アルハザード戦役1390 ーしかして英雄は色を好むー

黒蛙

1章 終わりの始まり

1章 終わりの始まり 01

 窓から見える夜空が朱い。

 月もなくやや曇り気味の夜空が、まるで夕焼けの如く朱色に染まっている。

 窓辺に立つのは一人の少女だ。

 長いブロンドの髪が窓からの明かりに艶めいており、手入れが行き届いていることが見て取れる。

 視線をやや下方へと下ろすと、海の精ウンディニアの加護を受け、大陸一の港町と評判であった美しい町並みがある。けれども、今彼女の目に映っているのは火の精サラマンディアを称えるがごとく、煌々と輝く朱の光ばかり。

 眼下に大きな湾を見下ろす小高い丘の上にあり、平時では白亜の宮殿と呼ばれていた彼女のいるこの場所も、その白亜に夜空と同じく揺らめく朱を映しているだろう。

 断続的に響く遠雷のような低音に窓ガラスがビリビリと震えると、すがりつくように小さな窓から外を見ていた少女はビクリと体を震わせ、その度に祈るように空を仰ぐのだ。


 ―あぁ、神様どうか。


 果たしてそう祈っているのか、それは本人にしかわからぬ事であるが、その瞳には浅からぬ不安の色がにじみ出ていた。

 戦争だ。

 隣国であり同盟国でもあったリッテンハルト王国が陥落したとの報告を受け、遠からぬ未来にこうなるであろうことは覚悟していた。

 しかし、経験を伴わなぬ覚悟など所詮まやかしの覚悟。

 今この場にある現実を持って初めて知る。自分の覚悟のなんと生ぬるいことか。

 神への祈りとも取れた動作はもしや自己への後悔なのかもしれない。


「姫様失礼いたす!」


 年季の入った太い声とともに、バンと大きく音を立てて少女の背後の扉が勢い良く開かれ、ガチャガチャと金属の擦れる音を立てながら一人の男が部屋へと入ってくる。

 その姿は熊とも見間違えるほどの大柄でありその右目には大きな眼帯。

 王国直属の精鋭部隊であるルイン王国騎士団で、更にその中でもエリート集団と言われる近衛隊の特注の甲冑を身に纏っていなければひと目見ただけで逃げ出す者もいるだろう。

 強引、且つ唐突な登場であったにも関わらず、姫と呼ばれた少女は大きく反応することもなくゆっくりと口を開く。


「騒々しいわ、ディアス近衛隊長。何事ですか」


 乱入してきた男、ディアスが外を見たままの少女の背後にて跪きながら荒れる息を落ち着かせるように大きく息を吐き出した。


「姫様、脱出のご準備を。もはやここは持ちませぬ」

「そう。けれど、私は残ります。話は以上?」


 少女は覚悟した。否、覚悟しなおしていた。

 目の前に広がる炎の光景と、脱出を勧めてくる近衛隊長に、死という言葉について改めて覚悟しなおさざるを得なかった。


「なりませぬ。たとえ王宮が落ちようとも、姫様がご存命であらば国は滅びませぬ。是が非でも落ち延びていただく」


 有無を言わさぬ口調。それは従う者の言葉とは思えぬほどの威圧と、それに隠れるようにした焦燥が含まれていた。

 少女がゆっくりと振り返る。


「そういうことであれば、私よりも先に父上に落ち延びていただきなさい」


 少女の言葉に、ディアスは意を決したように一呼吸分、胸を膨らませ、


「陛下は先程戦死なされた。今ルイン王家の血を引くお方はネイフェルティア様のみ」


 そう、一息に言い放った。

 重要人物である彼女の居場所が察せられる事がないようにと、部屋に備え付けの魔導ランプには火が灯されておらず暗い。それ故に窓の外から部屋へと流れこむ赤の光が逆行となってディアスからは彼女の表情は察しがたい。

 だが、きめ細やかなシルクのドレスに包まれた四肢がピクリと震え、フォークよりも重い物を持ったことが無いような白く細い指がきつく握りしめられている事は見えた。

 20にも満たぬ少女が突きつけられた現実。その心の中は長年彼女に使えていた彼ですら正確にはわからない。が、察することは出来る。

 そして、そんな彼女に対して自分が非情になる必要がある事もまた彼は認識していた。


「…父上がお亡くなりになられたのであれば、尚の事私が逃げるわけにはまいりません」

「姫様、もはや状況は如何ようにもなりますまい。この場は引き、立て直しの機会を伺うも上に立つ者に必要な判断です」

「どのような状況であれ、民を見捨てず兵を率いて戦に赴く事もまた王の義務でしょう」

「…どのようにしても、分かってはいただけないのですな」

「無論です。私も前線に出ます。すぐに私に合う甲冑を探して―かっは」


 もはや話すことはないと言わんばかりに強引に会話を打ち切り、ディアスの横を通り過ぎようとした時、彼女の腹部に太い腕が突き刺さっていた。


「ディ……アス……」


 その腕の主であるディアスが、まるで羽毛が舞うようにゆっくりと崩れていく彼女の細く軽い体を抱える。意識を手放したものの浅く呼吸するたおやかな四肢は彼が身に付ける甲冑の方がよほど重量がありそうだ。


「……お許し下さい、とは申しますまい。―副長!」


 薄い色合いのドレスに身を包んだ彼女を抱きかかえ、ディアスが入り口へと声を掛けた。


「はっ」


 ディアスの声に開け放たれたままの扉から短い返事とともに、ディアスと同じ意匠の甲冑に身を包んだ黒髪の女性が現れた。


「話は聞いていたな?西門はまだ無事であろう。姫様を連れ、アルカディアで脱出せよ」


 短く切りそろえた髪を揺らしながら駆け足で近づく彼女に、ぐったりと力の抜けたネイフェルティアを預ける。体格的にはネイフェルティアと大差のない彼女だが、ネイフェルティアが見た目以上に軽いためか、特に苦にする様子も無く彼女を肩に担いだ。


「義父上―いえ、隊長は如何なさるおつもりで」

「姫様が脱出されたことに気づかれてはならんからな。時間を稼ぐ」

「しかし……いえ、了解しました。近衛隊副長カヤ・ランブルトン。姫様護衛の任、この身を賭して遂行致します」

「宜しい。副長、姫様を頼んだぞ。そして二人とも生き延びるのだぞ……カヤ」

「義父上も……どうかご無事で」


 そう言い残し、ディアスに背を向けてカヤは走り出した。

 その姿に安堵しつつ、ディアスもまた廊下を駆ける。敵の軍はすでに城門を突破し場内に入り込んでいるようだ。まだ遠いながらも金属のかち合う甲高い音と怒号が耳に届く。

 腰に添えた大ぶりの剣をスラリと引き抜きながら、独りごちる。


「任務中は義父と呼ぶなと何度言えば分かるのか…全く。いや、俺も変わらぬか」


 戦闘の声が近い。姫を抱えて走り去った養女のことを振り払うように、剣を一振り、横薙ぎに払いながら、まさしく獣の咆哮の如く叫びを上げる。


「良いか皆の者!この先におわす姫様は命に変えてお守りするのだ!ルイン王国一の練度を誇る我ら近衛隊の力、今こそ存分に振る時ぞ!」


 戦闘の喧騒の中であってもその声は良く響く。おぉ!という返事が各所から上がり、ディアス本人もまた、その喧騒の中へと飛び込んでいった。

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