「雷雨」「投げる」「櫛」 作・常夜

「雷雨の日には神隠しに遭うって聞いたことあるか?」

激しい雨が降っていたある日の昼に、職場で同僚からそんな話を唐突に振られた私はかすかに困惑した。

「神隠し?へそをとられるとかじゃないのか?」

「いや、まぁ、そう言う話もあるんだが。どっかで聞いたことあるんだよ。雷雨の日に一人で歩いていたら鬼かなんかにさらわれるって。ほら、なんだっけ?古典にあったろ、そんな話。」

ますます訳が分からない。そんな話は生まれてこの方聞いたことないし、古典については、工学系の道に進んだ私にとってはもはや忘れるべき過去の遺物でしかなかった。

「あー、何を言いたいのかさっぱりわからないんだが。それとも何だ。まさか傘を持ってくるのを忘れたから変な話をでっちあげて傘を貸してもらおう、とか言わないだろうな。こんな年になってまで同性の相合傘はごめんだ。」

私の言葉に彼は動揺している様子だった。図星だったのか。だとしても、もっとましな話はなかったのか。そんな私の呆れを他所に、弁明するように彼は言う。

「いやぁ、ははは…。まぁ、ちょっとは期待していたんだが。いや、でも神隠しの話は嘘じゃないぜ。本当にどこかで聞いたんだ。まぁ、昔の人も雷雨の間にさらった女が鬼に食われたなんて話を残していたじゃないか。今でも起こらないだなんて誰が言える?」

「…確かその話、鬼の正体は女の家族だったような気がするんだが。」

伊勢物語…だったか?確か男が長年求婚し続けてきた女をさらって逃げ出した話だったと思う。私が古典の中で覚えている数少ない話の一つだ。最後にはある蔵にその女を隠すが、その蔵に隠れていた鬼に女が食われてしまっておとこが地団駄を踏んで終わりだったと思う。そうだ、当時はなんで人が食われてるのに、優雅に歌詠んでんだって思ってたな。

「あれ、そうだっけ?まあ、いいや。仕方ねえ、帰りに傘買うか。」

「そもそも天気予報を見なかったのか?一日中雨だと言ってただろう。」

私の疑問に対して「いやぁ、寝坊してさ…」と返す彼に私はまた呆れて軽くため息をついたのだった。


その日の夕方、雨の勢いは衰えることなくさらに雷まで鳴り出した最悪の空模様の中、私は一人帰路に着いていた。

「忌々しいな…。」

傘をさしていてもすべての雨を防げるわけではない。スーツの端や靴などもゆっくりと しかし着実に濡れていく。こうなれば、部屋の中を水滴だらけにしてしまうことは確実だった。

急ぎ足で私は家へ向かっていたのだが、ふと気づくと周りには誰一人として人がいなくなっていた。静かな世界にただ雨音だけが響く。奇妙に思いながらも帰り道を進むと、その途中で変な奴がいた。

雨に打たれながら道の真ん中に背を向けて立つ「変な奴」は、ボロボロの服をきた老人だった。こんな雨の中で立っていれば絶対に風邪をひくだろうと思ったが、それ以上になんだこいつという気持ちが大きかった。普通の人間なら絶対雨宿りするはずなのに、その老人はずっと立ち尽くしていた。

変な老人の姿に訳も分からず立ち尽くしている私を前に、気配を感じたのかゆっくりと老人は振り返った。老人の顔は醜くゆがんでいた。よく言うイケメンとかかわいいとかいうようなものではなく、ただ「醜くゆがんでいた」。その顔を見てふと同僚の言葉を思い出した。

「どっかで聞いたことあるんだよ。雷雨の日に一人で歩いていたら鬼かなんかにさらわれるって。」

まさか。あの老人がその「鬼」だというのか?あの話は嘘ではなかったのか?思い出された言葉は私の目の前の老人と勝手に結びつき、恐怖に変わっていく。逃げなくてはと思いながらも、体は全くもっていうことを聞かなかった。やがて老人はビシャビシャと音を立てながら裸足で迫ってくる。速い。私と老人の距離は遠かったはずなのに、あっという間に老人は近づいてくる。どうすればいい?何をすれば、助かる?そう焦りだす私に声が響いた。

「櫛の歯を折りなさい、そして投げなさい。」

櫛?疑問を抱く一方でいつのまにか手の中にあったそれを無我夢中で折って投げた。そうしたら、それは老人の体に山葡萄の蔦となって絡みつき、タケノコを周囲に生やし、あともう少しで私に手が届いたであろう老人の体をがっちりと止めてしまった。老人はもがいているが、ツタがちぎれる様子はない。心臓が脈打つ音をはっきりと感じながら私はもはや訳が分からず、安堵のあまりそのまま座り込んでしまった。老人は最初はもがいていたものの、疲れたのか少しずつ動きを止め最後にはポンと音を立てて消えてしまった。本当に何だったんだ。私は安堵のため息をつきながらも今起きた現象を頭の中で思いめぐらせていた。しかし、


「大丈夫ですか?」


女性の声を聞いてふと周りを見渡すと、私は傘をさしたまま道の真ん中に立っていたことに気づいた。どうやらさっきまでの老人との謎の戦いは違う世界の話だったらしい。周りの人々の変なものを見るような視線がひどく恥ずかしく、私は大丈夫ですと言って再び歩き出した。

 家についてコートを脱ぐと、ポケットに何かが入っているように感じた。何も入れた覚えはないがと思い、探ると中から桃の実が一つ出てきた。桃、山葡萄、タケノコ、そして櫛。古典には疎いが、「この話」も覚えていた。黄泉から追ってくる妻とその軍勢を止めようとした神の話。まさか、そっちの「鬼」だとは思わなかったし、神のまねごとをさせられるとも思わなかった。さしずめ、この桃は記念品といったところか。桃をどうしようかと思案していたが、最後には皮をむいて一人で食べるとした。まぁ、いつかいい笑い話にしてみようと、食べながら思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る