巨大な穴
「雛は囀る」に連絡を取ってから、流れに
ここまですんなりと事が進むとは思っていなかったし、自分でも意外な展開だ。
From:雛は囀る To:時雨は囀らない
『顔を合わせるにあたって、あなたに三つの質問と、一つの要求があります。
一 あなたは人に愛されたことがありますか?
二 あなたは人を愛したことがありますか?
三 あなたは死にたいと思ったことがありますか?
四 顔写真付きの身分証明書と、現在主に使用している、銀行口座の預金残高が記
載された写真を送って下さい。
(日時が映されたものに限る)
以上の質問と要求に応えてもらえないなら、直接会うことはしません。
そして金輪際、メッセージの返信もしません』
To:雛は囀る From:時雨は囀らない
『一 ない
二 ない
三 ない
四 ※画像添付』
From:雛は囀る To:時雨は囀らない
『十二月四日 午後一時に〇〇駅前の東口にて、お会いしましょう。
念の為護身用道具も持っていきますが、もし契約を結ぶ前に、私に何らかの危害を加えようものなら、あなたは確実に警察に迷惑をかける事になります。
詳しくは言えませんが、見ず知らずの男性と会う際に何の準備もしない程、私は馬鹿ではありません。
紳士的なご対応を期待しております。
追伸 名前、面白くないですよ』
そして今日は十二月四日、彼女に出会う日だ。
待ち合わせ場所として都内を指定したということは彼女も東京住みなのだろうか?
まあどちらにせよ好都合だ。
やっと人を殺せる、そう思うと胸の高鳴りが止まない。
一体どんな奴なんだろうという興味もあるし、本当に女なのかというのも疑問だが、今はそんな事どうでもいい。
人生で初めて、本心からやり遂げたいと思えることが見つかり、俺は今まさに、その目標に向かって前進しているのだから。
四に関しては、一瞬躊躇したが、悩む程ではなかった。
寧ろ、自分が殺す相手が馬鹿じゃないことが分かって安堵すらした。
ネットを通じて知り合った、何処の馬の骨かも分からない男と現実で対面するにあたって、何の対策もせずに接触することを警戒し、予め個人情報という抑止力を得ようとした彼女の機転は妥当なものだ。
免許証に加え、通帳の写真。彼女がそれを手にした時点で、俺が彼女に乱暴を振るうことは出来なくなった。だが、信用を得るという段階を踏む為には、必要なリソースだったことも間違いはない。
俺は彼女を殺す契約を、彼女は俺に殺される契約を。お互いの利害が一致していることは、具体的なやり取りをせずとも、彼女に伝わっただろう。
彼女からすると、本当に殺すことだけが目的なら、俺が個人情報を出し渋る理由はない。
もし要求を拒否したならば、それは殺人以外の、やましい目的があるということになる。
「殺す相手に知られて困ることはないだろ?」というのが彼女の要求の根本的な主張であり、その鎌かけで、俺の殺意の純粋さを試したのだ。
無論、
「やけくそ」は時に心強い。いつもなら日和ってしまう障害を前にしても、どうにだってなればいいという自暴自棄を後ろ盾に、いばら道を
グラスにウィスキーを注ぎ、ストレートで呷ると、その勢いのまま、チャコールグレーのチェスターコートを羽織り、ジーンズのポケットに財布と折り畳みナイフを入れ、スマホを片手に、俺は街へ繰り出した。
駅に向かう最中、予想外の肌寒さに手が小刻みに震え、手袋を嵌めてこなかったことを後悔した。取り戻るのも面倒だった為、諦めてコートのポケットで妥協した。
十分程歩き、最寄り駅の改札口を通る。平日の正午、駅のホームに人はまばらだった。俺が住んでいる地域は中心部から離れていて、朝と夕方のゴールデンタイム以外の時間帯は、あまり混雑することがない。
予定時刻丁度に到着した電車に乗り込み、適当に空いている席に座った。
一 あなたは人に愛されたことがありますか?
二 あなたは人を愛したことがありますか?
三 あなたは死にたいと思ったことがありますか?
あの三つの質問には、一体どんな意図があったのだろうか。
四は分かる。何が目的であの要求をしたのか、熟考せずとも理解出来た。
しかし、一から三については、どれだけ考えても分からなかった。
もし彼女の本意にそぐわない回答をしていたら、対面する機会は得られなかったのだろうか。いやそもそも、あの質問に意味はあったのか?
他人に打ち明けづらいことを曝け出させることで、警戒心を解かせようとしたのだろうか?
駄目だ。やはり分かれそうにない。まあいい。あの質問に込められた意味を知らずとも、俺がやることに何も変わりはない。
俺は今日人を殺すのだ。そう考えると笑みを隠せずにはいられなかった。
対面の座席に座る老人が訝し気にこちらを見てくる。
俺はその老人を見つめ返す。気味の悪いにやけ顔で。
目的地に到着したことを告げるアナウンスと共に立ち上がり、我先に扉の前を陣取る。県内で最も栄えている土地なだけあって、駅のホームは人で溢れていた。
東口からロータリーに出て、スマホで時刻を確認する。約束の時間までは二十分も猶予があった。俺は自販機横に設置されたベンチに腰掛け、煙草を吹かす。
道行く人々は、迷惑そうな視線をわざとらしく俺に流していく。そういえば、俺も昔はよく思っていたな。
「喫煙所に行け。臭いんだよ、社会不適合者が」と。
今となってはあの頃のあいつに向ける顔がない。だが、こんな俺にしたのはお前にも責任があるんだ。お前がもっと一心不乱に足掻き生きていたら、こんなことにならずに済んだかもしれないし、俺はこんな俺になる必要もなかった。
お前に今の俺を嘲る資格はない。過去があって、今があるのだから。
冷笑を肴に両切り煙草を
『東口を出てすぐ左手、赤い自販機の側にあるベンチに座っている。着いたら連絡をくれ』
街の景観や清潔感など省みずに、右手の親指で地面へ灰を落とし、ベンチ向かいの歩道に視点を戻した時、俺はそのあまりの美しさに、呆然と魅了された。
そしてそれと同時に、沸々と湧き上がってくる異物が、俺の胸を張り裂かんばかりに膨らんだ。
母と父が子供の手を引き、お互いの目を見ながら微笑み合っている。
一方俺は一人惨めに煙草を吹かし、その子供の健康を阻害する煙を口から排出している。
なんだこれは???
どこで、間違った。
俺は、俺は今、人を殺そうとしている。それなのに、もう希望など捨て去ったつもりだったのに、その光景を、心から羨ましいと思ってしまった。
明日だって、幸せだ。
そう信じて疑わないような顔で歩く彼らと俺の間に、一体どれ程巨大な穴があれば、この劣情の説明がつくと言うのだろう。
出所の分からない苛立ちを抑えきれず、俺はショートピースを思い切り地面に叩きつけ、自分でも情けないくらい、
どうでもいい。殺せばいい。早く殺そう。人を殺して、もう微塵の期待も煤けて見えなくなるくらいに、全部終わらせよう。俺はポケットに忍ばせたナイフを握り締める。
その時スマホのバイブレーションが鳴らなければ、俺は生涯悔やむ選択をしていただろう。
『着きました。親の仇みたいに煙草の吸殻を踏みつけている男性が見えるんですけど、まさか時雨さんじゃないですよね?』
俺は苦虫を嚙み潰したような顔で、スマホをフリックする。
『合ってる』
冷静を取り戻した頭で大きな溜息を吐きながら、俺は彼女が声を掛けてくるのを待った。
ガコンッ。
すぐ隣で、自販機が自らの職務を果たす音がした。
「はい。煙草と言えば、コーヒーですよね」
そう言って缶コーヒーを差し出す彼女が囀る言葉を、俺は知っていた。
「お前が無題の書き手か」
彼女から手渡された缶コーヒーを開けながら、俺は訊ねる。
「ええ。私が、
肩まで伸びた黒い髪。大きな瞳を瞬かせる度に揺らめく長い
「あなたが、私を殺してくれるんですね?」
「あぁ、俺がお前を、殺してやる」
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