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 その日、天気予報では午後から雨マークだった。けれど、外に出るとすっきりとした青空が広がっていた。春めいた気持ちの良い日だ。耳をくすぐる小鳥のさえずりに目を向ければ、緑の映える木の枝に愛らしいツバメのカップルが羽を休めている。そんな穏やかな中、私はまるで喪服のようなリクルートスーツに身を包み、かっちりと髪をお団子にまとめて面接に向かっていた。

 何もしなくてもお金は減る。哀しい現実だ。失恋で保険はおりないらしい。

 家庭のある千果のところにそういつまでも身を置くのは心苦しい(旦那さんにも気を使わせているのも申し訳ないし)。だからといって今更、実家に帰っても娘の結婚を待ち望んでいる親に合わせる顔がない。貯金なし。彼氏無し。仕事なし。未来は絶望的だ。こうなれば、どこでもいいからせめて仕事だけは早く決めたい、なんてヤケになっていた。

「――では次の、長谷川(はせがわ)菜月子さん、中に入って下さい」

「は、はいっ」

 中心部にある結構大きなビルの中。今日の面接は、健康食品を扱う企業の事務だ。

「それでは、名前と簡単な自己紹介、志望動機をお願いします」

「はい、長谷川菜月子です。大学では経済を学び、事務の経験もあります。今、メディアでも健康食品は注目されており、私自身も普段から健康面には気を使っているのでとても興味を持っています。チャレンジ精神があるので積極的に仕事に取り組みたいです。よろしくお願いします」

 昨晩考えて丸暗記した文面をつらつらと言い切る。ほっと安心したのも束の間で、面接官のひとりから質問が飛んできた。

「当社では、健康食品はもちろんのこと環境分野でも今、力を入れているのですがご存知ですか?」

 訊いてきたのは40半ばくらいの女性だ。気が強そうで、以前辞めた会社の上司に雰囲気が似ている。

「環境……分野ですか、えっと……」

 昨晩見た会社のホームページの内容を必死で思い出す。環境? そんなこと書いてあったっけ? 環境ってなにをするんだ?

「……植林や、街の清掃などで、環境問題の改善に取り組まれて……」

 最後がごにょごにょとなって上手く言い切れなかった。

「当社では街の清掃は定期的に行っています」

 嘘、当たった。

「しかし、植林などはしていません」

 ホームページに木の絵がいっぱい書いてあったから、言ってみたものの当てずっぽうがバレてしまった。これでは、せっかく正解した街の清掃もテキトーだと思われてしまう(実際そうなのだけれど)。

「当社が取り組んでいるのは、食品廃棄物による肥料作りや、バイオエネルギーの構築です。これまではゴミとして廃棄するしかなかったものを再利用できるうえに、カーボーンニュートラルの考えが出来、地球環境にも配慮した取り組みです」

 淡々と説明をする女性の責め立てるような声に縮こまる。

「長谷川さんは、以前の事務ではどんなことをされていたんですか?」

 次に、真ん中に座った中年の男性から質問が入る。私の前に何人かの面接を終えている男性の声は、なんだか気怠そうだ。

「以前は、見積もりや請求書を作成したり、電話対応や接客応対を……」

「ワード、エクセル、パワーポイントはどれくらい使えますか?」

 私が言い終わる前に重ねて質問が飛んでくる。

「ワードは基本的な文書作成くらいなら……、エクセルは簡単な表計算が少し、パワーポイントは使ったことがありませ……」

「はいっ、分かりました」

 と、またも遮られてしまう。男性は、私から興味が失せたように持っていた履歴書を手放して、「あと、河村君、聞いておくことは?」と、隣に座る若い男性に声を掛けた。

「それでは、長谷川さんはどうして以前の会社を辞められたのですか? これまでもいくつかの仕事を転々としていらっしゃるようですが」

 私は思わず硬直した。核心を突いた質問に竦(すく)みあがった、からじゃない。

 訊いたことのある低くて滑らかな声。資料を持つ手が下げられて、彼の顔の全貌を見た瞬間、私は何も言えなくなってしまったのだ。

「長谷川さん? どうかされましたか?」

 と、続けて男性が訊く。

 ――よろしければ、中に入ってみられてください。食事も、今は大したものがないですが。

 あの日、私を快くお店に入れてくれて、とびきり美味しいカレーを作ってくれた。

 ――波佐見焼ってご存知ですか?

 ――あの、良かったら写真撮ってもいいですか。こんな素敵なお店、友達にも紹介したくて。

 ――また、お逢いできるのを楽しみにしています。

「長谷川さん?」

 訝(いぶか)しげに眉を潜めた表情。今、彼の目は私を軽蔑している。

「……あ、いえ、すみませんっ。以前……、以前の会社では、何でも任せられることが多かったのですが、私はもっと周りの社員の方と協力しながら仕事に取り組みたく……」

「チャレンジ精神があなたの売りじゃないんですか?」

 中年の男性が割って入る。次に答えようとして声を出す前に、畳みかけるように女性が続けた。

「経験って言ってもどこも1年そこそこで、長くても2年。チャレンジ精神で色んな業種に挑戦されるのはいいと思うのですが、もっと自分が、他には負けないと言える具体的な何かはないんですか?」

 強烈な威圧感。向けられた視線が私の首を絞め続ける。何も言えない。声が出ない。いや、違う。答えが全く浮かばなかった。

 私が持っているもので他の人には負けない何か? 心が失(わ)笑(ら)う。そんなもの。

「……ありません」

 用を足して会社を出ると、ポツリ、ポツリ、と雨が降り始めた。そういえば今日は午後から雨予報だった。午前中はよく晴れていたし、邪魔になるからと思って傘を持ってこなかったのが裏目に出た。ここから駅までは5分くらい。雨脚も強くなってきてまあまあ濡れそうだ。突然の雨にお店の前には販売用の傘が置かれた。駆け込んだ人たちが躊躇いもなくその傘を手にする。

【ビニール傘 500円】

 財布の中には帰りの電車賃470円しか入っていない。


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