353 飛翔
『――翔べ』
そう念じた直後、体に激しく吹きつける風は収まり、耳元をうるさくかき鳴らしていた風の音もピタリと止まった。
しんと静まり返った世界の中で、まるで空と俺がひとつになったような感覚に全身が包まれていく。
魔法が成功したのか、それとも気づかぬうちに地面に落下して、再び天界へと舞い戻ったのか。俺が恐る恐る目を開くと――
そこには、先程までとなにも変わらない大空が広がっていた。しかも今度は落下していくどころか、俺の体はどんどん上へと向かって上昇を続けている。
成功だ――そう思った途端、風に晒され冷えきっていた俺の体からドバッと汗が吹き出した。ああ、生きてる! 生きてるよ俺!
『ふむ……。当代が入れ込むだけのことはある。人の子にあるまじき技量よ』
生きているという実感にまだ心臓がバクバクさせている俺の横で、銀鷹が涼しい顔で頷いている。そして嘴をくいっと横に動かして一言。
『ほれ、飛んでみせんか』
有無を言わさぬ口調で告げた。
本当はもう少し体を休めたい。けれど銀鷹の言葉にはなんだか逆らえないし、試してみたい気持ちもあった。俺は銀鷹に頷いてみせると一度大きく息を吐き、気持ちを落ち着かせてみる。
「すうーー……、はーー……」
大きく深呼吸するだけで、俺はずいぶんと落ち着いた気分になった。さっきは生死の境目にあったけど、今となってはヒッヒッフーは明らかにおかしい。
そんなちょっと恥ずかしい記憶を片隅に追いやり、俺は空中をまっすぐ進むように意識を集中させてみる。そうして周囲に漂う風属性のマナと俺の発したマナががっしりと合わさったと感じた瞬間、俺の体はまるで弾かれたようにグンッと前へと飛び出した。
「うおっ……っと」
予想以上のスピードに思わず声を漏らして飛行を止めた。以前は徒歩くらいの速度しか出なかったけれど、今のは俺の駆け足よりも早い。おそらく周辺の風属性のマナを取り込み利用することで、マナの出力が高いまま安定したお陰だろう。
これはもはや
このように自分の中で魔法の名前を決めて、動作との関連付けをしておくと魔法の発動が楽になるので、しっかり区別しておくことは忘れない。セリーヌから学んだ冒険者の知識だ。
俺はしばらく飛翔の感覚を慣らすために辺りをぐるぐると旋回し、ある程度馴染んだところで銀鷹の元へと戻ってぺこりと頭を下げた。
「銀鷹様、ありがとうございます。お陰で前よりもずっと早く空を飛べるようになりました」
本当は一言くらい文句を言ってやりたかったんだけどね。実際に空を自由に飛べてしまうとその気も失せてしまったのは、我ながら現金なものだと思う。
銀鷹は俺の感謝の言葉を聞き、まんざらでもないように頬を吊り上げる。
『うむ。実は我が子の中には習得できぬまま地上に墜落する者もいるのだが、それを人の身でありながら習得できたお前は非常に優秀であると言えよう。存分に誇るがいい』
「えっと、それってつまり……」
習得できずに死んだ子もいるってことだよね……。うわあ、さすがにそれはちょっと。
などと思っていると、銀鷹が小さく息を吐いて俺に近づいてきた。
『そんな顔するでない。我が子らがこのくらいで死ぬわけがなかろう。
そして突然その鋭い嘴を大きく開くと、俺の頭めがけて襲いかかってきた。
「あいたっ!」
頭皮に走る激痛。てっきり髪の毛を引き抜かれたのかと両手で頭を覆いながら銀鷹を見る。その嘴には銀色に輝く羽根がひとつ咥えられていた。
『我の加護の力をふんだんに込めた羽根だ。これしきの落下なぞ、どうということはない。覚えの悪い子でも二度三度と落とすうちに飛び方を覚えるものよ』
「ああ、そうだったんですね……」
いつの間に仕込んだのかは知らないけれど、どうやらアフターフォローも万全だったらしい。
それなら最初からそう言ってくれれば……いや、でもそれだと失敗したかもしれないし、この方法でよかったのかもなあ。もう二度とやりたくないけどね。
……あっ、羽根で思い出した。この機会に銀鷹の護符のお礼も言っておかないと。
しかし俺が口を開くよりも早く、銀鷹が眉間にシワを寄せて語り始める。
『本来、我の加護はこのような訓練で使うものなのだ。かつての盟約により、か弱き人の子であるウォルトレイル家の者どもに加護の羽根を与えてはいるが、近頃はいろいろと考えさせられておる。このような加護に頼っているからこそ、あの者どもはいつまでたっても弱いままではないのかとな』
しかめ面の銀鷹が、嘴に挟んだ羽根をガリガリとすり潰す。おっと、今ここで護符の話でもしようものなら、ついでに俺の護符まですり潰されそうな気がしてきたぞ?
俺が冷や汗を垂らしながら黙っていると、銀鷹はぺいっと羽根の残骸を空へと放り捨て、じいっと俺の胸元を見つめた。厚着で隠れてはいるけれど、胸元には紐を取り付けた護符をぶら下げている。
アカン。これはもうバレてるやつだ。俺はじっとりと背中に汗をかきながら銀鷹の沙汰を待つ。
しばらく無言の間が続き、やがて銀鷹は軽く息を吐くと念話を届けてきた。
『……だが、我にも慈悲の心がある。お前がか弱いとはとても思えぬが、幼子であるのには変わりない。幼子とは弱者であるのと同時に強者への可能性を持つ、我の興味を引く存在であるのだ。ゆえにお前が我が加護を享受することを許してやろう』
銀鷹が仰々しく語ると、最後にニヤリと嘴を傾けた。どうやらちょっと俺をからかったらしい。意外とお茶目なところもあるんですね。俺からするとさっきから心臓に悪い出来事ばかり起こっているけど。
『マルクよ、我らの格言に「能ある鷹は爪を研ぐ」というものがある。優れた者こそ、その力を余すことなく鍛え上げるべきであるという言葉だ。お前も今の力に満足することなく、己を磨き続けるのだぞ』
「わっ、わかりました。お言葉を胸に刻み、これからも精進いたします」
なんだか前世で聞いたことがあるようでない格言を聞きながら、俺は神妙に答えた。死ぬ気で鍛えるとはいかないまでも、もちろんこれからも鍛錬すること自体を止める気はないのだ。俺の返答に銀鷹が満足げに頷く。
『うむ、それでよい。……さて、我からお前への褒美はこれで終わりである。マルクよ、いずれ成長した折にはその姿を我に見せにくるのを忘れるでないぞ。御山への参拝については当代に話をつけておくからな。それではさらばだ』
「えっ、それは」
ちょっと勘弁して――と言う間もなく、銀鷹はやってきた山の方角へと飛び去っていった。うーん、銀鷹ならまだしも領主に会うのは気が進まないんだけどな。
……まあ幸いなことに去り際の口約束だ。あっさりとした別れだったし、銀鷹は俺のことなんか明日にはすっかり忘れてるかもしれない。実際会いに行ったら「お前誰?」なんてのは恥ずかしすぎる。あまり深く考えるのはやめておこう。
しかし今回は銀鷹にお世話になったのは間違いない。俺の独学ではここまで飛べることなんてできなかっただろう。俺は魔力でゴリ押しは得意となりつつあるけれど、繊細なコントロールは土魔法以外はどうも苦手だ。
俺は銀鷹が去っていった方角に感謝をこめて一礼し、それから足元に見える地表を見下ろした。
上昇している間にずいぶんと位置がズレたのか、馬車の姿は見えない。俺はさっそく
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