第6話 一夜の逃亡
暗い暗い森の中を、リザたちは歩いていく。
とはいえ、小さなユアンの体力はすぐに尽きてしまうし、リザも体力には自身がない。
休憩をはさみつつ、進みながらリザは今後のことを考える。
(できれば早く遠くに逃げたいけれど、そんなお金も手段もないし、しばらくは潜伏していたほうがいいかしら……でも、隠れられるような場所なんて心当たりがないし……)
問題だけが山積みの状態。よくこんな状況でユアンを連れ出そうと思い、実行できたものだ。
ユアンを放っておくことができないなら、こんなことならもっと前から計画して準備をおけばよかった。
そんな後悔をしていると、ユアンが突然周囲を見渡す。
「ユアン君? どうしたの?」
「……リザお姉ちゃん、何か聞こえない」
「え……?」
ユアンの言葉に、リザは耳をすます。
すると、どこか遠くから人の声が聞こえるような気がした。そして、人工のものと思われる光が木々の向こうから揺れているのがかすかに見える。
「あ……」
追手だ。
そのことに気づいたリザはユアンを抱えて走り出す。
疲れたとかそんなことは言ってられない。
息を切れ、心臓が悲鳴をあげるが、それでも必死に足を動かす。
しかしそれで逃げ切れるわけもなく、見つかってしまった。
「おい、いたぞ! こっちだ!」
「逃がすな、追え!」
いくつもの足音が二人に近づいてくる。
「はあ……はあ、はあ……」
「お、お姉ちゃんっ」
「大丈夫、はあ……だい、じょうぶ、だからっ!」
不安げなユアンに、一つ覚えのように大丈夫と繰り返す。
しかし、何が大丈夫なのか自分でもわからない。
「お姉ちゃん、後ろ!」
突然、ユアンが叫ぶ。
「え?」
振り返ると、炎が彼女の面前まで迫っていた。
「きゃあ!」
反射的に体をよじって炎を避ける。けれど、そのせいで体が倒れ込んでしまう。
とっさにユアンを庇ったために彼は無事だったが、リザは無防備に体を打ちつけてしまい強い痛みに襲われる。
すぐに起き上がって走り出そうとするも、それは叶わなかった。
「捕まえたぞ、女ぁ!」
見るも無惨な見た目になったリュックを持ったエレウスはリザに近づくと、立ち上がろうとした彼女の背中を踏みつける。
「う、ぐ……」
「貴様、エギヒデム教団の一員か? それとも金で雇われたか? どちらにしてももう終わりだな」
「や、止めて! お姉ちゃんを離して!」
ユアンがエレウスの足に掴みかかるも、エレウスはそれを造作もなく蹴り倒す。
「うわぁっ」
「ちっ……触るな、化け物め」
嫌悪に顔を歪ませながら、エレウスは腰に挿していた剣を引き抜く。
そしてその剣先をリザに向けた。
「ガキの方は殺すなと言われているが、お前には特に何も言われていない。殺されたくなければ言え。お前の裏にいるのは誰だ?」
「な、なんの、ことですか?」
「ほう? とぼけるか。そんなものが俺に通じるとでも思っているのか?」
鋭い刃先がリザの腕に食い込まれる。
「つぅっ……」
「さあ、言え! この腕を切り落とされたくなければな!」
「し、知らない……知らないわ……」
どれほど脅されようとも、リザが言えることはなにもない。彼女は本当に何も知らないのだから。
しかし、それを自身へと反発ととったエレウスは冷たい目でリザを見た。
「そうか。そこまで言うのなら、仕方がないな」
エレウスはゆっくりと剣を振り上げる。
「逃亡者が暴れ、それを抑えようとしてうっかり死なせてしまうのは、よくある話だ」
「お姉ちゃんっ」
エレウスが何をしようとしているのか理解したのだろう、ユアンがリザを守るように被さる。
「……ユアン、逃げて」
「やだ、やだよ……できない……ぐ、げほっ」
強い恐怖心からか、ユアンの口から泥が漏れ出す。
「本当に泥を吐いたぞ」
「ああ、信じられない」
それを見て周囲の騎士たちには動揺が走り、エレウスは汚い物を見るような目で見つめた。
「気持ち悪いガキだな……お望み通り、一緒に始末してやる」
そう呟いたエレウスがユアンもろとも剣で斬ろうとしたその瞬間、がさりと近くの草むらが揺れる。
「ん?」
風ではない、明らかに生き物が近づいてくる音だ。
エレウスや他のものはその音のする方向へと注意を向ける。
リザもそちらに目を向けた。
そして、森の奥から巨体を揺らし、のしりのしりと現れたのは、熊だった。
思わぬ猛獣の姿に、誰もが息を呑む中、熊はリザたちに近づく。
「なっ!」
エレウスはリザから離れるが、それに合わせて熊はエレウスの方に体を向けた。
「く、来るなぁ!」
「ひぃ!」
「うわあああ! 逃げろぉ!」
「おい、魔法を撃て!」
「駄目です! 間に合いません!」
自分が狙われていると気づいたエレウスは急いで熊から距離を取ろうとするが、熊もそれを更に追いかける。
周囲の騎士もパニックとなり、慌てて逃げ出す。
その声と走り出す彼らの姿に刺激されたのか、熊は興奮した様子で彼らを追っていく。
「ユアン君っ……!」
これを千載一遇の好機だと理解し、リザはユアンを抱えて逃げ出す。
「貴様らぁ!」
それにエレウスは気づいたものの、熊から逃げるので精一杯で追いかけることはできなかった。
ふと、リザの視界の端に一冊の本が写る。
それは、彼女が孤児院から持ってきてユアンに読んで聞かせ、逃げ出す際にもリュックに入れていた物だった。
恐らくエレウスが逃げ出すときにリュックから飛び出したのだろう。
リザは立ち止まり、拾おうかどうか迷った。
本当に大切な本なのだ。
だから、荷物になることを承知で持ってきた。
(……いえ、駄目だわ)
伸ばしかけた手を引っ込め、再び走り出す。
今は少しでも遠くに逃げなくてはいけない。あの本を持っていても、邪魔になるだけ。
それでも、少しだけ振り返る。
熊に遊ばれ、地面に放り投げられた本は見るも無残な姿となり、読むことは困難になっているだろう。
悲しみと寂しさが胸に押し寄せるが、それを振り払い走り続ける。
ひとまず泥が治まったらしいユアンはぐったりしていて、とても走れる状態には見えない。
背中をさすってあげたいが、とにかく今は逃げることが先決だとリザは無我夢中で走る。
やがて、騎士たちや熊の姿が見えなくなり、声も届かなくなったがそれでもリザは足を止めることはなかった。
「……リザ、お姉ちゃん」
「ユアン君! 大丈夫?」
「うん……」
歩いているうちにユアンの体調が戻ったのだろう。
リザはユアンを降ろすと、その顔色を伺う。
暗い中ではよくみえないが、先程よりは良くなっているように見える。
「歩けそう?」
「うん」
「……ごめんね。もう少しだけ頑張って」
まだ先は長い。
それまでずっとリザが抱きかかえるには無理があった。
(せめて私に、何かすごい魔法が使えたなら……)
『すごい魔法』というものがどういうものなのか検討もつかないが、それが使えれば熊に荷物を奪われることも、追手に捕まることもなかったかもしれないのに。
そんなことを考えていると、ユアンはリザの手をぎゅっと掴む。
「お姉ちゃん、ごめんなさい」
「え? どうしてユアン君が謝るの?」
「だって、ぼくのせいでお姉ちゃん、ケガしちゃった……」
ユアンの視線の先には、先程エレウスによって傷つけられたリザの腕がある。
「……これぐらい、大丈夫よ。ユアン君は何も悪くないから」
リザは全て捨てる覚悟で彼を連れ出したのだ。これぐらいどうということはない。
「さあ、行きましょう」
「うん」
二人は手をつないで歩いていく。
苦しいとも辛いとも痛いとも口にせず、懸命に足を動かすユアン。
だが、それも長くは続かない。
「ユアン君、大丈夫?」
「ちょっと……疲れただけ」
「そう……」
二人が進んでいるのは全く人の手が入っていない道なき道。歩くだけでも体力の消耗が激しい。
ましてやユアンはずっと室内に閉じ込められていたのだ。脚力も体力も衰えている状態にあるといっていい。
「ユアン君、こっちへ」
リザはユアンに手を差し伸べた。
「……でも」
「大丈夫よ」
リザがユアンを抱き上げて、歩き出す。
「ごめんなさい」
「これぐらい平気だから」
実のところ、その言葉はやせ我慢だった。
リザとて、体を鍛えているわけではないので体力もそんなにないし、エレウスに刺された場所も未だ痛む。
でも、それらをぐっと耐えた。
(大丈夫、大丈夫……まだ行ける)
泣き言を言ったところで何も変わらない。それどころか、ユアンに精神的な負担をかけるだけだ。
リザは葉を噛み締めながら足を動かしていく。
それから、ユアンの体力が回復してきたら二人並んで歩き、彼が疲れればリザが抱え、リザが疲れたならば二人で休憩を行う。
だが、夜が更けるにつれ、ユアンは眠気に襲われ始めた。
こくりこくりと船をこぐ彼を無理に起こすことはせず、なるべく体を揺らさないように歩く。
リザも当然眠くなっていたが、目を覚ましたら騎士に囲まれていた、なんてもうどうしようもない状況になったらと思おうと、どうしても眠る選択肢はとれなかった。
体を休めながら進んでいくが、それだけでは完全に回復しきれない。
疲労、眠気、痛み、あらゆるものが彼女を蝕む。
足はふらつき、思考もまとまらなくなり、それでも彼女は歩いていった。
そうして、どれほどの時間が過ぎただろう。
ようやく空に光が刺し、辺りを照らし始める。
(あと……少し……もう、少し……)
だが、その頃にはリザの体が限界に達しようとしていた。
足は棒のようで、恐らく肉刺でも潰れたのか歩くたびに痛みが走る。ユアンを抱える腕は感覚がなくなっている。意識は朦朧とし、自分がどこに向かっているのかもわかっていない。
山の中を、ほとんど一晩中歩き続けたのだから、当然だろう。
それでもリザは進み続ける。立ち止まれば、すぐにあの騎士たちが追いついてきそうで。
(だれか……だれか……)
不意に視界が明るくなる。
川岸に出たのだ。
見渡せば大きな川と、それからテントがある。
テントの向こう側には火が焚かれているのか煙が見えた。
「…………」
リザは足を引きずるようにテントに近づく。
近づくにつれ、誰かがいる気配を感じる。
「……ん? 誰だ、あんた?」
リザの足音に気づいたのか、一人の男性がテントの向こうから現れた。
無造作に伸びた金髪に、気だるげな金色の瞳、歳はリザよりも少し上ぐらいの若い男だ。腰に剣を差しているのが見えるが、簡素な服装から騎士ではなさそうである。
「あ……」
リザは、彼が誰なのかわからない。けれども、もう限界なのだ。
「た……す、け……」
言葉を最後まで続けられることはなく、リザの意識はふっと途絶えてしまった。
彼女の体がぐらりと揺れ、そのままユアンもろとも地面に倒れ込もうとしたが、寸前のところで支えられる。
「……はあ」
金髪の男はリザとユアンを抱えながら、重い溜め息をついた。
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