最後の事件

モリアーティ


「寄りたい所があるのですがよろしいですか?」

 円タクに乗り込み俺は寺城に許可を取った。

「かまわないよ。君の好きにすると良い」

 俺は、運転手へ芝公園へ向かうように言った。

「なんだい夜の公園をボクとらんでぶーでもしたいのかい?」

 いつもと同じ人を小馬鹿にした口調、しかし、既に日は暮れ、なお暗き車内では見えないはずの寺城の顔に、怪しい瞳の光、真っ黒な笑みが浮かんでいるように見えた。

 窓の外を過ぎ去る無数のガス燈、立ち並ぶレンガ造りの壁に瓦屋根の和洋折衷な真新しい建築物。

 目的地に近づくに連れ俺の心臓の鼓動が大きくなる。

「着きましたよお客さん」

 運転手に金を渡し、俺は先に立って歩いた。

 月明かりに照らされた公園をゆっくりと、寺城は何も言わずその後をついてくる。

 しかしそれは、従順な淑女が三歩後をついてくるような微笑ましいものでは断じてない。

 猛獣が手負いの兎を嬲るような。

 悪意が、人間の恐怖と混沌、冒涜を愉悦とする悪魔がニヤニヤと獲物を物色するかのごとき悪寒を俺は感じていた。

 公園内を流れる小川が、満月の光を浴びてキラキラと輝くそれすら、寺城の策謀に感じてならない。

 俺は寺城へ問いかけた。

「今回の事件、珍しく死人が出ませんでしたね」

 背後から怪しげな少女の声が流れ出る。

「三太老の死は無視するのかい?」

 その声はどこか楽しげだった。

「本来なら最低でも一人は、和さんが死ぬ予定じゃなかったんですか?」

 俺の問いにその声は楽しそうにクツクツと笑って答えた。

「何を言っているんだい?それではボクがあの事件の黒幕のようじゃないか」

 ゆっくりと流れる小川を遡るように歩く。

「寺城さん」

 尋ねる。

「なんだい?」

 声は静かに答える。

「俺の推理を聞いてもらってもよろしいですか?」

 背後からまたクツクツと笑い声が聞こえてくる。

「かまわないよ」

 トクントクンと次第に大きくなる鼓動を抑えるように声を絞り出す。

「俺が最初にこの事件に違和感を感じたのは、円タクの中調査報告書を見せてもらった時です。和への詳細な調査情報に比べあまりにも少なすぎる彼女以外への調査情報。貴女は最初から脅迫の犯人は身内だと断言しておきながら、狩出部家の面々を調査させない等あるわけがない」

 この違和感は、後から解決したがそれはそれで違和感が残った。

 何故、寺城は俺に一切の情報を渡さなかったのか。

 何故、和が危ないとわかっていながら泳がせたのか。

 最善の手段は他になかったのか。

 寺城は何も言わないが、楽しげな足音がしっかりと俺の背後を追って来る。

「和さんに会い相続権を放棄したと宣言したと聞いた時、貴女は明らかに気分を害していました。さらに怪しい物音が響いた時も貴女はすぐに動こうとしなかった。殺人事件が起こりうる状況にあるにもかかわらず」

「それで?」

 今度は確かに帰ってきた寺城の声、それはやはりどこか楽しげだった。

「俺はこの一年、貴女の側で幾つもの事件を見てきました。その中で何度も、いえ、そのほとんどの事件は残忍な凶悪事件でした。これに違和感を覚えない人間がいますか?」

 いるとすればそれは、とんでもないボンクラか異常に成れ過ぎて正気を失った狂人の集団だ。

「それで君はボクの周りを探っていたのかい?」

 彼女は当然のように俺の動きに気付いていた。

「……はい」

 つまり彼女は追い詰められつつあるこの状況を楽しんでいるというのか?

 それともこの後の展開も全てお見通しだというのか?

 何故追い詰めているはずの俺の方が振るているのだ。

 この内からこみ上げてくる正体不明の感情を振り払うように俺は口を開いた。

「貴女が犯罪をわざと見逃し、被害者を被害者たらしめた事件は今まで何度もあった!」

「君はそれを見逃し続けた」

 俺の心を見透かすように、彼女は蠱惑的に囁く。

 無理矢理奮い立たしていた俺の心は更に掻き乱され、閉じ込めていた震えが体を駆け上る。

「そうです……しか、見逃され被害にあった被害者は皆、それに相応しいだけの悪事を働いてきた悪人ばかりだった!」

 俺に人の善悪を判断する資格などない。

 しかし、それでも人として言わねばならない事が、守らねばならない倫理がある。

「でも彼女は、和さんが死なねばならない理由など何処にもない!今までも数人、何故殺しが見逃されたのかわからない人達がいました。しかし、彼等も推理が明かされ、後の調査で隠されていた悪事が暴かれ、その理由に俺も納得しました。彼女もそうだと言うのですか!!」

 俺の感は彼女が殺されるに足る人物では無いと確信している。

 そうであってくれと感じている。

 しかし逆に、彼女が悪人であってくれとも何処かで思っている。

 二律背反する思考。

 そう思う事で罪を量る等という自身にない権利の行使を誤魔化そうとしているのかもしれない。

 そんな雑念ばかりの俺を嘲笑うかのように、彼女はさらりと答えた。

「ないよ」

 俺は一瞬彼女を振り向きそうになった。

「君の言うような殺されるに足る理由なんて彼女には無いよ」

 しかし、俺の心の震えがそれを断固として押し留めた。

「ボクはね。罪云々で人が死ぬべきだなんて、そんな大それた事は考えないよ。ただ、彼女が死んだ方が社会は効率良く回ると思っただけさ」

 なんともない事を語るように彼女は言った。

 震えが、膝から地面に崩れ落そうとするように俺を揺す振る。

 彼女は命を罪を倫理をなんと認識しているのだ?

「罪もない少女の死が社会の為ですか?」

 膝に力を入れ地面を踏みしめ尋ねた。

「狩出部兄弟がいなくなれば、あの会社に最大の影響力を持つ個人はあの年端も行かない少女になる。この国有数の製薬会社が僅か十五歳の少女手の内にあるなんてゾッとしない話しさ」

 寺城の言いたい事は瞬時に理解できた。

 しかし、だからと言ってそれを認める事など、人として許される行為ではない。

「膨大な数の社員とその家族が路頭に迷う可能性。危険な薬物が反社会的勢力に流れる可能性。彼女本人にその気はなくとも、彼女を利用しよう、操ろうと考える輩は数え切れないほど出てくるだろう。あの時死んでいれば、そう後悔しないと誰が保障できるんだい?」

 俺の背後、彼女の気配が濃くなった。

 気づけば小川は行き止まり、その先には五.五間ほどの小さな滝が流れ落ちている。

「五ヶ月ほど前――」

 寺城は平坦な声で言った。

「君は証拠の影らしき物に気づいた。三ヶ月前君は証拠を僅かに垣間見た。一月前君は証拠を後一歩というところで逃した。つい先日、君は証拠に指先をかけ、それに意味がない事に気づいた」

 彼女が何を言いたいのか、それを認める事を俺の脳は拒否している。

 いや、俺の脳も彼女がそれに気づいている事はうすうす気付いていたはずだ。

 寺城は、俺が彼女を調査していたい事を知っていた。

「ボクからも質問させてもらうよ。君はいつからボクを疑っていたんだい?」

 彼女の声は、地の底から響くように恐ろしく、なぞなぞの答え合わせを楽しむ少女のように無邪気だ。

 俺はゆっくり唾を飲み込み、カラカラに乾いた喉を湿らせた。

「貴女と初めて挑んだ事件、貴女が犯人の発言を無理矢理中断させた時です」

 くすりと、寺城の笑い声が聞こえた。

「今であればアレに違和感を覚える事はなかったでしょう。しかし、当時の俺は貴女を全く知らなかった。まさか平然と大した理由もなく、捕らわれ無防備に話している最中の人間の口に、杖を捻じ込むなんて思いもよらなかった」

 今の俺は、彼女が何の躊躇もなく人を害する事の出来る人間だと知っている。だから、そんな状況を見せられようとも呆れはすれど違和感を覚える事は無い。

 よくよく考えなくとも異常な事だ。

「つまりは偶然です」

 俺の言葉に寺城はニヤニヤとした声をかける。

「いやいや謙遜はよくないよ。君はボクという存在をある程度知ってからもその疑いを持ち続けた、更に言えばあの状況でボクを疑うという事事態、中々出きる事じゃあない」

 それは、彼女を知れば誰も必要以上に係わろうとしないだけの気もするが、彼女が言いたいのはそういう事じゃあない。

「一度怪しいと感じてしまえば、あらゆる言動が怪しく見えるというだけの話です。まして、俺が貴女を調査し始めたのはそれより一月も後の話です」

「それで?」

 話を催促する彼女の声は平坦で酷く楽しそうだ。

「その際の調査の結果は、一切怪しい点が見つかりませんでした。だから俺は調査を続けました」

 彼女は名家の生まれでその家族は政財界に絶大な影響力を持ち、彼女自身あらゆる業界にコネを持っていた。

 それでいて本人からは、犯罪歴どころか、弱みとなる汚点が一切見つからなかった。

「俺の力だけでは及ばない、だから人を使い金を使い、あらゆる手段であらゆる方向から貴女を調べました」

 そして、意外な所からそれは見つかった。

 彼女の係わった事件の犯人だ。

 正確には、犯人が捕まる事となった事件の動機ときっかけ。

「貴女が犯人を捕まえる原因となった事件には、不自然な偶然、見えざる手による悪意に満ちた意図的な誘導が感じられた。例えば最初の事件、浮村に円タクの運転手の口を教えた人物、彼が被害者を偶然乗せる事となった場所まで彼の円タクに乗っていた人物。他の事件でも同様に事件が起きる間接的な原因となった人物がまっくもって判明しない事が多数ありました」

 それに気付いた時、既に俺は確信していた。

 全ては寺城の掌の上だと。

「何故このような事を続けるんですか」

 自分でもわかるほどに震える声。

 それに答える彼女の声は変わらず平坦で楽しげだった。

「弱き者、正しき者が虐げられない良き社会の為、正義を示し悪を滅ぼす。社会に属する人間として当然の行いだとは思わないかい?」

 そう言った彼女は、俺の背後で見た事もない程深い笑顔を浮かべているのだろう。

 俺はふり返りそれを確かめる事が出来なかった。

「そのついでに娯楽を楽しんでいるだけさ。社会貢献と趣味を兼ね備えた実に有意義で効率的な行いだろ?」

 今まで感じたどんな感情よりも猛烈な衝動のまま、今まで恐れていた寺城へとふり返った。

「貴女は――、人の死を娯楽だと、そう言うのですか!?何故、そんなにも楽しそうに笑っていられるのですかっ!!?」

 寺城のその顔は周囲を支配する夜闇よりも暗く、瞳は底知れぬ宇宙よりも深く、燃える炎のようにはっきりと揺らぎ、背筋が凍りつくような笑みを浮かべていた。

「どうして、人の死を楽しんではいけないんだい?」

 彼女は実に楽しげに尋ねた。

 それはまるで教師が出来の悪い生徒を教え諭すように。

「死なんて状態は、いずれ誰にでも訪れる当然の結末。それを楽しんで何が悪い?」

 俺は震え、彼女の質問に答えることが出来ないでいた。

「ボクが誰かを刺し殺したかい?ボクが毒を盛ったかい?ボクの両手は今までも、そしてこれからもずっと綺麗なままさ」

 俺は震える両手を握り締め、無理矢理喉の奥から声を捻り出した。

「それでも人の死を喜び楽しむのは悪だ」

 寺城は変わらぬ笑みのまま、その身を屈めるようにして俺の顔を覗き込んだ。

「そう言う君は何故笑っているんだい?」

 何を言っているんだ?

 俺は最初彼女の言葉の意味がわからなかった。

 人の死を楽しんでいるのは俺じゃあない。

 こんな時に笑うだなんて人でなしは彼女じゃあないか。

 高鳴る鼓動を抑えつつ、俺は自分の顔へそっと手を当てた。

 そこには確かに、彼女のように三日月を描いた笑みがあった。

 俺は確かに笑っているのだ。

「君はとても優秀だ。だから、一般的な正義や倫理を知っているし、理解も出来、それが人生を円滑にする最善の物だと無意識の内にわかっている」

 寺城は真っ黒に燃える瞳で俺を見つめる。

 そしてそれが、俺の心に残った壁を壊す最後の一撃を携えている事を知っている。

「しかし、決してそれに共感する事はない」

 彼女はそれを躊躇なく振り下ろした。

 それは俺の心を大きく揺らし轟音を上げた。

「君が持っているそれは、周囲に合わせガワだけ作っただけのハリボテの定規にすぎない。それをあてがわなければ一般的な善悪の区別がつかない。いや、正確には君に善悪なんて基準ははなっから存在しない」

 彼女の一撃は壁を打ち砕き、崩れたガレキがもくもくと粉塵を上げる。

 今まで彼女とともに歩いてきた事件、殺人現場、死体。

 それを見てきた時に感じたそれと同じ物だ。

「君が今まで正義や倫理を守ってきた。しかしそれは、君の正義でなければ君の倫理でもない。君はただ普通でない事、未知への恐怖で自身を縛っていたに過ぎない」

 彼女の一言一言が、俺を守っていた壁の残骸を踏み砕き、蹴散らし歩み寄る。

 そうなんだ。この感情は恐怖では無い。

 興奮なんだ。

 歓喜なんだ。

「君はその恐怖の正体に気付いた。恐怖とは未知、理解できない事から生じる。知ってしまえばそれは恐怖足りえない」

 彼女の小さな手が俺の頬を撫でた。

 ああ、気付いてしまえばそれはなんとも甘美な物なのだ。

「無知ゆえ無理解ゆえに俗人達はボク達のお楽しみを死と恐怖と危険と冒涜と悪徳と言って蔑むのが許され、ボク達が俗人達に譲り、奪われ続ける理由もないだろう?」

 彼女はスカートの裾をくるりと翻し可憐に回った。

「君を縛っていた呪いは解けた。これからは作り物の正義に惑わされず、己の為に生きるんだ。世界はこんなにも広いんだ」

 燃える瞳、真っ黒な笑顔。

「さぁ、一緒に世界を楽しもうじゃないか」

 その笑みは彼女のものなのか、それとも――

「寺城さん。俺は以前貴女の事をホームズのようだと言いました」

 俺も彼女を真似て笑みを浮かべ――足がガクガクと震える。前まではこれが恐怖から来る物だと思っていた。しかし今はこれがよくない興奮から、歓喜の震えだと理解した――笑みのまま彼女を睨んだ。 

「ああ、覚えているよ」

 寺城の小さな唇を燃えるように真っ赤な舌先がチロリと舐める。

「アレは間違いでした。貴女はホームズなんかじゃあない――」

 彼女の燃える瞳が細くなった。

「――貴女はモリアーティだ」

 パチパチパチと寺城が小さな手で拍手をした。

「喝采をあげよう。その通りボクはモリアーティだ」

 彼女は大仰な素振りで右手を自分の胸元へ導きそう言うと、今度は俺を示して言った。

「喝采をあげよう。ワトスン君、今日から君がホームズだ」

 そして、彼女は再び小さな拍手をした。

「おめでとう。未来のモリアーティ」

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