第3話 翡翠書房の営業部長・香山悠太



 

 友人知人のコンサートや演劇鑑賞などで何度か訪れたことがある講堂に、そっと一歩足を踏み入れた文花は、いままでに経験のない物々しい雰囲気に圧倒された。


 作業ズボンのふくらんだポケットに大工道具を挿した大勢の大道具職人たちが、舞台の上下で忙しげに立ち働いている。ぼやぼやしていたら蹴り散らされそうだ。


 記者会見のステージには、照明を反射して眩いばかりに光り輝く巨大な金屏風が設置されている。数時間後、あの前に立つのかと思うと、急に足がふるえてきた。


 開校当時から大切に使用されて来たドイツ製のグランド・ピアノばかりが、いつもの西側の片隅に泰然と鎮座しており、目の前の大騒動を静かに見守っている。


 文花の様子をひそかに観察していたらしい佐藤プロデューサーが「どうです? なかなかのものでしょう。やっぱりね、決めるところは決めなくっちゃ。ははは」すべては自分の手柄だと言わんばかりの口調を投げてきた。つくづく鬱陶しい。


 照明、音響、マイク、その他わけのわからない赤、白、青、緑、紫の太いコードがいく重にも絡み合い、文字どおり足の踏み場もないステージの袖からひょっこり姿を見せたのは、佐藤プロデューサーと瓜ふたつの背格好の竹山俊司監督だった。


 晴れの舞台衣装のつもりか、下はヨレヨレに穿き古したジーパンだが、上は背中一面に飛翔する鳳凰が刺繍された、テラテラした光沢のルパシカを羽織っている。


 見るからに如何しげな、女誑し風の口髭を蓄えた監督に会うのは2度目だった。

 初対面の文花に名刺を返しもせず、いきなり「どう、おれの脚本読んでくれた? 面白かった? ねえ、感想を聞かせてよ」無遠慮に畳みかけて来た初回と同様、今回も世間一般の常識には反旗を翻すつもりなのか、「あ、どうも、よろしくね」おざなりに片手を挙げただけで、そそくさと反対側の袖口に吸いこまれてゆく。


 憮然としているところへ翡翠書房営業部長・香山悠太(30歳)がやって来た。

 若いが生真面目な営業マンで、顧客の取次や書店の好感度抜群の人材でもある。

 底なしの大酒&大食の不摂生が祟り、ある日とつぜんの入院で会社を大ピンチに陥れた元専務の後任の営業担当として、誠実一辺倒で責任を果たしてくれている。


 心配性の諒子社長にはつとめて愚痴をこぼさないようにしている文花にとって、きびしい出版業界を共に生き抜く戦友であり、志を同じくする同士であり、なにも説明しなくても阿吽の呼吸ですべてをわかり合える盟友のような存在でもあった。


「遅くなりました。国道が渋滞していまして。あ、言い訳にもなりませんが……」

 だれにともなく詫びながら、香山悠太は理知的な二重まぶたを温和にゆるめる。


 つい先刻、文花が魅了されたばかりの清田社長と同様に180センチはある長身なので、いきおい目の前のふたり、佐藤プロデューサーと文花を見下ろすかたちになる。濃い睫毛に縁取られた漆黒の双眸が物問いたげに文花の眸を見詰めている。


 ふだん、事務所では綿シャツに綿パンが定番だが、今日の文花は肌に映りがいいホワイト・ベージュの地に銀ラメを施した、ミニ丈のワンピースを着用していた。

 艶入りルージュと濃い目のチーク。睫毛パーマに念入りなマスカラ。胸の谷間が見えそうで見えない微妙な襟刳りには、パールピンクの三連ネックレスが捩じれており、タレント並みの小顔をいっそう引き立てるエレガントなベリーショートヘアの耳には、同じ素材のパールのピアス、足もとも同色のピンヒールで揃えている。


 外まわり用の紺スーツを律儀に着用し、思わず触れたくなる広い額に汗の粒を浮かべた香山悠太の目に、柄にもなくめかしこんだ自分はどう映っているのだろう。

 

 ――なんだか、恋人を裏ぎる悪女みたいな……。

 

 やにくさい中肉中背から、映画業界独特の蒸れた匂いを芬々ふんぷんと放っている中年プロデューサーと親し気に肩を並べている現在の状況が堪らなく恥ずかしくなった。

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