最終話 二人は幸せなキスをして

 三月三十一日。

 春休みに五十鈴と会って、少しずつ時間が過ぎていって、今日を迎えた。

 と言っても、明日から学校が始まるわけではない。もう数日の猶予はある。


 なので今日も俺たちは会う時間を作った。


「お疲れさまです、恭介先輩」

「いつも助かるよ」


 家の近くで大河原さんの車に乗せてもらう。

 五十鈴は白いブラウス、ベージュのカーディガン、水色のロングスカートを穿いていた。カチューシャはおなじみの白。この清楚な雰囲気が五十鈴らしさだ。


「今日はどこか行きたいところあるか?」

「はい。久しぶりに雲上殿うんじょうでんに行きたいです」

「本当に久しぶりだな」


 一緒に行ったことは一度しかない。確かその時は……。


「あ、思い出しましたね?」

「……お前に初めてを奪われた」

「なっ、そういう言い方はよくないと思いますよ!? わたしの欲が強いみたいじゃないですか!」

「事実だし……」

「くぅ、まさか今になって響くとは……」


 一学期の最後の日。

 俺たちは雲上殿の近くにある高台から長野市の夜景を見おろし、初めてのキスをした。五十鈴から仕掛けてきて、あっという間に唇を奪われたことを覚えている。


「またなにか企んでるのか?」

「彼女を信頼してください」

「そこで具体的に言わないから疑われるんだぞ」

「だ、大丈夫です。変なことは考えていません」


 五十鈴はわざとらしく咳払いする。


「あの場所からの景色を昼間に見たことはありませんよね。今日はよく晴れていますし、ぜひこういう日に行きたいと思って」

「わかった。五十鈴に任せる」

「ありがとうございます。では大河原さん、雲上殿へお願いします」

「承知いたしました」


 車は上松方面へ向かって走った。

 街は冬の気配を残している。長野は桜の開花も遅いし、高地へ行けばまだ雪もある。春めいた雰囲気になるのは当分先だ。


 坂道を上がった車は、雲上殿の駐車場にやってきた。


「夏と同じようにいたしますか?」

「ええ、そうさせてください」


 大河原さんがうなずいた。


 俺と五十鈴は車を降りる。雲上殿には向かわず、登りの道路を歩いて近くの眺めがいい場所に向かった。


 他の誰にも邪魔されない、俺たちだけの空間。

 空気が冷たくて、五十鈴の顔は少し赤い。


「よく見えますね」

「そうだな」


 俺たちが育ってきた長野の街並みは穏やかだった。


「恭介先輩」

「なんだ?」

「キスしてもいいですか?」


 五十鈴がさらりと言ってのける。


「……もう、抵抗はなくなってきたか?」

「そうかもしれません。ずっと恥ずかしがってることじゃない気がして」

「俺はまだ、そう言われるとドキッとする」

「いいんですよ、恭介先輩はウブなままでも」

「いや、俺も大人になりたい。キスくらいでは動じない男になる」

「でしたら、恭介先輩のほうからしてほしいです」

「……なんか、俺からだと背徳感があるんだよな」

「か弱い彼女をむりやりしてるように思えるからですか?」

「おまっ、なんてこと言うんだ……!」

「ふふっ、冗談ですよ。恭介先輩は遠慮しすぎです。わたしはいつでも受け入れますからね」

「言ったな。あとで怒るのはなしだからな」

「はい。――どうぞ」


 俺は深呼吸して、心を落ち着かせた。

 周りに人がいないとはいえ、すぐそこは道路。車が走ってきたら見られる。けれど、それを恐れてはいけない時もあるよな。俺は覚悟を決めた。


 五十鈴の両腕を柔らかく掴み、顔を近づける。


「んっ……」


 そして唇を重ねた。五十鈴の顔は熱く、吐息がかすかに震える。やっぱりまだ緊張はするのだろう。精一杯の強がりがいとおしかった。


 唇がさらに沈む。心地いい。永遠に続いてほしいと思う瞬間。それがわずかな時間しか許されないことも、俺は痛いくらいわかっている。


 顔を離すと、五十鈴の目が潤んでいるのが見えた。


「……どうだった?」

「……素敵でした」


 五十鈴は小首をかしげ、微笑む。


「どうしても体が硬くなってしまいます。すごく嬉しいのに、すごく心地いいのに、どこかビクビクしている自分がいて……」

「俺だって、顔を近づける時は死ぬほどドキドキしてるんだぞ」


 五十鈴は返事をしなかった。くるりと背中を向けて、街のほうを見る。俺も隣に並んだ。


「自然にできるようになれるでしょうか」

「きっと、そのうち」

「じゃあ、またしなきゃいけませんね」

「次はもっと肩の力を抜きたいな」

「恭介さんの情熱的なキス、楽しみです」

「そうか。――ん?」


 今のは……。


 思わず横を向く。

 五十鈴も俺を見返していた。柔らかな表情。


 素敵だ。


 俺らしくもない言葉が浮かんできた。でも、これでいいのだ。五十鈴の笑顔は俺が守っていく。これからずっと。


 俺が笑うと、五十鈴もにこりとした。心が温かい。なんだか、ここだけ一足先に春がやってきているみたいだ。


「恭介先輩が先輩なのは今日まで。ということで、先輩呼びはこれで終わりにします。約束ですから」


 俺は五十鈴の小さな手を握った。


「ありがとな、五十鈴。また花見に来ようぜ」

「ぜひ行きましょうね――恭介さん」




〈おしまい〉

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