からかい好きな病弱お嬢様とコミュ障な俺の、ささやかで愛しい甘々生活。

雨地草太郎

1話 出会いは病院で

 退院日が来ても、俺の心は晴れなかった。

 学校の制服に着替えて病室を出た。


 母さんは入院費の精算に行っている。俺は先に駐車場まで向かおう。


 ぼんやり歩いて病院を出る。

 目の前のロータリー近くにベンチが置いてあったので、そこに座った。


「はぁーあ……」


 右腕を上げていく。リハビリで上がるようにはなったが……。


「ぐっ、いてぇ……」


 肩より上まであげようとすると、鈍い痛みが走る。

 俺は夢を絶たれただけでなく、これからずっと、この痛みとともに暮らしていかなければならないのだ。


「なんでだよ……」


 両手で顔を押さえて呻く。


 腕が折れて病院に運び込まれた日。

 医師から、もう野球を続けるのは難しいだろうと宣告された時――俺は初めてグラウンドの外で泣いた。

 泣くのはいつもグラウンドだった。

 夏の大会。最後の試合に負けて、先輩たちの引退が決まった時。

 自分の不甲斐ないピッチングでチームに負けをつけてしまった時。

 俺が泣くのは必ず土の上だった。


 病院のベッドの上で、俺はボロボロ涙をこぼした。

 たぶん、前より涙もろくなっている。また気持ちが昂ぶったら泣くのかもしれない。


「あの、大丈夫ですか?」


 女の子の声がした。

 顔を上げると、長い黒髪の女子高生が立っていた。


 俺と同じ、長野ながの清明せいめい高校の制服を着ている。

 ネイビーのブレザーに、ベージュのカーディガン、胸元にネクタイ。スカートは黒白チェック柄。


 顔はまったく日焼けしていなくて、心配になるくらい白い。少しタレ目で、眉が困ったように八の字になっている。


「具合悪そうに見えたので……」

「平気だ。余計な心配させたな」

「あなたは、新海しんかい恭介きょうすけ先輩ですよね?」

「……俺のこと知ってるのか」

「野球部のエースなので有名ですよ」

「そうか。まあ、もうエースじゃなくなったが」


 女の子は首をかしげる。小柄で顔も小さいので人形のようだ。


「右腕を折っちまった。もう野球はできない」

「え……」

「ただ折れたんじゃない。折れた骨が神経を傷つけて、思うように力が入らなくなったんだ。野球どころか、日常生活にも支障が出るレベルさ」


 俺は自暴自棄になりかけて、一気にしゃべっていた。そこで冷静になる。


「いや、悪かった。いきなりこんなこと言われても困るよな。忘れてくれ」

「先輩……」

「ところで、君は?」


 女の子はブレザーのポケットから生徒手帳を取り出した。差し出してくる。


 玉村たまむら五十鈴いすずと書かれていた。


「二年の玉村と言います。先輩とは去年、委員会が同じでした」

「そうだっけ。俺、去年は部活優先で委員会にはあんまり出なかったんだよな」

「保健委員は放課後に拘束されることもありますからね。わたしもあまり出てはいないんですが」

「真面目そうに見えるけどな」


 玉村は苦笑した。


「体が弱いんです。すぐ体調を崩すので、学校も休みがちで」

「てことは、今日も学校は休んだのか?」

「午後から出るつもりです」


 今は午前十時半だ。


「今日は通院日なので」

「道理でこんな時間に会うわけだ」

「あの、先輩、元気出してくださいね」

「どうした急に」

「その、少し投げやりになっているように見えるので」


 俺は黙った。

 確かに今、玉村と話している自分の口調が荒れているのを感じていた。この後輩はちゃんと気づいている。


「ちょっと気が立ってるみたいだ。不愉快にさせたな」

「いいえ。具合が悪いのでなければよかったです」

「優しいんだな。俺みたいなのに話しかけるのは勇気が必要だったろ」


 見たところ、玉村は身長が150センチくらいに見える。

 俺は177センチでそこそこ肩幅もあるので、彼女から見たらそれなりにでかい。うつむいて呻いているでかい男に声をかけるのは怖かったのではないだろうか。


 玉村は微笑んだ。ひかえめな、力のない笑顔だった。


「ちょっとだけ迷いましたよ。でも同じ高校の方に見えましたし、わたしが無視して倒れるようなことがあったらいけないと思いました」

「……ありがとな」


 うなずいた玉村は腕時計を見た。


「そろそろ行きます。先輩、お大事に」

「ああ」


 深くお辞儀をして、玉村は病院に入っていった。

 入れ違いで母さんが出てくる。


「今の子、清明の制服着てなかった?」

「後輩だよ」

「ふうん。綺麗な子だったね」

「そうだな。お嬢様っぽかった。俺とは住んでる世界が違いそうだ」

「まったく、入院してからネガティブなことばっか言うようになっちゃって。ゆっくり立ち直っていければいいけどね」

「……どうだかな」


 俺と母さんは車を目指して歩いた。

 途中でふと、俺は振り返った。


 玉村五十鈴……か。


 学校で会うことがあったら声をかけてみたい。


 なんとなくそう思った、五月下旬のことだった。

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