コオロギ
幻中六花
第1話 名無しのうたうたい
──ん……。
朝、
──あぁ……。俺は昨日、
いつもなら隣にいるはずの明日架がいない。それがこの違和感の原因なのか。
友詞は朦朧とする頭で、昨日、明日架に振られたことを思い出すと、そのままの体勢で今までの明日架との思い出を走馬灯のように思い出していた。それはまるで、スマホを右へ右へとスワイプするように、たくさんの思い出のシーンが
友詞が明日架と出会ったのは2年と2ヶ月前の夏。地下鉄の駅から地上に出たところで、友詞はストリートライブを行っていた。
そこに、仕事帰りなのか地下鉄の駅から上ってきた明日架が立ち止まったのが2人の出会いだった。
友詞は別に、たくさんの人に立ち止まって聴いてほしかったわけではなく、ただ歌うことが好きなので、暇潰しによくそこで歌っていた。
気が向けば歌うし、そうでない時は歌わないので、「何曜日のこの時間にここで歌っている」という定期的なものではなかったため、毎日地下鉄を使っている明日架とこの日、初めて出会った。
友詞が外で歌っていると、たまに『綺麗な声だね』と言いながら通り過ぎていく人がいる。
自分では意識したことがなかったけれど、たしかに友詞の歌声は街でよく聞くがなったような歌声ではなく、透き通っていて、嫌う人がほとんどいないのではないかと思うような、まっすぐで澄んでいて、それでいて熱い想いが伝わってくる、そんな声なのだ。
だから逆に、友詞はみんなとカラオケに行くことが苦手だった。カラオケではシャウト系の歌を歌った方が周りが盛り上がるけれど、自分にはそういう声が出せないことがわかっていたから。盛り上がっているところでバラードを歌っても、みんな冷めてしまう。友詞はカラオケの誘いを極力理由をつけて断ることにしていた。
みんなと歌って盛り上がるより、ひとりでこうして囁くように歌うことが好きだった。流行っている曲よりも、自分が作った歌の方が気持ちを乗せやすいというのも理由のひとつ。
ヒット曲をたくさん生み出す人の歌詞は、結局言いたいことがわからなかったり、どの曲も行きつく場所は同じだったりして、友詞には受け入れられなかったのだ。
友詞の歌声は、言葉がなくても人々を魅了した。「ルルル」で歌っていても、立ち止まる人は立ち止まる。
あの日、友詞の声に耳を貫かれたのが、仕事から帰ってきた明日架だった。明日架は友詞の歌がひとつ終わるのを待って、拍手を贈り、声をかける。
「綺麗な声ですね。今日初めてですか?」
贈られた拍手に照れ臭そうに頭を下げた友詞は、ペットボトルの水を一口飲んで
「いや、結構いつも適当に歌ってます」
と答えた。
「私、いつもここ通るんですけど、初めて観たので……」
「気まぐれなんです」
友詞からすると、自分の声を褒められる以前にこの女性の声も透き通っていて綺麗だなと思った。
知名度を上げたいストリートミュージシャンと違い、名前が書かれたボードなどを掲げずにただ歌っている友詞に、明日架は名前を尋ねた。
「なんていう名前で歌ってるんですか?」
「あー、特に決めてないんすけど、聞かれたら『Yuji』って答えてます。アルファベットでワイユージェイアイ」
「決めてないって、珍しいですね」
「暇つぶしなんで」
明日架は、友詞の歌声を聴いていると仕事の疲れを忘れることができるような気がした。
「もっと聴いていってもいいですか?」
「もちろんです。えっと……名前聞いてもいいですか?」
「明日架っていいます。明日に架ける橋の、明日架」
「いい名前ですね。明日架さんは、今どんな気分ですか?」
「仕事ですごく疲れています」
「じゃあ、仕事の疲れが取れる歌を歌いますね。今日の疲れをリセットする歌」
明日架の表情がキラッと輝き、歩道を塞がないように友詞の横に立った。そこで友詞が明日架に歌った曲は、歌声の綺麗さも相まって本当に疲れが取れるようだった。
「明日もここにいますか?」
「あー、わかんないです。気分によります。来るって言っちゃうと落ち着かなくなっちゃうんで……」
「そうですか……わかりました。また会えたらラッキーだと思うことにします」
明日架はそれからも数曲、友詞の歌を聴いて、明日も頑張れそうです、と言い残して帰っていった。
それから友詞は時計を見て、すでに0時が近づいていることを知り、楽器を片付けて帰路についた。
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