第1話 共闘 その3

「ねえ結斗、何これ?」

 部屋に戻ると、澪が机の上にあるメモ用紙――もちろん姉ちゃんから渡された例のメモ用紙だ――を手に取って眺めていた。

 なんで俺の留守中に部屋を勝手に見回っているんだこいつは……!

「か、返せって」

「あ、その慌て方なんか怪ちー。これって見た感じラインかなんかの連絡先だよね? まさか誰かに告白されて、その時一緒に渡されたとか? そっかー、結斗にも春がねえ」

「いや……違うんだが」

「違うの? じゃあこれって誰の連絡先? イアンソープ?」

「お前の憧れには繋がらねえよ……彩花さんだよ」

 特に隠す必要もないかと考え、俺は素直に打ち明けていた。

「え、アヤ姉の?」

「姉ちゃんに無理やり渡されたんだ。今何してるのか気になるなら自分で連絡しろって」

「で、連絡したの?」

「まだだよ。迷ってる」

「うわ、ウジウジDT力発揮中だ」

「うるせえな……お前的にはどうするべきだと思うよ」

「そりゃ、した方がいいんじゃないの?」澪はあっけらかんと応じた。「結斗はアヤ姉のことが好きなんでしょ? じゃあするべきだよ。もしかしたら連絡したことがきっかけで今度会おうって話になるかもしれないじゃん」

「そう都合良く行くもんか?」

「でも連絡しなきゃ、チャンスすら生まれないよ?」

「まぁ、それはな……」臆病になり過ぎてもダメなのは分かっている。「でも今はお前と勉強する時間だし、とりあえずこれは後回しでいい」

 澪の手からメモ用紙を取り返し、机の端に置き直す。

 それから勉強を再開させ、一段落ついたところで今日の学習時間は終わりを迎えた。

「俺に教わるばかりじゃなくて、自分でも復習したりしとけよ」

「分かってるって! ねえ、ところで結斗、今日は帰る前にアレしてもいい?」

 筆記用具を片付け終えた澪が、上目遣いにそう尋ねてきた。

 アレ、というのは俺にしてみると出来るだけ避けたい行動を指している。

「……いい加減卒業した方がいいぞ、あんなの」

「でもルーティーンみたいなもんだし。ね? いいでしょ?」

「じゃあまぁ……手早く済ませろよ?」

 あっさりと折れて、そう告げていた。

 避けたい行動と言いつつ、心のどこかで無意識に俺はそれを望んでいるのかもしれない。

 なんせ――

「じゃ、行くね?」

 そう言って澪が俺の背後に回り、直後にぎゅっと抱き締められた。おぶさるように、後ろから手を回し、澪は俺の背中に甘えるように顔を押し付け、俺のことをハグしている。

 これは……昔から続く儀式みたいなモノだった。始まりがいつだったのかはもう覚えていないが、幼き日の澪が、こうすると疲れが取れて落ち着くんだと言って、俺にぐでんと抱きつくように寄りかかってきたのが始まりだったと思う。

 少なくとも幼稚園の頃にはやられ始めていて、それが小学生になっても、中学生になっても、高校生になっても続いているというそれだけの話である。毎日やられるわけではないが、特に疲れた日や、イヤなことがあった日に、澪はこうしてくるらしい。

 幼い頃はこうされることなんて気にも留めなかったが、さすがにお互いが成長してくるにつれて、少なくとも俺はこうされるたびに平常心ではいられなくなっている。

 今だって、その……背中に感じる澪の吐息や鼓動に動揺し、心臓がバクバクしている。接触部の熱に心が浮かされ、血の巡りが早くなる。澪の女の部分にほだされ、何か妙な気持ちが沸き立ちそうになる。童貞にはあらゆる意味でキツ過ぎる。生殺しかよ。

 これは他の誰も知らない俺たちだけの秘め事だ。姉ちゃんが何かの用事でここに来て、これを見られでもしたらどんな茶化しを受けるか分かったもんじゃない。けれど、澪は俺からまだまだ離れようとはせず、俺もそれを受け入れてしまっている。心地が良いからだ。

「なんだかんだ言いつつこれを受け入れる結斗ってさ、変態だよね……いやらしい」

「ど、どう考えても変態はお前だろっ。お前主導なんだし!」

「う、うるさいっ。ばかばかっ。あたしにやらしい感情はないもんっ」

 照れたように呟いて、澪が腹いせのようにいっそう強く俺にくっついてきた。ぎゅっとした抱擁によって胸部の膨らみまで押し付けられ、それに意識を向けるべきではないだろうに俺は……。

 ――あぁくそっ、彩花さんへの想いがありつつのこれはやっぱりダメだって!

「なあ澪っ、やっぱりこれ、俺はもうやめたいんだが!」

「な、なんで?」

「俺は彩花さんが好きなんだよ! それなのに澪とくっつくのは――」

「べ、別にいいじゃん。これは恋愛じゃないでしょ? 幼馴染同士でやってるじゃれ合いの延長でしかないってば」

「澪はそういう意識かもしれないが、俺はそうじゃないんだよ! お前はいい加減自分が女らしく成長してて可愛いってことを自覚しろよ!」

「へっ?」

「お前は可愛いんだよ! 可愛い奴にくっつかれると男は大変なことになるんだ!」

「い、いきなり可愛い連呼はやめてよ!」澪は動揺したように言った。「は、恥ずかしくなってきちゃったじゃん!」

「じゃあ効果有りなわけだし、むしろやめるわけにはいかないな? もっと照れさせて俺に引っ付けないようにしないといけないし」

「や、やめてってば!」

「やめてやるもんか。いいか? 澪は可愛いんだ! めちゃくちゃ可愛いんだよ!」

「ば、ばかばかっ! 結斗のドS! あたしもう帰るから!」

 火を噴きかねない勢いで顔を真っ赤にしたのち、澪は俺の部屋をそそくさと立ち去っていった。俺はグッと拳を握り締める。

「よし……良い対処法を見つけられたかもしれない」

 澪のルーティーン対策は現状これが一番なのは間違いなかった。

 しかしこの対処法にはひとつ、重大な欠点にして問題点が存在している。

 それはつまるところ、可愛いを連呼する俺自身もめちゃくちゃ恥ずかしいってことだ。

 よって残念ながら、今を最後にこの対処法は封印するしかなさそうだった。


 その後、シャワーを浴びて寝る準備を整えた俺は、ベッドに寝転がる前に彩花さんの連絡先が書かれたメモ用紙を眺めていた。

「……連絡、するべきだよな」

 俺は止まったままの時間を進めたい。果たせなかった約束を果たしたい。今はこんなに元気で、彩花さんの言う通りに勉強も頑張れていて、今日ついに念願の一位になれたのだと、胸を張って報告したい。一位になれた今こそが、絶好の連絡チャンスに違いない。

 無論、連絡が悪い方向に転がる可能性だってあるのだろうが――

『でも連絡しなきゃ、チャンスすら生まれないよ?』

 先ほどの、澪の言葉が思い出される。

 そうだ、ここで何もしなかったらチャンスすら生まれない。

 俺は意を決して、自分のスマホを操作し始める。ラインを送ろうとする。

「…………」

 しかし、迷う。八年ぶりに交わす言葉――その第一声はなんとするべきだろうか。

 とりあえず常識的に、あまり突飛にならないようにして――と頭を悩ませ、三〇分ほどかけて俺は文面を考え抜いた。

『彩花さん、お久しぶりです。おりがさみやこの弟の結斗です。姉ちゃんに連絡先を教えてもらったので、まずは挨拶をと思って連絡しました。もしご迷惑でなければお返事ください』

 堅いかも、と思ったが、八年ぶりだしこれでいいよな、と考えて、俺は深呼吸をしたのちに送信ボタンをタップした。

 タップしてから、指先が震え、全身に緊張がほとばしってきた。

 ……送ってしまった。

 しかし後悔なんて今更しても意味がない。もはやなるようになるしかないのだから。

「ね、寝よう……精神がドッと疲弊したし……」

 明日の朝、起きた時に何かしらの返事が届いていることを祈るしかなかった。


   ◇


「結斗くんには夢ってある?」

「夢?」

 俺はベッドで上体を起こしながら、有名子役のように落ち着いた彩花さんに質問を聞き返していた。

「そう、夢だよ。何もない?」

 小首を傾げるようにして尋ねてきたその挙動で、幼い彩花さんの綺麗な黒髪がはらりと揺れた。その流麗さに目を奪われつつ、俺は迷うことなくこう答えていた。

「早く、元気になりたいかなと」

「そうだよね。結斗くんはまず元気いっぱいにならなくちゃ。そしたら私や京、澪ちゃんともたくさん遊べるようになるもんね」

「……俺は彩花さんと遊べればそれでいいですけど」

「ん? なぁに? よく聞こえなかったよ」

「な、なんでもないですっ」

 俺は誤魔化すようにそう告げて、話題を逸らしにかかった。

「それで、ええと、そう言う彩花さんの夢はなんなんですか?」

「私の夢はね、女優さん、かな。なれるかどうかは分からないけどね」

「女優さんって、ドラマとかに出る?」

「ドラマに限らず、舞台とか、そういうのも含めてね」

「なんで、女優さんが夢なんですか?」

「なんでだと思う?」

 そう尋ねてきたのちに、幼い彩花さんは茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。

「って、聞かれても分からないよね。まあね、なんというか、私のおばあちゃんがね、若い時に小さな劇団の、中心的な演者さんだったの。私が生まれた時にはもう引退してたんだけどね、ビデオが残ってて、それを見せてもらったらね、もうすごいんだよ?」

 そう語る彩花さんの目はキラキラしていた。

「おばあちゃんが何か動きを見せるたびにね、お客さんが笑って喜ぶの。悲しいシーンの時は泣いて辛そうにするんだよ? 一人の動きでこんなに色んな感情が引き出されるってすごいよね。だから私、おばあちゃんみたいに誰かの感情を揺さぶれる女優さんになりたいの。そうすれば、おばあちゃんも天国で喜んでくれるかもしれないし」

 ……そっか、おばあちゃんのためなんだ。

 彩花さんはすごいな、もう夢があるだなんて。

「彩花さんならきっと、立派な女優さんになれると思います」

「そうかな?」

「だって、その……可愛いですし、しっかりしてますし」

「うん、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」

 照れている俺に笑顔でそう告げ、彩花さんは壁の時計に目を移した。

「あ、もうこんな時間なんだね。そろそろ帰らないと」

「また……来てくれますか?」

「うん、迷惑じゃないなら幾らでも来ちゃうよ」

 それじゃ、今日はこれでね、バイバイ、と彩花さんが居なくなる。

 彩花さんが居なくなったあとの部屋は、いつも空虚さで埋め尽くされてしまう。

 俺はそれが嫌いだった。

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