15
*
「おいっ、ハセっ、メニュー看板、字が斜めになってるぞ。しかも汚い。書き直せ」
「ちょっと、河村さん。その“ハセ”っていうのいい加減やめてくれません? 私の名前、長谷川なんですけど」
「“ハセガワ”なんて呼ぶのに手間だからな。お前はハセで十分だ。いいから早く書き直せ」
私の主張は受け付けられず、河村さんはスタスタと歩いて奥の部屋に入っていった。
アルバイトを始めて1週間が経った。この店の店主である河村さんは私に対して、今の通り相変わらずの非情ぶりである。
(うーん。この字のバランスが難しいんだよね)
スマホの画面で黒板に書かれたカフェメニューの字を参考にしながら、四苦八苦するのが私のオープン前の日課だ。私は字が綺麗な方じゃない。小学校の習字の授業ではお手本を上からなぞり書きして、先生に皆の前で怒られたという苦い過去がある。
(まあ、こんなもんか)
鬼の居ぬ間に書き終えた看板を、ささと店の前に立て掛けに行く。メニューは毎日、河村さんの気分と仕入れの状況で変わるので毎回書き直すのが面倒だ。
戻ってからは、ランチ用にサラダとデザート用のフルーツを切って、午前中の仕事を着々と進める。午前10時になってオープンの札を出した。
ドリンクくらいなら私も作れるので、ランチタイムまでの時間はひとりで店内に居ることが多い。にしても。
(暇だ)
特に平日の午前中ともなれば店内はガラガラ。ぼんやりとしていたら眠くなるし、余力のある私は、その場でラジオ体操を始める。
(1、2、3、4、5、6、ひち、はーち……)
両足を広げて体を思い切り後ろに反ると、体がポキポキ、と気持ちよく鳴る。
(う、うー……、きてる、きてるぅ……)
30を目前にして最近筋力の衰えを感じている私は、健康と美容のために出来るだけ体を動かすように心がけているのだ。
「――おい、お前、いったいそこで何をしている」
あ、ヤベ、見つかった。
「お客様を全力で迎えられるように、準備体操を……」
あはは、なんて。いつの間にか後ろに迫っていた河村さんに苦笑いを返す。手を陶石で汚した河村さんは、私に冷ややかな目を向けたあと、外へと出た。
その背中を見送ったあと“お客様を迎えるための準備体操”の続きを行った。
私がひとりでお店に立っている間、河村さんは奥の部屋で焼き物作りをしている。決して中には入れてくれないが、カウンターの横にある部屋は、焼き物を作るための工房に繋がっているらしい。ちなみに、そこで出来た焼き物は店内で販売をしている他にネットでも購入が出来るとか。
そのとき、カラン、と来客を知らせるベルが鳴った。
「あ、快(かい)くん」
「菜月子さん、お邪魔します。樹さんはいらっしゃいますか?」
「あー、ついさっき出たところで、真奈美さんのところに行ってるのかも」
「そしたら、これ。お願いします。樹さんから頼まれていたものです」
「ありがとう。んー、いい匂い」
受け取った籠には、摘みたてのハーブがたっぷり。なかは爽やかな香りに包まれていた。
河村さんと同じく『風のはら』に店舗を持っている快くんは、自分で作ったハーブの販売をしている。そう、彼は私があの日――河村さんにお金を返しに来た日に、店を覗いていたところ、声を掛けてくれた男の子だ。
「これは、なんていう名前なの?」
「こっちがレモンタイムで、こっちがコモンタイムです。レモンタイムはお茶にしたらピリッとする爽やかなフレーバーが凄く美味しいんですよ。それと、こっちの一般的なコモンタイムは肉料理なんかに使ったら臭みが消えて良い風味が出ますし、煮込み料理なんかもお勧めですね」
小さな緑色の葉をつけたハーブを摘まんで快くんが熱心に説明してくれる。私も興味津々でうんうん、と頷いた。
まだ若々しい彼は26歳で、1年前に仕事を辞めてからここでハーブの栽培と勉強、それらを使ったティーやアロマの販売をしている。若いのに勉強熱心で真面目だし、愛想も良い。好青年の彼は、私のお気に入りである。
「それにタイムは殺菌力もあるんで喉にも良いんですよ。風邪の予防とか。あと、腹痛とか下痢なんかにも」
「え? そうなの!?」
「菜月子さん、もしかして風邪ですか?」
身を乗り出して訊き迫る私に、快くんが尋ねた。
「え、あー……、そうなの。なんだか最近喉がイガイガする、ような……」
「大丈夫ですか? それなら後でまた持ってくるんで、お家でも飲んで下さい」
「あ、いや、でも」
「具合悪いんなら無理しないでください。早めに治すのが先決ですよ」
「うん、ありがと」
まあ、風邪ではないのだけれど。私のお腹は相変わらずだ。昨日も寝る前にベッドの中で元彼のことを思い出してしくしく泣いているうちに、レッツゴートゥーザ・トイレットになってしまった。
向けられた快くんの素直な笑顔に、心がほっこりする。ああ、いい子だなあ、なんてしみじみ思った。
「そしたら樹さんによろしく伝えてください」
「はーい、またね」
そうして、11時を過ぎる頃には『風のはら』にチラホラとお客さんが入る。窓から向かいにある『おにぎりカフェ 大安‐TAIAN‐』を覗くと既に、3組のお客さんが入っていた。
1個220円からのおにぎりはお手頃で、とりあえずひとつ食べてみようかと思いつきやすい。その上、オープンカフェ形式で、外の風景を眺めながら食べるのにも今は、気持ち良くていい時期だ。
『風のはら』のお伽話のような造りは、真奈美さんの趣味らしい。自然体で小洒落た雰囲気は、専ら訪れた人々を魅了する。週末になれば噂を聴きつけた若者たちの姿も多い。にしても。
「……暇だ」
大体、『水黽堂』の価格設定は少し高い。まあ、その分の味は保証するけれど。初めて来る人は看板のメニュー価格を見て身を引く人も少なくない。ならいっそ、メニュー看板なんてなければいいのに。その申し出は、例の通り河村さんに即却下された。この人でなしめ。けれど、メニューを出してないと何の店かもいまいち分からないか、とも思う。
と、そのとき、ようやく来客を知らせる鐘がカラン、と鳴った。
「いらっしゃいま……あ、千果ちゃんっ」
「やっほー、気になって来ちゃったよ」
暇過ぎてカビでもふきそうだったときに現われた、予期せぬ親友の登場に私のテンションがぐん、と上がる。
「ありがとー、さ、どうぞどうぞ」
「うん、ありがと。にしてもお店ガラガラじゃん」
「そうなのそうなの、毎日これだからさぁ、もう暇過ぎて死にそ……ひいっ」
「菜月子? どしたの?」
千果に気を取られていて気付かなかった。彼女の背後にもの凄い邪見を放つ店主(あくま)がいる。
「……いやあ、ね、凄く素敵なお店でしょっ。ここの野菜カレーが最高に美味しくてねっ。ほら、この食器なんかも手作りなんだよっ、凄くないっ?」
「……いらっしゃいませ。長谷川さんのお友達ですか?」
と、声を掛ける河村さん。私には見える。首を絞めるような猛烈な殺気。毅然として営業スマイルを浮かべる悪魔の顔面には、私に対する苛立ちマークが浮かんでいる。
「あらぁ、どうも。いつも菜月子がお世話になっていますぅ」
と、応える我が友もとびきりのぶりっ子スマイルだ。声もいつもよりワントーン高い。友よ、騙されるな。奴の正体は極悪非道人間だ。
それから、千果が来店したのを皮切りにポツリ、ポツリ、と客足が増えた。今、店内には5組のお客さんがいる。住宅街が近いこともあって平日は主婦層が募る。値段は少し高めだけれど、味を占めたお客さんは常連になることも多いのだとか(真奈美さんが言っていた)。
また、なかには味だけではなく、河村さんを求めてくるおば様方も窺える。彼の素性を知らないマダムたちは、悪魔の作るカレーに舌鼓を打ち、その黒い笑顔に日々癒されているようだ。そして、何を勘違いされたのか、私はそのマダムたちに変な敵意を向けられることも度々。まったく迷惑な限りである。
河村さんが『水黽堂』を開いて約2年。派手な広告、宣伝に頼らないで、地道な口コミという手法でお客さんを捕まえているのが今の実情らしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます