12
「いらっしゃいませ」
聞き覚えのある穏やかな男性の声が私を迎える。恐る恐る顔を上げると、そこにはあの男性がいた。昨日の冷酷非情な雰囲気とは打って変わって“営業スマイル”を振り撒いている。なもんとも演技が巧(うま)いヤカラだ。どうやらまだ私に気付いていないらしい。
けれど、そのとき微笑む彼と視線が重なった。一瞬、ギクリ、としてから意を消して話し出す。
「あのっ、すみません、もうお店が終わりのときに……」
「いえ、大丈夫ですよ。良かったらゆっくりされていって下さい」
何の疑いもなく彼が私に応える。ん? と心で首を傾げた。おやおや、これはもしや。
「どうぞ、今、メニューをお持ちしますね」
昨日の私のことを忘れているのでは? それなら妙な深堀をせずに、さっさと用を済ませてしまおう。
「違うんですっ、あの、私、この前……」
と、言う途中で彼が、ん? と声を出した。
「……お前、もしかして、昨日の面接に来てた」
くそ。やっぱり覚えてた。しかもいきなり“お前”呼ばわりかい。
「……昨日は、どうもお世話になりました」
額に軽く苛立ちマークを浮かべつつ、しぶしぶ社交辞令で返した。
「お前、なんでここ知ってるんだよ。俺の後でも付けて来たのか?」
「ち、違いますっ」
しかも、勝手にストーカーにされる始末。見ると、先ほどまでの営業スマイルは消え失せて、極悪非道な視線が向けられている。こんな男にひと時でも、胸をときめかせてしまった自分が情けない。どうやら私は男を見る目がないらしい。
「今日は、この前のお代を払いに来ただけで……」
「この前?」
なんのことか? というように男性は不思議に首を傾げる。あの日、閉店時間にも関わらず快く私を迎え入れ、美味しいカレーを作ってくれた。私には素敵な出来事だったことも、彼にとっては記憶に留めておく必要もない微々たることだったらしい。
「……以前、閉店時間にカレーを……」
沈んだ声で応えると、また、彼は、ああ、と声をあげた。
「お前だったのか。食い逃げ」
「くっ、食い逃げじゃありませんっ、今日こうして返しにきてるじゃないですかっ」
「にしてもだ。あれから何日経ったと思ってるんだよ」
数えれば、半月を過ぎていた。それは……と、唇を動かしながら、上手く反論も出来ずに口籠ってしまう。
「……とりあえず、これ。遅くなりましてすみません。どうも、ごちそうさまでした」
言いながら、1500円を渡す。カレー単品でもなかなか高いと思ったが、味はそれ以上に美味しかったし、ドリンクまでサービスしてくれたのだから申し分ないだろう。本当は、また食べたいと思っていたけれど、そう出来ないのが今の懐の現状だ。
「はい、確かに頂きました。もういき倒れるなよ? 今日は大丈夫なのか?」
「んなっ、私、いき倒れてなんかっ」
皮肉な言葉に悪びれた表情。私を“格下”だと判断した途端、この変貌ぶり。こいつかなり性格が悪い。
「――お邪魔しまーす」
そのときだ。この嫌悪な雰囲気に軽やかな女性の声が割り入った。
「あら、ごめんなさい。まだ、お客様いらっしゃたのね」
「「いや、違います」」
応えた私と彼の声が重なる。ちょっと、あんたも否定するんかいっ、と心中でつっこんだ。
女性は、頭にぽやぽやとハテナマークを浮かべている。そして、すぐに思いついたように口を開いた。
「あ、もしかして樹くんの彼女さんっ」
女性がぴん、と指を立てる。
「「違いますっ」」
またも被ってしまう。にしても、そこまで強く否定しなくても。男性は身を乗り出すくらいの勢いだ。
「真奈美(まなみ)さん、この人は前に食い逃げした……」
「だから食い逃げじゃ――」
「“食い逃げしたと思われた”人です」
そんな男性の憎まれ口に、私は歯を食いしばるしかない。
「樹くん、女の子をいじめちゃ駄目よ」
女の子って。皮肉を全く感じさせない女性の擁護に、私はますます口籠る。何も言えないでいると続けて男性が口を開いた。
「そんなことより、真奈美さんどうしたんですか?」
今度は“そんなこと”呼ばわりですか。
「ご飯、頂こうかなあって思って。まだある?」
「ああ、大丈夫ですよ。用意しますね」
言って、男性はカウンターへ進む。なんという私への無関心。用はこれで済んだらしい。お腹も空いてきたし、私も帰ろう。
「ありがと。そしたら、2人分、よろしくね」
え? と男性が振り返る。微(わ)笑(ら)う女性と私の目が合った。
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