38話 二人で行くプール

 うっすらと差す日差しに、俺は感謝したくなった。

 今日は五十鈴とプールに来ている。

 連日猛暑だったが、今日はほどよく涼しい、理想的な夏の休日という感じだった。


「いいか、中で頼りになるのは君だけだからな。なんとしても五十鈴様を無事に帰還させるんだ」

「わ、わかりました」


 駐車場で、俺はそんな風に大河原さんに送り出された。


「どうしたんですか?」

「なんでもないよ」


 五十鈴は水色のワンピースを着ていた。水着に合わせたんだろうか。


 受付を通ってまずは更衣室へ。高校のスクール水着がけっこうスタイリッシュなデザインなので、俺は新しく買わなかった。紺色ベースに明るい黄色があしらわれた水着だ。


 外に出て、プールサイドへ先に行く。

 今日は流水プールで泳ぐだけだと言っていたので、そこで待機だ。


 昨日は水着を見ただけだったからまだ耐えられた。しかし、それを着た五十鈴を見るとなると、どうなるのだろう。緊張する。


 学校以外でプールに来るのは初めてだ。今は午前十一時過ぎだが、お客さんはそこそこ入っていて、流水プールには小中学生っぽい子供もいっぱいいる。


「お待たせしました」


 俺はハッとして振り返った。


 五十鈴が立っていた。麦わら帽子をかぶり、髪の毛を縛って、昨日買った水色のビキニを身にまとって……。


 俺はクラクラした。五十鈴はあまりに可憐だった。パレオのついた水着はおしゃれで、五十鈴の涼しげな雰囲気にぴったりだ。

 そして、五十鈴の真っ白な肌。

 まるで日焼けしていない、ちょっと心配になるような白い肌が俺の胸をわしづかみにする。

 しかも、五十鈴は病弱といえどガリガリではない。適度に肉づきはよくて、太ももとか二の腕もちゃんと丸みがあって――って、どこまで見てるんだよ俺! 気持ち悪いぞ!


「あ、あまりジロジロ見られると恥ずかしいです……」


 五十鈴が内股を作って胸を隠した。

 ああ、よくない! その仕草は刺激が強すぎる! なんだか俺のテンションもおかしくなっているがとにかくヤバいことが多すぎる!


「と、とりあえず準備体操はしておこうな」

「そ、そうですね」


 軽く体を伸ばしてから、二人でプールサイドに座る。


「ひゃっ」


 水に足を入れると、五十鈴が驚いた声を上げた。


「冷たいか?」

「い、いえ。小学校以来のプールなのでびっくりしただけです」


 しばらく、五十鈴が足をぱちゃぱちゃさせるのを横で見る。


「日焼け止めは塗ってきた?」

「もちろん。わたしは普段からつけていますよ」

「だったらいい。日焼けして皮が剥げると面倒だからな」


 話しながらも、俺は必死で心臓がドキドキしているのを隠さなければならなかった。


「そ、そろそろ入ってみるか」

「ええ」


 俺がプールに入ると、五十鈴もおそるおそる入ってきた。


「あっ!?」


 そしていきなりバランスを崩した。倒れそうになる五十鈴の手を引っ張って、壁にしがみつく。


「流水プールなのを忘れるなよ。五十鈴の力じゃ持ってかれるぞ」

「むぅ……そこまで貧弱じゃないです」

「でも今」

「ちょっとよろけただけです」

「そうか……」


 強がっているところもかわいらしい。


「じゃ、流れに乗って泳ごう」

「腕を使わなくても泳げますね」


 流水プールは俺も初めてだが、これは楽でいい。足を浮かせるだけで体が流れ始める。すごく便利。


 最初は表情の硬かった五十鈴だが、少し進んでいくうちに笑顔になってきた。


 俺たちは手をつないで流れるに任せた。

 もしもどこかで五十鈴が倒れそうになったら、俺が助けるのだ。ずっと手は握っていたほうがいい。水の中では体温はあまり伝わってこないけど、確かに五十鈴を感じられる。


「わたしが泳げているなんて信じられないです。たとえ自力じゃなくても……」


 五十鈴がぽつりとこぼした。


「プールも、なかなかいいな」

「ええ。勇気を出して正解でした」


 五十鈴がぐいっと近づいてきた。……近すぎる!


「お、おいっ」

「えへへ、このくらい許してください」

「あ、当たってる……」

「ドキドキしますか?」

「う、うう……」

「あら? 真っ赤になっちゃいましたね」


 五十鈴の胸が俺の右腕に密着しているのだった。や、やばい。いろんな意味でヤバい!


「恭介先輩も腕のことがありますから、もしかしたら楽しめないんじゃないかって思ったんです。でも、楽しそうな顔をしているので安心しました」

「泳ぐのは、な……」

「他になにかあります?」

「これは、その……」

「楽しくない?」

「その訊き方はずるい……」


 五十鈴が離れた。それでも、互いの手は離さない。


「時々、気になるんです」

「なにが」

「先輩、胸の大きい女性が好みなんじゃないかって」

「あんまり、そういうことは考えたことがない」

「本当ですか? 男性なら一度は考えるはずです」

「まあ、部室でそんな話をしてたことはあるけどな。芸能人なら誰が好みか、みたいな」

「誰が好きですか?」

「特にいない」

「それはさすがに興味がなさすぎでは」

「練習と試合がすべてだったんだ」

「じゃあ、今のは刺激が強すぎましたね」

「そ、そうだぞ。よくない」


 五十鈴はにへっとからかうように笑う。


「それで、どうですか? 胸の大きい女性は好きですか?」

「ん、思わず目が行くことはある。でも特別に好きってことはない」

「じゃあわたしはアリですか? かなりひかえめだと思いますけど」


 そんなことを言うものだから、俺は思わず五十鈴の胸を見てしまった。水の上に見える、ひかえめな主張。俺の両手に余裕で収まってしまいそうな――


「だ、だからジロジロ見るのは駄目ですっ」

「す、すまん」


 俺は咳払いでごまかす。


「俺は、胸の大きさで五十鈴を好きになったわけじゃない。そこでなにかが変わるってことはないよ。安心してくれ」

「でも、包容力はありません」

「いや、ある」

「だ、断言するんですね」

「五十鈴は雰囲気に包容力があるんだ。前になぐさめてもらったことがあるだろ? ああいう時、五十鈴の存在の大きさを感じる。胸の大きさは気にしないでくれ」


 五十鈴は微笑んだ。


「……そうですか。信じますよ」

「ああ」

「とはいえ、これでも当たっただけであわあわするんですから、先輩にはこれからも仕掛けていきますね」

「やめろ」

「赤くなっててとてもかわいかったですよ?」

「な、慣れてないんだ。慌てるに決まってるだろ」

「初々しいですね。かわいい」

「そんなにかわいいを連呼するな」

「かわいいです~」

「こらっ」


 俺たちは流されながらたわむれる。

 後輩の女子にかわいいと言われる元野球部員。俺には貫禄というものがまるでないな……。一応身長は高いほうなんだけどな……。


 ――そんなことを思っていた時だった。


「あれ……」


 近くを泳いでいる、中学生くらいの男の子の動きに違和感を覚えた。

 なんだか、傾いてだんだん沈んでいくような。

 ただ潜るだけならあんな不自然な体勢にはならないはず。


「五十鈴」

「はい?」

「悪いけど、スタッフさんを呼んできてくれるか」

「い、いいですけど……」

「すまんな」


 五十鈴がプールサイドへ行くのと同時に、俺は男の子に向かって進んだ。


「大丈夫か!?」

「あ、足が、攣っちゃって……うぅ……」


 少年の体が沈みそうになる。俺は両腕で支えた。……右腕に鈍い痛み。だが、プールサイドはそんなに遠くない。


「引っ張るから、しっかりつかまってて」

「ご、ごめんなさい……」


 少年が俺にしがみついてきたので、無理に腕で支える必要がなくなった。右腕が楽になる。


 俺は少年を抱えてプールサイドまで連れていった。

 こういう時、一緒に溺れるのが最悪のパターンだ。水難事故で巻き添えになった人のニュースが頭をよぎった。俺は流れに逆らわず、斜めに進んでいった。こうすれば体力の消耗を抑えられる。水深はそこまでないから、いったん手を離して体勢を立て直すこともできる。

 向こうからはスタッフさんが走ってきた。そのうしろから、やや早足の五十鈴。そうだ、走らないでくれ。


「足が攣ったみたいです。あとはお願いします」

「ありがとう。きみ、大丈夫か?」


 スタッフさん二人に、男の子が引き上げられた。周りがざわつく中、応急処置が行われた。

 男の子の表情が和らいでいくのを見ると、周囲の人たちも遊ぶほうに戻っていった。


「あの、ほんとにありがとうございました」

「無事でよかった」


 俺は男の子とスタッフさんから何度もお礼を受け、五十鈴と一緒にその場を離れた。


「なんだか妙な空気になっちまったな」

「そうですね。わたしはかなり満足しているんですけど」

「じゃあ無理することもないか。そろそろ出る?」

「そうしましょう」

「五十鈴は調子悪いところ、ないな?」

「ありません」

「よかった」


 シャワーで体を洗って、更衣室に入ろうとする。


「先輩、待ってください」

「なんだ?」


 五十鈴が更衣室から戻ってきてスマホを出した。


「次にこの水着をいつ着られるかわからないので、写真を撮っておきたくて」

「よし、撮るか」

「ありがとうございます」


 五十鈴が近くのスタッフさんにスマホを渡した。あれ、俺が五十鈴を撮るんじゃないのか?


「先輩も一緒に入ってください」

「そういうことか……」


 俺は五十鈴と腕を合わせて、写真を撮ってもらった。五十鈴はピースではなく、右手で麦わら帽子を押さえるポーズを作った。


「どうです? 先輩の筋肉もしっかり写ってますよ」

「いいよ、そんなとこ見なくて」

「頑張って鍛えてきたものですよ。自信持ってください」

「そ、そうだな」

「この写真、先輩にも送りますね」

「くれるのか」

「はい……あっ、やっぱりやめておきます」

「え? 待て待て、なんでそうなる」

「先輩がこの写真を見て……」

「見て?」

「夜、とか……」

「おいっ、俺をなんだと思ってるんだ!? 普通の記念写真だろ!?」

「わたし、こんなに肌を出してますし、うーん……」

「俺も彼女の写真はほしい。下さい」


 五十鈴はしばらく迷っていた。


「……そうですね。車に戻ったら送ります」

「あ、ありがとう。信用してもらえたようだな」


 俺の言葉に、五十鈴はスマホで口を隠し、笑ってみせた。


「かわいいとか言ってましたけど、やっぱり恭介先輩はかっこよかったです。さっきのことも、この写真を見ればいつでも思い出せます。先輩の勇気を二人の宝物にしましょう」


 心が熱くなった。五十鈴の言葉で、俺はいつだって前向きになれる。


「またいつか、一緒に泳ごうな。次はちゃんと二人っきりの時間を作れるように」

「そうですね。次こそ先輩を悩殺したいですし」

「……もう、充分されてる」


 俺がぽつりとこぼすと、五十鈴が黙った。その顔がほんのり赤くなる。


「き、着替えましょうか」


 五十鈴は表情を隠すように、更衣室に入っていった。俺はプールを振り返る。


 一時間ほどだったが、いい思い出が作れた。

 できるなら来年も来たいな――そんな気持ちになった、夏の昼だった。

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