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 その日、待ち合わせの場所に行くと、彼は既にそこにいた。8月の太陽がギラギラと痛く照り付ける炎天下の中、いつものように無愛想な表情で、あの割れた携帯電話を眺めている。

「自分から誘っておいて遅刻なんて、お前はやっぱり大した奴だよ」

 と、私に気付いた河村さんがお決まりの皮肉言う。

「遅刻って言っても、たった10分じゃないですか。そんなふうに器が小さいと女の子にモテませんよ」

「あいにくだが、もう間に合ってるから結構だ」

 なんですかそれ、自分がもう彼女いるってことわざわざアピんないでくださいよ――なんて、きっと、いつもならそう言っている。けれど私は、上手く言葉を出せずに俯いた。

「ん? なんだよ、ハセ? どうかしたか?」

「……な、なんでもないです! もう、ブツブツ言わないで早く行きますよ!」

「いや、ぶつぶつも言ってないけど」

 眉をひそめる河村さんを放って、私は熱気をあげるアスファルトの上をスタスタと早足で進む。今日、自分がしようとしていることに若干の不安を覚えながらも、とりあえず今だけは彼と一緒に過ごすこの時間を楽しもう。そして、ちゃんと自分の気持ちを確かめようと、心に思った。

 先日、河村さんをデートに誘った。と、いっても“私とデートしませんか”なんて言っても河村さんは絶対に来ないから、単に“ちょっと付き合ってほしいところがある”とだけ言った。もちろん最初は嫌そうだったけれど、なんだかんだで来てくれる彼は、やっぱり優しい人なのだと納得する。

「付き合ってほしいところって、ここか?」

 そうですよっ、と私は振り返って応える。

「うーん、最高。気持ち良いですねー」

 両手を広げてぐーんと背伸びをする。私たちの目の前には、壮大な海原が広がっていた。青い空。白い砂浜。全面に夏の光を受けた海がキラキラとして光っている。やっぱり夏はここに来なくっちゃ。

「お前は相変わらず意味が分からんな」

 やれやれと苦笑する河村さんだったけど、この壮大な夏景色を目にして、なんだか満更でもなさそうだ。

「河村さーん、靴脱いでー、ほらっ、気持ち良いですよー」

 一足先に海に足をつけて、遠くにいる河村さんに手を振った。けれど彼は、いや、俺はいいよ、みたいな素っ気ない態度だ。私は、ムッスリとして波打ち際に立ち尽くす。

 それから、しばらくひとりで波と戯れていたけれど、遂に耐え切れなくなって彼の元に駆け寄った。そして、いやいや言う彼を無理やり引っ張り波打ち際に連れて行こうと試みる。いくら引っ張ってもビクともしない彼は、私のあんまりの必死さに、ぷっと吹き出してから、あっはっはっ、と笑い出した。彼がこんなに大声で笑うのを見るのは初めてだ。私はなんだか嬉しくなって、つられるように一緒に笑いこけた。

 そうして遂に観念した彼は、持っていた鞄をおろし、靴を脱いでから、波のかかるところまでついて来てくれた。そこで海に足をつける彼を、私は驚かせようと思って、背後からぐん、と押してみる。ぐらっとした彼は、よくもやったな、みたいな意地悪い顔をして、私に足でばしゃっと水をかけた。その不意打ちに驚いた体が、ぐらっとして倒れそうになる。けれどそのとき、咄嗟に彼が手を伸ばし、私はその手を見事掴んだ。しかし、立ちなおすことが出来ずに、私たちはそこでズッコケた。バシャンっと大きな音が鳴って、2人で波打ち際に豪快に尻餅をつく。最初、キョトン、としていた私たちは、お互いの顔を見合わせてから噴き出して笑った。涙が出るくらい笑ったのは久しぶりだ。

 河村さんが笑っているのが嬉しくて、自分がこんなに楽しい感情を抱いているのが嬉しくて、また笑って、もっと笑って、私の涙がますます止まらなくなる。遂に私は、そこで力が入らなくなって、立ち上がれなくなってしまう。

「どうした? 大丈夫か?」

 大笑いしていた私が、いきなり嗚咽を漏らして泣きはじめるものだから、心配した彼が私の腕を引いた。突然の私の偏狂に彼は、きっと凄く戸惑っていたと思う。そう思っても、涙は止まらなかった。

「ほら、立てるか?」

 力の入らない私の体は簡単に彼に引かれて、よろり、と脱力して立ち上がる。潮に濡れた髪や服が、ベタベタと肌に張り付く感覚が最悪に気持ち悪かった。

「ハセ?」

 普段とは違う、全く尖りのない声で彼が私を呼ぶ。心配そうに見つめる黒眼に、不細工に泣く私の顔が映った。自分の惨めな姿を嫌悪しながら、けれど、私はそこで何度か深呼吸して、息を整えた。心を決めて震える唇を動かす。

「……か、河村さん、わたし……」

「なんだ?」

「わ、私と……」

 うん、と頷く河村さん。波打ち際で、私の腕を力強く取って、私の言葉をジッとして待ってくれている。

「私と、結婚してください」

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