初夏色ブルーノート

嶌田あき

In Other Words

 

「えぇーっ? 少し早めに来て一緒に確認しようって言ってたの、そっちじゃん!」


 わたしは、改札出てすぐのところで電話に向って叫んだ。


「――つまり、どういうこと?」


 頬をふくらまして猛反対したが、そんなことが伝わるわけもなく、電話の相手には、フフフとかわされてしまった。周りの目にそそくさと駅前広場に出ると初夏の汗ばむ陽気。照りつける太陽と電話の相手に「もうっ」なんて唸って、電話を切る。


 わたしはブラウスの胸元をパタパタしつつ、おもいきり腕まくりもしてやった。

 こうして同窓会のために帰省したものの、時間を作って久しぶりにと誘われていた予定があっさりなくなり、突然の手持ち無沙汰。3時間はある。同じく東京の大学に進んだ友達にもラインしてみるも〈服がきまらない〉とか〈まだ特急〉と連れない。


 仕方なく、わたしは予定していた場所には、一人で行ってみることにした。

 高校とは駅を挟んで反対側。ちいさな商店街を奥まで進むと、そこに一軒の喫茶店があった。ここに来るのは、いつぶりか?


 焦げ茶色の木のドアに、古風な四角いガラス窓。ああ、何も変わってない。店内を包み込む優しい照明と、コーヒーの香り。昔と寸分変わらぬマスターと、出窓に並ぶ猫の小物。ここだけは、時間が結晶みたいに固まっている。


 あの席に、彼は居ない。当たり前だ。

 

 一人の時間を楽しもうと、わたしはコーヒーを頼み、さっそく奥のレトロなジュークボックスに百円玉を入れる。これも、変わってない。リストは見ずにFと5のボタンを押せば、流れてくるのは『フライミートゥーザムーン』だ。


 オスカー・ピーターソンの明快でハッピーなピアノ。音の粒がシャンパンの泡のように弾ける冒頭。ベースラインと競うように始まるアドリブが、切なげな解釈で演奏されることの多いこのスタンダード曲を、華やかな色に染める。


 ♫•* ̈*•. ̧ ̧♪♫•* ̈*•. ̧ ̧♪♫•* ̈*•. ̧ ̧♪♫•* ̈*•. ̧ ̧♪


 この曲を聞くと思い出す。

 

 ――2年前の初夏。

 わたしは大学4年で、彼はもう仕事を変えていた頃だ。


 わたしの初恋の相手は、恋をしてはならないはずの相手だった。今思うと、彼の最初の赴任校がわたしのいた高校だったわけで、出会ったときに歳は7か8しか離れていなかったことになる。でもその時は、何でも知ってて世界のことも見渡せる、とても魅力的な大人の男性に見えたのをよく覚えている。


 わたしは、高校教師になろうときめていた。別に彼と同じ仕事がしたいと思ったわけじゃない。ただ単に、月に行くのを夢みるような、少女ではなくなってしまっただけのこと。久しぶりに地元に戻り、母校での教育実習を終えたところで、その後の予定がないことに気がついた。夕暮れに時間を持て余したわたしは、ある場所に行くことにした。


 高校とは駅を挟んで反対側。ちいさな商店街を奥まで進むと、そこに一軒の喫茶店があった。ここに来るのは、いつぶりか?


 焦げ茶色の木のドアに、古風な四角いガラス窓。ああ、何も変わってない。店内を包み込む優しい照明と、コーヒーの香り。昔と寸分変わらぬマスターと、出窓に並ぶ猫の小物。ここだけは、時間が結晶みたいに固まっている。


 あの席に、彼は居ない。当たり前だ。

 

 一人の時間を楽しもうと、わたしはコーヒーを頼み、さっそく奥のレトロなジュークボックスに百円玉を入れる。これも、変わってない。リストは見ずにFと5のボタンを押せば、流れてくるのは『フライミートゥーザムーン』だ。


 ストリングスのピチカートがボサノバのリズムで軽やかに弾み、低音からピアノが流れ込むと始まる、語りかけるようなセクシーなジュリー・ロンドンの歌声。


 ♫•* ̈*•. ̧ ̧♪♫•* ̈*•. ̧ ̧♪♫•* ̈*•. ̧ ̧♪♫•* ̈*•. ̧ ̧♪


 この曲を聞くと思い出す。


 ――2年前の初夏。

 わたしは大学2年で、彼から別れを告げられた直後だ。

 

「卒業するの、待ってるよ」なんていう彼の言葉を信じ、告白らしい告白もできず、わたしの高校生活は終わる。わたしは東京の大学に行くようになり、彼は地元の高校で教師を続けた。

 そんなふうにして遠距離の関係になったものの、わたしは足繁く地元に戻り、彼と何度も会っていた。そして、彼は会うたびにいろんなことを教えてくれたのだった。人類が月に持っていった最初の曲は『フライミートゥザムーン』だったということも、このとき教えてもらった気がする。物理の授業でもなく、軽音部の指導でもなく、わたしたちはもう先生と生徒の関係でもなかったのに。

 

 終末には地元に戻って、駅で仕事終わりの彼を待ち伏せした。その何回目かに彼から唐突に切り出されることになる。


「明子の未来を俺が制限してるみたい」

「智昭くん……。よく、わからないや……。つまり、どういうこと?」

「ゴメン。しばらく――明子が大学を卒業するまでは、会わないほうがいいと思う」

「また、卒業を待つの!?」


 泣きながら駅を飛び出したわたしは、ある場所に行ってみることにきめた。


 高校とは駅を挟んで反対側。ちいさな商店街を奥まで進むと、そこに一軒の喫茶店があった。ここに来るのは、いつぶりか?


 焦げ茶色の木のドアに、古風な四角いガラス窓。ああ、何も変わってない。店内を包み込む優しい照明と、コーヒーの香り。昔と寸分変わらぬマスターと、出窓に並ぶ猫の小物。ここだけは、時間が結晶みたいに固まっている。


 あの席に、彼は居ない。当たり前だ。

 

 一人の時間を楽しもうと、わたしはコーヒーを頼み、さっそく奥のレトロなジュークボックスに百円玉を入れる。これも、変わってない。リストは見ずにFと5のボタンを押せば、流れてくるのは『フライミートゥーザムーン』だ。


 ボサノバを感じさせる軽快なパーカッションと4ビートのジャジーなウォーキングベース。ダイナミックでエレガントなフランク・シナトラの声。


 ♫•* ̈*•. ̧ ̧♪♫•* ̈*•. ̧ ̧♪♫•* ̈*•. ̧ ̧♪♫•* ̈*•. ̧ ̧♪


 この曲を聞くと思い出す。


 ――2年前の初夏。どうしても、来たかったところ。

 わたしは高3。彼は新任2年目で、初めてわたしの頬に触れてくれた日だ。


 彼を知ったのは高2の春。きっかけは、進路で悩んでいるわたしの目をまじまじと見て「そのまんまでいいと思うけど?」なんて、全部を受け入れてくれたこと。思えば、あれは単なる教育的配慮だったのかもしれない。

 でも、人が人を好きになるのに、そんな仰々しい理由は要らない。少なくとも、わたしが恋に落ちるのには十分すぎた。それまで、そういうふうにちゃんと人に認められたことがなかったから、かな?


 それからは、彼に気に入られようと頑張って物理の成績は伸びたし、高2から入部なんて変だと分かってたけど彼が顧問の軽音部にも入った。2人で話す時間が少しだけ増えて、わたしの胸に秘めた想いはそれ以上にどんどん大きくなっていった。


 生徒と先生の関係に過ぎなかったけれど、放課後の理科室や音楽室で2人で会っては他愛もない話をした。でも、秋が過ぎ、冬がきて、次の春になっても、先生は先生でありつづけた。わたしに告白らしい告白なんてできるわけなかったけれど、手もつなごうとしたし、キスだって、それより先だっていいのに、なんて思ってもいた。


 そして高3になって迎えたある初夏の日の放課後。ついにわたしは「学校じゃないところで話がしたい」と打ち明けた。ガチガチに緊張していて、目も泳いでいたであろうわたしに、彼はフフフと優しく笑い「じゃあ、ここで待ってて。すぐいく」なんて手書きの地図をくれた。


 高校とは駅を挟んで反対側。ちいさな商店街を奥まで進むと、そこに一軒の喫茶店があった。


 焦げ茶色の木のドアに、古風な四角いガラス窓。おそるおそる中に入ると、オレンジ色した照明とコーヒーの香りに優しく包まれる。白ひげのマスターの「いらっしゃい」という声と、出窓に並ぶ猫の小物。なぜだろう。ここだけは、時間が結晶みたいに固まっているように感じた。

 

 ――ようやく、ここまで展開アンロールできた。


 どうぞと案内された席で、彼を待った。そして、決戦のときはすぐに訪れた。


「せ、先生。あ、あの、今日は、ちょっと、話があって……」

「そう?」

「あの……その……つまり……えーと……」


 うまく声に出せないわたしの目の前で、彼は頬杖をついてフフフと微笑んだ。


「いいんだよ、ゆっくりで。そうだ、この曲は知ってる?」


 そう言ってレトロなジュークボックスに百円玉を入れると、彼はリストも見ずにFと5のボタンを押した。流れてきたのは、わたしの知らない『フライミートゥーザムーン』だった。


 ストリングスが進めるゆったりしたワルツ。ゆっくりとダンスを楽しむように甘いビブラートを響かせる女性シンガーの声。


「これはね、原曲。シナトラのカバーしたボサノバのアレンジのほうが有名になっちゃったけどね。ハハハ。アポロ計画のテーマソングじゃないし、曲名もちがった」

「えっ?」

「イン・アザー・ワーズ。『つまりは』『言い換えれば』って、なかなか想いを伝えられない、恋の歌なんだよ」

「……あっ」


 彼は笑いながら「焦らなくて、大丈夫だよ」とわたしの頬に優しくふれた。ずるいなぁと思いながらも、伝えようとしてた事も不甲斐ない自分への怒りも質量を失い、月にでも飛んでいってしまった。


「先生――わたしを、月に連れて行って、くれますか……?」


 これが好きになるってことなのかな――なんてぼんやり考えながら、その日はスキップしながら帰ったのだけはよく覚えている。


「ふぅ……」


 大学2年のわたしは目を開けて、コーヒーの最後の一口を飲みほした。

 大学4年のわたしは目を開けて、コーヒーの最後の一口を飲みほした。


 わたしが目を開けてコーヒーの最後の一口を飲みほした頃、マスターがヒゲを触りながら優しい目で声をかけてきた。


「どうでしたか、久しぶりの記憶再生装置タイムマシンは?」

「アハハ。飛べる時間が2年ちょうどしか選べないなんて意味あるのかな、って思ってたけど、使いようね。アハハ」

「その様子だと、うまく再帰呼び出しできたみたいですねぇ。ほっほっほ……」


 わたしはあのメロディを口ずさみながら喫茶店を後にすると、駅で智昭をまちぶせした。「ずっと、まってたよ」と彼の胸に顔をうずめると、彼はわたしの髪に頬をよせ「つまり……?」なんて優しく呟いた。


 つまりね、手を握ってほしいの。

 つまりね、キスしてほしいの。

 つまりね、どうか誠実でいてほしいの。

 つまりね、あなたのことを、愛しています。

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