シュガーアンドスパイス
山口ユリカ
Ⅰ
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「それで、就職は決まったの?」
目の前に座る千果(ちか)の言葉に、私は思わずギクンとして肩を引き上げた。こちらをジッと見つめるつりあがった猫目から必死に逃げた。
「……んーっとね、まだ……なんだけど。なかなかね、いい条件がなくてさ」
ゴクリ、とすっかりぬるくなったコーヒーを喉に流す。この場の気まずさを苦笑(わら)いながら誤魔化した。けれど、千果は私の応えに目を細めて、ふーん、と意味深に鼻を鳴らすだけだ。
「だって、この前受けたとこもね、手取りが10万ちょっとだってっ。残業代もつかないしっ、そんなんじゃやってけないでしょ!」
「それで?」
既に飲み終えたグラスを千果がストローでかき回す。残っていた氷がカラカラと痛い音を立てた。
「それで……、それでねっ、先週受けたとこは給料高いって思ってたら、休みが月6日だって! そんなに働いたら過労死しちゃうよ!」
「だから?」
「だから? えっと、だから、だからね、要するに、私は仕事だけじゃなく、プライベートも充実させたいの……」
痛い。痛すぎる。彼女の冷めきった目はいっこうに私を逃してくれない。拠りどころのない気持ちを落ち着かせるために残り少ないコーヒーに目を落とした。そこには甚だ無力な自身が小さく写っている。
「で、他に言いたいことは?」
「……えっと、それで、だから、それには、それなりの休みと給料が……いる、でしょ?」
自分の言葉にどんどん自信が無くなって、風船がしぼむみたいに声が失速していった。コーヒーに落としていた視線を恐る恐る上げてみると、千果の表情には既に感情という色が付いていなかった。あの、ちょっと、怖いって。私は肩を縮めて次に何を言われるのかと身構える。すると、はあぁあ、という吹き出しでもつけられそうな溜息が耳に届いた。
「まあね、菜月子(なつこ)の言うことは間違ってないよ」
え、と思う。親友の口から出た予期せぬ擁護の言葉に肩をすかした。
「千果ちゃ……」
「けど、甘い」
ずん、と頭を落とす。今にも零れようとしていた感激の涙が秒で引っ込んだ。
「だってあんた、これでいったい何社目よ?」
「えっと、……10? くらいかな、たぶん」
あはは、なんて、あいまいに返えした。本当はもう20社にも近い。前職を辞めてから3か月が経った。が、未だ私には新しい仕事のご縁がない。
「前の会社だって別に辞める必要なかったんじゃない。あ、どうも。これはもう大丈夫です」
千果の前にペペロンチーノが置かれた。ウエイトレスは空いたグラスを下げると、一礼して奥のカウンターに入っていった。
「前の、えっと、保険会社だっけ? 給料はそこそこだったんでしょ? 休みだって結構あったじゃない」
言いながら、千果はフォークにくるくるとパスタを巻きつける。猫舌の彼女が口元で湯気の立つパスタを、ふーと吹かすと、芳ばしいガーリックの香りがこちらに飛ばされた。じゅわっと口の中に唾液が溢れて、ゴクリ、と呑み込む。と、同時にお腹がきゅるる、と情けなく鳴った。あー、朝ご飯もっと食べておくんだった、と後悔しながら、すかさずぬるいコーヒーを喉に流して、私は理性を取り戻す。
「でも、先輩が……、私、未経験だって言ってるのに、こんなことくらい出来るの当たり前でしょ? みたいな態度でさ。あんなふうにされたら聴きたいことも聴けないよ……」
「それで、3か月で辞めちゃった、と」
私は口をばってんに噤み、何も応えない。今日は久しぶりのお出掛けで、気合を入れて朝から髪を念入りにセットした。服も何着も試着して決めたし、綺麗に引けたアイラインにテンションがあがったりだった。それなのに今、この状況に心底泣きたくなる。なんだか自分を否定されて人間的価値が凄く落ちたみたいだ。
「そりゃね、菜月子の言うように給料が高くて、休みが多くて、人間関係も良好、しかも上司までイケメンってなれば、そんな理想の会社はないよ」
ちょっと、最後のは言ってないから。という反論も出来ずに、私はますます腰を丸めて小さくなる。もぐもぐと口を動かしながら、説教をする親友の言葉が、ガラスのマイハートを猛打するのをひたすらに耐えた。
「あんまりさ、選り好みしても結局すぐ辞めちゃうんだから。もう履歴書の経歴欄いっぱいでしょ。そんなんじゃこれからどこも雇ってくれないよ」
ごもっとも。言い返す言葉もございません。就職活動は連敗続き。前職を辞めてから3か月が経つが未だに無職、もとい、ニート。正社員の仕事にすぐに就けるようにと思ってアルバイトすらやっていないので今現在ガチの無収入である。
これまでに私が経験した主な仕事は、アパレルに住宅案内、コールセンター、スーパーのレジ、事務……。ここ3年でいえば、就いた仕事がどれも1年も続いていないのが現状だった。
「女が新人で可愛がられるのも20代までなんだから、ちゃんと地盤かためとかないと」
そんな私は今年、遂に30歳を迎える。10代の頃は“オバサン”だと嘲笑い、自分には全く関係ないと思っていた遠い未来にすっかり安心しきっていた。けれど、その未来がもうすぐ目の前の現実に迫っていることに底知れぬ恐怖を抱いている今日この頃である。
「それで、お金のほうはまだ大丈夫なの?」
「うん、まあ、その辺はなんとか……」
今日、財布には1190円しか入っていない。ここまでの往復の電車賃に今飲んでいるコーヒー代。これであっという間に無くなってしまう。貯金も10万円を切ってかなり危険(リスキー)な状況だ。
「それで、貴弘(たかひろ)くんはなんて?」
「……菜月子のペースで頑張ったらいいって、言われた」
2か月くらい前に。
「もう神と仏の域だね。家賃、光熱費まで出してもらってるんだから。毎日、拝んだ方がいいよ」
「拝んでるよ……」
寝静まった彼のベッドの脇で。でも、これってなんか縁起悪くない? って思ってつい最近、止めたけど。
「あんまりさ、彼に心配掛けないようにね。菜月子も、もうちょっと自立しないと愛想尽かされちゃうよ」
「ちょっとやめてよ、千果ちゃんっ。そんな不吉なこと言わないでよ」
現在、同棲している彼は、私の唯一の希望であり、心の拠りどころなのだから。
貴弘と付き合って2年が経った。年齢を考えれば、もうそろそろ結婚の話が出ても良い頃だと思う。だがしかし、未だにその予兆は皆無。
このまま妊娠して、その余波で結婚までいけたらラッキー、なんて幸せに錯覚してみたけれど、彼はそのへんのガードが固く隙がない。というかここ最近、素敵な夜もご無沙汰だ。そこで、私はハッとする。もしかしてっ、と息を呑んだ。
(私、本当に捨てられちゃうのかも……)
ここのところ、貴弘の帰りが遅い日が続いているし、しばらく、ろくにデートというデートもしていない。もしかして彼は、今頃、学生も上がりたてのようなぴちぴちで弾ける若さを持った女(ギ)の(ャ)子(ル)と密会をしているのでは……。なんて、考えただけで顔から血の気が引いて、背中にゾクリとする悪寒が走った。
「おーい、菜月子ぉ」
魂が浮遊し、茫然としている私の目の前で千果が手を振っている。
「千果ちゃん……、私、どうしよう……」
と、今にも泣き出しそうな声で助けを請うた。
「ほら、元気出して。明日からまた頑張りなさいよ」
そんな私の気持ちをくみ取って、彼女はペペロンチーノを分けてくれた。
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