で良い子たちなのよ」

 弁の立たない父さんとあたしは黙っていた。姉ちゃんは呆れ顔で知らん顔している。

「だから、ミネコさんの家族はすごく良い家族なのよ。旦那さんは家事を手伝うし、子どもたちは良い学校に行っているし」

 …そんなにその家が良いなら、その家に行き、その家の主婦になれば良いだろう。あたしは心の中で呟いた。父さんも、そう顔に書いてあった。姉ちゃんは、そっぽを向いたままだった。


 母さんとデパートへ行った。

 手を握ると喋る人形が売っていた。夢中で何回も手を握ると、おはようだの、ありがとうだのと喋る。魅力的だ。是非とも欲しい。

 母さんは言った。

「人形なら沢山持っているでしょう」

 どうしても、どうしても欲しい。しゃがみ込んで泣きわめいた。

「うるさいなあ、もう行くよ」

 母さんが冷たい背中を向けて行っちまう。泣きわめきながら追いかける。

 …あの人形が忘れられない。ぶーぶー文句を言いながら付いていく。母さんが呆れ顔で言った。

「そんなに欲しいの?」

 うんと頷く。

「買ったら母さんの言う事、ちゃんと聞く?」

 買ってもらえるなら、と頷いた。

「しょうがないわね」

 母さんはわざわざ人形の売り場まで戻り、その喋る人形を買ってくれた。

「はい、マリ」

と、渡される。その瞬間思ったよ。

「あれ?そんなに欲しくもなかったな」


 母さんと雑貨屋の前を通った。

 パンダの形をしたカバンが売っていた。急に欲しくなり、そこから動けなくなった。

「いいよ、カバンなんて」

 母さんは買ってくれそうにない。

 どうしても、どうしても欲しい。しゃがみ込んでギャーギャー泣きわめく。

「うるさいなあ、もう行くよ」

 母さんが、また冷たい背中を向けて行っちまう。ギャーギャーわめきながら追いかける。

 …あのカバンが忘れられない。ぶーぶー怒りながら付いていく。母さんが呆れ顔で言う。

「そんなに欲しいの?」

 うんと頷く。

「買ったら、お菓子の前にご飯、ちゃんと食べる?」

 また何かと引き換えかよ、と思ったが頷く。

「しょうがないわね」

 母さんはわざわざ雑貨屋まで戻り、そのパンダの形のカバンを買ってくれた。

「はい、マリ」

と、渡された瞬間、また思ったよ。

「あれ?そんなに欲しくもなかったな」


 母さんと駅へ続くショッピングセンターを通っていた。

 好きなキャラクターのシャツが売っていた。自分が着たらきっとかわいいと思った。

「いいよ、時間ないから行こう」

 どうしても、どうしても欲しい。またしゃがみ込み、あらん限りの声で泣きわめく。

 母さんが困った顔で言う。

「向こうでお行儀良くする?」

 よくそう交換条件ばかり出てくるな、と思ったが頷く。

「しょうがないわね」

 母さんが買ってくれた。

「はい、マリ」

と、渡された瞬間、またまた思った。

「あれ?そんなに欲しくもなかったな」


 そう、あたしはただ意地になっていただけだった。


 あたしは喋る人形も、パンダの形のカバンも、好きなキャラクターのシャツも、全然大事にしなかったよ。「そんなに欲しくなかった」からね。

 母さんが呆れて言う。

「あんた、我がままね。せっかく買ってやったのに、ちっとも大事にしやしない。すぐ放り出すんだから」


 食卓で家族が座る位置は決まっていた。あたしの右隣に父さん、その正面に母さん、あたしの正面に姉ちゃん。

 母さんは食事の後、デザートと称していつもお菓子を出してきた。4つ入りのおまんじゅうとか、4つ入りのシュークリームとかね。

 大抵、母さんがまずご飯を食べ終わり、最初にお菓子の袋を開けて自分がひとつ食べ、父さんに残り3つ入ったお菓子を、袋ごと父さんにハイと渡す。父さんが、いつもいつも「ふたつ」食っちまい、あたしにハイと渡す。

 …あたしは毎回困惑しながら、自分は食べずに姉ちゃんに渡した。母さんは気づかないのか、知らん顔で後片付けを始める。姉ちゃんは当然って顔で、最後のひとつを食べる。

 4人家族で4つだったら、普通ひとりひとつずつだろう。そんな簡単な事は、幼児のあたしにも分かったが、父さんには分からなかった。必ずふたつ食べ、あたしにひとつしか菓子の入っていない袋をハイと渡す。あたしが食ったら姉ちゃんの分がなくなる。あたしは食べずに黙って姉ちゃんに渡し続けた。

 あたしが家族に気を使っている事に、3人は気づかなかった。我がまま呼ばわり、おかしな子ども扱いされるばかりだった。


 デザートのブドウを手に取ったら母さんが言った。

「それ父さんのよ」

「なんだ」

と言って置いたら母さんがせせら笑いながら言う。

「嘘よ、あんた食べな」

 …もう食べる気しないよ。なんでそう意地悪かねえ。


 もうすぐあたしの誕生日だ。母さんが言ってくれた。

「マリ、何か欲しいものある?」

 確信に満ちて即答した、

「才能」

 母さんが、はっとした顔をする。そしてしばらくしてから、独り言のようにこう言った。

「この子は、怖いわ」

 何が怖いんだろう?たまらなく不思議だ。


 大人になったら本を書く人になりたいと思っていた。当時、本を書くのは本屋で働いている人だと思っていた。

「マリ、大きくなったら本屋で働く」

と言ったら母さんが言った。

「小さい夢ね」

 …否定された。


 父さんが勤める会社のパンフレットを見て

「マリ、大きくなったらスチュワーデスになる」

と言ったら、母さんが言った。

「頭悪いから駄目じゃない?」

 …また否定された。


 テレビのニュースを見ている時に

「マリ、大きくなったらアナウンサーになる」

と言ったら、母さんが言った。

「なまりがあるから駄目じゃない?」

 …またまた否定された。


 美容室の前を通った時に

「マリ、美容師になる」

と言ったら、母さんが言った。

「いちばん大変な仕事よ」

 …絶句した。


 交番の前を通った時に

「マリ、お巡りさんになる」

と言ったら、母さんが言った。

「いちばん大変な仕事よ」

 この世の中に「いちばん大変な仕事」がふたつあるのかと思った。


 幼稚園の前を通った時に

「マリ、幼稚園の先生になる」

と言ったら、母さんが言った。

「いちばん大変な仕事よ」

 世の中に「いちばん大変な仕事」はたくさんあるらしかった。


 母さんは、あたしの夢や可能性を、毎度毎度丹念に潰していく人だった。


 組み立て式のおもちゃを前に、どうすれば組み立てられるのか考えていた。母さんがあたしの手からそのおもちゃを力づくで取り上げ、さっと自分で組み立て、あたしによこす。

 …自分でやりたかったのに。泣いて抗議するあたしに母さんは言った。

「あたしがやった方が早い」

 母さんはあたしが「自分で考える力」も潰した。


 折り紙を前に、どうすればいいか、工夫しようとしていた。母さんが横から手を出し、あっという間に仕上げ、あたしによこした。

 …自分で工夫したかったのに。悔し泣きするあたしに母さんがまた言う。

「あたしがやった方が早い」

 母さんはあたしが「工夫する力」もあっさり潰した。


 シャツのボタンを自分で止めようと苦戦していた。上から止めて行こうとしたら、母さんが鋭い声で言う。

「下から順々止めていきなさい」

 いったん止めたボタンを外そうとしたが、なかなか外れない。母さんが家事を中断して、怒り顔のままツカツカとやって来る。そしてあたしの手を強引に振り払い、あっという間に外し、あっという間に下からどんどん止めていった。

 …自分でやり遂げたかったのに。俯くあたしに母さんがもっと鋭い声で言う。

「あたしがやった方が早い」

 母さんはあたしが「最後までやり遂げる力を持とうとする」のも見事に潰した。


 母さんが姉ちゃんとあたしに時計の読み方を教えてくれた。

 姉ちゃんは混乱してなかなか覚えられなかったが、あたしはすっと頭に入った。

「今、何時?」

と母さんが聞くたびに、姉ちゃんは困った顔で黙っていたが、あたしは毎回正確に答えられた。

「この子は覚えがいいわ」

と、珍しく満足そうな母さん。姉ちゃんには

「マリに分かるのに、何であんたには分からないのよ」

と不満げに言っている。

 母さんがひとつだけ潰さないものがあったのが、たまらなく新鮮だった。


 父さんと母さんがまた喧嘩している。

「皿の一枚も割りたいよ」

と怒り口調の母さん

「そんな事して何になるんだよ」

 困り顔の父さん。

「家も買えないなんて」

 母さんが我がまま全開で言う。

「家なんてどうだっていいだろう。俺はこのまま社宅暮らしでいい」

 父さんが平気で言う。

「家が欲しい、家が欲しい。うちのお母さんも言ってた。借家人根性になるから、持ち家に住んだ方がいいって、そう言ってたもん」

 母さんが半泣きで言う。

「毎日毎日そればっかり。お前は家キチガイだ。こっちが頭おかしくなりそうだよ」

 父さんが呆れて言う。

 あたしは父さんが正しいと思った。


 父さんの妹一家が家を買った。お祝いに、4人でお土産を持って遊びに行った。

 いとこたちと庭で遊び、その家のリビングに戻ると、出された酒に酔った母さんが呂律の回らない口でこう言っていた。

「うちは、家も買えない」

 父さんが嫌そうにしていた。叔母さんが慰めていた。叔母さんの旦那さんは、どう接していいか分からないって顔をしていた。家なんか、どうだっていいのに…。

 よその家で出された「ただ酒」に酔い、父さんに甲斐性がないと、父さんの妹夫婦の前でさらけ出す母さんが、子どもながらに恥ずかしかった。

 …帰り道、不機嫌な父さんと、ようやく酔いがさめた母さんと、きまり悪そうな姉ちゃんと、駅の構内を歩いていた。

「母さん、恥ずかしかったよ」

 姉ちゃんがたまりかねたように言うと、母さんが振り返り、厚顔無恥って顔で言った。

「だって本当の事じゃない、何が悪いの?あたしは被害者よ」

 そしてまた冷たい背中を向けてさっさと行っちまう。父さんが姉ちゃんに声を荒げる。

「お前、余計な事、言うなよ」

って、言う相手が違うだろう。母さんに言えよ。あたしは姉ちゃんが正しいと思ったよ。

 行きかう人たちが、あたしたち親子に好奇の目を向ける。その視線に、なおさら苛立った父さんが言う。

「みんなの前で殴ってやろうか?」

 そんな事したら恥かくの自分だよ。警察呼ばれちゃうよ。

 父さんと母さんはどっちもどっち、最悪夫婦だった。


 父さんは同じタオルを何回も使う人だった。汚くて、あたしはそれが嫌だった。あたしが毎回新しいタオルを使うと、父さんはこう言った。

「お前、タオルを何枚も使うな。お前はタオルキチガイだ」

 タオルなんて洗濯すればいいだろう、と思った。


 湯上がりにフェイスタオルを二枚使った。髪用、体用だった。我が家にはバスタオルというものがなく、安物の(つまり薄っぺらい)フェイスタオルでは拭ききれなかったからだ。タオルを入れる棚の真ん中の段が空になったが、取るに足らない事だろうと気にしなかった。

 …あたしの次に風呂に入り、出てきた父さんが凄まじい勢いで怒鳴った。

「お前!タオルを10枚も20枚も馬鹿のように使うな!真ん中の段、空っぽじゃないか!」

 …たったの二枚使っただけで、そんなに怒鳴られるなんて…。タオルなんてどうでもいいだろう。そんな些細な事で怒鳴りまくる父さんが、ちっぽけに思えてならなかった。

 タオルキチガイは、父さんだった。


 朝、枕もとで目覚まし時計が鳴っていた。あまりに熟睡していてなかなか気が付かなかったら、父さんが子ども部屋の襖を凄まじい勢いで開けて怒鳴った。

「やかましい!目覚ましを1時間も2時間も鳴らすな!」

 慌てて止めたが、鳴っていたのは1分足らずだった。

 いちばんうるさいのは目覚ましではなく、父さんだった。


 うちは風呂の水を溜める時に、一定の量にたまったらピピピと音が鳴る装置を使っていた。ピピピと鳴ると、父さんはいつも転がる勢いで風呂場に突進してその装置を止めた。

 ある時、父さんがトイレに入っている最中にその装置が鳴った。

 ピピピピピ…。装置が鳴っている。

 父さんはウンチの最中だったのか、ドアを開き顔だけ出して(中で尻も出していたのだろうが)叫んだ。

「おーい!」

 母さんと姉ちゃんとあたしは知らん顔だった。

 父さんが叫び続けている。

「おーい!おーい!おーーーーーーーーい!」

 必死に叫んでも家族に知らん顔される。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピ…。装置は鳴り続けている。

 いつまでたっても止まらない装置に焦り、いつまでたっても知らん顔している家族にじれ、急いでお尻を拭いて水を流し、慌てて手を洗い、窓を開け、それこそ転がるように風呂場へ走る哀れな父さん。

 装置もうるさかったが、父さんの諦めきれず緊迫したように叫び続ける「おーい」という声も本当にうるさかった。やっと装置を止めた父さんがひとりで怒り狂う。

「お前たち!どうして止めてくれないんだよ!」

 …父さんが止めるだろうから放っておいただけだ。


 テレビのコマーシャルで、暖房器具の宣伝をやっていた。映像の最後に「井上暖房」と、その会社の名前が大きく出ていた。

 その頃、我が家は社宅の二階部分で暮らしていたのだが、真下に住む一家が引っ越してしまい、空き家になった途端にうちはむやみに冷えるようになっていた。

「やっぱり下に人が住んでいるといないとでは違うね」

と、母さんが言う。

 …しばらくしてうちの真下に井上さんという一家が引っ越してきた。その途端、井上さんが付けているらしい暖房のお陰で我が家の床もまあまあ温かくなった。

「やっぱり下に人が住んでいると良いね。温かい空気って上にいくから、うちが温まる」

と、母さんがお得げに言う。

「井上暖房だ」

と、父さんが嬉し気に言う。

 …井上さん、有難うねえ。お陰で珍しく父さんと母さんの意見が合っているよ。


 家が揺れている。

「地震!地震!」

 父さんが騒ぐ。まだ家は揺れている。

「地震!地震!地震!」

 父さんが叫び続ける。あんたが騒いだって地震がおさまる訳じゃないだろう。母さんと姉ちゃんとあたしは知らん顔だった。揺れがおさまったら、父さんも黙った。 

 …ああ、やっと静かになった。


 台風が来た。家の中から4人で、荒れ狂う外を「黙って」見ていた。

 …台風でも騒ぐかと思った。


 母さんが風邪を引いた。家事が出来ず寝ている母さんに父さんが言う。

「もう治ったろ?」

 早く起きて家事をしろと言わんばかりだった。

 …優しくない人だった。


 父さんが風邪を引いた。黙って寝ていればいいものを

「おーい、熱が下がらんよ」

と言う。母さんが風邪を引いた時は

「もう治ったろ?」

で済ますくせに。要するに甘えているんだろう。

「おーい、熱が下がらんよ」

 まだ言っている。こっちも言ってやろうか?

「もう治ったろ?」

って。


 水疱瘡になった。

 最初に、胸の真ん中にぽつりと赤い出来物が出来、それがだんだん全身に広がり、へべれけになって寝ているしかなくなった。母さんが看病してくれた。だんだんおさまり、最後に胸の真ん中の赤い出来物が治るとあたしは元気になった。

 …良かった。


 おたふく風邪になった。両方の頬が痛くてたまらず、笑う事さえ出来ない。

 それなのに、ぐったり寝ているあたしを、わざと笑わす意地悪姉ちゃん。何回も上から覗き込み、こう言う。

「アババのバー」

 …痛いっつってんだろ!


 麦茶に氷を入れて飲んだ。飲みきれず、洗面所に捨てたら排水溝に氷だけが残っちまった。そのうち溶けるだろうと放っておいたら父さんが言った。

「洗面所に石が詰まっているぞ」

 石じゃないよ、氷だよ。石ころは父さんだよ。


 父さんが会社に行く支度をし、時間が余ったらしくソファに座っていた。

「行ってらっしゃい」

と言うと

「まだ行かない」

という答えが返ってきた。

 …その5分後、父さんは出勤していった。

 普通に、うん行ってくる、と言えばいいものを、父さんはわざわざ言葉をこねくり回す人だった。


 父さんが飴を続けざまに食べていた。普通、飴は舐めるものだろう。だが父さんは口に入れてすぐにガリガリ噛んでしまう。そして次の飴を口に入れる。

 母さんが言った。

「太るよ」

 父さんが間髪入れずに言い返す。

「こんな小さな飴で太るもんか」

 …飴の体積だけ贅肉がつく訳じゃないだろう。


 食料品の買い物から帰って来た母さんが言った。

「マリ、しまうの手伝ってよ」

 アイスクリームを「冷凍庫」にしまおうとしたら、父さんが言った。

「お前、馬鹿じゃないのか?冷凍庫なんかに入れたら固まってしまうじゃないか」

 アイスクリームを「冷蔵庫」に入れたら溶けてしまう。幼児のあたしに分かる事が、父さんには分からないらしい。

 …馬鹿は父さんだった。


 食料品の買い物から帰って来た母さんが、目を輝かせて言った。

「誰かが買って、忘れていったアイスクリームが置いてあったのよ。あたし、もらって来ちゃったわ」

 …毒でも入ってるんじゃないの?あたしは決して食べなかった。母さんは嬉しそうに食べていた。父さんと姉ちゃんは、仕方なさそうに食べていた。

 貧乏って嫌だなと思った。


 我が家は風呂を沸かすのは一日おきと決まっていた。ガス代と水道代を節約する為だ。

 その残り湯も必ず洗濯に使うと決まっていた。勿体ないからだ。

 父さんが二日続けて風呂に入ると、母さんは凄まじい勢いで怒った。

「今日はそんなに汚れたの?今日はそんなに汚れたのっ?」

 …貧乏って本当に嫌だなと思った。


 父さんがテレビの真ん前に座椅子を置き、イヤホンをつなぎ、至近距離で黙って見ている。画面では、おっぱいを出した女の人がダンスをしていた。

 父さんの目が、嫌らしくにやけていた。口元も、だらしなくにやけていた。

 台所で母さんが笑いながら姉ちゃんとあたしに言う。

「父さん、あれで隠しているつもりなのよ」

 …変な夫婦だった。


 駅前の広場に女の子の銅像があった。父さんが傘の先端で銅像のお尻を指してこう言った。

「尻」

 物凄く、嫌らしい感じがした。


 父さんが風呂に入れてくれた。

 …が、あたしの体の洗い方がとてつもなく嫌らしく、子どもながらに淫靡なものを感じた。

 なんでそんなにねちっこく股ばかり洗うんだろう。しかもあかすりを使わず素手で洗うんだよ。わずかににやけているし…。

 …変な父親だった。


 父さんは朝、あたしたちを起こす時に必ずお尻に手を当て、ゆさゆさ揺すった。

 …何で必ずお尻を触るんだろう。

 本当に変で、迷惑な父親だった。


 父さんが、肩がこったと言ってあたしに揉ませる。黙って揉むと、すぐ居眠りしてポマードべたべたの頭が、前に、後ろに、横に、ガクッと倒れる。

 気持ち悪い。あたしの手にポマードが付いちゃうよ。

 本当に迷惑な父親だった。


 父さんが背中が凝ったと言って畳の上にうつ伏せになり、あたしに踏めと言う。言われるままに乗って踏むと

「おう、そこそこ」

だの

「おう、効く効く」

と喜んでいる。

 …何に効くんだろうねえ。


 父さんが姉ちゃんとあたしをプールに連れて行ってくれた。

 波のプール等で楽しく遊び、ご機嫌でいたら

「もう帰ろう」

と言われた。そんな、まだ遊んでいたいのに。

「帰らない」

と言ったら

「じゃあ勝手にしろ」

と置いて行かれた。

 …しばらくして戻って来る父さん。

「な、マリ、帰ろう」

と懇願するように言う。仕方なくプールから上がる。

 …ロッカーの前で、鍵がないと騒ぎだす父さん。最初は自分のポケットを探していたが、そのうち

「ここか?」

と言いながら姉ちゃんの水着のパンツの中に手を入れた。姉ちゃんは唖然としていた。続いて

「ここか?」

と言ってあたしの水着のパンツにも手を入れ、股間を触った。あたしも唖然とした。

 置いて行った事も、鍵がないと騒ぐ事も、娘のパンツに手を入れる事も、父親がする事ではなかった。

 …この人、嫌だ、とはっきり思った。


 夜、布団を敷いて寝ようとすると必ず母さんが言う。

「あまりものを置かず、道を開けておきなさい。逃げる時に邪魔になるから」

 …何から逃げるの?どこへ逃げるの?よく分からない。

 けれど母さんは毎回言う。

「物でふさぐのをやめなさい、逃げる時に通れないから」

 …空襲でもあるっていうの?焼夷弾でも降ってくるの?防空壕に入るの?

 戦争体験者ならではの価値観だった。


 4人で花見に行った。父さんが運転をして、母さんは弁当を持参していた。

 満開の桜を堪能していたが、いつの間にか父さんと母さんが喧嘩している。原因は分からない。

 あたしは慌てて父さんと母さんの手を取り、くっつけようとしたが、同時に二人に振り払われ(そこだけは気が合うんだなと思った)よろけて転んだ。転んだあたしにまったく構わない父さんと母さん。姉ちゃんだけが、かろうじて助け起こしてくれた。

「俺は帰る」

 父さんがさっさと行っちまう。母さんは父さんの背中を唖然としたまま見ている。しばらく待ったが、父さんは戻ってこなかった。あたしたちを置いて、本当にひとりで帰っちまった訳だ。

 母さんは姉ちゃんとあたしを連れ、電車とバスを乗り継ぎ、家路に向かう。転んだ時に擦りむいた膝が、ズキズキと痛み続ける。

 …その道中、母さんが情けなさそうにこんな話をした。

 父さんと婚約したばかりの頃、結婚式場で担当者と打ち合わせをしている最中に、意見の違いから父さんと母さんが喧嘩になってしまった。

「俺は帰る」

そう言い残し、父さんは母さんを置いてぷいっと帰ってしまった。昔からそうだった訳だ。式場の人も呆れていたらしい。

 その二日後、母さんの家に父さんから電話がかかって来た。

「手紙を送ったが、封を切らずに返して欲しい」

 電話口で父さんはそう言った。母さんが家のポストを見ると、確かに父さんからの手紙が届いていた。きっと酷い事が書いてあったのだろう。母さんは迷ったが、父さんの言う通り封を切らず、次に会った時に父さんに返した。

 父さんは目を伏せながら黙って受け取り、母さんも釈然としない思いを抱えながらも「この人は一流企業の人だから、一流企業の人と結婚できるチャンスはもうないかも知れない」と思って結婚したそうだ。

 その時に思い切って別れれば良かった。気に入らなければぷいっと帰る、怒りに任せて酷い手紙を書き、投函してから後悔して、封を切らずに返してくれと電話をかける、そんな変な人と結婚しなければ、父さんとさえ結婚しなければ…。

 母さんは疲れ切った顔でそう言った。うん、あたしもそう思うよ。

 …帰り着いた家では、知らん顔の父さんが座椅子の形通りになってテレビを見ていた。苦労して帰ったあたしたちに、ごめんの一言もない。

 あたしたちは家族であって、家族でなかった。


 4人で海に行った。父さんが運転をして、母さんは弁当を持参していた。

 車から降りた時、母さんが父さんに手を伸ばしこう言った。

「車の鍵、落とすといけないからあたしが鞄に入れて持ってるわ」

 父さんは何の疑いもない顔で、車の鍵を母さんに渡した。鍵を鞄に入れた母さんが、何故か勝ち誇った顔をして海へ向かって歩いて行く。

 海では貝を拾ったり、砂で山を作ったり、最初は楽しく過ごしていたが、はっと気が付くと父さんと母さんがまた喧嘩している。原因はまったく分からない。

「俺は帰る」

 父さんがさっさと行っちまう。母さんは父さんに背を向けたまま、何故かニヤリとした。

 母さんは運転が出来ないし、唯一運転できる父さんが車で帰っちまったら、あたしたちどうなるの?また電車とバスを乗り継いで帰るのかな。でもここは駅まで遠そうだしどうするんだろう、と心配しながら、遠ざかる父さんを見ていた。母さんは平気で、まだ貝をほじくったりしている。

 …しばらくして父さんが戻ってきた。車の鍵を持っていたのは母さんだから、自分は車に乗りようがなかったのだ。

「じゃあみんなで帰ろう」

 母さんが言い、4人でぞろぞろ駐車場まで行き、まず姉ちゃんとあたしを後部座席に乗せ、自分が助手席に乗り、それからやっと父さんに車の鍵を渡した。父さんはエンジンをかけながら、ハーハーため息をつく。

 …ドジな父さんに、ずるい母さん。

 やっぱり変な夫婦だった。


 あたしは乗り物酔いが酷い子どもだった。車で出かけると必ず気持ち悪くなるから嫌だった。

「マリね、車、嫌いなの」

と言っても分かってくれない。

 父さんはそのたびに言う。

「そんなに酔うならお前をどこへも連れて行かない。この車は俺の遊び専用にする」

 その方がいい。そうして欲しい。家族で車に乗って出かけたって、酔うばかりで少しも楽しくない。

「お前、遊びに連れて行って欲しければ酔うな」

 …好きで酔っているんじゃない。怒られても酔いは止まらないし、追い詰められているようで尚更つらい。

 父さんは本当に大人げない人だった。


 母さんが買い物に行くのに、荷物が多いから車で行ってくれと父さんに頼み、二人で車に乗って出かけた。姉ちゃんとあたしはテレビを見ながら留守番していた。大荷物と共に帰って来たが、行った先で喧嘩したらしく、二人ともカンカンだった。

「俺の車だ。もうお前たちを乗せない。車は俺の遊び専用にする」

 父さんが高らかに宣言する。俺の家とか、俺の車とか、そんな事ばかり…。

 父さんには家族を養うとか、面倒を見るとか、そういう大黒柱という意識が欠落していた。


 母さんの鞄を持ち、母さんのスカーフを首に巻き、母さんのサングラスを頭に乗せ、ブカブカだけど母さんの靴を履く。そのままの格好で社宅の前に立つ。

 近所のおばさんたちが通るたび、声高らかにこう言った。

「わたくし、今度フランスへまいりますのよ。おほほほほほほ」

 おばさんたちはニコニコ笑いながら聞き流してくれた。

 …それを誰かから聞いた母さんが、顔を真っ赤にして怒る。

「あんた!変な事言わないでよ!おたく、フランスへ行くんですって?って聞かれちゃったじゃない!」

 …仲の良い家族を演じてみたかっただけだ。


 近所で赤ちゃんが生まれた。あっくんって男の子。毎日顔を見に行き

「あっくん、あっくん」

と可愛がった。あっくんのお母さんも歓迎してくれた。

 ある時、あっくんを布団に寝かせようとして、うっかりドスンとやってしまった。大声で泣くあっくん。あっくんのお母さんが泣き続けるあっくんを抱っこして、あたしに冷たい背中を向ける。

「ごめんね、おばさんごめんね」

 一生懸命謝ったが、おばさんは知らん顔だ。

「ごめんね。おばさん、ごめんね」

 何度謝ってもこっちを見てくれない。居たたまれなり、黙って帰る。あたしは二度とあっくんの家に行かなくなった。

 社宅でひとつ、居場所を失った。


 近所の子どもで、いつもあたしをいじめるサトル君という男の子がいた。助けて欲しくて父さんに言ったら

「やっつけてやる」

と言いながら外に出ていき、ちょうど社宅の前にある公園で遊んでいサトル君を捕まえて大声で怒った。

「お前、うちのマリをいじめるな!」

 サトル君はびっくりして逃げようとしたが、父さんはサトル君の腕を掴んで離さない。

「マリちゃんをいじめるのは、僕だけじゃないもん!」

 サトル君が泣きながら言い訳する。

「お前もいじめるな!」

 父さんが怒鳴りつける。

「わああああああああああん」

 サトル君は恐怖のあまり、おしっこを漏らしながら泣き続ける。サトル君のお母さんが走って来て、自分の息子を懸命にかばう。

「子ども同士の事じゃないですか」

 父さんには通じない。

「お宅のサトル君が先にうちのマリをいじめたんですよ」

 父さんがサトル君のお母さんに言う。

「子どもの喧嘩に親が出てくるなんて」

 サトル君のお母さんの言い分は正しかった。そこに居た沢山のお母さんたちも、サトル君のお母さんと同意見という目で、疎ましそうに父さんを見ていた。

 …その日を境に、社宅の子どもたちは、誰もあたしと遊んでくれなくなった。聞こえよがしに

「マリちゃんと遊ばないの!」

というお母さんもいた。

 そういう助け方をして欲しかった訳じゃなかったんだけどなあ。望まない結果になり、父さんが恨めしかった。

 社宅でもうひとつ、大きな居場所を失った。


 あたしのせいで、社宅中で評判の悪くなっちまった父さんと母さんが、不機嫌丸出しで食事をしている。とばっちりを受け、近所の子どもたちに避けられるようになった姉ちゃんも、怒り顔のまま黙って食べている。

 責任を感じ、この気まずい空気を何とかしなくてはと思った。

「今日ね、魔法使いのおばあさんに会ったよ」

って言ったら、馬鹿じゃないって目で3人に見られた。

「本当だよ、金色のウサギを抱っこしてた」

 目を輝かせながら、どんどん話を進める。

「頭の上に丸いわっかを乗せたのって、神様でしょ?神様がマリに良い子だね、良い子だねって何回も言ってくれたよ。マリは神様に褒められたんだよ」

 3人は知らん顔をしている。

「だからマリ、神様にお願いしたの。時間を一週間前に戻して下さいって」

 父さんがサトル君を怒鳴る前に戻りたい、ただそれだけだった。

 …沈黙が流れる。母さんがようやく口を開いた。

「あんた、嘘つくと目がかたちんばになるよ」

 父さんも言った。

「お前は嘘つきだ」

 姉ちゃんが言う。

「シラーッ」

 気まずい空気は、いよいよ気まずくなった。


「子どもは風の子、外で遊びなさい」

 母さんが言う。近所の子たちは遊んでくれないし、家でぬいぐるみ遊びをしていたいのに…。

 仕方なくぬいぐるみを持ったまま外へ行く。サトル君がいない事を何度も確かめながら、近所をほっつき歩く。しばらくして帰ったら母さんが言った。

「誰と遊んできたの?」

「…誰とも遊んでいない」

「誰か誘えばいいじゃない」

「誰を?」

「だから、誰か友達。あーそーびーまーしょ!って言えばいいじゃない」

 そう言う事を言えないんだけどなあ。言う相手もいないし…。

 ただ俯く。


「子どもは風の子、外で遊びなさい」

 母さんがまた言う。あてはないが、ぬいぐるみを抱っこして外へ行く。サトル君や他の子がいない事を何度も確かめながら、また近所をほっつき歩く。帰ったらまた聞かれた。

「今日は誰と遊んだの?」

 また同じ事を言われたくない。だから言った。

「新しい友達が出来たよ。アイコちゃんって言うの」

「あら、アイコちゃんはどこに住んでいるの?」

「ずっと坂を上った所。家に大きな庭があって鶏もいるんだよ」

「へえ」

 母さんは完全に騙されている。

「アイコちゃんのお父さんは社長で、お母さんはケーキを焼くのがうまいんだよ」

「あら、どんなケーキ?」

「大きくて、うんとおいしいケーキ。マリ、たくさん食べちゃった」

「あらあ、良かったわね」

 母さんは満足そうだ。よしよし、これからもこの調子でいこう。


「今日もアイコちゃんと遊んだの?」

 母さんが聞く。

「そうだよ、マリはアイコちゃんの家に行ってきたんだよ」

 母さんが嬉しそうに言う。

「アイコちゃんと何して遊んだの?」

「お庭で遊んだの。鶏がコケコッコーって鳴いてたんだよ」

「あらあ」

 母さんの感心したような顔は変わらない。

「アイコちゃんの家には赤ちゃんがいてね、すごく可愛いんだよ」

「赤ちゃんがいるのね」

「うん!マリ、抱っこしたの」

「男の子?女の子?」

「双子の女の子だよ」

 よしよし、口が勝手に動くぞ。


「アイコちゃんのおうちはこの辺よねえ」

 坂を上りきった母さんが言う。

 まずい、アイコちゃんなんて、あたしの頭の中でこしらえた友達だ。

「大きな庭があって、鶏がいて」

 母さんは、ありもしないアイコちゃんの家を探している。

「マリがお世話になっていますって、会ったらお礼を言わなくっちゃ」

 お礼なんて、そんな事言わなくていい。冷汗がだらだら流れる。

「マリ、この辺でしょう?どこお?アイコちゃんの家」

 母さんが不思議さ満面で言う。

「ねえ、アイコちゃんの家は?」

 …答えられない。

「マリ、ねえアイコちゃんの家は?」

 母さんの顔が迫ってくる。

「ねえ、マリ」

 …だんだん表情が険しくなってくる。

「マリ、嘘だったの?」

 …答えられない。

「ねえマリ、母さんに嘘ついたの?」

 やっとひと声、絞り出した。

「…ごめんなさい」


 それから何日後だったか、鏡を見て自分の目が本当にかたちんばになっているのに気付いた。

 母さんに言うと

「あんたが悪いのよ。あんたが嘘つくから、だから目がかたちんばになったのよ」

と、咎めるつもり全開の口調で言われた。

 嘘をつくのには、それなりの理由がある。そして嘘ってーのは、ついたらついたで苦労もいっぱいある。母さんにはそれが分からなかった。

「もうあんたの言う事なんて、絶対信用しない!」

と、冷たい背中を向けるばかりだった。

 嘘をつかれると悲しいから本当の事を言ってね、とか、本当の事を言うと瞳のきれいな女の子になれるよ等、傷つかない言い方をすることも出来た筈だが、母さんは決してそういう「プラスの言い方」はしてくれなかった。いつもいつも「マイナスの言い方」ばかりして、あたしを責め立て、追いつめるばかりだった。  

 母さんの言う通り、目がかたちんばになったという事は、あたしはもしかして、すごく正直って事じゃないのかな?


 お気に入りのうさぎのぬいぐるみを抱っこして出かけた。しっぽは取れちゃったが、いつも一緒のうさぎだった。公園にしばらく居た。相変わらず、あたしと遊んでくれる子は居なかった。

 さびしさを堪えながら帰ったら、母さんが言う。

「どこ行ってたの?」

 また怒られるのかと思いながら言い訳した。

「うさちゃんのしっぽ、買いに行ったの」

 母さんは仕方なさそうに笑いながら言う。

「あんた、可愛いねえ」

 父さんも笑って言ってくれた。

「お前、可愛いな」

 へえ、二人とも一応あたしの事を可愛いと思ってくれてるんだ、って意外だった。


「あんた、可愛いねえ」

「お前、可愛いな」

 父さんと母さんの言葉が忘れられなかった。是非ともまた可愛いと言われたい。

 洗面所で髪を整え、服を整えてから、台所にいる母さんに聞いた。

「マリ、可愛い?」

 母さんが言う。

「うん、可愛い」

 ソファにいる父さんにも聞いた。

「マリ、可愛い?」

 父さんも言ってくれた。

「うん、可愛い」

 満足だった。あたしは来る日も来る日も、同じ事を父さんと母さんに聞いた。可愛い、ただそう言って欲しいだけだった。

「あんたは小さいうちに死んだものと思っているからね」

と言われた直後でも、震える声で聞いた。

「マリ、可愛い?」

 冷たい背中の母さんには届かなかいらしく、返事はなかった。

 可愛い、たった一言でいい、そう言って欲しかった。


 何日目だったか、母さんに怒鳴られた。

「もううるさいよ!毎日毎日同じ事ばかり言わないでよ!」

 …ただ、愛情を確認する方法として、可愛いかどうか聞きたかっただけなんだけどな。さびしい、悲しい気持ちで口を閉じる。

 それに母さんだって、毎日同じ事、言うじゃん。

「あんたは小さいうちに死んだものと思っているからね」

って。あたしはもう決して

「マリ、可愛い?」

と聞かなくなった。口と一緒に心も閉じた。


 気が付くと、母さんがまた切れている。理由は分からない。ああ殴られる。そう思って、家の中で唯一鍵のかかる場所、トイレへ逃げ込んだ。母さんがドアをキチガイのように叩いている。

「マリ!開けなさい!マリ!マリ!マリイイイイイッ!」

 開けたら殴られる。だから開ける訳にいかなかった。

 しばらくして静かになったので、そっと開けてみたら、母さんがわざわざ椅子を持って来て、トイレの前に座り込んであたしを待ち構えている。まずい。慌てて閉める。

 しばらくしてからまた開けてみたら、じっと睨みながら腕組みしている。まだ駄目だ。また慌てて閉める。

 更にしばらくしてからまた開けてみたら、あたしを見てにっこり笑った。許すって事かな、と思って出てきた途端に、引っかかったなって顔をして、あたしをふんづかまえ、滅茶苦茶に殴った。

 …罠だった。


 その夜は寒かった。あかあかと燃えるストーブに新聞紙を入れたら、ボーボー燃えだした。どうして良いか分からず困っていると、母さんが吹っ飛んできて、あたしから燃える新聞紙を奪い取り、必死の形相でフーッフーッと吹いて何とか消し止めた。…そして滅茶苦茶にひっぱたかれる。

「家が火事になるでしょ!」

 痛くて嫌だったが、その時だけは「何故今自分が怒られているか」と「これからどうすればいいのか」がよく分かった。

 …その日、帰ってきた父さんに母さんがその事を話す。父さんが

「お前、ちゃんと見てなきゃ駄目じゃないか」

と言いだし、また二人が喧嘩になった。

「だってあたしは忙しいし、一日中じっとマリを見ている訳にいかないもん」

「火事になったらどうするんだよ、火は危ないって事をちゃんと教えろよ。教えないのが悪いんだろ」

「あたしが悪いっていうの?」

「だから俺は火事を起こすなって言っているんだよ」

 言い合いしているうちに、二人とも興奮して暴力沙汰になっていった。悲しかったが、その時も「何故二人が喧嘩しているのか」がよく分かった。

 その後、母さんが風呂に入っている間に、試すような気持で父さんに聞いてみた。

「マリが悪い子だから、父さんと母さんは喧嘩するの?」

 違うと言って欲しかった。それは関係ないと。そしてマリは決して悪い子ではないと言って欲しかった。だが父さんは即答した、

「そうだ、お前が悪い子だからだ。だからお前は親の言う事を何でも聞く良い子にならないといけないんだ。分かったな」

 …絶句した。

 父さんが風呂に入った時に、試しに母さんにも聞いてみた。

「マリが悪い子だから、父さんと母さんは喧嘩するの?」

 母さんも即答した。

「そうよ、あんたさえ生まれてこなければ、あたしたちは幸せだったのよ」

 …また絶句した。


 翌日、つまらなそうにあたしとおもちゃで遊んでいた母さんが、急に何か思いついたような嬉しげな顔で、こんな事をあたしに聞いてきた。

「ねえ、マリ。父さんと母さん、どっちが好き?」

 あたしはにこやかに即答した。

「父さん!」

 父さんと母さんに仲良くして欲しい、そう言いたかったのだが、あたしは馬鹿な子どもでうまくそう言えなかった。

 一瞬で母さんの顔から笑みが消える。

「え?」

「父さん!」

 もう一度元気に答えた。だから母さん、父さんと仲良くしてね。そういう思いを込めて言った。

 そんな筈がないと言いたげな母さんが、不思議さと不満さをあらわにしながら、まったく同じ事を聞く。

「父さんと母さん、どっちが好き?」

「父さん!」

 無邪気に答えるあたし。

「父さんと母さん、どっちが好き?」

 また聞く母さん。

「父さん!」

 元気に答えるあたし。

「父さんと母さん、どっちが好き?」

 母さんは、この子はこの質問の意味が分からないのか?という顔をしながら、それこそ30回くらい聞き続けた。

 そのたびにあたしは

「父さん!」

と答え続けた。気持ちを分かって欲しかった。今日父さんが帰ってきたら、お帰りと笑顔で迎えて欲しかった。仕事で疲れた父さんをねぎらって欲しかった。大きな声で、笑顔爛漫で、元気よく言った。

「マリは父さんが好きだよ!」

 母さんが怒り満面で、すっくと立ち上がる。

「マリ、上着を着なさい。マフラーしなさい。手袋も」

 こんな時間からどこへ行くのだろう?不思議な気持ちのまま、母さんの言うままに防寒対策をし、社宅の一階に連れて来られた。

「そこに立っていなさい。もうすぐあんたの大好きな父さんが帰ってくるから」

そう言い残し、階段を上がって行く母さん。

 ガチャリ。家のドアが閉められ、鍵をかける音も聞こえた。

 真冬の寒空の下、あたしはなす術もなく、ただ呆然と立っていた。

 やがて夕闇の中、父さんらしき人が歩いてくるのが見えた。視力の悪い父さんが、あれはマリかな?というような不思議そうな顔で、身を乗り出すような感じであたしを見ながら歩いてくる。すぐ近くまで来て、やはりあたしだと分かった父さんは、ただびっくりしていた。

「どうしたの?」

 答えようがなかった。自分でもどうしてここに立たされているのか分らなかったから。

「母さんに出てろって言われたの?」

 黙って頷く。

「おいで」

 父さんが手を引いてくれた。家のドアを開けると、母さんが台所で夕飯の支度をしていた。母さんは、あたしを寒い目に遭わせておきながら、自分はずっとぬくまっていた訳だ。

 父さんが母さんに聞く。

「マリ、何か悪い事したの?」

 大人のくせに、母さんが拗ねたような顔をする。

 父さんがもう一度聞く。

「マリ、何したの?」

 母さんが開き直ったように答える。

「…だって、あたしよりあんたの方が好きだって言うから」

「は?何の事?」

「マリに、あんたとあたし、どっちが好き?って聞いたら、何回聞いても父さんって答えるの。だから出した」

「そんな理由で子どもを外に出すなよ」

「だって、あんたよりあたしの方がずっとマリの面倒見てるもん。それなのに」

「だったら父さんと母さん、どっちがマリの面倒見てる?って聞けばいいじゃないか」

「それじゃあ嫌だ。あたしが好きって言って欲しいんだもん」

 …あたしはよく分からなかった。父さんを好きだといけないのかな?母さんってあたしを自分の持ち物って思っているような気がする。母さんは子どもを生んだ子どもだった。

 その後、母さんがお風呂に入っている間に、父さんがあたしにそっと言った。

「今度母さんに、父さんと母さんどっちが好きか聞かれたら、母さんって答えなさい」

 滅多に見られない、父さんの優しい顔が嬉しかったよ。

「マリ、父さんが好き!」

 笑顔で答えたら困惑した顔になり、また言った。

「うん、そうだけどね。母さんに聞かれた時だけ、母さんが好きって言いなさい」

「どうして?」

「母さんがやきもち焼くから」

 …訳が分からなくてきょとんとしちまったよ。

 そう、あたしは物凄く頭の悪い子どもだったから。


 翌朝起きたら、もう父さんと母さんの喧嘩が始まっていた。

 原因は母さんが

「あたしは貧乏くじを引いた」

と、ため息まじりに言った事だったらしい。そんな事を言われたら誰だって怒る。何だか母さんって、自ら修羅場を起こしているような気がする。

「何が貧乏くじだ。ここは俺の家だ!出て行け!」

 母さんを拳できつく殴る父さん。痛そうに顔をゆがめながら、姉ちゃんとあたしをチラリと見る母さん。

 父さんは、興奮した顔のまま背広に着替えて会社へ行った。姉ちゃんは、うちの前までくる送迎バスに乗って幼稚園へ行った。家にはあたしと母さん二人きり。

 …すると母さんが、まるで何もなかったようにあたしと遊び始めたのだ。普段は自分の事や家事優先でほとんど遊んでくれないくせに。お昼は買ってきたサンドイッチだったし、おやつはプリンだった。その日はずっと気持ち悪いくらい優しかったよ。でもあたしは母さんが優しいのが、遊んでくれるのが、すごーく嬉しかった。いつもこうだといいな。今日の母さん、いいな。

 姉ちゃんが幼稚園から帰って来た。3人で夕飯を囲む。母さんは相変わらず優しい。姉ちゃんも不思議そうな顔で母さんを見ている。


 そして夕飯後、仕掛けられていた修羅場はスタートした。

「マリ、ここに来なさい」

 あたしはまた優しくしてくれるのかなと期待しながら、母さんの前に駆けていった。

「そこに座んなさい」

 ちょこんと座る。

「はい、どうぞ」

 キャンディーをくれた。お、今日は随分サービスがいいな。ニコニコとキャンディーを食べ始める。

「ねえマリ、父さんと母さんどっちが好き?」

 唐突に言われてドキリとした。

「マリ、答えなさい」

 母さんの顔からは笑顔が消え、じっとあたしを見据えている。


 楽しい気持ちは一瞬で吹き飛んだ。

 母さんは、自分を好きだと言わせる為に、今日一日遊んでくれたのだった。

 その為だけに、サービスしてくれたのだ。

 母さんはまたあたしに罠を仕掛けたのだ。


「今度母さんに、父さんと母さんどっちが好きと聞かれたら、母さんって答えなさい」

 父さんの言葉を思い出す。だが答えられない。


 母さんが諭すように言う。

「マリも見ていたよね?今朝、父さん、母さんを殴っていたよね?」

 仕方なく頷く。

「しょっちゅう殴っているよね?」

 それも仕方なく、というか、もうどっちでもいいという気持ちで頷く。

「父さんと母さん、どっちが好きか言いなさい。早く」

 頭がどんどん真っ白になっていく。ああ、どうしていいか分からない。

 あたしは立ち上がり逃げようとしたが、腕を痛い程つかまれ、強引に振り向かされる。ボトリ、床に落ちるキャンディー。

「父さんと母さんどっちが好き?」

 涙がこみ上げてくる。

「泣いたって駄目よっ!マリ!答えなさい!」

 爆発しそうな心臓がせり上がって来る。

「マリッ!父さんと母さん、どっちが好きっ?」

 母さんの口から、言葉の暴力がどんどん飛び出してくる。

「マリッ!父さんと母さん、どっちが好きか答えなさいっ!」

 つかまれた両腕は折れそうに痛い。

「言いなさいっ、マリ!!」

 強く揺さぶられ、首がガクガクする。

 「マリ!答えなさいっ」

 答えられる筈がない。

「マリ!マリ!」

 揺さぶる事をやめない、やめてくれない母さん。

「マリッ!マリッ!マリッ!マリイイイイッ!」

 そんな母さんは好きじゃないよっ!好きじゃないよう!嫌だよおおお!


 …気がつくと呼吸が出来なくなっていた。

 母さんが強引に、あたしの両手をお祈りするように組ませ、大きな声でお経を読んでいる。

 ってか「怒鳴って」いる。

 うるさくて、嫌で、顔を背けると、もっと顔を近づけ、がなり立てるような大声で、唾を飛ばしながらお経を怒鳴ってくる。目の焦点が合わなくなっているのが、自分でも分かる。

 やめて、そのお経を、手を組ますのも。何もしないで!


 パンッ!パンッ!凄まじい勢いで顔をひっぱたかれる。

 いつもの怒りに任せた暴力とは違う、正気に戻そうとする殴打だ。

 やめて、痛いよ、苦しいよ!叩かないで!何もしないで!


 蛍光灯の下に引きずっていかれ、更に懐中電灯で顔を照らされる。

 ああ、眩しいよ!消してよ!何もしないで!


 顔に水をぶっかけられる。もっと呼吸が止まる。ああ、母さん!あたし死んじゃうよ!何もしないで!


 だらだらと、おしっこが漏れていく。

 最初は股間が温かく、すぐ冷たく湿って不快になる。

 ああ、あたし、また怒られるのかな…?


 ギョロギョロと、さっき食べたものが不快な臭いと共に吐き出る。

 ああ、まだまだ出るよ。

 あたし、どうなっちゃうのかな・・・?


 吐くものがなくなると、今度はごぼごぼと泡が吹き出る。

 これ…何だろう…?


 …次の瞬間、ふっと楽になった。

 あれ?どうしたのかな?

 そこで恐ろしい光景を見た。

 ひっくり返って、水びたしのまま泡を吹いている自分を。


 母さんが「もうひとりのあたし」に向かってわめくお経が、遠くに聞こえる。

 姉ちゃんが心配そうに、白目をむいて痙攣している「もうひとりのあたし」を見ている。

 なす術もなく、ただ不思議そうに見ている。


 あたしは思ったよ。あたしはここにいるのに、なんでそこにもあたしがいるんだろう…?


 それが「幽体離脱」という現象だという事を、ずっと後になって知った。

 耐え難い苦痛にさらされ、体から心を解き放す事で、あたしは自分を守ったんだろう。


 しばらくして、正気を取り戻し、起き上がったあたしに母さんが言ってくれた。

「悪かったね、あんたのお父さんの悪口を言って」

 母さんは

「父さんのご先祖様の霊があんたに降りてきたのよ」

と、まことしやかに説明した。

 そして

「この子は霊感が強いんだわ」

と、霊媒師でも見るような目であたしを見ているし。


 …違うよ、母さん。勘違いしないでくれる?

 母さんがそうやってとことん追いつめるから、だからあたし、おかしくなったんだよ。

 だが、やはりうまく言葉に出来なかった。そう、あたしはまったく弁の立たない子どもだったから…。やっぱり母さんって、あたしを自分の所有物って思っている気がする。


 ただそれ以降、父さんと母さんどっちが好き?と聞かれなくなった事は嬉しかったけどさ。




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