心のゆきつき

@miumiumiumiu

第1話




 散っていく。命が散っていく。

 まだ失う必要のない、一つの命が散っていく。

 それは、自分のせい。自分のせいで、命は失われてしまう。

 どうすることもできない。その命が失われるのは自分のせいなのに、それがこうして目の前で起きようとしているのに、どうすることもできない。

 止めることもできない。

 助けることもできない。

 救うこともできない。

 駆け寄ることもできない。

 声をかけることもできない。

 できないできないできないできない。

 無力な自分のすぐ前で、その命は失われていく。

 止められない。目の前で命が失われていくのを止めることができない。本来なら自分が止めなければならないのに。それは、自分しか止められないことだというのに。

 そうして、目の前から一つの命が失われていく。

 大量の赤色が空間に溢れだす。

 噴き出す血は、どす黒い色を辺りに撒き散らしていった。

 染めていく。血は、世界をその一色に染め上げんばかりの勢いで空間を塗りたくっていく。

 溢れた先にできた血溜まり。その血溜まりに崩れていく命。

 消えていく命。

 消滅していく命。

 そのすべては、自分のせい。

 自分がいたばかりに。

 自分さえいなければ、失われることはなかったのに。

 命は散っていく。

 もうすぐにでもなくなってしまう。

 そして、命は失われる。

 それは、何億分の一という膨大な数字を有した、儚い命。

 奇跡の命。


 そうして、命はつながっていった。






 開かれる季節




       1


 四月一日、火曜日。

あつくーん」

「っ?」

 三神みかみあつは、春休みで半分閉じられている正門から校外へ出ようとしたタイミングで、声をかけられた。振り返ってみると、海田かいだ高等学校の紺色のブレザーに身を包んだ細井ほぞいあいが、顔の横でこちらに手を勢いよく振っている。と思ったら、五メートル以上離れていた地点から、かわいらしい小動物のように目の前まで勢いよく駆けてきた。

 とことことこっ。

「帰り、かな?」

「うん」

「やっぱりね」

「やっぱり、なんだ」

「うん、やっぱりだよ」

 駆けてきたとはいえ、たった五メートルの距離なので当然息は切れていないが、篤の目の前にある顔はそれでも少し紅潮していた。口を忙しなく動かしながら大きな瞳のある顔がやや斜めに傾くと、肩にかかる髪がさららーと同じ方向に流れていく。見紛うことのない細井藍である。

「あれ? ちょっとびっくりしてる?」

「……ああ、びっくりした。いきなり、だったから、それで……」

「ふふふっ、狙い通り。わたしの得意技の忍法忍び足で近寄ってきたからね。そっかー、さすがの篤くんも驚いちゃったかー。うんうん、そうかそうかー」

「…………」

 突然後ろから声をかけられたという意味ももちろんあるが、篤が驚いた理由はそれだけではない。というより、驚きに関していえば、声をかけてきたのが細井藍、ということが大きかった。

「細井、か……」

 篤はなにげにその名前を口にしたら、なんだか胸の奥がとんとんっとノックされる感じ。瞬間、自然とその頬が緩んでいることに気づき、咳払い。

「今日は、どうしたんだ?」

「篤くん、部活だったの?」

「あ、ああ、練習」

「そっか。わたしもだよ」

 学校指定の黒い革鞄を元気に右腕でぶんぶんっ振ったかと思うと、藍は前方に足を踏み出し、半分閉じられている正門を抜けていった。

 下校。

「…………」

 篤はいきなり背中を見せて歩きだした藍に、躊躇というか、戸惑いというのか、すっかり置いてきぼりを食らったというか、タイミングを逃したというべきか……ぼぉーとその場で立ち尽くす。

「…………」

 篤は少しずつ自分から遠ざかっていく紺色のブレザーの背中を目に、リズムよく左右に揺れる肩までの髪を認識し、一呼吸分の息がその口から空間へと漏れていって……意識して、さきほど藍に呼び止められたせいで踏み出せなかった右足を前へ。十歩だけ余分に力を入れて地面を蹴り、前をいく背中に追いついた。

「細井のは練習じゃないだろ? あんなお喋り部なんて」

「お喋り部?」

 藍は目をぱちくりっ。

「お、お喋りって、お喋りかどうかはともかくとして、いや完全にお喋りって言われちゃってるけど……あのね、いくら二年間同じクラスの篤くんだってね、言っていいことと悪いことがあるよ。そうだよ、世の中には許されることと許されないことがあるんだから。お喋りって部分はともかく、部っていうのは聞き捨てならないね」

「はぁ?」

 篤の身長は百七十センチ。その右斜め下にある両目はこちらを睨みつけるように細くなっている。

「えーと……」

「クラブだよ、クラブ。ク、ラ、ブ。家庭科クラブ。まったくもー、心外だなー。よりにもよって、部だなんて」

「ああ、聞き違いじゃなかったか……えーと、引っかかるところが大きくずれてる気がするんだけど……解説の細井さん、部とクラブはどう違うんですか?」

「ふふふっ、そんなの決まってるじゃなーい。いちいち説明しなくちゃいけない現状に、わたしは泣けてくるね。あー、情けない。いい、どう違うかっていうと、えーと、えーと……片仮名と漢字」

 藍は胸を張り、どこか誇らしそうな表情を浮かべると、おかしそうに口元を緩めていた。

「あのね、今度谷たに先生、結婚するでしょ? だからみんなでお祝いしようってことでね、今日はいろいろ話してたの。サンライズだよ、サンライズ」

「へー。夜明けなんだ。へー。日の出なんだ。へー。へー。へー。相手だって、できれば驚かす方にしてほしいはずなのに……。って、えっ? 谷って、音楽の?」

「あれ? 篤くん、知らないの? えっ? もしかしてもしかすると、ほんとに知らないの? えっえっ? 篤くん、ほんとのほんとに知らないの? もう鈍感だな、篤くんはー。どんなけ世間に疎いんだよ」

 ちらっと篤のことを見た藍は、またくすくすっと屈託なく笑う。

「鈍感以上に鈍感だね。超鈍感。ウルトラ鈍感。仮面ライダー鈍感。にぶ鈍ちん戦隊ドンカンジャー。もしくは、炊きたてほっかほか炊飯ジャー。炊飯ジャーはね、コンセントがあるから活動範囲が限られてくるんだよ。でも、その中にはほかほかのご飯があるから、行き倒れになりそうな人を助けることができるんだ。凄いぞ、僕らの炊飯ジャー」

「……設定がアンパンマンだね」

「弱点は、水を入れ過ぎちゃうことなんだよ。もー、お米がふやけてお粥になっちゃうよー、って力が半減しちゃうの」

「……でも、それって風邪の人には効果的では?」

「おー、密かにそういった特殊能力も備わっていたわけか。さすが炊飯ジャー。みんなのヒーローだね」

「……あ、うん、それ以上はついてけないからね」

 篤が匙を投げたそのタイミングで二人は顔を見合せ、声を上げて笑っていた。

 学校を出た二人は最寄りの小田姫おたき駅に向かうため、まずは校庭沿いを歩いていく。ネット越しに四階建ての校舎を見ることができ、手前には誰もいなくなった茶色いグラウンドが広がっている。

 二人は今、校庭沿いに植えられた桜の下を歩いている。見上げるそこには満開の桜が咲き誇っていた。

「ねぇねぇ、篤君、なんかさ、これって、年々早くなっていく気がしない? これってやっぱり、地球温暖化という化物の仕業なのかな?」

「桜のこと?」

 篤は、藍に倣って頭上を見上げてみる。一面に桜色があり、少しずつ空間を渡って道路にひらひらっと落ちてきていた。

「暖かいから、きっと咲いちゃったんだろうな。きれいだからいいんじゃない」

「きれいだけど……こんなんじゃさこんなんじゃさ、新入生が入ってきたとき、散っちゃってるよ。入学式に桜が散っちゃってるなんて、ちょっと寂しくない?」

「これもすべては温暖化という化物のせいだよ。早く助けを呼ばないと」

「きゃー、助けてー、炊飯ジャー」

 天を仰いだ藍だが、直後にまるで興味をなくしたかのように、顔を進行方向に戻していた。

「それはそうと、わたしたち、いよいよ受験生なんだよね。今年は頑張らないといけないねー。ついこの前、一所懸命勉強してようやく入学できたと思ったのに、また受験なんて。なんでこうも時間が経つのは早いのかねー。ちょっとは察しろってんだ」

「あのさ、その……細井は進路って、決まってるの?」

「うん」

 その笑顔は、一気に春という季節を通り越して真夏の太陽のように輝いていた。

「進路なんて、そんなの愛名あいなに決まってるじゃん」

 愛名大学、この地方で一番偏差値の高い大学である。

「あー、早く来年にならないかなー。今年は頑張って勉強して、来年はまたお兄ちゃんと一緒の学校いくんだー」

「そうか、愛名か……」

 そこは篤にとって、相当努力しないと入ることのできない大学。この地域の高校生憧れの大学で、選ばれたごく一部の受験生しかその栄光を勝ち取ることはできない、まさに難関中の難関。篤のような人間には、難関の関所すらろくに見つけることができないかもしれない。

「愛名ね……」

 篤の実力不足は誰よりも本人が十分にも十二分にも百分にも一億万分にも分かっているが、それでもその頭は都合よく、来春愛名大学に合格している自分の姿を思い描いていた。合格発表の日、藍の隣で一緒に喜びを分かち合う光景。手をつないで、春という輝かしい時間に身を置いて。

「……そっか、細井は愛名か……大変だろうけど、頑張ろうな」

「うん!」

 元気に頷いたかと思うと、藍はその場から跳ねるようにして前に駆けていき、三メートル先で小さくジャンプしながら体をくるっと回転させた。着地までに膝上まであるスカートが下を向いた朝顔のように広がり、一瞬にして萎んでいく。

「ねぇ、篤くん」

「んっ?」

 篤と藍の間には桜の花びらが舞っている。とっても淡い春の色。

「今年もさ、わたしたち、一緒のクラスになれたらいいね」

 そう言って浮かべた藍の笑顔は、見ている者の呼吸を止めて見惚れさせる絶大な魔法がかけられていた。

「ねっ、篤くん?」

「……もちろん」

 篤のその願いは、本当に小さな呟きにすら満たないものだったので、決して相手に届きはしなかっただろう。けれど、今の篤にはそれを口に出せただけでも、心高ぶる思いがした。実際、心臓は早鐘のように激しく脈打っている。

 どっくん! どっくん! どっくん! どっくん!

 それは、今年は今までにない何か特別なことが起きるに違いないと確信させるのに充分なものだった。


 その時感じた確信が現実のものとなること、もちろん現時点での篤には知る由もない。

 激動の一年となる今年によって、来春、三神篤と細井藍は、揃って大学に進学することができなくなってしまう。そればかりか、まともに海田高等学校を卒業することすらできない。

 それは今年、この暖かな春からは信じられないぐらい悲運で寂しい現実が待ち受けているから。

 この高校生活最後の年に。

 二人の間に。

 三神篤と細井藍。


       2


 六月二十七日、金曜日。

「ちょっとちょっと、大変よ」

「っ?」

 瞬間、三神篤の両瞼が一度素早く上下した。昼食を済ました昼休み、急激な眠気が襲ってくるだろう五時間目の始業チャイム十分前。篤は今日の放課後と明日の部活動についてぼんやり考えながら、三年E組にある自分の席で大きく欠伸をしていたところに、とても甲高く、とてつもなく慌ただしい声が斜め上から降ってきた。そのため、篤の半分閉じられていた目は、少しだけその丸みを取り戻す。

「どうした?」

「ちょっとちょっと、聞いてよ、篤。あのねあのね、藍のお兄ちゃんが入院しちゃったんだって」

 そう言って篤のすぐ前の空いている席に座ったのは、クラスメートの宮下みやしたふゆ。海田高等学校の夏服である袖に紺色の線がある白色のシャツ姿で、そうやって少しでも早く相手に声を届かせたいのか、顔を篤に接近させる。後ろで二つに縛られた髪は、落ち着きなく上下左右に揺れていた。

「びっくりだよね、入院だよ、入院。あの藍のお兄ちゃんが!?」

「えーと……何だっけ?」

「藍のお兄ちゃん!」

「あ、ああ……」

 三神篤はサッカー部に所属している。本日は練習があり、明日土曜日には試合がある。篤たち三年生は明日の試合で負けたら即引退、という立場にあった。普段は練習のこと、試合のことなんてほとんど考えないが、さすがに明日の試合に関しては、前日の今から緊張の色を帯びていた。なんせ高校生活最後の試合になるかもしれないのだ。だからこそこの昼休みのこの時間、普段とは違い誰とも話すことなく自分の席に座って部活のことを考えていたのである。

 よって、明日のことで頭がいっぱいである今の篤にとっては、突然かけられた突拍子もない宮下の言葉など、ちゃんと鼓膜を振動されていたかもしれないが、一言たりとも認識できていなかった。

「ごめんごめん、もう一回頼む。アンコール。ワンモアープリーズ」

「こ、こいつはこうも呑気に、能天気に、馬鹿みたいに、これはもう実際馬鹿に違いないし……藍のことよ。藍の。あのねあのね、大変なんだよ、藍のお兄ちゃんが入院しちゃったんだって!」

「藍?」

 篤が口に出したとき、すでに『藍』としっかり漢字変換できていた。藍。細井藍。一、二年生と同じクラスで、今年は残念ながらクラスが分かれた同級生の女子生徒。

 細井藍。

「そう、そうなんだ。驚いた。うん、驚いたよ……へー、あの細井の兄ちゃん、入院しちゃったんだ……」

「そうだよそうだよ。それも、結構重たい病気なんだって。でね、それがショックで休んでるの、藍のやつ。昨日帰ったら電話があってね、もうずっと泣きじゃくってるんだから。藍のあんな声、あたしとても聞いてられなかったよ」

「…………」

 篤はその光景を想像したくなかったし、いつも元気な藍が泣いている姿を思い描くなんて到底困難なことだったが……けれど、宮下の言っていることは本当のことに違いない。なぜなら、入院したのが藍のあの兄なのだ。あの兄が入院となれば、当然藍は泣くに決まっている。なんせ、あの兄のことなのだから。

 藍の兄、細井ほそいあお

「そっか、あの人、入院してるんだ……」

 不意に頭には、二年前の夏の日が思い出されていた。


 細井蒼。細井藍の二つ上の兄。海田高等学校卒。

 海田高校に在学中、蒼は野球部のエースだった。夏の地区予選大会、まったくの無名校だった海田高校をベスト四まで牽引した立役者である。それはもう地区で噂になるほど物凄い剛速球を投げるピッチャーだった。

 今から二年前、三神篤が一年生だったとき、当時クラスメートだった藍の誘いもあり、夏休みに電車に乗って野球場まで応援にいった。海田高校はどんどん勝ち進んでいくものだから、夏休みなのにまるで休み前と変わらず毎日制服を着て電車に乗っていた。その行き先は学校ではなく、野球場であったが。

 篤と藍は家が同じ方向だったので、よく電車で一緒になった。その間、藍が話すことといえば野球部のエースである兄のことばかり。藍にとって蒼がいかに自慢の兄か、嬉しそうに、実に誇らしそうに話していた。いつまでも話題が尽きることはなく。

 炎天下の野球場、応援席で声を張り上げて自分の兄のことを応援している藍の姿は、まるでアイドルを追いかけて目を輝かせている少女のようだった。実際、藍にとって兄の蒼はテレビに出てくるどのアイドルよりもアイドルだったのかもしれない。

 海田高校野球部は、昨年までの成績が信じられないほどの快進撃で勝ち進んでいき、ついに準決勝。あと二つ勝てば甲子園出場となる。しかし、残念ながら準決勝で敗退してしまう。元々強豪校ではなく試合に勝ち進むという経験に乏しい海田高校は、それまでに蓄積された疲労と、ベスト四というプレッシャーに負けたのか、味方のエラー絡みで失点を繰り返していき、惜しくも二対四という僅差で敗退した。

 瞬間、蒼たち三年生の夏は終わった。

 試合後、まだ余熱を残しているグラウンドでは、帽子を脱いだ坊主頭の蒼が、一つの青春の終焉に人目も憚らず涙している部員たちを労うように背中を叩いていく。決定的な場面で痛恨のエラーをしたショートは、グラウンドに崩れ落ちていた。蒼は笑顔を浮かべ、そのショートの肩を抱くようにしてベンチへと引き上げていく。

 グラウンドのそんな蒼の姿に、応援席にいる藍は拍手で迎えていた。全力で手を叩き、激戦を戦い抜いた蒼のことを精一杯労いながら、泣いていた。辺りに構うことなく声を上げて号泣して。藍曰く、それは誰よりも泣きたかったであろう兄の代わりに泣いていたのだという。

 球場の外、さきほどまでグラウンドで熱い激戦を繰り広げていた選手たちが夏服の制服に着替えて出てきていた。もちろんそこに細井蒼もいる。

 蒼は、突然涙しながら飛びついてきた妹の藍を片手で抱えて、宥めるようにやさしく頭を撫でていた。泣きたいのは誰よりも蒼自身のはずなのに。

 遠くから見ていたそんな蒼の姿が、当時の篤には自分では到底追いつくことのできない遙か高みにいるように見えた。

 そしてまた、自分もああいう人間になれたらいいな、と憧れも抱くのだった。


「そっか、あの先輩が入院なんだ……どこが悪いんだよ?」

 篤には信じられなかった。あの細井蒼が、二年前の夏、広いグラウンドからはみ出さんばかり躍動していたあの細井蒼が、今は体を壊して入院しているなんて。一年間とはいえ、学校で見かけた姿はどれも気丈で、病気なんて一切縁のない人に見えたのに。

「悪いのか?」

「うーんと、あたしも入院したってことだけで、詳しいことは聞いてないんだけど……結構悪いらしいんだけど、その……うん、分かんない。えへへ」

「役立たず」

「うわっ……せっかく教えてあげたのに、ひどい言い種」

 ドナルドダックのように宮下は唇を尖らしたが、すぐ頬を緩めていたずらっぽい表情を浮かべる。

「だからねだからね、藍、昨日も今日も休んでるんだって。残念だったねー」

「……何がだよ」

「またまたー」

「…………」

 篤の前、宮下は手を口に当て、顔面全体に気色の悪い笑いを浮かべて小さく手を振ると思うと、自分の席へと戻っていく。

「……何がだよ……」

 明日は篤が所属するサッカー部の試合があって、それに負けると三年生は引退となる。いわば高校サッカー最後になってしまうかもしれない大事な試合。

「……何がだよ、まったく……」

 明日、できることなら、二年前のあの野球場のときのように、見にきてほしかった。声を嗄らせて自分のことを目一杯応援してほしかった。

 細井藍に。

 あの夏の日のように。

 自分のことを。

 自分のことだけを。

「…………」

 今日の放課後、藍に声をかけて明日のことを伝えようとしたのだが……いないのなら仕方がない。そう、これはもうどうにもならないことである。

 断念するしかない。かなり大きな悔いが残りそうではあるが。

 仕方がない、もはやそう自分に言い聞かせるしかない。

 断念。

「…………」

 窓の外はうざったくなるほどの晴天で、今日も今日とてとんでもなく蒸し暑かった。このままだと明日はもっと暑くなるような予感がする。

「…………」

 篤は額に滲んでいる汗を右手の甲で拭い、細く長い息を吐き出してから、校庭の隅に並ぶ青々しい葉桜を見つめる……なんとなく気づいたことだが、これまで感じていた切迫感というか、胸が奥に押されるような奇妙な感覚が消えていた。きっと、さきほどまで帯びていた緊張が失われたからだろう。

 だから、それがおかしくて、つい、小さな笑みが漏れる。

「……ははっ、本番が明日だっていうのに、どうなってんだろう……」

 もう一度息を吐き出してから、うなだれる頭から倒れるように机に突っ伏していく。休み時間の教室の賑やかな空気を感じながら、ゆっくりと瞼を下ろす。

 直後、五時間目の始業を知らせるチャイムが鳴った。篤は顔を突っ伏したままもう一度息を吐き出した。


       3


 七月二十四日、木曜日。

 三神篤が通う海田高等学校は本日一学期の終業式だった。

 体育館で長く長くて長過ぎる以上に無駄に長い校長先生のありがたいを通り越してありがた迷惑な話を含む終業式が行われ、教室に戻って担任より通知表が手渡された。篤は英語の評価は思ってたより高かったことにご機嫌となり、周囲の連中と通知表を見せ合いながら、無邪気にはしゃいでいた。

 その後、一学期分の汚れを落とすべく大掃除を実施し、一学期最後のホームルームを経て下校となる。

 こうして篤は、受験に大きく影響が出るといわれる高校三年生の夏休みを迎えていた。まったくもって当たり前の話だが、この時点では、この夏休みに自身に降りかかる奇妙な運命について想像だにできていなかった。


「……っ」

 篤はいつもの鞄を肩にかけ、まだ賑やかだった教室を後にし、下駄箱で下履きに履き替え、履いていたスリッパを下駄箱にしまってから、今日が一学期の最終日ということを思い出す。肩から斜めにかけている鞄からビニール袋を取り出し、そこに一度は下駄箱にしまったスリッパを突っ込んだ。

「……ぁ」

 鞄にスリッパを入れた袋を押し込んでいるとき、すぐ前を後輩が通り過ぎていった。後輩は篤がこれから向かう門の方ではなく、グラウンドの方に向かって歩いていく。そっちにはサッカー部の部室がある。

「…………」

 目の前を通り過ぎていった後輩のように、去年まではうんざりするような夏の暑さのなか、汗だくのふらふらになりながらグラウンドを駆け回っていたが、今の自分にはもうそれがなくなっていること、この下駄箱を出て右に曲がり部室に向かうことがなくなっていること……それがなんだか残念なことに思えて仕方がなかった。その思いは不思議なものでしかない。下駄箱を出て右に曲がること、当時はあれほど足取りの重たいものだったはずなのに。

「…………」

 ふと振り返ると、階段の方に知っている顔があった。声を出さずにそちらに手を上げてから、篤はスニーカーを履いてすぐ近くの東門に向かっていく。そこでは外へ押し出されるように大勢の生徒が吐き出されていた。篤もすぐそこに加わる予定である。そうしてついに高校生活最後の夏休みを迎えるのだ。

 受験生。

(っ……)

 東門に向かう途中、篤の目にある人物が飛び込んできた。不思議だが、そこには同じ格好をした大勢の生徒がいたのに、篤の目がそこにいった瞬間、自然とその人物にピントが合っていた。同時に、心臓が大きく胸を叩いている。

 どっくん! どっくん! どっくん! どっくん!

「細井……」

 細井藍。篤とは一、二年生と同じクラスで、今年は残念ながら別々になった同級生。

「よっ」

 篤はなるべく不自然にならないように早足で追いついて声をかけたつもりだが、実際そうできた自信はなかった。

「なんとなく、久し振り」

 篤の声に、斜め下にある藍の顔はゆっくりと上げられる。肩までの髪が小さく揺れた。

「……あ、篤くん……」

「細井……?」

「……こんにちは」

「あ、ああ……」

 躊躇した。相手の薄い反応に驚きを通り越して、もうどうしていいか分からなかった。その僅かなやり取りだけで、藍が自分の知る藍とは別人のように見えたからである。

「…………」

 特徴的だった大きな瞳が今は元気なく半分閉じられていて、表情から笑顔が消えていた……そんな細井藍を、篤は今まで一度も見たことがない。二年前の夏の日だって、兄の敗退に泣きながらだが、けれどそこに笑みはあった。藍の代名詞とはいえば、篤の心をく笑顔なのである。だというのに、それが今、失われていた。

「……ど、どうしたんだよ? 元気ないじゃんか」

「んっ……どうもしないよ……」

「いや……とてもどうもしてないようには見えないけど」

「……随分失礼だね、篤くんは。この顔は生まれつきなんだよ。両親からいただいたありがたい顔なんだよ。それをさ、それを……けど、けどね、その、あの、えーと……えーとね……」

 藍は歩行のために前を向いているようで、どこか遠くを見ているような儚い目をしながら、つづける。

「あのね、今ね、お兄ちゃんが、ね……入院してるんだ……」

「…………」

 藍の兄が入院していることはちゃんと知っていた。だから藍が元気ないのも分かる。分かるが、それにしても、ひどい。

「お兄ちゃん、さ……死んじゃうかもしれない……」

「っ!?」

 篤の鼓動が跳ね上がる。その言葉が意味するものの大きさに、伝わってきたその声以外の音という音が消えたのではないかと錯覚するほど、空間を渡って伝えられた言葉は衝撃的なものだった。

 死。

 死。

 死。

「…………」

 知らなかった。そんな状況に、あの細井藍の兄がなっているだなんて。

 あの細井蒼が。

「…………」

「……お兄ちゃんね、わたしに、あんまり病院来るなって……」

 元気なく俯きながら、藍はそう寂しく言い放っていた。

 二人はそのまま、互いに前を向きながら揃って東門を抜けていく。これが一学期最後の下校。けれど、篤にはそんな感覚、そんな意識は芽生えなかった。まだ衝撃の強さから自分を取り戻せないでいたから。

「…………」

 学校の敷地沿いを歩いていくいつもの道。けれど、なんだか足元がふわふわっとして、初めて通る道のように見えた。

「…………」

「あのね、お兄ちゃん、ね……わたしに……わたしに、ね……」

 いつもの道に響く、いつもではない震えた藍の声。

「今年、受験だからって……もっと勉強しろって、もっと、もっと……わたし、こんなにお兄ちゃんのこと、心配なのに、こっちはとても勉強どころじゃないのに……お兄ちゃん、ちゃんとしろって……勉強しろって……」

 先月、蒼が入院した当初、藍はずっと学校を休んでいた。それは病に臥せて入院する兄に付き添うため、一週間以上休みつづけていたのである。

「お兄ちゃんが、お兄ちゃんがね……お兄ちゃんが、ちゃんと学校にいけって言うから、こうして学校に出てきてるよ……勉強しろって言うから、ちゃんと勉強もしてるよ……けど、けどね、やっぱりお兄ちゃんのこと、心配なんだ。わたし、心配で心配で……」

 藍の右手は自身の口を押さえている。まるですぐにでも吐き出されるであろう泣き声を決死になって堪えているように。

「わたし……わたしがね、お兄ちゃんのこと、心配しちゃ駄目なのかな? だって、お兄ちゃん、今日にも死んじゃうかもしれないんだよ。それぐらい重たい病気だっていうのに……。心配に決まってるじゃん。もっと一緒にいたいよ。もっともっと一緒にいたいよ。お兄ちゃんと、ずっとずっと……」

 藍の声が上擦ってきた。このままだと駅に着くまでに大きな瞳から大粒の涙が零れ落ちてくるかもしれない。

「だって、お兄ちゃんなんだもん……わたしのお兄ちゃんなんだもん……死んじゃうなんて、そんなのやだよー」

「……あのさ、細井」

 篤は、これ以上藍に喋らせておくと、とても寂しくて切ない思いをしそうな気がして、だから口を開いた。そんな思い、したくなくて。

「細井は、先輩と同じ大学にいきたいんじゃなかったっけ? 愛名あいなにいくんだろ? ならよ、先輩の言う通りだよ。先輩の言ってることが正しいよ。お前はちゃんと勉強しないと。でないと、先輩と同じ学校なんていけないだろうが? だろ?」

 現在細井蒼が所属している大学は愛名大学。偏差値県内トップの大学である。

「これから頑張って勉強しないと愛名なんて絶対無理なんだよ。けど、お前がそんなだから、先輩だって心配になっちまうんだろうな、きっと。見てらんないっていうのか、えーと、うまく言えないけど、その……ああ、だから! 受験生が受験勉強しなくてどうするんだよ!? 受験生は勉強する!」

「……そうだけど、それは分かるけど……でもでも、ずっと一緒にいたいのに、夕方しか会いにきちゃ駄目だっていうの。せっかく明日から夏休みで一日中一緒にいれると思ったのに。勉強だったら病室だってできるのにさ」

「えっ……」

 篤の目が開かれる。

「……ってことは、毎日顔を出してはいるんだな……」

「そんなの当たり前じゃん!」

 その強い口調に、もうさきほどまでの泣き声は消えていた。そればかりか、興奮したようで鼻息が荒くなっている。

「お兄ちゃんなんだよ! わたしのお兄ちゃん! そんなの一緒にいたいに決まってるじゃん! 毎日だって、ずっとずっと、ずーと一緒にいたいよ!」

「……お、おい、細井、ちょっと落ち着けって」

「これが落ち着いていられるわけないよ! お兄ちゃんが入院してるんだよ!? いくら今年わたしが受験生だからって、呑気に勉強してる場合じゃないんだよ! 入院してるんだよ!? 死んじゃうかもしれないんだよ!? お兄ちゃんとずっと一緒にいて、ずっとずっと一緒にいたいの! もっともっと一緒にいたいの! もっともっともーと一緒にいたいんだよ! だってわたしのお兄ちゃんなんだもん!」

「ああ、うん、そうだな……でも、夕方以外は禁止されてるんだろ、面会?」

「……うん」

 瞬間、一気に勢いがなくなった。

「……えーん、早くお兄ちゃんに会いたいよー。お兄ちゃーん」

 けれど、藍がどれだけ強くそう願おうとも、夕方までは病院にいけない。兄とはそういう約束になっている。

「お兄ちゃーん、寂しいよー」

「ならよ……」

 篤の顔面が一気に熱を持ちはじめた。その鼓動は、すぐ横にいる藍にも届くのではないかと心配になるぐらい激しいもの。けれど、抑えようとも、それらはどうすることもできない。自身ではコントロールできるものではないから。

「よければ、なんだけど、さ……おれと、さ、その、勉強、しねーか? 一緒に……」

 自分でも誤魔化しがきかないほど声が上擦ってしまった。恥ずかしい思いをしたけれど、そんなことよりもその返事に期待してしまう。にこやかな笑顔で首を縦に大きく頷いてくれることを願って。

「…………」

 篤の出した声があまりに異質だったせいか、まるでここだけ時間が止まったように、二人の間に沈黙が訪れた。

「……あの」

 無声となった現状に耐えられず、篤の方が口を開く。

「あ、いや、その、別にさ、その……先輩も勉強しろって言ってるわけだしさ、おれだって一応は受験生だから、勉強しなきゃいけないわけなんだよね。で、でな、その、同じ受験勉強しなきゃいけない身ならさ、その、だから……もしよかったらってやつで……一緒にどうかなってさ……」

 篤はとても横を見ることなどできなかった。どう誘えば自然になるか分からず、頭は慌てふためいてしまい、けれど恥ずかしいので表情に出さないように意識しなくてはならなくて、おかしな表情になっていないことを鏡で確認したいが、こんなタイミングでそんなものを取り出すことはできず、とにもかくにも、藍の横にいるだけで顔を覆いたいほど恥ずかしくて、とても相手の顔なんて見られなくって、だから、見えてきた駅の方を目にしながら、それでもその口は言葉をつなげていく。

「だからさ、その……どうかな? 一緒に、勉強」

「……うーん」

 ここまで、篤には物凄く長い時間が経ったような気さえしたが、実際は十秒もなかったと思う……横にある藍の口が開いた。

「えっとね」

「あ、ああ……」

 藍の口から出る言葉は、篤の思いに対する返事。一言一句聞き逃さぬよう、篤の呼吸が止まっていた。

「…………」

「お兄ちゃんね、愛名病院にいるの。亀舞かめまいのとこの」

 愛名大学付属病院。

「愛名病院、知ってる? うん、そこそこ。へー、いったことあるんだー。そっか、お祖父ちゃんが入院してたんだねー。でねでね、病院の近くに図書館があるの。信号渡って公園の向こう側」

 亀舞中央図書館。

「じゃあ、今からいこっか?」

「へっ……?」

 篤は瞬間、頭が真っ白どころか何もない真空になってしまった。きょとんとして呆然としてぼぉーっとして開けた口を閉じることができなくて……その耳で聞いた言葉がさっぱりで、それほどまでに惚けてしまった。

「あ、あの……」

「なんでそんな呆気に取られたような……もー、篤くんでしょ。篤くんが勉強しようって誘ってくれたんじゃなーい。じゃあ、いこうよ」

「あ……ああ、うんうん。うんうん! そ、そうだよな。受験生なんだから勉強しないといけないもんな。うんうん。いこ。すぐいこ。いこいこ。今から、いこう。うん、うん! いこう! 今すぐいこう!」

「うん」

 藍は微笑みながら小さく頷くと、腕を大きく振って軽やかな足取りで歩いていく。その姿、実に楽しそうに。肩までの髪は足を前に出すたびに弾んでいた。

 そんな藍の後ろ姿を目にして、篤は幾度となく瞬きを繰り返してから、右手を強く握る。

「……やった」

 呟きとともに篤の顔面に会心の笑み。それは、さきほどまで元気がなかった藍が楽しそうにしていることを喜んでいるものであり、藍が元気になったことを喜んでいるのであって、でも、本心としてはこれから暫く藍と一緒にいられることを超絶に喜んでいるのもの。

「やった」

 細井藍と学校以外の場所で、二人だけの時間を過ごすことのできる歓喜。

「やった!」

 声に出してから、地面を蹴るのに普段とは違う力を込めて、前にある背中を追いかけていった。

 もうすぐ最寄りの小田姫おたき駅に到着する。いつも見ている薬局の看板が、今の篤には一段と大きく見えていた。


       4


 八月二日、土曜日。

『篤くん、今日、時間あるかな?』

 それが昼過ぎに細井藍が篤にかけた言葉だった。

 篤は、少しだけ考えるような振りをして、その間ずっと心臓の鼓動が高まっていることを認識しつつ、少しずらした視線で大きく頷いた。

 そして夕方と呼ぶにはまだ少し早い午後四時。篤と藍は開館時間からずっと勉強していた亀舞中央図書館を後にする。いつもは六時過ぎまでいるのだが、今日は早目に切り上げて外に出た。玄関の自動ドアを抜けると、むっとする強烈な熱気に襲われ、思わず顔をしかめてしまう。毎日のことだが、覚悟していても慣れることはなかった。

 図書館を出た二人は隣接している亀舞公園へと入っていく。亀舞公園は学校のグラウンドが軽く五十個は入るであろうとても大きな公園で、敷地内には講堂があり野球のグラウンドがあり噴水があり、小さな古墳まである。

 篤は藍に誘導される形でそれらを横目にしながらどんどん奥へと歩いていき、たくさん植えられている木々から降り注ぐ蝉の声のシャワーを脳天に浴びながら、小道を抜けて大きな道路へと出ていた。結果的に、公園を横断したことによりそこまで近道をしたことになる。

 突き当たった道路を右に曲がるとコンクリート製の愛名工業大学の大きな門を見ることができ、左に曲がると遠くの方に電車の高架が南北に通っている。そして道路の交差点を直進すると愛名大学付属病院の建物が大きく聳えていた。

 愛名大学付属病院はとにかく大きく、建物の横幅が長い。まるで巨大な白いダムがそこに悠然と聳えているようにすら見える。十二階建てで、この大きさなら病室だけでも百は下らないだろう。

「久し振りだな、ここ……」

 篤がこの病院を訪れるのは三年振り。三年前、入院していた祖父が息を引き取った秋以来。当時の記憶と比較するように目の前の建物を眺めながら、建物中央に位置する正面玄関の方へと歩いていく。

「この駐車場、前より広くなったような……?」

「ほら、篤くーん、早く早くぅ」

 篤の前をいく薄い黄色のシャツがどんどん前に進んでいく。藍は毎日来ているので実に慣れた様子で駐車場横にある狭い歩道を抜けていき、ガラス張りの中央玄関から病棟へ入っていった。

「篤くーん、もたもたしてると、迷子になっちゃうよー」

「ならないよ、ちっちゃい子じゃあるまいし」

 玄関の自動ドアが開くと、前から押し戻されるかのように強力な冷気が吹きつけた。篤は表情を緩めるのだが、同時に鼻孔を刺激する薬品臭が纏わりつくようになる。篤にはその匂いがとても懐かしいもので、それは三年前の記憶と遜色のないものだった。

「細井、何階?」

「五階だよ、五階。早く早く」

「楽しそうだな、随分と……」

 ボタンを押してから約三十秒後に開いたエレベーターから数人が出てきて、その中には薄緑の病院服を着込んでいる患者もいる。二人は車椅子も悠々入るだろう大きなエレベーターに乗り込んで五階へ。ちーんっ、というベルとともに五階に到着して、手前から三番目の北側の扉、そこに白地に黒で『細井蒼』と書かれたプレート。他にはプレートを入れられるような場所がないので個室なのだろう。

「…………」

 篤は扉を前に、ごくりっと大きく唾を呑み込んだ。相手のことを知ってはいるが、それは見たことがある程度のもので、実質これが初対面。しかも、相手は細井藍の兄。細井蒼。急に全身に力が入ってきて、無償に喉が渇いてきた。

「お兄ちゃーん」

 篤の緊張に気づくこともなく、藍はノックもせずに勢いよく扉を開けた。着ている薄い黄色のシャツにひらひらのスカートが跳ねるようにして、参考書が入っているいつもの黒い革鞄を大きく振りながら、まるで飛び込んでいくように勢いよく入室していく。

「今日も来たよー」

「…………」

 後ろにいる篤から見えないが、真っ直ぐ一直線に中央に設置されているベッドへと駆け寄っていった藍の顔にはきっと満面の笑みが浮かんでいることだろう。なんせここには、あの細井蒼がいるのだから。

「…………」

 勢いよく飛び込んでいった藍に一歩遅れる形で、篤は肩からかけている鞄のベルト部分を一度強く握りしめてから入室する。そんなこと気にする必要はないのだろうが、なるべく静かに、気配を消しつつ、音を立てないようにゆっくりと扉を閉めていた。

「……先輩……」

 廊下で見たプレートから推測できたように、入った病室にはベッドが一つしかなかった。広さは学校の教室の半分ほどで、白を貴重とした壁に、窓にかけられているのも清潔そうな白いカーテン、テレビが設置されている棚には色とりどりの花が生けられている花瓶が置かれ、メロンやリンゴといった果物が詰められた籠もあった。部屋の中央部分にベッドがあり、ベッドの布団も清潔そうな白色のシーツに覆われていて、今は半分だけベッドが斜めに起こされていた。そこに、上半身を起こして妹のことを迎える病院服を着た青年の姿が。

 細井蒼。

「お兄ちゃん、大丈夫だった? どっか痛いところない? ちゃんとご飯食べた? もー、心配しちゃったよー。心配で心配で、もう心配だったんだからー。あれ、どうしたの、お兄ちゃん?」

「……あのな、俺は大丈夫だっていつも言ってんだろ? そんな昨日の今日でいきなり急変なんてするわけないんだよ。んなことより、今日もちゃんと勉強してきたんだろうな。俺は自分のことなんかより、藍の受験の方が心配だよ」

「そんなの、大丈夫に決まってるじゃん。もうばっちり。今から大学合格間違いなし。えっへん、どんなもんだい。自慢の妹だね、お兄ちゃん。だからね、わたしなんかのことより、お兄ちゃんは自分の体のことだけ考えてればいいんだよ。お兄ちゃんには早くよくなってもらわないと困るんだから」

「あー、はいはい。努力します」

「もー、お兄ちゃん、大好き」

「……まったく、子供みたいに」

「…………」

 篤の目の前、抱きついている妹の頭をやさしく撫でているのは、まさしく細井蒼その人だった。前ボタンの薄緑の病院服に身を包み、持っていた文庫本をベッドの脇に置いて、今は飛びついてきた妹のことをやさしく抱きしめている。その顔は、見ているだけで思わず引き込まれていきそうなほどやさしい慈愛に満ちた微笑みを携えていた。

「…………」

 間違いない、篤の目の前にいるのはあの細井蒼。なのだけれど、篤には大きな戸惑いがある。篤をその場に立ち尽くさせている原因は、目の前にいる細井蒼が、篤の知る細井蒼でなかったということ。

「…………」

 二年前のあの夏の日、ダイヤモンドの中心に立つ背番号『1』は、日焼けした顔に浮かぶ汗をユニホームの袖で拭い、弓のようにしなやかせた右腕を振り下ろして投げる剛速球をキャッチャーミット目がけて投げていた。その躍動感は、常人には得られるものでない迫力で、その勇往たる姿は選ばれた人間のみに与えられた光輝を纏っているようですらあった。その存在には、妹の藍はもちろんのこと、学校中の誰もが惹かれていた、まさしく海田高校のヒーローだったのである。

「…………」

 だというのに……記憶の中で輝きつづけるあの細井蒼が、今はあまりにも変わり果てていた。

 病室のベッドの上、病院服に身を包み、青白い肌。

「…………」

 細井蒼は、もうあの細井蒼ではない。あれからたった二年しか経っていないのに。その体を巣くう病は、こうも無残に一人の人間を変えてしまったのだろう。

 見る影もないほどに。

「…………」

 篤は、いつまでも動くことができずにそこに立ち尽くしている。それはベッドの上の人物から声をかけられるまで、ずっと。

「…………」

「ああ、聞いてるよ、君がいつも妹の面倒見てくれてるっていう、えーと……」

「篤くんだよ」

「あ、そうそう、ごめんごめん、いつも藍から聞いてはいたんだけどね……えーと、初めましてのようで、そうじゃないような、なんだよね? 後輩だって聞いてるから」

「……はい」

 篤は瞬きを繰り返す。そしていつの間にか、蒼の視線が妹からこちらに向けられていることに気がついた。その視線に一瞬体を硬直させ、それから自身の内側で急激に上昇する熱を頭の片隅で意識しつつ、それでもなるべく平然を装い、言葉をつなげていく。「こんにちは、です……その、あの……先輩が入院したって聞いて、その、とても信じられませんでした。ああ、信じられないっていうのは、その、別に変な意味じゃなくて、その、あの……先輩みたいな人でも入院するんだなって思って……」

 それから暫く篤は口を動かしつづけるのだが、自分でも何を言っていることがよく分からず、終着点をなかなか見出せずにいた。うまく喋れていないこと、まるで舌足らずのようでとても恥ずかしく、大量の汗が首筋を伝って背中へ流れていくのを拷問のように感じていた。

「あの、先輩のこと、えーと……一年のとき、応援にいってたんです。球場まで。ははっ、ちょうどこんな時期でしたね。あ、あれは、惜しかったですね、ベスト四ですもんね、凄いですよ。甲子園までもうちょっとでしたから。いや、ホントに、凄かったです。はい。あれは凄かった」

「うん、ありがと。そうだね、あれからもう二年なんだよね。振り返ってみると、あの時期はとにかく我武者羅でさ、ちょっとでも速い球を投げることしか考えてなかったなー。甲子園を目指す、なんて大それたことは思ってなかったけど、一試合でも長くみんなと野球がやりたくてね、どの試合も真剣勝負で、力を抜くところなんてまったくなくて。ってより、力を抜くなんてできなくてね……当時は少しぴりぴりしてたかもしれない。随分感じの悪い先輩だったかな?」

「い、いえ、そんなことありませんよ。感じが悪いだなんて、そんな……先輩はいつもかっこよくて、いつもここってときに三振取ってくれて、どんどん勝ち抜いていって、おれたちに夢を見せてくれて……。尊敬してました」

「ありがと」

 蒼は小さく礼を述べると、少し恥ずかしいような情けないような複雑な表情を浮かべて、頭をぽりぽりっ掻いていた。

「けど、それが今じゃ、この様だよ。とほほだね。なんだかけったいな病気で入院しちゃうし、そのせいで妹には心配かけるばっかで。あー、情けないったらありゃしない。ごめんな、藍、迷惑ばかりかけるお兄ちゃんで」

「そんなのしょうがないよ。だってお兄ちゃん、病気なんだもん。こういう時ぐらい、甘えてもいいんだよ。ってより、いっぱいいっぱいわたしに甘えてね。わたしは大歓迎なんだから」

「まさかそんなことを藍に言われる日がこようとはね、とほほだよ……でもさ、そうはいかないんだ。藍は今年、受験生なんだから。愛名に来るんだろ? なら、しっかり勉強しないといけないな。この夏場が勝負なんだから。他のことなんてどうでもいいから、藍はしっかり勉強するんだぞ。ああ、そうか、勉強という点でいうと、随分妹がお世話になってるみたいだね」

 蒼が再び篤のことを見つめてきた。

「改めてお礼を言わせてもらうよ」

「あ、いえ、そんな」

 篤は顔の前で手を横に振ると同時に、かぶりを振っていた。

「細井は頭いいですから、よくこっちが教えてもらってるぐらいです。助かってるのはこっちの方ですよ。頭の悪いおれに毎日付き合わせているみたいで申し訳なくって」

「いやいや、藍のことをちゃんと毎日図書館に通わせてくれてるだけで、助かってるんだから」

 夏休みがはじまってから、篤と藍は休館日以外は必ず図書館の自習室で揃って勉強していた。夕方、藍が病院へいく時間になるまで、ずっと。

「こいつ、すぐここに来たがるから。俺のことは大丈夫だから勉強しろって言ってるのに、気がついたらそこの扉ちょっと開けて廊下からこっちを覗き込んでるんだよね。あれはあれでちょっと不気味なんだぞ」

「だってだって、心配なんだもん。お兄ちゃんがいなくなったらって考えちゃうと、わたし、それが悲しくて悲しくて……」

 藍が元気なく俯く。

「……心配だから、早くお兄ちゃんの傍にいきたいんだもん」

「ねっ? すぐこれだ」

 最後の方は少し声が上擦っていた藍に対し、蒼が小さく吐息し、頭をやさしく撫でているのだった。

「ったく、いつまで経って、こいつは」

「……ぁ」

 篤には、目の前の光景が重なって見えた。二年前の野球部が試合に負けた日、球場の外で泣きながら抱きついてきた藍を蒼がやさしく慰めていた、あの夏の日と。


 今日は近くの河川敷で花火大会が行われた。細井藍の兄、細井蒼が入院する愛名大学付属病院からも見ることができ、見舞客や入院患者が特設されたロビーや中庭で北の空を見上げ、夜空を彩るさまざまな花火に歓声を上げていた。

 篤たち三人も蒼の病室で花火を眺めていた。花火が暗闇に鮮やかな輪を描く度、藍ははしゃぎながら何度も兄の腕をぐいぐい引っ張り、蒼もそんな妹に釣られるように笑っていた。

 篤は兄妹とは少し離れた場所に折り畳みの椅子を設置し、同じように色鮮やかな花火を眺めていた。藍と同じ空間で、楽しみにしていた花火大会を黙って見つめる。のだけれど、やはりその目は、ちょくちょく藍の方に向けられていた。

 同じ病室で藍とともに花火を見る。嬉しいことのような残念なことのような、篤には複雑な思いがした。本来ならば、今日は花火大会に誘う予定だったのだ。図書館からの帰り道に一緒に花火大会の会場にいって、横に並んで天空に舞う色鮮やかな花火に酔いしれる。そしてできることなら、その帰り道に気持ちを伝えるはずだった。

 そのために、篤は朝から極度の緊張を帯びていた。いつもだって藍と会うことのできる図書館へは緊張して足を運ぶのだが、今日は特別の特別の特別の中の特別、駅の改札で定期を出し忘れたぐらい極度の緊張を帯びていた。どう言えば自然に花火大会へ誘えるのか? どんな言葉で気持ちを伝えればいいか? 昨日の夜からずっと考えていたのである。

 だったが、篤の意識として今日は特別の特別の特別の中の特別なものだったのだが、けれど、残念ながらその緊張を乗り越えた先にある領域に辿り着けなかった。状況としては同じ空間に藍と一緒にいるのに、しかし、ここには二人だけではなく、藍の兄、細井蒼がいる。しかも藍は常に兄である蒼にべったりで……そんな様子に、一抹の寂しさと、予定していた通りに運ぶことができなくがっかりした気持ちが渦巻いていた。

 篤は横を見る。藍は相変わらず手を叩いてはしゃぎながら蒼に向かって満面の笑みを浮かべている。その姿は、この部屋にいるもう一人の存在のことなど眼中にないような気がして、それが不安でしょうがなかった。


 そして午後九時。

 篤は病院を後にした。思っていたより遅い時間になったが、別段問題はなかった。

「ねっねっ、凄かったねー。ばーんっ! ばばーんっ! って、きれーだったなー。お兄ちゃんもね、ありゃ凄いやー、だってー」

「ああ、凄かったな」

 篤は、さきほどまでの花火大会の感想をまるで幼い子供のように賑やかに喋る藍とともに、一定の間隔で設置されている街灯に照らされながら亀舞駅へと向かっていた。設置された街灯によって作られる二人の影は、二人が歩きつづけていく限り、並んだまま後ろから前へと忙しない移動を繰り返していた。

「それにしても、今日はありがとね、一緒に来てくれて。篤くんと一緒だったからかな? なんだかお兄ちゃん、いつもよりも楽しそうだった」

「そ、そうかな?」

 篤は首を捻る。思い返してみるが、そんな気が全然しなかった。

「先輩はさ、楽しがってたってより、お前のお守りに尽力してたって感じだったぞ。さすがに疲れるんだろうな、あんな近くできゃっきゃっ騒がれたら。そりゃ、もっと勉強してこいって話だよ」

「どういうこと? それ、どういうことよ? もー、失礼なー。お兄ちゃんに限って、そんなことないもーん。絶対ないもーん。絶対の絶対にないもーんったらないもーんねー。失礼しちゃうわ」

 ぷぅーっと頬を膨らませ、藍はそっぽを向いてしまう。

「そんなこと、絶対の絶対ないんだからね」

「……いや、兄妹と知りながら、妬けてくるぐらいだったよ」

 篤のその呟きは、相手には絶対聞こえないように調整されたもので、偽ることのない篤の本心だった。

 ここまで二人は亀舞公園沿いの道を真っ直ぐ歩いてきて、正面に高架が見えてきた。たった今、そこを電車の明かりが左から右へと流れていく。あれとは反対方向の電車に二人は乗ることになる。

「……にして、今日はよかったよ。うんうん。今日は、本当に……」

 まだ機嫌を損ねているのか、藍はそっぽを向いたまま、しかし、その口調はこれまでとは違っておとなしいものとなり、ゆっくりと時間をかけて以後の言葉をつなげていく。

「……今日は全然そんなことなかったんだけど……実はね、お兄ちゃんね、時々、発作が起きるんだよ……顔からいっぱい脂汗出して、震えながら力いっぱい胸を押さえて、ベッドの上で背中を丸めて苦しそうに……本当に痛そうにしててね、とっても苦しそうでさ……わたし、それ見てるだけでね、見てるだけでね……わたしには見てることしかできないの。お兄ちゃんはとても痛そうで、もう体が壊れちゃいそうなのに、わたし、何もしてあげられることができないの……」

 藍の両肩が小さく震えている。

「いつもね、お兄ちゃん、このまま、死んじゃうんじゃないかって、もう怖くて怖くて……」

 電車の音が響いてきた。正面の高架を電車の明かりが右から左へと流れていく。

「わたし……」

「……ぁ」

 篤の右手が藍の左手首を掴む。力強く。

「……あのさ、信号」

 交差点、前方の信号は赤色で、それに気づかずに藍が渡っていこうとしていた。だから咄嗟に篤の手が伸びる。

「赤信号、だから」

「あ、うん、ごめん……」

 藍は、二度、三度と指で目の下を気にしていて、それから顔を上げる。

「……へへへっ。ごめん。ごめんね。わたし、なんだか変なこと言っちゃったね。ごめんごめん。今のは二人だけの内緒ね。しぃーだからね。こんなこと言ってるのが知られちゃったら、きっとお兄ちゃんに無茶苦茶叱られちゃうだろうからさ」

 上擦っていた声は、元通りとまではいかないまでも随分落ち着きを取り戻していた。小さな笑みも漏れている。

「だからね、篤くんがいるとき、お兄ちゃんにいつもの発作が出たらどうしようって、ちょっとはらはらしてたんだー。だから……その、本当は篤くんに、病院、来てほしくなんてなかったんだよね。わたし、誰も連れてくる気なんてなかったし……でもね、お兄ちゃんに篤くんのこと話したら、是非連れてこいって言うんだもん。どうしてもって、お兄ちゃん、言いだしたら引かないから……でも、よかったよ。篤くんにお兄ちゃんの苦しいとこ、見られなくて済んで。あっ、もしかしたら、篤くんがいたからお兄ちゃんの体調がよかったのかもしれないね。おお、まるで体を癒す天使じゃないか。さすが篤くん、すでに人類を超越しちゃってる」

 言葉の中に冗談を含ませるようになった藍は、さきほどまで外していた視線を篤に戻すことができていた。

「今日はありがとね」

「あ、う、うん。こんなの、どってことないよ……」

 電車が通過する高架を潜り、少しだけ歩いて亀舞駅へと到着。この駅は家から学校までの途中の駅で、二人とも春に購入している半年分の学割定期券で改札を通り抜ける。エスカレーターでホームまでいくと、ちょうどタイミングよく電車が滑り込んでくるところだった。揃ってエスカレーター近くの前から二番目の車両へと乗り込んでいく。

「…………」

 午後九時過ぎということで、電車はかなりの空席が予想されたが、予想に反して車両はピーク時のラッシュを思わせるほど混雑していた。きっと花火大会の影響によるものだろう。

 二人は人の熱気で蒸し暑い車両の扉付近に立ち、それぞれ目的の駅を目指す。人と人の間に小さく窓が見える。電車は高架上を走っているため、大きなマンションと遠くの方の明かり以外、暗い世界がそこには広がっていた。

「…………」

 混雑する電車に自分の場所を確保するのにも一苦労で、二人とも口を閉ざし、揺れる車体に負けないように踏ん張っていた。そんななか、篤は朝から勉強していたので、少し疲れが出たのかもしれない。小さな欠伸が出た。

 車内には制服を着た高校生がいて、浴衣を着たカップルがいて、眼鏡をかけた小学生が狭いスペースで携帯ゲームを弄っていた。篤のすぐ近くの席に座る背広姿のサラリーマンがうとうとと船を漕いでいて、顔を赤らめた背広姿の中年二人がプロ野球の話で盛り上がっていた。

「…………」

 篤はなんとはなしに横目で藍のことを見る。肩までかかる髪、やはり疲れているのか、普段大きな瞳は少し細くなっている。その下にある唇は下唇がぷっくりと厚く、病院で花火を見てはしゃいでいた病室での姿が信じられないぐらい静かに立っていた。

 車内にアナウンスが流れ、電車は次の駅に到着する。扉が開き、車内に多少の人の流れができ、再び扉は閉まって電車は次の駅に向けて走りはじめる。

「……どうかしたの?」

 篤の視線に気づいたらしく、藍が斜め下から上目遣いで見つめてくる。

「篤くん?」

「あ、ううん……」

 上目遣いの藍の視線、篤の心臓を一度大きく脈打たせていた。

「べ、別に……」

「変なの」

「…………」

 そして二人の間に沈黙が訪れる。

「…………」

 夏休みに入り、一緒に図書館で勉強するようになった頃は、今のような沈黙には耐えられなかった。間が持たず、とにかく話題を探しては空回りにして、苦笑するしかなかったのだが、もうそんなことはない。いつだって元気な藍も、時には静かになることがある。今の篤は、そんな藍と一緒にいても自然体でいられることができた。関係性を考えてみれば、これは進歩と呼べるものだし、関係が進展していることを実感することできる。そう、これは進歩であり進展なのだ。夏休みに入る前からすれば信じられないことで、とてつもない前進なのである。これほどまでに二人の距離が縮んだことを意味するのだから。

「…………」

 けれど、けれども、近づいてしまったばかりに、知らなくてもいいことだって目の当たりにすることがある。聞かなければよかったと思うことだってある。

 今回も、そう。

 あんなこと、知らない方がよかった。

 入院する細井蒼について。

 その儚い存在について。

 生命としての薄さ。

「…………」

 アナウンスが流れ、電車はもうすぐ次の駅に到着する。

「じゃあね、篤くん、また明日」

 電車は栄中えいなか駅のホームに到着した。黒鞄を持った藍は反対の小さく手を振って、下車する背広姿の数人とともに車両から出ていった。

 暫くすると扉が閉まり、電車がゆっくりと動きだす。篤が振り返ってみると、藍の黄色いシャツは進行方向にある階段へと消えていくところだった。

「……細井……」

 それは、口を動かすだけの声にならない言葉。

「……心臓、か……」

 細井蒼を床に臥せさせるもの、それは心臓の病。それもただの病ではなく、現在蒼が蝕まれているのは、手術でどうこうできるような生易しいものではない。補助するためのペースメーカーを活用したところで多少延命させられるだけに過ぎない重度の病気だった。

 唯一、蒼が生き長らえる術として、心臓移植というものがある。だが、それは言い換えれば、心臓が移植できなければ、近い将来確実に死が訪れるという不治の病であるということ。

 六月に発祥したばかりの蒼のドナーは、まだ見つかっていない。仮に運よくドナーが見つかって移植手術ができたとしても、移植した心臓の拒絶反応を抑えるための投薬が必要となり、さらにはこれから一生その薬の副作用につき纏われることになるらしい。

 今年の六月、蒼は突然その病に見舞われた。当然運動は禁止され、当たり前のように毎日通っていた大学にすらいけなくなる。今日までずっと病院から一歩も出ることができず、今も苦しい闘病生活を余儀なくされているのだ。

 蒼を不治の病から救うことのできる唯一の手段であるドナーに関し、確率的には蒼に近しい人間の心臓がマッチしやすいらしいが、残念ながら藍や両親でもいい結果が得られなかったという。

「……あの先輩、が……」

 突きつけられた現実、それは容易に受け入れられるものではない。あの学校のヒーローだった細井蒼が、時期に死を迎えてしまう非常にか細い存在などと、とても。

 仮に運よくドナーが見つかったとしても、あの野球部のエースはもう二度と激しい運動をすることができず、一生投薬とその副作用に苦しまされることになる。

 どう転んだところで、もうあの夏の日の細井蒼はどこにも存在しないのだった。

「……先輩……」

 考えてみると、それは今の自分や家族にだって、いきなりそういう症状に見舞われるのかもしれない。今は元気でも、明日いきなり倒れて、それから一生心臓の苦しみに苛まれるとしてもおかしくはないのだ。そういう人間が実際いるのだから。

「……っ!」

 発想がそう思い立った瞬間、篤は思わず首を横に振る。同時に、その口からは無意識に一つの大きな息を吐き出していた。

「……細井のやつ、どんな気持ちなんだろ……きっと不安で不安でしょうがないんだろうな……」

 自分の近しい人間、しかも大好きな人がそんな重度の病に見舞われたとしたら、いったいどんな気持ちを抱くのだろうか? 今の藍はいったいどんな心境で日々の生活を送っているというのか? 思いを巡らせてみると、明日から顔を合わせるのが少し辛くなってきた。

 篤だって、家族がそんなことになったら、とても平常ではいられないだろう。ましてや大好きな人……細井藍がそうなったらと考えると……もはや『絶望』という二文字しか頭に描くことができなかった。

 病により、あの細井藍が細井藍ではなくなってしまうのだから。

「…………」

 車内にアナウンスが流れ、電車は徐々に減速していき、青川あおかわ駅に到着した。篤が下車する駅である。左肩から斜めにかけている鞄が暴れないように手で押さえ、開いた扉からホームに降り立つ。

「細井……藍……」

 ホームに立つ篤には、いつもの蒸し暑い夏の日の空気に、ひんやりと肌を刺すような冷たいかけらが混じっているように感じたのだった。


       5


 十月二十日、月曜日。

 海田高等学校の体育祭と文化祭は九月に行われる。大きな行事を夏休み後すぐ実施することにより、三年生に逸早く受験に専念させるための配慮である。三神篤は、去年までは実施時期について疑問視していたが、三年生の今年その意味と意義を知り、学校側の配慮に応えるべく、勉強により一層の努力を注ぎ込もうとしていた。しかしそれは『していた』であって、『していた』でしかない。少なくとも、先週まではそう考えていたし、勉強に力も入れていた。無謀かもしれないが、県下トップの愛名大学を目指そうとしていた。夏休みの間中、ずっと一緒に勉強してきた細井藍と同じ大学に進むため。一緒に合格発表で喜びを分かち合うことだけを目標にして。

 けれど、今はそれどころではなくなった。本人が世間一般の受験生としての時間を望んだところで、周囲の環境がそれを許してはくれなかったからである。

 受験生が受験生でありながら勉強におぼつかない、それほどまでの大きな事件がこの時すでに起きていた。それも、世間的に大事件と呼ばれるものである。

 そしてその大事件は、本日十月二十日にはすでに過去のものとなっていた。

 だから、もう現時点ではそれを取り返すことはできない。

 どうあろうとも。


「先生は?」

 それは、海田高校北校舎二階中央に位置する三年E組の教室において、クラスメートが前の壁にかけられている丸時計が刻む時刻を目にし、語尾を上げつつ発した声。その声に、周囲にいる生徒は揃って首を傾けていた。

「…………」

 冬服の制服である詰め襟姿の篤も教室前方の黒板の上に設置されている時計を見る。八時四十分だった。始業のチャイムは三十分に鳴っており、いつもなら朝のホームルームがはじまってそろそろ終ろうとしている頃合いだが、今日は朝のホームルームどころか、担任の安井がまだ教室に来てすらいなかった。このクラスになってかれこれ半年、こんなことはじめてのこと。

「…………」

 考えてみると、おかしいのはそれだけではない。篤が登校してきたとき、いつもならせいぜい二、三人の教師が門に立って登校してくる生徒を出迎えているのに、今日はその数がやけに多かった。しかもあろうことか校長や教頭までもがそこに交じっていたのである。それも出迎えているというよりは、登校してくる生徒を早く学校の敷地内に入れさせたいような、とても慌てているように見えた。

 その時ふとグラウンドに目をやると、いつも朝練に汗している野球部やサッカー部の姿がなかった。練習禁止になっているテスト期間でもないし、このところつづいている晴天でグラウンド状態も悪くなかったのに。少なくとも、篤が現役の頃はこの条件下で朝練が中止になることなど一度もなかった。

「…………」

 篤は朝から不可解な現象を感じる学校に、なんとなくいやな予感がした。心臓が重たくなるような奇妙な感覚。これまでも何度かそういった経験があり、大抵それは的中していた。授業参観に教科書を忘れたり、大事なテスト前に発熱したり、無計画に買い物をして帰りの電車賃が足りなくなったり……不思議とその心臓の重みを感じたとき、いやなことは起きていた。

 だからといって、その予感も絶対ではない。たまたま当たったときのみ記憶に残っているだけかもしれないのだ。だから篤は、今日は変なことが起きなければいいなと思うのだが、願い虚しく世界はそれを許してはくれなかった。

 そればかりか、これから先、どうあったところで、篤の望んだ通りに都合よくこの世界が展開することはなかった。それはもちろん、これから篤が決して望まない世界にその身を置かなければならないことを意味する。

 それは、どうあっても。

 世界はそれを強制する。

 そして立たされる現実に、篤を前へ進むしかない。

 どうあったところで。


「すみません、遅くなりました」

 結局、担任の安井が三年E組の教室にやって来たのは、一時間目始業である八時四十五分のチャイムが鳴った少し後のこと。教卓の前に立つ安井は、ここまで急いで走ってきたのか、息が上がっていた。

「みんな、落ち着いてよーく聞いてほしい。今日はみんなに残念な知らせが……というより、悲しい知らせがあるんだ」

 三十代前半の安井先生は、いつもはポロシャツといった軽装なのだが、今日は珍しく半袖のYシャツにネクタイをしていた。先日散髪にいったばかりの短髪、その下にある糸のように細い目が、今は教室中を二度、三度大きく旋回している。いつものように出欠を取るべく全員の顔を確認しているような、現状におけるクラスメートの様子を探っているような。

 安井に釣られ、篤も教室を見てみる。篤の席は窓側なので、首を右に向けるだけでクラスメートの顔を確認することができる。数えてみると今日は三つほど空席があったが、安井が遅れて教室にやって来た以外、特に変わった様子はなかった。先週までと同じ三年E組である。

 けれど、どんなに同じように見えたところで、安井の言う『悲しい知らせ』とやらで、すでにいつもとは違う教室になっているのだろう。

 教室中が緊張の色を帯びる。

「実はな、渡辺のことなんだが」

 渡辺わたなべ竜矢たつや。出席番号二十三。三年E組の前期学級委員で、二年生のときは生徒会の副会長を務めていた。成績は中の上ぐらい、身体能力は下の中。背は百六十センチあるかないかと小柄で、声のトーンが男子にしてはかなり高いという特徴がある。篤が確認した空席の一つが渡辺のもの。

「もしかすると聞いている人もいるとは思うが、その、渡辺は、だな……」

 安井は急に言い淀む。とてもそこから先の言葉を吐き出すことに躊躇しているように。今日、この教室に渡辺の姿はない。どうもその理由を安井は発表しようとしているらしいが、視線を落としてなかなか言いだせないでいた。

 けれど、いつまでもそうしているわけにはいかないらしく、意を決したのか、安井は顔を上げて口を開けた。

「みんな落ち着いて聞いてくれ」

 安井は口にする。とても平凡な高校生活には似つかわしくない超絶な悲しさが含まれる、その言葉を。

「実はな、渡辺は……このクラスの渡辺竜矢は、死んだんだ」

 死んだんだ。

 教室中に、響き、染みていく。

 溶け込んでいく。

 死。

「っ……」

 その瞬間、安井の口から放たれた言葉を耳にしてそれを脳が認識した瞬間、篤は教室中が見たことのない異世界に変移したような錯覚を受けた。

 安井は、もう一度口にする。

「死んだんだ、渡辺は」

 安井が口にした言葉は、言葉としてはあまりにも日常にあり触れたものでありながら、現実としてあまりにも非日常的なもの。しかもそんな言葉を身近な人物に使われたことにより、今まで正常に流れていた教室中の空気が一瞬にしてかちこちっに固まっていた。これほどまでの凝固は、もう元の教室に戻すことなど絶対に不可能と思わせる雰囲気があった。

 現実、もう元に戻ることはない。教室の一部がすでに失われているのだから。

「とても残念な話ではあるし、信じられないことかもしれないが、しっかり受け止めるしかない。みんなも気を確かにな。詳細は後から説明する。そういった関係でだな、今日は少しばたばたするかもしれない。だが、みんなには落ち着いてほしい。落ち着いて冷静に行動してほしい。渡辺が死んで、悲しいのはみんな同じなんだ……。それでは今日の連絡だが、午前中はすべて自習になった。みんな騒ぐことなく、静かに教室で自習していてほしい。断じて渡辺のことを変に詮索するようなことのないよう、しっかり勉強に取り組むように。みんな受験生なんだから、これからの一日一日はとても大事なものになるんだぞ」

 言い放つや否や、安井は足早に教室を出ていった。まるで渡辺の死について詳細を問い詰められることを避けるかのように。出席すら取ることなく。

 そんな安井の姿、三年E組の誰の目にも落ち着けと言った本人が一番落ち着きをなくしていたように見えたに違いない。けれど、それも仕方のないことだろう。自分が担任している生徒がいきなり他界したのだ、激しく取り乱して慌てふためいたとしてもおかしくはない。

 なんせ、この世から一人の人間が消えてしまったのだから。

 死んだのだから。

 死。

「死んだって、どういうことよ!?」

 安井が教室を出ていった直後、クラス中からは一斉に驚きと疑心と興味本位により、さまざまな声が上がっていた。先週まで当たり前のように登校し、同じこの教室で勉学に勤しんできたあの渡辺竜矢が、週か明けたらもうこの世には存在していないなどと、とても『あ、はい、そうですか』と簡単に受け入れられるものではない。

「渡辺が死んだ!? 死んだって!?」

「おいおい、渡辺のやつ、洒落になってねーっての」

「死んだって、死ぬってことだよな?」

「死んだって、どういうこと!?」

 授業中ということなどお構いなしだった。クラスメートは休み時間以上に声を張り上げ、それぞれの頭上に巨大で膨大な数のクェスチョンマークを浮かべている。

 驚きと戸惑い、さらには与えられた情報の少なさに渡辺の死を疑問視する声といった、いろいろなものが飛び交い、何重にも渦巻く教室。

「…………」

 そんな教室において、篤の心臓は強く激しく脈打たれていた。

 どっくん! どっくん! どっくん! どっくん!

「…………」

 篤の心臓の鼓動をおかしくしたのは、さきほど安井の口から出た『死』というキーワード。その言葉を聞いて以来、鼓動の周期がおかしなものとなっていた。

 死。

 渡辺竜矢の死。

 死。

 クラスメートの死。

 死。

 渡辺の死。

 死。

「…………」

 篤は、亡くなった渡辺竜矢とは同じ中学出身だった。だが、今年まで同じクラスになったことがなく、ほとんど接点という接点がない。それでも篤は同じクラスになる前から渡辺のことを知っていた。渡辺はあまり目立つ生徒ではなかったが、去年生徒会の副会長を務めていたし、中学でも生徒会に入っていて、その時も副会長だった。だからなんとなく名前と顔ぐらいは知っていた。けれど、去年まではその程度に過ぎなかった。

 今年同じクラスとなり、なんとなくの印象として感じていたのは、正義感は強いが自ら進んで先頭に立つような性格ではなく、その度胸もなくて、それが万年『副会長』を物語っているようだった。

 渡辺竜矢。

 もういない人。

 死人。

「ねえねえ、なんで渡辺が死ななくちゃいけないの? ほんとはさ、こっそり家で勉強してるんじゃないかな? っていうのは、ちょっといやな言い方だったね……。でも、こんなの、信じられないよね……」

「……っ……」

 篤の視界、目の前の明るさが若干陰る。クラスメートの宮下冬がやって来ていたから。午前中はすべて自習なのだが、そんなものは名目上でしかなく、教室は渡辺の話題で持ちきりだった。受験生なのだから、少しぐらい真面目に勉強すべきだというのに、クラスメートの死は、多感な少年少女のやる気と方向性を捩じ曲げていた。

 とはいえ、突然与えられたクラスメートの死という究極の生命の状態に対し、情報の少ないこの状況下で、平然と勉強していられる方が変なのかもしれない。もしくは、薄情というレッテルを貼られることだろう。

「…………」

「ねえねえ、渡辺のやつ、どうしちゃったんだろう?」

「…………」

「実はこれまでずっと病気だったかな? 無理して登校してきてたとか? ああ、でも、違うね、渡辺、元気だったもんね。ただおとなしいだけで。だったら、交通事故かな? あんまり慌てて道歩くようなタイプには見えなかったけど、どうしても近道したくて、渡っちゃいけない場所を渡っちゃったとか? それともそうだな、ダンプカーに轢かれそうになった子供を助けようとしてとか? それじゃ漫画か」

「…………」

「うーん、でも、あの渡辺が死んじゃったのか……そう言われただけだからなー、全然実感が湧かないなー。今日だって、死んだってより、風邪かなんかで休んでるって感じだし。安井先生があんなに動揺してたから、きっとほんとに死んでるんだろうけどさ……。あ、ってことは、お葬式があるわけだよね? ああ、その前に通夜があるのか。通夜ってさ、これでいいんだっけ? 制服で? 一応、顔出しとかないといけないよね。クラスメートなんだし。そう思うと、ちょっと憂鬱だな……」

「…………」

 いつまでも鼓動が激しいままの篤にとって、聞こえてくる声という声、音という音が耳障りなものに思えてしょうがなかった。込み上げてくる激情をどうにか抑え、倒れるように机に突っ伏していく。

 何も聞きたくない。何も話したくない。何も見たくもない。今はただ、そっとしておいてほしい。

「ごめん、疲れてる……寝る……」

「寝るって……なーんだ、つまんないのー。まったく……言っちゃなんだけど、篤がそんなんだったら、藍のやつ、立ち直れっこないと思うよ。お兄さんにあんなことがあったんだから、今こそ篤が元気づけてあげなくちゃ。それが篤の役目でしょ? ってより、これはチャンスじゃない? 落ち込んでる女の子にやさしい声をかける。そのまま二人は自然と深い仲になっていて、猿が木から落ちるように、二人は恋に落ちていくんだよ。きゃー、素敵」

「……ごめん」

「つまんなーい……」

 相手にされない虚しさに気づいたらしく、宮下はその場を離れてクラスメートに声をかけていく。当然話題は亡くなった渡辺について。その声は教室中に響いていた。

「…………」

 篤は、机に突っ伏したまま、耳に入ってくるすべての言葉を意図して遮断していた。鼓動を鎮めるために目を閉じて落ち着こうとするが、到底心が落ち着くことはできなかった。気がつくと渡辺のことを考えていて、それを頭から排除しようとしても、今度は別のところから細井藍のこと、その兄の細井蒼のことが頭に過り、それがまた自分をおかしくしていく。そして胸の鼓動はいつまでも早鐘のように激しく脈打つ。

 どくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどく!

「…………」

 心を乱さんばかりの激しい鼓動に、胸に手を当てながら耐えるように下唇を噛みしめる。正体不明の強迫観念に襲われ、何か見えないものから耐えるようにして窓側にある左の拳を強く握った。爪が皮膚に食い込む痛みに、反射的に力が抜けた。その時はもう、脇の下には気持ち悪い大量の汗が分泌されているのである。


 担任の安井から伝えられた通り、篤たち三年E組は昼までずっと自習だった。さすがに四時間目ともなると話題に尽きたのか、半分以上の生徒が真面目に自習をし、それ以外は机に突っ伏して眠っていた。その四時間目の途中、担任である安井が教室に戻ってきた。手を叩いて全員を注目させ、現状で判明している渡辺のこと、さらには午後からの予定について説明する。そして、渡辺について生徒から質問をされるのを拒んだのか、朝同様に安井はそそくさと教室を出ていった。

 昼食後の五時間目、篤のいる三年E組のメンバー全員は職員室横にある視聴覚室に集められる。といってもビデオの上映がはじまるわけではなく、今はこの視聴覚室が順番を待つ待合室という名目で使われていたのである。名簿順に一人ずつ職員室に隣接する進路指導室に呼ばれるのだ。

 三神篤の出席番号は十八。五時間目の終業のチャイムがそろそろ鳴ろうかというとき、順番が回ってきた。先に呼ばれたメンバーは誰一人としてこの視聴覚室に戻ってきていない。篤はこれから何をさせられるのか一抹の不安を抱きながらも、まだ半分近く残っている視聴覚室を後にした。

「三神、ちゃんとノックしてから入るんだぞ。よし、いけ」

 進路指導室の前にいる担任の安井の声に小さく頷くと、篤は『進路指導室』というプレートのついた扉を二回右手の甲で叩く。何と言ったかは定かではない中からの声に、ゆっくりと扉を開けた。

 その直前、篤はまるで気合を入れるように、腹の中心に目一杯力を入れる。

「どうも、こんにちは。君が三年E組出席番号十八番、三神君ですね? えーと、三神、篤君。扉を閉めて、ここに腰かけていただけますか?」

「……はい」

 篤は小さく返事をし、声をかけてきた人物と向き合うように設置された折り畳み机へと足を進めていく。

 室内には二人の人間がいた。座った篤の右側に立っているのが、五十歳近いであろう茶色の背広を着た人物。名前は内藤ないとうと紹介された。短く揃えられた髪は半分以上が白いものだった。

 そして篤と向き合って座っている人物が、舟越ふなこし。見た目は四十代前半に見えるが、実年齢はもっと若いかもしれない。少なくとも、その雰囲気は父親や親戚の叔父さんとは比べものにならないほど静かで落ち着いたものだった。黒色の背広に青いネクタイをしている。

 この二人の職業は、刑事と呼ばれるものであった。

「どうも、お待たせしてしまって、申し訳ありませんでした。実はですね、三神君に二、三質問をさせていただきたいんです。ああ、質問といいましても、そんなに難しいものではありませんから、知っていることを話していただければ結構ですよ。そう緊張なさらず、ほら、リラックスです、リラックス。肩の力を抜いてくださいね。別にこれから三神君のことを取って食おうというわけではありませんから」

 正面に座る舟越は、少しも逸らすことなく篤のことを真っ直ぐ見つめている。その頬は僅かに緩んでいた。

「リラックスできました?」

「…………」

 篤は改めて腹の中心に力を入れた。なぜだか分からないが、正面にあるその表情にいい印象を受けなかった。そればかりか、舟越と対峙しているだけで、全身に黒い霧のようなものが徐々に広がっていくよう。それはまるで生まれてからこれまでの、ありとあらゆる悪事をこの刑事に暴露されてしまいそうな、自分というちっぽけな存在すべてを見透かされてしまうような。

 これから先、気分のいいことが起きるとは到底思えなかった。

「…………」

「先週のことについてなのですが、三神君は、先週の金曜日、十月十七日ですが、何をしていましたか?」

「……ぁ……」

 問われたからとって、三日前のことをおうむ返しにすらすら説明できるはずなどない。篤は口を閉ざし、斜め上の空間を見つめる。その延長線上には進路に関する資料が収納されている棚があるが、当然この状況ではそんなもの認識してはいなかった。

「…………」

 篤は投げかけられた問いの回答を吟味しながら、その時やけに喉が渇いていることが気になって仕方なかった。

「…………」

 篤は、表情では平然を装っているつもりだが、こんな狭い場所で刑事と呼ばれる特殊な職業の人間と向き合っているせいか、手が震えた。小さく深呼吸して落ち着けようとするが、うまくはいかない。人生経験の薄さを痛感した。

「……あ、はい」

 息を小さく鼻から吐き出し、篤はこちらを見つめる目に焦点を合わせる。

「三日前の金曜日ですよね? 当然学校がありましたから、学校にきました」

「ちゃんと勉強はできましたか? 三年生なんですよね、今年は受験で大変ですね。応援していますので、是非頑張ってください。それで、学校が終わってからはどうだったでしょうか?」

「……先週のことなので、あまり覚えていません」

「そうですね、大抵の人はそんなこといちいち覚えていませんね。私なんて昨日の晩ご飯も怪しいところなんですよ。でも、三神君は若いですから、時間さえかければ思い出せますよね? 待ってますので、お願いします」

「…………」

 いつの間か口に唾が溜まっていた。篤はそれを飲み込み、変わらずに頬を緩めながらこちらを直視してくる視線から少し目を逸らす。頭で先週のことを思い出している振りをしつつも、その前にこの状況について、当然の疑問を口にすることにした。

「……あの、これは、どういうことなんでしょうか?」

「はい? どういうこと、とは?」

「……ここにおれが呼ばれて、こうして刑事さんと向き合っている理由です」

「あれ? 担任の先生に聞いてませんか? おかしいですね。うーん、我々はやっかい者ですからね。都合が悪いこと、といいますか、そういったことはこちらに言わせようとしているのでしょうか? 相変わらず、いやな役回りですね」

 篤の前、舟越はいかにも白々しい口調で少し首を傾げている。

「…………」

 篤は一瞬息を止める。篤の前にも何人かが同じことを言っているはずだ、置かれている現状において、同様の質問をした人間がいないはずがない。にもかかわらず、あの惚けた口調は、職業としての技法によるものだと推測された。

「刑事さんなんて、まるでサスペンス劇場みたいですね」

「現実のこととは思えませんか? そうかもしれませんね。まあ、私の肩書なんてお気になさらず。大した者ではありませんから」

「はあ……」

 思わず口から出してしまった吐息が、なぜだか今の篤には無償におかしなものに思え、置かれている現状でそういった認識をできたことが自然と心臓の鼓動を少しだけ落ち着かせていた。

「……あの、それで、なぜおれが呼ばれてるんでしょうか?」

「ああ、そうでしたね。実はですね、一昨日のことなんですが、この学校の生徒さんの遺体がですね、庄上しょうがみ緑地で発見されました」

「っ!? 渡辺のですか!?」

「おや」

 舟越は目を丸くさせる。実にわざとらしい仕草で。

「この学校の生徒さんが、どうして渡辺君だと思ったんですか?」

「……今朝、安井先生が渡辺が死んだって……だから、です。死んだって聞いて、すぐ渡辺が頭に浮かんで……」

「それ、もうちょっと詳しくお聞かせ願いますか? 安井先生は渡辺君がどう死んだと仰っていましたか?」

「……いえ、特には……」

 詳細は何も伝えられなかった。死んだこと以外は何も。病気か事故すらも。

「三神君は、クラスメートの渡辺君とは仲がよかったですか?」

「……いや、特別そういうわけではありませんでした。こういうことってのはもう調べてあるんですか? おれと渡辺は同じ中学の出身なんです。けど、クラスが同じになったことは一度もなかったし、遊びにいったこともなかったです……今年同じクラスになって、初めて喋った程度です」

「渡辺君は、三神君から見て、どんな人間でしたか?」

「どんな人間、ですか? それは……」

 また視線を外し、息を飲む。

「頭はそこそこで、生徒会の副会長やったことがあって、正義感は結構強いというか、ちゃんとしてるやつだと思います。運動神経は悪かったです。それと、あんまり口数が多い方じゃありませんでした……それぐらいです」

「へー、そうなんですかー。これはこれは。実はですね、担任の先生にも他のみんなにも同じことを質問したのですが、今のところはこれといった特徴を挙げてくれる方はいませんでした。ですから、三神君のそれはとても貴重な情報になります。ありがとうございます」

 そう言いつつも、正面の舟越も横に立つ内藤も決してそのことを手にしている手帳に書こうとはしなかった。

「それはそうと、三神君、さきほどお願いしたことですが、そろそろ思い出してもらえたでしょうか? 先週の金曜日のことについてです」

「……先週の金曜日は、放課後はその辺をぶらぶらしていたと思います」

「その辺というのは、具体的にどこのことでしょうか?」

「……亀舞の駅の周辺の商店街です。本屋だったり、コンビニだったりを……なんとなく、ぶらぶらしたい気分で……」

「友達とご一緒でした?」

「……あの、これはどういうことでしょうか? なんでおれのことなんかを?」

「ああ、お気になさらず。同じことをですね、みんなにもいていることなんです。担任の安井先生にもね。形式上といいますか、これをするのが我々の仕事みたいなものなんですよ。気を悪くしないでくださいね」

 舟越は変わらず頬を緩めているが、眼光に鋭さが宿っていた。

「一人でしたか?」

「……一人でした。あの辺りはよくいくんです。あそこの駅は家までの途中にあって定期が使えますし、近くに図書館もあって便利なんですよ」

「その日、図書館へは?」

「……いきました。けど、なんかあんまり集中できなかったから、すぐに出ました。えーと、時間ですか? すみません、そこまでは覚えてません。それから本屋なんかをぶらぶらとしていました。家に帰っても、勉強に集中できそうになかったし……ああ、集中できないってのは、悩みとかそういうんじゃなくてですね、その、家だと暗くならないと勉強に集中できないんですよ。これ、受験生としてはどうかと思うんですが、家にいてまだ外が明るいと、遊びたくなるというか気が紛れるというか、なんかやる気が起きなくて、それで……」

「そういうの、よく分かりますよ。私もですね、たまに夕方に帰れることがあるのですが、夕食食べるまでは何もする気が起きないんですよね。別に疲れてるってわけでもないんですが、いつも帰宅は遅い時間なので、変な感じがしてしまいまして」

 そう言いながら、舟越は右手の鉛筆を手帳に走らせていた。これまではやり取りをするだけで、メモを取ることなどなかったというのに。

「はい、ありがとうございました。もしかしたら、他にもいろいろとお尋ねすることがあるかもしれません。その際はご協力の方、よろしくお願いします。それでなんですか、ここに連絡先をよろしいでしょうか?」

「……はい」

 篤は一瞬躊躇する。こういうのは絶対に協力しなくてもいいのではないか、と迷ったから。しかし、渡された紙にはこれまでのクラスメート分がそれぞれの字体で書かれていたので、断ったら変に思われるかもしれないと、上の欄を倣うように欄を埋めていった。こんなの、学校がクラス名簿を渡せば早いのではないかと思ったが、個人情報の関連でうまくいかないのかもしれない。

 篤は利き手の右手でボールペンを走らせ、紙の横に置く。

「これでいいですか?」

「はい、ありがとうございます。三神君への質問は以上です。ご協力ありがとうございました」

「あ、いえ……」

 篤は小さくお辞儀して椅子から腰を浮かそうとする。その時すでに右側にいた内藤という刑事は進路指導室の扉を開けていた。

「……あの」

 けれど、篤は少し浮かした腰を椅子に戻し、正面を見つめる。

「よければ、なんですが……その、こちらからも質問させてほしいんですが」

「はい? 質問ですか?」

 舟越の視線が篤の後ろへと向けられた。きっとそこにいる内藤を見たのだろう。

 次の瞬間、篤の後ろから扉が閉まる音が聞こえてきた。

「残念ながら、質問されても全部答えられるわけじゃありませんよ。それはご了承くださいね。職業上、機密事項というのがありまして。いろいろと難しいんですよ。ああ、それは別に三神君に意地悪しているというわけではありませんからね。誤解のないようにお願いします。では、どうぞ」

「……いや、質問といっても、大したことではなくて、きっとみんなも知りたがってることだと思うんですけど……」

 篤は一拍空け、それを口にする。

「どうして渡辺は死んだんですか?」

「あー、なるほど」

 また舟越の視線が篤の後方に向けられる。

 その一瞬、篤は全身に力を入れた。心の中心にまで。

 舟越の視線が篤に戻ってくる。

「三神君は、どうしてそんなことを知りたいと思ったんですか?」

「……クラスメートが死んだんですよ。そりゃ、知りたいと思うのが普通じゃないんですか? きっと他のみんなだって同じようなことを訊いたと思うんですが……だいたい、おれたち、渡辺が死んだ、としか聞いてなくて、どうして死んだのか、その経緯を一切聞いていないんです」

「そうでしょうね。うん、当然の主張だと思います」

 舟越は持っている手帳のページを何枚か捲っていく。

「渡辺君の遺体はですね、十八日の土曜日、庄上川の河川敷で発見されました。どうやら上流の方から少し流されてきたみたいなんですよ」

「……事故ですか?」

「うーん、それはなんとも。目下捜査中でありまして。けれど、実はですね、その前日である十七日の、えーと、十七日の午後八時四十五分にですね、一本の通報があったんです。毎年花火大会をやってるところはご存知ですか? 庄上緑地公園ですね。その近くに下川橋という橋があるのですが、そこで学生服をした人が飛び降りたっていうんです。ただし、通報してきた人間は名前を名乗ることはありませんでした。人が飛び降りたと言うと、すぐ電話を切ったからです。だからその通報を受けた者は、信憑性を疑いました。といいますのは、本当の目撃者の通報というのは、大抵は慌てて何を言っているのか分からないか、もしくはとても冷静に対応してこちらの質問にちゃんと受け答えをするかのどちらかなんです。けれど、その人は違いました。名乗ることもなく、事実だけを告げるとすぐ切ってしまいました。二度とかかってこなかったそうですから、切れたのではなく切ったのでしょうね。だからその通報を受けた者は、悪戯だと判断してそれ以上のアクションを起こさなかったそうです。そういったことはよくある話ですから、いちいち相手にしていたら切りがありませんからね。そうしたら翌日、下川橋の下流の河川敷で渡辺君の遺体が見つかったわけです」

 舟越は、手帳から顔を上げた。

「できることなら、通報者に連絡を取りたいのですが、今のところ名乗り出てはいただけなくて。目下捜査中であります」

「……自殺だったんですか?」

「亡くなった渡辺君が、ということですね? どうしてそう思うのですか?」

「えっ……だって、刑事さん今『飛び降りた』って」

「よく聞いてましたね。きっと三神君は学校の成績もいいんでしょうね。そう『飛び降りた』です。車で撥ねられて落ちてしまったり、誰かに突き落とされたのではないですね。『飛び降りた』というのは、自分から落ちたときに使うのが自然ですから。きっとそういうことなのでしょう」

「だから、自殺なんですよね? 自分から落ちたんだから」

「現状ではなんとも……なんせ通報者にすら会えていませんからね。検死の結果もまだ出ていませんし」

 舟越は手帳から顔を上げ、篤のことを見つめてくる。

「すべては可能性の問題です。可能性だけなら、まだまだ考えられる要素はたくさんあります、自殺以外にもね。違う可能性があるなら、そちらも調査すべきですし、そうしなければならないんですよ、我々の仕事は」

「自殺以外の可能性ですか?」

「そうです。詳しいことをここでお話しするわけにはいきませんが、これは捜査上のことですのでご勘弁くださいね。ただ、小さなことでもはっきりしないことがあるなら、はっきりするまで徹底的に捜査する、それが我々の仕事なんです。どんな些細なことでもそうです。だからこそ、渡辺君のクラスメートである三神君にもこうして協力してもらっているわけです。ご理解いただけましたか?」」

「刑事さんってのは大変なんですね。ほとんど自殺だって思ってても、そう断定できるまで調べないといけないんですもんね。そんなの雲を掴むような話じゃないですか」

「そうですね、大変なんです。ただ、『自殺だと思った場合』でも、ですけどね」

 舟越の頬はやはり緩んでいる。この状況を楽しんでいるわけではないのだろうが、人の死に纏わる仕事だというのに、これまで厳しい表情を浮かべたことがなかった。ただの一度も。

「他には何かありますか? どんな些細なことでも構いませんよ。お答えできることはお答えしますから」

「あ、いえ……」

「そうですか? では、今日はありがとうございました」

「……はい。失礼します」

 篤は立ち上がる。横にいた内藤に小さく頭を下げ、舟越に背中を向ける。その口からは小さく息が漏れていた。

 瞬間、空気が小さく振動する。

「それにしても」

 篤が背中を向けた、まさにそのタイミングで舟越が声をかけた。

「三神君は少し変わってますね?」

「……えーと」

 声をかけられたので、篤は振り返る。そこに座る舟越を目に捉える。

「……どういうことですか?」

「確かに、これまでも何人かは渡辺君のことについて尋ねてきた生徒さんはいました。訊かれなかった方が少ないぐらいです。けどね、だいたいみんなその第一声は同じものでした。だというのに、三神君のそれは違いました。だから少し変わっているな、という印象を受けたわけです」

 舟越はずっと手帳に目を落としている。その仕草は、まるで今話していることなど本題とはかけ離れたあくまでついでであり、まったくもって大したことではないような口ぶりで言い放つ。

「みんなはね、『渡辺君が本当に死んだかどうか』をまず尋ねてきたんです。みんな、三神君と同じように、今日学校にきていきなり死を担任の先生に言い渡されただけですから。クラスメートが死んだなんて、年頃の高校生にはとても容易に受け入れられることではない、のではありませんか? なんせほとんど生徒さんがまだ同級生を失った経験がないのですからね。実感が湧かないというやつですね。ですから」

 舟越は手帳に落としていた視線を上げた。篤に向けるそれには、これまでにない鋭さが含まれている。

「三神君のように、渡辺君がどのように死んだか、なんていうのはこれまで誰もいませんでした。まるで、死んだことをすんなり受け入れていた、というのか、以前から知っていたみたいに。おかしいですね、今朝知ったわけですから、そんなはずありませんよね。だから変わってるなと思いました。ただそれだけのことです」

「…………」

 上半身だけ振り返っていた篤が、捩じった腰を廊下側に戻していた。とても向けられる目をこれ以上直視することができずに。

「……おれだって、実感なんてありませんよ」

 そう小さくこの場に吐き出すと、所狭しとファイルが収納されている進路指導室から、三年E組担任の安井が待つ廊下へと出ていく。

「…………」

 一度落ち着きを取り戻していたその胸の鼓動は、また激しく脈動しているのだった。

 どくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどく!


       6


 十月二十三日、木曜日。

 夜七時、三神篤は涙で包まれる悲しい会場に身を置いていた。そうすることを、ただの一度も望みはしなかったのに。

「…………」

 通夜だった。亡くなったクラスメート、渡辺竜矢の通夜。会場は四階建てのビルのワンフロアを使用している。祭壇近くの親族席には喪主である渡辺の父親が弔問者に深々と頭を下げていた。母親は全身を震わせながら声を殺して涙し、それでも懸命に弔問者に対して深々とお辞儀を繰り返していた。

 会場には篤同様の海田高校の制服がたくさん目につき、違う制服には中学時代の同級生も何人か交じっていた。篤にとって久し振りに見る顔が結構あり、懐かしさを覚えたが、感慨に耽ることはこの場にふさわしくないことをちゃんと認識していた。

「…………」

 篤は焼香というものをどうやるのかよく知らなかったが、順番が回ってきたので見よう見真似でどうにか済まし、前の人間に倣って親族に頭を下げてから席に戻ってきた。これでもうすることはない。ただ席で渡辺の冥福を祈ること以外には。

 後ろから肩を叩かれた。三回、とんとんとんっと。こんなときにクラスメートの悪戯ではないだろうなと振り返ると、そこに背広姿の舟越の姿があった。西警察署の刑事である。

「どうもこんばんは。三神君はこの後、何かご予定はありますか? できれば少しお時間をいただきたいのですが」

 声を殺しながら顔を近づけてきた舟越の首には、黒いネクタイが締められている。

「お願いします」

 その頬は、先日の進路指導室と同じように少し緩められていた。


 午後七時三十分。

「…………」

 詰め襟の制服姿の三神篤が外に出ると、辺りはすっかり暗かった。

「…………」

 式場では場の雰囲気に呑まれてか、普段渡辺とあまり接点のない数人の女子が泣いていた。篤は涙が出ることはなかった。悲しいことは悲しいのだろうが、それでも涙は出なかった。

「…………」

「こんばんは」

 すっかり暗くなった斎場のすぐ外、国道のガードレールに背を向けて舟越がいた。今日は一人である。

「お待ちしておりました」

「……どうも」

 なぜだかよく分からないが、斎場外で刑事に待たれているという状況に篤は苦笑した。一緒にいたクラスメートに別れを告げ、舟越の方へ近づいていく。率先していきたいわけではないが、さきほど逃げ場のない式場で申し出を承諾してしまったので仕方がない。足取りはかなり重たいものとなっていた。

「あれ? あ、この前の刑事さんだー」

 篤が舟越の前に辿り着く寸前、賑やかな声とともに、三年E組のクラスメートである宮下冬が駆けてきた。宮下も海田高校の紺色のブレザー姿で弔問にやって来ていたのである。

「もしかして、刑事さんも渡辺の通夜にきたの?」

「はい、焼香させていただきました。若い命が失われるというのは、辛いことですね。これは何度経験したところで、慣れることはありません。ああ、もちろん、若くない命も同等に尊いですよ」

「そうだよねー、渡辺のお母さんなんて途中から声を上げて泣いちゃってたもんね。あたし、もう見てらんなかったよー。かわいそうだったなー。うわ、思い出したらまた胸が苦しくなってきちゃった」

 そう言いつつも、冬は肘で篤の左腕をつつく。

「で、質問なんですけど、篤と刑事さん、これっていったいどういった組み合わせ? 通夜のとき近かったよね、席。うん、後ろの方にいたから見えてたし。何か喋ってたみたいだけど」

「さすがですね、観察力がとても鋭い。それとも、そうやっていつも三神君のことを気にかけているのでしょうか? ああ、今のは冗談ですよ、そんなに怒らないでください。謝りますから。ごめんなさい。話ですか? 別に大したことじゃありませんよ。三神君に少しお話を伺いたいと思いまして」

「篤に!?」

 宮下は、まるで道を歩いていたらいきなり水撒きしていた主婦に水を引っかけられたみたいに目を白黒させ、篤と舟越のことを交互に見る。そうやって幾度となく動いていた首の終着は篤の方だった。

「悪いことは言わないから、自首しなさい。男でしょ、ここはすぱっと。すっきりさっぱりきっちりと。そうすれば罪は軽くなるはずだから。全面的に認めちゃいなさいってば」

「……なんでだよ」

「刑事さんの用っていったら、あんたを捕まえにきたに決まってるじゃない。うん、それ以外に考えられないわ。もー、いったい何しでかしたっていうの? 万引き? 轢き逃げ? 幼児虐待? 下着泥? 痴漢? 婦女暴行? うわ、最低だ。最低の男子高校生がここにいる。お願いだから、これからは最低でも五十メートルは離れてね。じゃないと、あたしの身が危ないから」

「……しねーよ、そんなもん」

「で、刑事さん、どんな罪なんですか?」

「ですから、ちょっとお話を伺いたいだけですよ。本当です。あの、お願いですから、そんな疑い深い目を向けないでいただけますか。信じてくださいよ。信じる者は救われる、とよく言うじゃないですか? ああ、もしよければですけど、宮下さんも一緒にいかがですか? コーヒーぐらいだったらご馳走しますよ」

「えっ、ご馳走してくれるの? うーん、どうしようかなー」

 宮下は暫く斎場の二階辺りを見つめた後、大きく頷いていた。

「ご馳走になっちゃいます」

 にこやかな笑顔がそこにはあった。


「…………」

 頬杖をして口を閉ざしている三神篤は窓側の席に腰かけている。国道に隣接したファミリーレストランの窓の外では、ヘッドライトを点けた乗用車が数限りなく交差していく。時刻はもうすぐ午後八時。

「そうそう、三神君たちの海田高校というのは、あの海田高校なんですよね?」

 四人用のボックス席。篤の正面に刑事の舟越が座っている。テーブルにはコーヒーが置かれており、ミルクと砂糖を入れて掻き混ぜてから口に含み、その言葉はテーブルのこちら側に向けてきた。

「どこかで聞いたことあると思ってたんですよ。先日ようやく思い当たりました。あの海田高校だったんですね」

「あのってのは、どの?」

 テーブルにはコーヒーの他にストロベリーパフェが置かれている。そこに長いスプーンを突っ込みながら上質の幸せそうな笑顔を浮かべているのが宮下冬。行儀悪くスプーンを銜えたまま言葉をつなげていく。

「わたしたちの高校、そんなに有名なことあったっけ?」

「あったじゃないですか。あれは確か二年前でしたっけ? ほらほら、野球部が夏の地区大会で準決勝まで進んだことありませんでしたか?」

「ああ、あれね」

 合点がいったとばかり、篤の右隣に陣取った宮下は、長いスプーンでバニラアイスを口へ運んでいく。

「最近は全然駄目だけどねー。今年なんて一回戦負けだし。あの年がピークだったんでしょうね」

「いやー、あのピッチャーは凄かったなー。剛速球でどんどん三振を取っていって……ああ、私、こう見えても高校球児だったんですよ。見えませんか? 高校時代はピッチャーだったんです。といいましても、私はへろへろなボールしか投げることができませんでしたがね。ですから、この年になっても毎年夏になると気になってしょうがないのです。体の中に眠っている球児だった頃の血が騒いでしまって。あの年、海田高校のことは結構噂になってたんですよ。凄いピッチャーがいると。だから私、準々決勝から見にいってたんです。いやー、あれは凄かったです」

「でしょでしょ。凄かったっしょ。あたしなんて野球のルール、ほとんど知らないのに、それでも応援にいったとき、凄いって思ったもん」

 宮下はどこか誇らしそうに、まるで自分が褒められているかのごとく胸を張りながら喋っていく。

「実はですね、あのピッチャー、あたしの友達のお兄ちゃんなんだー」

「へー、そうだったんですか。確か、細井君でしたね。細井蒼君。ほら、まだ名前覚えてます」

 そう言った舟越の視線が、篤へと向けられた。

「っ……」

 篤は向けられた視線に反射的に目を逸らし、すぐ前のストローを銜える。もう十月の下旬だが、なんとなく冷たい飲み物の方がいいような気がして注文したアイスティー。少し口に含むと、驚くほどに喉元から体内へ冷たいものが伝わっていくのをはっきりと感じることができた。しかし、シロップを多めに入れたにもかかわらず味はよく分からなかった。

「そうそう、その細井君なんですが、三神君たちの先輩の。実はですね、今入院してるんですよ。ご存知でしたか?」

「そんなの知ってるよー」

「ああ、ご存知でしたか」

 舟越の質問に答えたのは宮下だったが、舟越の視線は篤に固定されたまま。

「三神君はいかがですか?」

「……知ってます」

「入院しているのは、愛名大学付属病院です。亀舞にある大きな病院です。いかれたことはありますね?」

 舟越のそれは、今までのような質問ではなく、確認だった。

「ありますよね?」

「……はい」

「先日でしたか、なんでもちょっとしたトラブルがあったとかで、大騒ぎになったらしいです」

「…………」

 篤は再びストローを銜える。額にはうっすらと汗が滲んでいた。決して店内の気温が高いわけではない。篤は口いっぱいにアイスティー含んで、やけに大きな音を立てて飲み込んだ。やはり味は感じなかった。

「……それは」

「そう、そうなんですよ、刑事さん」

 篤がすぐ口を開かなかったからか、はたまた自分が知っていることをただ口にしたいだけなのか、篤の横にいる宮下は、『知ってます知ってます!』と長いスプーンを舟越の方に向けた。

「それで、友達が泣いちゃって泣いちゃって、もう大変だったんです」

「友達というのは、細井蒼君の妹さんのことですね? 宮下さんは、妹さんと仲がいいんですか?」

「そりゃそうだよ。藍とは一緒の部活だし、去年までずっと一緒のクラスだったし、よく一緒に買い物だっていくし……最近は、あのお兄ちゃんのことがあるから、あんまりだけどね……」

 少しだけ寂しそうに唇を尖らせると、冬はスプーンを銜えた。

「親友です」

「おお。いいですね、そういうの。親友ですか。三神君はどうなんですか? 知り合いなんですか?」

「……はい」

 篤は袋から開けて畳んでおいたおしぼりを握り、口元に当てた。そこに一度息を吹きかけ、きっかり五秒後におしぼりをテーブルに戻していく。

「……宮下と同じで、去年クラスが同じでした」

「またまたー。それだけじゃないくせにー。このこのー」

「…………」

 篤の隣人がにやにやと不敵な笑みを向けてきた。その目は糸のように細く、なんとも憎たらしい。

「……なんだよ」

「あんたたち、夏休みの間中、ずっと一緒に勉強してたんでしょー。それだけじゃなくて、病院まで一緒にお兄さんのお見舞いにいったとか。もはや家族公認の仲ではないか。やるね、この。このこのー」

「おや、そうだったんですか。それは知りませんでした。三神君とその妹さんは恋人同士だったんですね?」

「刑事さん、そう思うでしょ? でも、それが違うんだな。こいつ、見ての通り、意気地がないもんだから、未だに告白もできてないんだよ。はぁー、吐息だよ、吐息。もはやピュアピュアボーイですよ。空前絶後の意気地なし。あーあ、情けない。情けないったらありゃしない」

「純粋なんですね。悪いことではないと思いますよ」

「そんな風に捉えちゃ駄目。意気地なしなの、こいつ」

「そういうものなのですか」

 隣の冬はからかうように、正面の舟越は実に興味深そうな目をしている。

「…………」

 篤はそんな二人の視線に、恥ずかしくてとても顔を上げることができず、手持ち無沙汰でまたストローを銜えた。ずずっと音が鳴り、氷を残してアイスティーが空になる。

「おやおや、おかわりを頼みましょうか?」

「あ、いえ、水でいいです」

 篤はコップの水を一口含み、喉を潤す。ここまで水はあまり飲んでいなかったが、氷が大きいせいか、もう三分の一も残っていなかった。

「三神君は、細井蒼君のお見舞いにいくぐらいですから、当然今月起きたあのこともご存知なわけですね?」

「……はい」

「そうでしたか。発見が早くてよかったですよね。なんでも、もう少し遅かったら危なかったらしいですよ。危機一髪でした」

 舟越はミルクによって黒ではなくなったコーヒーを啜る。音は立たない。カップを皿に戻す。

「でしたら、三神君は亡くなった渡辺君のお祖母さんがその病院に入院していることはご存知でしたか?」

「…………」

 舟越の口から不意に出た渡辺という名前。その瞬間、篤は腹の中心にぐっと力が入っていた。

「……いえ、知りません」

「おやおや、知らないんですか? 渡辺君のお祖母さんのことですよ? ああ、そうです、知らないですか。うーん、それはおかしいですね」

 舟越は背広の内ポケットから手帳を取り出すと、事前に準備でもしてあったようにお目当てのページをすぐ開けた。

「実はですね、渡辺君が亡くなったとされる日、十月十七日ですが、渡辺君のその日の足取りを追ってみたんです。すると、その日、渡辺君はお祖母さんのお見舞いのために病院を訪れていました。愛名大学付属病院です。病室にいたお祖母さんからは、午後六時に帰宅するために出ていったと証言が取れています。実際、その時刻に病院の玄関ロビーを出ていました。あそこには防犯カメラが設置されているのご存知でしたか? 出ていく姿がばっちり映っていましたから、間違いありません」

 舟越は、『ここがポイントです』とばかり、小さく手を上げた。

「それでですね、帰宅する渡辺君ですが、一人ではありませんでした。誰かと一緒に玄関を出ていったみたいなんです。二人とも同じ制服姿でして……画像はかなり粗いものでしたが、よーく観察してみたところ、どうも一緒にいたのは三神君ではないかと思われるのですが」

 舟越の頬は今日も緩んでいる。

「本当にご存知ありませんでしたか? 渡辺君があの病院に出入りしていたこと」

「…………」

 篤は正面からの視線を真っ直ぐ受け止め、コップを手に取り水を口にする。

「あの日、病院で偶然顔を合わせました」

「あれ? でも、さきほどは知らないと」

「……お祖母さんが入院している、とは知らなかったということです」

「ああ、なるほど、そういう意味でしたか。でも、学校で伺ったとき、その話は出ませんでしたね。確か、最初は図書館にいて、それからその辺りをぶらぶらとしか」

「……図書館にいたのも確かですし、その辺りをぶらぶらしていたのも確かです。ただ、病院のことを言わなかっただけです」

「その理由は?」

「……単に忘れていました。きっと、刑事さんとのやり取りで緊張していて、出てこなかったのだと思います」

「なるほど、緊張されていたんですね。それで忘れていたと。いきなり刑事という特殊な人間と対面して、平然としてられる方がおかしいですもんね」

 舟越はカップを手にしてすっかり冷めたであろうコーヒーを口にする。

「それで、病院へはなぜ?」

「……勉強が手につかず、先輩のお見舞いでもしようと思って……結局やめましたが。一人ではちょっと、入りづらかったです」

「そうでしたか、細井蒼君のお見舞いに。妹さんとも仲がいいんでしたもんね」

 そう言った直後、舟越は慌てて手で口を押さえる。

「おっと、これは失礼、妹さんとのことは余計なことでしたね。それでですね、渡辺君とはどうして一緒に?」

「偶然会いました。帰るところだったので、一緒に帰ることにしました」

「あまり仲がよくはないと聞きましたが」

「渡辺とは仲がいい、悪いはありません。ただクラスメートですので、話すときは話します」

「渡辺君とはどのようなお話をされましたか?」

「……特に差し障りのないことだったと思います。覚えてません」

「そこをどうか思い出していただけませんか? 差し障りのないことでも構いませんので、是非教えていただけると助かります。どんな些細なことでも結構ですから」

 舟越は『これは重要なことなんです』と手を上げる。

「というのもですね、渡辺君と三神君が病院を後にしたのが午後六時過ぎ。我々は調査した当日の渡辺君の足取りは、残念ながらまだそこまでしか掴めていないんですよ。つまり、そこから先を突き止めることが事件を解決するポイントになってくると思うんです」

 舟越はカップを手に、一気に残りのコーヒーを飲み干した。

「三神君にとっては差し障りのないやり取りだったかもしれませんが、これは事件にとってとても重要な意味を成してくる、少なくともその可能性が高いと思われます。是非思い出していただけないでしょうか?」

「…………」

「加えてですが、検死の結果から、渡辺君の死亡推定時刻はその日の午後六時から十一時の間ということが分かりました。つまりです、生存している渡辺君を見た最後の人物が三神君である可能性がとても高いわけなんですよ」

「…………」

 篤は無意識にコップを手にして口へ運んだが、もう水が残っていなかった。一度コップに目をやり、氷の表面で屈折する僅かな光をその目に映してから、音を立てずにテーブルに戻す。首だけ動かして周囲を確認してみたが、ウエイトレスの姿は見つからなかった。

「……話したのは、どうでもいいような些細なことだと思いますよ」

「それで結構です。どんな小さなことからでも可能性を探るのが我々の仕事ですから。お願いします」

「……入院している細井の兄さんのことだったり、受験のことだったり、だった気がします」

「だったり?」

「……それぐらいしか思い出せません。それほどどうでもいいような内容だったと思います」

「渡辺君はなんと言ってましたか? その、細井蒼君については」

「……信じられないって言ってました。あの先輩が入院してるなんて」

「あの野球部のエースだった蒼君が入院だなんて、それはそうかもしれませんね。しかもずっとお祖母さんのお見舞いにきていた病院だなんて、きっと驚かれたでしょう」

 舟越は手帳に鉛筆を走らせている。

「それで、渡辺君とはいつ、どこで別れましたか?」

「…………」

 さきほどから、篤の制服の下に着ているTシャツが汗でくっついて気持ちが悪かった。店内は空調がきいているはずなのに。

「……駅で別れたと思います」

「駅で別れた? それは病院近くの亀舞駅のことですか? 亀舞駅で別れた? それはどういうことでしょうか?」

 舟越は首を傾け、少し大げさな仕草で両腕を広げた。

「渡辺君も三神君も、その亀舞駅から電車に乗って帰るはずですよね? それも同じ方角の電車に。それなのに、同じ電車に乗るはずなのに、駅で別れた?」

「……駅の近くで、です。正確には駅までいってません。おれは近くの本屋とかコンビニとか、ちょっと寄りたかったですから。ですから、駅まではいってません。その手前で別れました」

「なるほど。それからぶらぶらされたわけですね。駅の近くとは、具体的にどの辺りだったのでしょうか?」

「……あそこの公園を過ぎた辺りの高架です。おれは高架を潜って、そのまま真っ直ぐ商店街の方へいきました。渡辺とは高架を潜った所で別れました」

「えーと、あの病院から亀舞公園沿いを西方に歩いていって、一緒に高架を潜ってから別れたわけですか。そうですね、そのまま高架沿いを歩けばすぐ駅です。なるほど、駅に向かったように思いますね」

 舟越は手帳に目を落とす。頭に亀舞駅周辺の地図を描いているのか、それから三十秒ほど時間をかけて、納得したように大きく頷いていた。

「そうすると、渡辺君はそこから電車に乗って緑地公園に向かったわけですか」

 渡辺の死体は翌朝、庄上川の河川敷で発見された。電車で五つ先の駅である。

「といいましても、発見されたのはその緑地公園ですが、もっとちょっと上流にある下川橋で飛び降りたという通報がありましたからね。下川橋と死体発見の河川敷は五百メートルほど距離です。緑地公園は駅からすぐですが、下川橋までは真っ直ぐいけませんから、駅からちょっと大回りして歩くことになりますね。うーん……といっても、高校生ですから、それぐらいの距離はなんてことないのでしょうが」

 舟越は覗き込んでいた手帳から顔を上げた。その目が真っ直ぐ篤に向けられている。今もその頬を緩めながら。

「それはもちろん、全面的にあの通報を信用する、という条件ですがね」

 名前すら名乗ることなくすぐ切れた通報電話。信憑性は怪しいものだが、舟越は今のところ慎重に扱っているらしく、全面的に信用することもなければ、完全に無視するということもない様子である。常にどんな可能性もその頭に留めているのだろう。

「三神君が渡辺君と亀舞駅付近の高架を抜けて別れたのは何時頃でしたか?」

「……時間なんていちいち気にしてなかったのでよく覚えてませんが、六時過ぎに病院を出ていたので、十五分も経っていないと思います。歩きながらで、立ち話していたわけではありませんから」

「病院を出たのが六時過ぎ。高架までは徒歩十分もかかりませんから、まあ、六時十五分というところでしょうか。それから電車に揺られて、下車した庄上緑地公園駅からの徒歩の時間も足したとしても、せいぜい一時間もあれば下川橋に到着することになります。もちろん、その手前にある死体が発見された緑地公園の河川敷にはもっと早く着きます。仮に、病院から直接死体の見つかった河川敷に着いて命を落としたのだと仮定すれば、午後七時近くに命を落としたことになりますね。死亡推定時刻は午後六時から十一時までなので該当します。仮に、通報を信じるとして、渡辺君が下川橋までいったとしても午後七時三十分までには到着します。それから命を落としてももちろん死亡推定時刻から外れることはありません。まあ、五百メートルの距離なんて、せいぜい二十分ほどしか違いがありませんから、どちらで死亡しようが推定時刻に無理が出ることはないのでしょう」

 舟越は右手を上げた。

「さて、ここまでで、どこかおかしなところはあるでしょうか、三神君?」

「…………」

 篤は、わざわざ名前を指定されてまで意見を求められたことに一瞬頭が真っ白となる。

「……べ、別におかしくはないと思います。午後七時三十分ぐらいに橋に着いて、そのまま自殺したのであれば、刑事さんの言う死亡推定時刻から外れていません。別段おかしなことはないと思います」

「おや? おやおや? それはおかしいですね?」

 舟越の目が大きくなった。見ている人間からすれば、それは本当に驚いているのか疑わしい表情だが。

「それはおかしいんですよ。なぜなら、通報は午後八時四十五分にあったんですよ。さきほども言いましたが、亀舞から電車と徒歩で長くみても一時間ちょっとあれば下川橋に到着します。三神君が渡辺君と別れたのが午後六時十五分といったところ。遅くとも三十分にはなっていないでしょう。それからすぐに電車に乗ったとしても、七時三十分には橋に着いているはずです。けれど、『学生服を着た人間が飛び降りた』と通報があったのは八時四十五分だった。なんだかおかしいとは思いませんか?」

「…………」

 真っ直ぐ向けられる視線にいったいどんな意味が含まれているのか、人生経験の少ない篤では皆目見当もつかないが、けれど、そこには問われたことに関して適当にはぐらかすことのできない凄味というか迫力が含まれていた。篤は息を飲み込む。異常に喉が渇いていた。ウエイトレスを探すが、遠くにしか見えない。

「……おかしいかどうかは、おれにはなんともですが……考えてたんじゃないですか? これまでのこととか」

「これまでのこと、ですか?」

「えーと、渡辺はこれから死のうとしてたわけですから、いろいろと思うことぐらいあったと思いますが」

「これから自殺しようとしている渡辺君が、死ぬ前にこれまでの半生を振り返っていただとか、死ぬことによる影響を考えていたとか、ですか? ああ、それで到着してから約一時間、八時四十五分まで時間を過ごして飛び降りた、ということですね? はい、そういうことはあると思いますね……」

 舟越の言葉がそこで途切れる。

「それにしても……あ、いやいや、これは私が最初から感じている印象なんですがね」

 そこでまた言葉を切り、舟越は組んだ手の上に顎を乗せ、顔をしっかりと固定した状態で改めて篤のことを見つめる。

「どうも三神君は、渡辺君が自殺した、と決めつけている節があるみたいですね」

「……っ!?」

 衝撃のあまり、心臓が爆発して胸をぶち破ったかと思った。それほど舟越の言葉は篤の存在を揺るがすものだったからである。背中には異様な量の汗が分泌されていた。

「……ち、違うんですか?」

「質問しているのはこちらですよ。どうしてそうも、三神君は渡辺君が自殺したと思い込んでいるのですか? 遺書は見つかっていませんよ。私には、すっかりそう思い込んでいる三神君の考えが理解できません」

「……えっ、だって、飛び降りたって通報があったって」

「そんなもの当てになりません、名乗らない通報などはね。以前三神君にはそうお伝えしたはずですが」

「……ああ、いや、その……今年受験で、その、成績のことで悩んでいたんじゃないですか?」

「おや? そういう印象があったのですか? うーん、ご存知だと思いますが、渡辺君の成績は悪いと呼べるほどでもありません。クラスの方に伺ってみたんですが、悩んでいる様子などなかったということです。問わせていただきたいのは、あの日に見た渡辺君が、そんな風に見えていたということですか?」

「……いえ」

「はっきり伺いましょう。その経緯はともかく、結果的に死ぬ数時間前に会っていた三神君は、その時の渡辺君のことを見てどんな風に感じていたのでしょうか? 病院で偶然顔を合わせてから、高架を潜って渡辺君と別れるまで、渡辺君のこと、これから死ににいくように見えたのですか? これはとても大事なことですので、どうしても意見がいただきたいですね。時間をかけても構いませんので、思い出してみてください」

 舟越は、顎を乗せていた手から少し浮かし、再びそこに乗せる。

「三神君の印象として、最後の渡辺君の姿は、これから自殺するような情緒不安定な状態に見えましたか?」

「……いいえ」

 篤はそこで言葉を切り、一度大きく唾を飲み込んでから口を開ける。

「……そんな風には見えませんでした」

「だとしたらですよ、だとしたら、自分ではそういった印象まったくなかったにもかかわらず、今の三神君は渡辺君が自殺したと決めてかかっている。いや、自殺であるとすでに処理している感すらありますね」

「…………」

 また篤の口に唾が溜まっている。仕方なく音を鳴らして飲み込んだ。背中の汗が下に着ているTシャツに纏わりついて気持ちが悪いことこの上なかった。

「……それは、その、渡辺が──」

「もういいよ、篤」

 篤の声を遮ったのは、隣に座っていた宮下の声。テーブルの上には空になったパフェの容器がある。そこに長いスプーンが突っ込まれたままになっていた。

「篤、もう帰ろう。この刑事さん、少しおかしいよ」

「えーと……おかしいというのは、どういうことでしょうか? 私、おかしなことを言いましたでしょうか?」

「おかしいじゃないのさ? なんでそんなことをあたしたちに訊いてるんですか? あたしたち、渡辺とはただのクラスメートに過ぎないんだよ。特別仲がよかったわけでもない、ただクラスが一緒ってだけ」

「ですから、それはですね、三神君がとても有力な情報を持っている可能性が高いからです」

「そんなのたまたまです。たまたまに過ぎません。特に仲がよかったわけじゃない、ただのクラスメートっていうのが、渡辺とあたしたちの接点なんです。渡辺とは、ただそれだけだったんだから。にもかかわらず、なんかよく分かんないけどアリバイみたいなこと訊いてきたり、渡辺のことについてどう思うかなんて、なんでそんなこと訊かれなきゃいけないんですか? それじゃまるで、渡辺が誰かに殺されて、その犯人があたしたちにいるみたいじゃないですか」

 宮下は席を立つ。

「ほら、篤、もういくよ。刑事さん、ごちそうさまでしたー」

 そう言い残す宮下に腕を引っ張られ、篤も立ち上がる。

「あっ、三神君」

「……っ」

 かけられた声に、テーブルを離れたばかりの篤は、その足を止めてしまう。今の雰囲気なら、立ち止まらなくても不自然ではなかっただろうに、篤は体をびくっと痙攣させ、そこに立ち止まっていた。ゆっくりとかけてきた声の主の方に顔を向ける。

 そこにはいつもの笑顔があった。

「今日はどうやら日が悪かったようです。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。それでなんですが、三神君には、またお話を伺いにいくことがあるかもしれません。その時はご協力よろしくお願いします」

 そう言って口元を大きく緩めた舟越。常に変わらない表情である。

「どうぞ、宮下さんが待ってますよ」

「…………」

 篤は小さく会釈し、出口の自動ドア付近に立っている宮下の元へ向かっていく。ぱんぱんっに膨らんだ風船が勢いよく萎んでいくように細く長い息を吐き出して。


       7


 十一月一日、土曜日。

「…………」

 月が新しくなったその日、海田高等学校三年生の三神篤は亀舞中央図書館の自習室で参考書を広げていた。

「…………」

 積分によるグラフの面積計算に手こずっていた。解けない問題に手が止まり、無意識に長袖のTシャツから伸びる手で額にかかる髪の毛を払う。これまでよりも少しだけ視界がよくなったが、だからといって止まっている手がスムーズに動くようにはならなかった。

「…………」

 息を吐き出し、本格的に手を休めるべくシャープを置く。首を左右順番に曲げていく。すると、こきこきっと小学生の頃にはまず鳴ることがなかった音が何度か連続して発生した。こうべを垂れてから、横目で窓の外を見る。植えられているまだ葉を完全には失っていない木々の向こう側には、まるで大量の絵の具を塗りたくったかのような鮮やかな茜色の空が広がっていた。

 時刻は午後五時。

「…………」

 周囲も自分同様に参考書を広げている。自習室は学校の教室二個分の大きさで、横に二人並んで座る長机が三十以上設置されていた。そこに座るのはだいたい篤と同い年に見えるのがほとんどで、しかし、捗らない篤からは信じられないぐらい、どの机の上でも手が滑らかに動いている。

「…………」

『こんなことじゃ駄目だ、もっと頑張んないと、もう年が明けたらすぐなんだから』と実際にはしないが両手で頬を叩くように気合を入れ、再び机の上へと視線を落とした。

「…………」

「……ああ、ここでしたか」

「っ……?」

 集中しようとした篤のすぐ近くで声。ここは誰も口を開くことのない静かな場所なので、その声は異常なほど大きく篤の耳へ響いてきた気がした。

「……ぁ」

 すぐ横からした声に、『随分と迷惑なやつもいたもんだ』と顔を向けたところ、篤は表情を歪める結果となる。

「…………」

 顔を向けた先、そこには予期しないようでいて、けれど、きっとこんなこともあるんだろうな、といった人物がいた。篤は相手にしっかり見せつけるように溜息を吐き出す。露骨な牽制である。

「ここは図書館ですよ、静かにしてもらえませんか?」

「ああ、これはすみません。えーと、お勉強のお邪魔でしたね」

 そこに、どうあってもこの場所には不釣り合いな笑みがあった。西警察署の刑事、舟越である。今日も背広姿で、緑色のネクタイ、剥がれることのない笑みをその顔に張りつけていた。まるでそれが原形であるように。

「少しお時間をいただきたいのですが、お邪魔しては大変申し訳ありませんので、外で待ってます。終わるの、何時頃になりそうですか?」

「……今でいいですよ」

 また篤は溜息を出し、茶色の肩かけ鞄に広げていた参考書とノートをしまっていく。どうせ解けない問題に詰まっていたところだったので、気分転換も兼ねて外へ出ることにした。夕ご飯までに帰ろうともしていたし。

「いきますよ」

「あの、本当に勉強の方は大丈夫でしたでしょうか? 私のことならお気になさらず。待ってますので」

「刑事さんに外で待たれたりしたら、きっとそっちが気になって、勉強どころじゃありません」

「そうですか……ご迷惑をおかけてして申し訳ありません」

 謝罪を口にする舟越。そこにはやはりいつもの笑みが浮かべられているのだった。


 篤と舟越の二人は亀舞中央図書館を後にし、繁華街のある駅の方へは足を向けず、隣接する亀舞公園の一番近いベンチに移動した。

 見上げた空は、その色を茜色から暗闇へと変えつつある。二人の座るベンチ正面には噴水があるが、もう水は出ていない。噴水の囲むようにしてある木々の葉を、吹いてきたばかりの風ががさがさっ揺らしていく。そこにこれまでにない冷たさが含まれていること、今の篤が気づくことはなかった。

「…………」

「受験勉強は順調ですか? いや、お邪魔している身でなんですが」

「……おかげさまで」

 呟き、篤は舟越とは反対側に顔を向ける。向けたそこには照明があり、ベンチに座る二人の影を作りだしていた。

「……そっちはどうなんですか?」

「私ですか?」

 舟越は、問われたことが理解できないような口調でありながらも、詰まることなくすぐ言葉をつなげていく。口調とは裏腹に、しっかり理解できていたのだろう。

「順調ですよ、とはとても言えたものではありませんね。もう迷宮入りしてしまいそうです。ですので、迷宮に入る前にこうして三神君にお話でも伺おうと思いまして……。あの、断じて三神君のお勉強のお邪魔をするつもりはなかったんですよ。これは本心です。どうか信じてください」

「……どうでもいいですよ、そんなの」

 吐き捨てるように言い放ち、篤は手を組んで変色しつつある天に向かって大きく伸ばす。伸ばして伸ばして伸ばして伸ばして、そして一気に振り下ろす。すると、肩に妙な脱力感が生まれていた。肩を小さく上下させることでそれを解消する。

「……あー、疲れたー」

「そうそう、そうでした。なんでも今日は三神君のお誕生日だそうで。おめでとうございます」

「……ありがとうございます」

 本日、三神篤は十八歳となった。小さい頃からずっと見上げていた一区切りのある十八歳という年齢。パチンコもできるようになれば親の許可なくいろんな店の会員になることもできる。車の免許まで取れてしまうし、なにより、男子の十八歳は結婚が認められる年齢。それは社会に認められるようになったからこそ得られる権利で、これでもう今までない大人への成長を遂げることができているのであって、けれど、本人の感覚としてはただ闇雲に子供ではいられなくさせられるような印象があった。

「……それが用件なら、もう家に帰って勉強しますけど」

「三神君のお誕生日のお祝いを直接口にすることは、決してついでではありませんよ。ありませんが、できればもう少しお付き合いください」

 舟越は背広の内ポケットから手帳を取り出す。

「伺いたいことはですね、最後に見た渡辺君のことについてです。我々が確認できているのは、三神君と別れた近くの高架下までですから、その時のことをお聞かせください。あの、同じことを何度も申し訳ありません」

「……もう慣れましたよ」

「重ね重ね申し訳ありません」

 舟越は、手帳のページを音を立てながら何枚か捲っていく。

「ああ、ここですね。えーとですね、あの日、十月十七日の午後六時過ぎに渡辺君と別れたそうですが、その時渡辺君はどのような服装でしたか?」

「……服、ですか?」

 篤はちらっと舟越の顔を見てから、すぐ顔を逸らした。篤としては意外なことを訊かれたので、思わず舟越の顔を見てしまったが、基本姿勢は『迷惑なのでもうやめてください』と相手にしっかり印象づけるために横を向いていなければならない。そのために露骨な溜息も織りまぜていく。

「さあ? そんなの覚えてませんよ。あれから結構経ってますし、それに服のことなんかいちいち見てないですから」

「どんな感じの、とか、色でもいいのですが……そうですか、覚えてませんか。確か近くにある愛名大学付属病院でたまたま会われたのでしたね? ああ、あそこに見えますね。へー、大きいですから、ここからでも見えるんですね。そういえば、その日、三神君は病院まで何しにいかれていたんですか?」

「…………」

 篤の言葉が一瞬詰まる。

「……先輩の見舞いにです。言いましたよ、この前」

「先輩というのは細井蒼君のことですね? 最近はいかれているのですか?」

「……いえ」

 篤はかぶりを振る。

「いってません」

「そうなのですか……どうしていかれないのですか?」

「……先輩の容態がよくないらしくて……なんとなく嫌煙しているだけです。あんまり先輩の家族に迷惑もかけちゃいけないし……これも先日伝えたはずですが」

「蒼君、よくなるといいですね……。あの、さきほどの話のつづきですが、最後に見た渡辺君、服装はもう記憶ないということでしたが、眼鏡についてはどうでしょうか?」

「眼鏡? 眼鏡ですか?」

 篤の目が丸くなる。

「眼鏡って、渡辺がかけてた眼鏡のことですか? さあ、眼鏡になんて興味ないので、どういったものだったかは分かりませんが。そんなこと気にかけてる人なんて、刑事さん以外にいるんですか?」

「どういったものだったか、ということは、どういったものであれ、かけていたわけですね?」

「……はい」

「そうですか。そうでしたか」

『眼鏡をかけていたわけですね』と舟越は口にしながら手帳に付属している小さな鉛筆を走らせていく。

「それはそれは、そういうことなんですか。なるほどなるほど。眼鏡はかけていた、ですか」

「……いけないことでもあるんですか?」

「はい? いけないとは、どういったことだったでしょう?」

「いや、だから、その……渡辺が眼鏡をかけてちゃいけないんですか? あいつ、いつもかけてましたけど」

「そうなんですよね、目が悪くていつもかけていたらしいんです」

『ですが』と、トーンを落として舟越はつづける。

「なかったんですよ、眼鏡」

「……はい?」

「見つかった死体、眼鏡をかけていなかったんです」

「…………」

 篤はまた顔を向けそうになったが、寸前でとどまった。

「……渡辺のやつ、かけてなかったんですか、眼鏡?」

「そうなんですよ。だからもしかしたら、最初からかけていなかったんじゃないかな、と思って三神君に伺ったのですが……そうですか、かけていたわけですか。かけていた、ですか」

「……おかしいですね、それは」

「はい。おかしいです」

 舟越は手帳のページを捲りながら、大きく頷いた。

「ですから、眼鏡がどこにいってしまったのか、調べました。人が死んでいますからね、おかしいことをおかしいままにしておくわけにはいきませんから。そうしたら、近くで見つかったんですよ、渡辺君の眼鏡。しかしですね、それがですね、その……見つかった眼鏡、壊れていたんですよね」

 舟越は首を傾け、問いかける。

「三神君、どうして渡辺君の眼鏡、壊れていたのだと思います?」

「…………」

「うーん、おかしいですね、どうして渡辺君の眼鏡、壊れちゃったんでしょう? 不思議だなー。どう思われます?」

「…………」

 相手の口調に、篤は首を左右に曲げていく。こきこきっ音がした。

「……そんなの、別段おかしな話じゃないと思いますけど」

「といいますと?」

「…………」

 こちらの返答に勢いよく食いついてきた舟越の反応に嘆息しつつも、篤は自分の考えを、さも『なぜこんな当たり前のことをわざわざ述べなくてはいけないのか』といった口調で口にする。

「だって、橋から落ちた衝撃で、眼鏡ぐらい割れるんじゃないですか? その拍子で顔から外れたっておかしくないし」

「あ、なるほど。橋から落ちたら、いくら落ちたところが川とはいえ、衝撃で割れるかもしれないですね。それはそうです。参考になります」

 手帳にまた書き込んでいく。が、すぐ舟越のその手が止まった。

「いや、それだとそれで、説明になってない気がしますね」

「…………」

「うーん、こう考えるみると、こっちが成り立たなくなるわけですか。こいつは困りましたね」

「……どうしたんですか? 橋から落ちたんだから、眼鏡ぐらい割れるでしょ? 割れないような超合金なんですか? それ、どんな金属なんでしょうね?」

「あ、いやいや、その通りなんです。眼鏡は割れます。そして顔から外れて、死体から離れた場所で見つかったとしてもおかしくありません。はい、そこはまったくもっておかしくないのです」

 ですが、とトーンを少し高めてつづける。

「問題はですね、眼鏡が見つかった場所にあるんですよ」

「……場所、ですか?」

「はい、場所です」

 手帳のページを捲る。

「渡辺君の死体はですね、飛び降りたとされる下川橋から下流に約五百メートルの地点で発見されました。もちろん川の中です。しかしですね、発見されたレンズの割れた眼鏡、死体から少し上流に位置する岸で見つかったんですよ」

 舟越は手帳を閉じた。背広の内ポケットにしまい、それからは横を向いている篤のことを見つめる。

「水面から岸まで約一メートルの段差があります。もし上流にある下川橋から落ちた衝撃で眼鏡が割れたのだとしたら、その眼鏡は水中を流れてきて、発見された場所でいきなり岸まで一メートルという段差を跳び越えたことになりますね」

「…………」

「雨は降っていませんでしたので、水位が上昇して偶然そこに辿り着いた、わけではありません」

「…………」

 相変わらず視線を逸らしたまま、篤は肩にかけている鞄のバンド部分を握りしめる。バンドは手の中で丸まっていた。

「……つまり、どういうことになるんですか?」

「つまりですね、川に落ちた眼鏡を、誰かが岸に上げたということになります。眼鏡が独りでに上がるわけないですから」

「……誰がそんなことをするんですか? する意味ありますか?」

「分かりません。もしかしたら鳥が銜えて運んだかもしれませんが……うーん、とても納得いくものではありませんね」

 ですから、で声を潜めて言葉をつなげる。

「私の考えとしてはですね、渡辺君は下川橋から飛び降りたわけではない、ということになります」

「…………」

「推測ですけど、渡辺君は下川橋にいたわけではなく、割れた眼鏡が見つかった岸にいたのでしょう。なんらかの理由でそこで眼鏡が割れてしまい、川に落ちたことになります。もしかすると、目が悪い渡辺君のことですから、眼鏡がなくなった瞬間に方向を見誤って川に落ちたのかもしれませんね」

「…………」

 篤は奥歯を噛みしめる。それを紛らわすように首を左右に曲げるが、今度は音が鳴らなかった。

「……それだけですか?」

「はい」

「…………」

 嘆息。

「知ってると思いますが、今年は大事な受験の年なんですよ。あまり貴重な時間を無駄にするわけにはいきません。話がそれだけなら、これで失礼します」

 篤は小さく頭を下げ、相手の反応を待たずしてベンチから腰を上げた。立ち上がった瞬間、その足を駅の方へと向けて踏み出してすらいた。

 舟越は、そんな篤の反応にこれといって驚いた様子や戸惑いはなく、ベンチに座ったまま。座ったまま、それでもその空間に言霊を吐き出していく。

「つまりですね、渡辺君の死は、下川橋から転落したことによる自殺ではなかった、ということですね」

「…………」

 篤は足を止めることはない。右を出して左を出して、また右を出して左を出す。決して後ろを振り返ることなく、歩きつづけていく。その場所から一刻も早く離れるために。

「…………」

 篤は足早に整備された公園の細い道を抜けていく。その目には木々の隙間から亀舞駅の明かりが見えた。

「…………」

 不意に見上げた空、そこにはさきほど目にした茜色は存在していなかった。今はもう、そのかけらも残されてはいない。

「…………」

 この世界はすでに、暗闇に覆われているのだった。

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