11.嘔吐するだけでシリアスな雰囲気を醸し出す女騎士
◆
進んできた道をひたすらに遡っていく、
目指すべき敵からひたすらに遠ざかっていく。
敗北の代償とはすなわち、それである。
そして、ヤカサに背負われたノミホはそれだけに留まらない。
「……うう」
「何も言うな、大丈夫だ女トイレはおそらく空いている」
トイレは最初のフロアにしかなく、
そして、男子トイレに行列が出来ているのをヤカサは見ている。
ゲロトラップダンジョンで一番人気の施設は、おそらくトイレなのであろう。
東京駅、ディズニーランド、現代日本と呼ばれる異世界において、
トイレが混雑を極める施設は幾つもあるが、トイレが最も混雑を極めた施設は、
あらゆる多元世界を含めても、このゲロトラップダンジョンに他は無いだろう。
女子トイレが空いているかどうかなど、ヤカサにわかるわけがない。
いや、男子トイレの有様を見れば、おそらく女子トイレも危うい。
それでも、曖昧なる優しい言葉を掛け続け、ヤカサはトイレへの道を急ぐ。
「ヤカサ……もういい……置いていけ……」
ノミホの腹は満たされていた――満たされすぎていた。
ノミホの中の数多の料理は今すぐに溢れ出したがっていた。
異常なる圧迫感、処理が追いつかぬ。
多すぎるならば、減らすしか無い。だが、何処へ。
出口から出れぬならば、入り口から出るしか無い。
こみ上げる嘔吐感は、身体が上げる悲鳴だ。
「ここで吐いたら罰金がエラいことになるだろうが……」
「だが、もう間に合わないし……
そしたら、ヤカサの背中に全部かかるし……」
「それがどうした」
いつ降り注ぐかわからない災厄にも、ヤカサは歩みを止めない。
吐瀉物の最前線を、無理のないほぼ徒歩の早さで駆け抜けてゆく。
「……俺、酒が呑めないんだ」
「えっ」
「俺の代わりに罠を攻略してくれる奴が必要だった。
どうやったって酒を呑む可能性を完全には消せなかったから」
後輩女子大学生、女子中学生、いずれも酒を飲む必要のない攻略方法である。
それでも、成功するとは限らない。
もしもの時のために、自分以外の誰かを進ませる必要があった、とヤカサは続けた。
「本当はずるいだけなんだよ、俺は……だから」
「ヤカサ……違う……お前は私に策を」
「お前のゲロぐらいは背負うよ」
スタッフルームへと向かう薄暗い通路を抜け出し、
再び、二人は光りに包まれた1980フグ飲み放題(食事料金別)へと戻った。
ゆっくりと、ノミホを刺激しないようにトイレへと向かう。
だが、蛇の尾が二人にもはっきりと見えていた。恐るべき毒蛇の尾が。
女子トイレに並ぶ行列が。
「……間に合わない」
小さく、震える声で、ノミホが言った。
絞り出すような声だった。
腹の中の大量の食事の狭い狭い隙間をすり抜けてきたかのような声だった。
「出よう」
料金先払制が功を奏した。
入るには面倒であるが、まだ吐いていないのならば、
ゲロトラップダンジョンから出る人間を止めるものはいない。
吐きそうな人間を一々、留めなくても――これから吐く人間は山程いるのだ。
気づくと、外はすっかり暗くなっていて、
夜の吐瀉物であるかのように、数多の星々が空に煌めいていた。
「イェダ温泉街駅に行こう……そこにもトイレはある」
「うん……うん……」
二人は何も言わずに、駅を目指した。
背負うノミホの体温が熱い。
喧騒の全てがゲロトラップダンジョンに閉じ込められてしまったかのように、
街は静かで、ノミホの息遣いがやけにうるさく聞こえた。
その内に咳き込む音がした。
体温だけでない温かいものが、ヤカサの背中に広がる。
すえた臭いが広がる。
何も言わず、ヤカサは駅のトイレを目指した。
全ての荷物を捨て去ったかのように、その足取りは軽く、
あれほど遠かったはずのトイレに、ふと気づくと着いてしまっていた。
二人は女子トイレの入り口で別れ、ノミホは個室に入って洋式便器に突っ伏した。
その頃にはもう、ノミホには奇妙な爽快感があって、何も吐き出すものはなかった。
女騎士ノミホ・ディモ・ジュースノームは泣いた。
それは嘔吐に伴うものではなく、感情の動きによる涙であった。
泣き終えて、女子トイレから出ると、そこにヤカサはいなかった。
ただ、吐瀉物のすえた臭いの残滓だけを残して、
彼女の相棒は消え去っていた。
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