青い糸

 心音しおんは脳に重大な障害を持って生まれてきた。生きている事が奇跡と言われた。両親は「何も出来なくても、何も分からなくても、どうか生きていられますように。心の音を聴く事が出来ますように」という願いを込めて、その名を与えた。

 心音は三歳になる迄の記憶が無い。いや、無いわけではないけれど、死んでいるのも同然だった。世界にある色は薄い青一色で、全ての物がかすんで見えていた。はっきりと見える物は何も無かった。音も、匂いも、何も無かった。

 それでも両親と三つ上の兄は、そんな心音を家族の一員としてとても可愛がった。身体は赤ん坊と同じ位小さく、身体を動かすどころか、泣く事も笑う事さえも出来なかった心音を乳母車に乗せて色んな所に連れていった。



 忘れもしない。三歳の誕生日。霞んだ世界にはっきりと見える物がひとつだけ現れた。

 家族四人で島から出てペットショップに行った時の事。乳母車の中で、いつものように目を開けているでも閉じているでもないような状態でいたオレは、何かそれまで感じた事のないまぶしさを覚えた。

 オレのいつも中途半端に開かれている目が少しずつ開かれていくような気がした。その目の先には真っ白な小さな塊があった。そいつの澄んだ青みがかった目とオレの目が合わさった。青い糸で繋がれているような気がした。しっかりと見開かれたオレの目から何かが溢れていた。

「母さん、心音が泣いてる!」


 オレは生まれた時からこれまで涙さえ流す事が出来なかったのだ。

 兄貴が声をあげ、両親は一緒に涙したらしい。オレはまだその時、青みがかった目を持つ白い塊しか見えなかったし、音も聞こえなかったので、これは後から聞いた話なんだけれど。

 両親は迷わずその仔犬を購入しようとしたが値段がついていなかった。店員によると、そいつは三日前にペットショップの前に置かれていた、元の飼い主も犬種もよく解らない、生後三週間位の仔犬らしい。売る事は出来ないけれど、ここに入れておいて興味を持ったお客様に話をしようと思っていたらしい。両親はオレの事を話し、この犬を家で飼う事になった。


 仔犬は兄貴がプチと名付けた。本当に小さくて大人しくて、真っ白なぬいぐるみみたいだ。母さんが図書館で犬のしつけの本を沢山借りてきて、兄貴とニ人でプチの面倒を見ていた。

 プチは部屋の片隅にサークルという小さなおりのような物に入れられていた。その中にプチのベッドとトイレが置かれている。プチは殆どの時間をベッドで静かに眠って過ごしていた。

 オレにはプチだけが見えていた。いつでも見ていられるようにプチの前にオレを乗せた乳母車を置いてくれていた。


 何も分からなかったけれど、オレは何となく、「生きている」というような感じを持つようになった。ただ毎日プチを見ているだけだったけれど、その澄んだ青みがかった目を見ているだけで毎日が過ぎていった。

 一週間が過ぎた頃、オレは時々プチの目の薄い青が濃くなるのを感じていた。その頃からプチは急に激しい動きをするようになった。とにかくサークルから出たがって、部屋に出すとすごい勢いで走り回る。おしっこも所構わずやってしまう。おもちゃを沢山買ってもらっているのに、自分のおもちゃで遊ぶより、スリッパやカーペットの隅をかじったりするのが好きみたいだ。

 とにかく、すばしっこいので母さんも兄貴もてんてこまいしていたようだ。


 用事があって部屋に誰もいなくなる時は、プチはサークルの中に入れられていた。オレはサークルの前にいつもいたのでプチの行動を目撃していた。

 オレ以外の誰も部屋にいなくなると、初めはベッドで大人しくしているのに、しばらく誰も来る気配が無いとプチの目の色が濃い青に変わる。小さくかがんだかと思うと一っ飛びでサークルの外に脱出だ。部屋の中を駆けずり回り、1つだけおしっこを残し、誰かが戻ってきそうになるとサークルに飛んで入り、何食わぬ顔でベッドで大人しくなる。

 母さんも兄貴も、おしっこがある事を不思議に思いながらも、プチが脱走しているとは思わなかったようだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る