第2話 魔性と献身
別れ難そうにする伯爵を寝台から見送り、小さく息をついた。静寂が満ちる。たとえ歩けたとしても、一人で過ごすには広過ぎる部屋。
自分の寝室だと言われたその部屋には、今居る天蓋付きの寝台の他、ソファやキャビネット、鏡台と思しきものなどもあった。それぞれの間隔は広い。遠い位置には窓もあるが、空しか見えていない。
壁紙やカーテンは全て白を基調としていて女性的な趣味を感じるが、柱や梁は濃い色をした木材が剥き出しで、重厚感もあった。
ここは伯爵の居城だと聞かされていた。幾度となく改築はされてはいても、中世からある古い建物だから、不便をかけるだろうとも彼は言っていたが、世話になるばかりの身には、不便すらまだ感じられない。特に目覚めてから数日は、頭はぼんやりとして力も出ず、自力で起き上がることもままならなかった。
今もまだ、足腰が衰えていて寝台の上から動けない。出来ることもなく、リーリエは横になる。
考えることといえば自分か、でなければ伯爵のことしかない。瞼を落とし、浮かび上がったのは……やはり、蒼い眼差し。
伯爵。彼は、美しい人だった。瞳だけではない、金の髪や、端正な顔立ちや、すらりとした体躯。その全てが、記憶のない自分に〝美しさ〟を体現してみせるようだった。声ですらそうだ。しっとりと落ち着いていながら、どこか苦しげで切なげで、こちらの心を締め付けてやまない、あの声音。拒むことや逆らう術を忘れさせるかのような、魔性のようなものを秘めている、と感じる。
所作や言葉選びも常に丁寧で、口許には微笑みを絶やさず、気遣いは過剰なほど。もし自分に記憶があれば、素晴らしい人からこんなに愛されて幸せだと、そう思っていたに違いなかった。
わたしに記憶が、あれば……。
目を開ける。仰向けのまま、自分の両手を伸ばして上へ掲げてみる。青白い肌の腕。指先は細く、衰弱のせいか荒れて節くれだって見える。ただ、少なくとも老人の手ではないと、そう分かることに何となく安心してしまうのは、髪のせいだった。
毎朝伯爵に梳られ、今も滑らかに流れるそれには、色がない。金という訳ではなく、
『元の色? 僕はどちらの君も好きだけれどね……黒だったよ』
そう聞かされても、何も想起はされなかった。冷静に考えれば、伯爵の妻であるならいくら何でも老婆のはずはない。しかし記憶を失っているなら、年齢の感覚まで失ってしまっていてもおかしくはないから、恐ろしかったのだ。
そういえば、と思う。
その時に、伯爵に鏡を見せて欲しいと頼んだのだが、珍しく彼はそれを忘れているようだった。あえて頼み直すほどのことでもないので、それきりこちらも忘れていた。
まさか、と思い立って自分の顔をなぞってみるが、傷痕や痘痕、腫れのようなものはあるように思えなかった。ならば本当に、彼がたまたま失念していただけなのだろう。
念のため寝間着――真っ白なドレスのような服だ――の隙間から自分の体を検めてみても、床ずれのあとかところどころに痣のようなものがあるだけで、治らないような傷痕などはなかった。ひとまずはほっとする。その気持ちの中には、自分というより〝彼が心を寄せるもの〟が無事だったという、他人事のような安堵があったかもしれない。
――けれど、あの美しい人の妻は。
――他でもない、自分自身なのだ。
これまでにも幾度となく考えたことだったが、やはり実感は全くなかった。
伯爵夫人という立場に関してもそうだが、それよりも夫婦という関係そのものに、そもそも想像がまるでつかないのだった。彼がこれまでに示してきた、誠実で献身的な愛情。労わりに満ちた、甘い言葉の数々――見返りを求めないそれらこそ、伴侶にだけ向けられる、特別なものなのだろうとは理解は出来ても。
返すことはもちろん、ただ受け取ることですら、自分には容易ではない。まるで別人宛の贈り物を受け取っているかのようにしか思えなくて。
何も出来ない自分に今出来るのは、彼を哀しませないことだけだと分かっているのに。
何も思い出せない自分は、たったそれだけのことすら、叶えられない――
一口、一口、伯爵はリーリエの口許に匙を差し出す。
熱いものには息をかけ、時折、口の端を雫が伝えば、すぐに滑らかな布で拭ってくれる。
初めはスープだけだった食事も、今ではすり下ろした果実なども含まれるようになっていた。
「あの、伯爵……」
食事が終わった時、思い切って口を開いた。相手は寝台の横に置いた椅子に腰かけていて、こちらに首を傾げた。邪気のない蒼の視線が、絡み付く。
「そろそろ食事は……一人で出来ると思うの……」
何より気恥ずかしさがあるから、とは言えなかった。目を伏せて、言葉を紡ぐだけで精一杯だ。
「それから、き、着替えも……」
普通に話さなければかえって気まずいと思っていたのに、結局消え入るように言ってしまった。とはいえ、切り出さない訳にはいかなかったのだ。なぜなら伯爵は、何から何まで世話を焼いてくれている。
目覚めてすぐの時は仕方なかった。半ば朦朧としていては、恥ずかしさや申し訳なさを感じる余裕はなかった。しかし、少しずつ起きている時間も増えて、苦しさの数が減ってくると、思い出したかのようにそれらを感じるようになってきていた。
リーリエ。その囁きにどきりとする。彼がその名を口にする時は、いつも甘美だった。
「君がそう言うなら、そうしようか?」
でも、と彼は続ける。
「でも、まだ一人では心配だから、何かする時は傍に居るからね」
えっ、と思ったが、彼の言い分は正しかった。この前まで一人で起き上がることも難しく、今も立ち上がることが出来ない人間から,そうすぐに目を離せる訳はない。とはいえ、食事はまだしも、着替え――それには体を拭き清めることも含まれていた――をただ眺められるのは……試練という他ない。
「やっぱり、僕がしてあげようか?」
どこまでこちらの気持ちを読んでいるのか、もしかしたら少しからかっているのかもしれないと思うが、何となく楽しげにそんなことを言う彼の真意を、まだ確信は出来ないのだった。
「君に色んな世話をしてあげられるのも、僕の喜びなんだけれどね。……君が眠っている時には、何かしてあげていても、痛くないかな、嫌じゃないかなっていうことが分からなくて心配だったんだ」
こんな風にして、と伯爵はリーリエの手をとり、胸の前に掲げるように抱き込んだ。
「君が恥ずかしそうになんかしているのを見ると、すごく幸せだなって思ってしまうよ」
悪戯っぽく微笑んだ彼に、リーリエはまた所在ない思いになる。けれど、それだけでもなくて。
美しい、と不意に思った。彼のその何物にも侵されない愛情、ひたむきな気持ちが。
……困って悩んだ末、結局、着替えは手伝って貰うことにしたのだった。
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