Fragile Fantasie

Phantom Cat

プロローグ ――Fantasie Impromptu――

 第一音、のオクターブ。"その音だけ特に強くスフォルツァート"。


 それを叩き出した左手はそのまま六連符の繰り返しリフレインに移行し、やがて、追いかけるように右手が16分音符の主旋律を小刻みに奏で始める。


 フレデリック・ショパン作曲 即興曲第4番 嬰ハ短調Cis Moll 作品Op.66。通称「幻想即興曲Fantasie Impromptu」。


 小学三年生の時に行った有名ピアニストのリサイタルで、初めてこの曲に出会った瞬間の衝撃は忘れられない。アレグロ・アジタート(激しく速い)のテンポにもかかわらず、右手と左手が刻むリズムが違うのだ。こんなことが出来るものなのか。ソナチネを終えソナタに入ったばかりの当時の私には、とても信じられなかった。


 ショパンは「ピアノの詩人」「即興の達人」と言われている。彼のその二つの側面が存分に相まって生み出されたのが、この曲だと思う。まさに詩人の名にふさわしい、叙情感に満ちたそのメロディ。私は魅了された。以来、この曲を弾きこなすことが私の当面の目標となった。


 この曲をこんな風に満足に弾けるようになったのは、中学に入ってからだった。今でも私にとっては自分のコンディションを確かめるための、鏡のような曲だ。「ショパン弾き」を自認する私の原点、と言ってもいい。


 聴衆は誰もいない。ここは私がピアノ教室として使っている実家のレッスン室。ピアニストは毎日練習していないとすぐに腕が錆び付いてしまうものなのだ。だから私も、こうしてその日のレッスンが終わって生徒が誰もいなくなってから、必ず一曲は弾くようにしている。


 激しい冒頭部から一転、変ニ長調に転調した中間部はモデラート・カンタービレ(中庸の速度で、歌うように)。微睡まどろむように揺蕩たゆたうフレーズ。ここをモチーフにした後年の楽曲も多い。そして再び冒頭部の激しいメロディに戻り、中間部の趣きを残す最終部コーダにたどり着く。フィナーレ。


「……」


 鍵盤キーから両手を離した私は、しばし余韻に浸る。


 この曲に「幻想ファンタジー」という名前を付けたのは、ショパンではなく彼の友人のユリアン・フォンタナだという。むしろショパンは、この曲を出版しないでほしい、とフォンタナに遺言を残したくらいなのだ。彼にとっては失敗作だったのかもしれない。しかし、皮肉にもこの曲は彼の代表的な作品として、世界的にもかなりの人気を誇っている。そんな状況は、きっとショパンにとっては想定外の非現実――まさにファンタジーだったに違いない。現実リアル非現実ファンタジーは、かくも表裏一体なのだ。


 掛け時計のチャイムが、午後五時を告げる。


「……もう、こんな時間」


 私もそろそろ現実に戻らなくてはならない。ピアノ教師にしてピアニストの「川村 百合子」から、主婦「大西 百合子」という現実へ、と。


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