銀銘遊園

 桜の蕾を眺めながら坂を登りきると、最初に目に入ったのが、その店だった。


 煉瓦造りの小さな平屋建てで、古い木製のドアには"園山レコード”と白い筆文字で書かれた、黒い木札が吊り下げられていた。


 僕はレコードどころか音楽全般に対して疎い。だが、軒下のスピーカーから流れてくる歌声に誘われ、そのドアを開けた。


 狭い店内を囲む棚には、レコードとCDが半々くらいの割合で並べられていた。


 「いらっしゃい、何か探してるの?」


 カウンターの奥から出てきたのは、薄いサングラスをかけ、砂色のポンチョを纏った風変わりな老人だった。


 僕は部屋の天井の左隅にあったスピーカーを指差した。


 「今かかっている女性歌手の曲って……売ってます?」


 老人は一瞬虚を突かれたような顔をしたあとニヤリと笑い、また奥へ消えた。


 ゴソゴソと音が聞こえてくる。どうやら目的の品を探してくれているようだ。


 僕は、聴こえてくる曲の音源がCDであることを望みながら、老人が戻ってくるのを待った。


 「いらっしゃい」


 唐突にドアが開き、緑のパーカーを着た茶色いおさげ髪の少女が声をかけてきた。


 「何か探しものですか?」


 僕は反射的に、さっきと同じようにスピーカーを指差した。


 「あの曲……」


 「いやあ、お待たせ……ごめんね、無いみたいだ……その娘のCD」


 奥から戻った老人が少女を指差して言った。


 「その娘のCDって……どういう意味ですか?」


 「いやだから、この曲を歌っているのが、そこに立ってる女の子ってこと。歌手なんだよ」


 「歌手……? この歌を……?」


 この二人のやり取りを傍らで困惑気味に見ていた少女だったが、次第に事態が飲み込めてきたのか、僕を指差して


 「もしかしてこの人、私の歌を買いに来たの?」


 と老人に言った。


 それから僕ら三人は、それぞれ別の方向に人差し指を向けたまま、互いの顔を順繰りと見比べた。




 「本当に歌手って名乗れる程じゃないんだってば。店長の従兄弟がインディーズレーベルの取締役だかで、そこで何枚か作ってもらっただけだもん」


 「でも、すごくいい曲だったよ。なんてタイトル? 他にどんな曲を歌っているの?」


 「『水虎の涙』っていうの。でも、あの曲だけだよ。だからCDもカップリング無しの一曲入りで四百円だった。安いでしょ」


 彼女はそう言ってあどけない笑顔を見せると、買ってきたパンの封を開け食べ始めた。


 店番をしながら昼食がとれるということは、日中に客は殆ど来ないのだろう。


 手持ち無沙太になった僕は、棚から適当にレコードを抜き出しては、ジャケットを順に眺めた。


 「お客さんはどんな音楽とか聴くんですか? やっぱり髪の色からしてバンドとか組んでたりする?」


 「いや、僕は昔からそういうの苦手でさ。得意な科目とかも無かったけど、特に音楽はからきし駄目だったね。それに髪だって、同じ専門行ってる友達に推められて金髪にしただけ。でも、もう戻すわ……」


 「ははっ、そうなんだ。そういう私も得意かと聞かれれば、そんなことないんだよなあ……。でもパパがレコード集めるのが好きで、私もそのコレクションの中で育ってきてるから、音楽自体は大好きなんだ。あと歌うのって気持ちがいいんだよね、やっぱり。今度、遊園地のイベントでも頼まれてさあ、もう学校も無いから自由に参加出来るし」


 「ああ、高校卒業か……じゃあ、もうプロデビューを目指してたり……」


 そこまで言うと彼女は僕に右掌を向け、左手で口を押さえた。


 「んぷっ、違う辞めたの。高校辞めてここで働かせてもらってるんだ。アパートも店長から紹介してもらって、そこで一人暮らし。気楽なもんだよ、家賃も格安だし」


 「そうなんだ……。じゃあ」


 お父さんとは……と、聞きそうになったが質問を変え、出来るだけ差し障りの無さそうなことを続けて訊ねた。


 そこからわかったことは、彼女が僕より二歳下だということ、ひとりっ子であること、出身地がこの町から電車で三駅先にあるということ、そしてその容貌とは裏腹に、古風な響きの名前の持ち主ということだった。


 「俺、たぶんその日は暇だから観に行くよ。なんて遊園地?」


 「え、あ、ありがとう……。えっと"銀銘遊園”ってとこだよ。そこのバス停で乗って……」


 「ああ、そこなら知ってる。子供の頃に何度か行ってるから」


 「そう、二時頃からだから……あ、ごめんお客さんの名前……」


 僕は、そこでようやくまともな自己紹介をして、店を後にした。軒下のスピーカーからは、ロック調のインスト曲が流れていた。




 久しぶりに訪れてみれば、そこは遊園地というよりは公園という印象だった。


 そこそこ広い敷地内にあるアトラクションは、ミラーハウスにメリーゴーランドにゴーカートの三種類。


 所々に設けられた花壇には、申し訳程度に菜の花が植えられていた。


 「親に連れられて来たときは、もうちょいマシに思えたんだけどなあ……」


 「私は結構好きだよ、こういうとこ。あと今日ね、レコード会社の人が来るかもしれないんだよ」


 「それって、例の店長の従兄弟とかいう……」


 「その人の知り合いだって。会社の名前は……なんて言ったかな? 忘れた……」


 中央広場の時計塔が二時を知らせると同時に、彼女はベンチから立ち上がり、空になったコーヒーの缶をゴミ箱に捨てた。


 「じゃあ、行くね」


 「うん、えっと……がんばって……って、今から着替えるの?」


 「違うよ、このままだよ」


 そう言うと彼女は茶色の髪を揺らしながら走り出し、緑のパーカーと黒のスカートのままステージに立った。


 そして、遊園地の係員らしき人達が彼女に近づき幾度か話しかけたあと、控えめな挨拶とともにライブが始まった。


 「短い時間ですが、最後まで楽しんでいってください」


 今日も快晴だというのに、観客は僕ひとりだ。あとは、ベビーカーを押したママ友グループが冷やかすように笑って通り過ぎただけ。


 だがそれも、入園客自体が少ないのだから仕方がないのだろう。


 『水虎の涙』が終わり、カバーらしき曲のイントロが流れたとき、ステージの右下に男の姿が見えたが、すぐに裏側へと消えた。


 結局彼女は、"最後まで楽しんでいった”唯一の客である僕に一礼し、猫と兔の着ぐるみに後を託してステージを下りた。


 「良かったよ、やっぱあの曲好きだ……もちろん君の歌声も」


 僕は、手を振りながら近づいてきた彼女に、自販機で買ったミルクティーを手渡した。


 「ありがとう、会社の人にも褒めてもらったんだ」


 「それって……レコード会社の? もしかして、さっき観てた男の人?」


 「うん、名刺もらっちゃった。今度連絡ほしいって、もしかしたらデビュー出来るかも……みたいなことも言ってたかな」


 「えぇ……いや、いやいや! うまくいきすぎでしょそれ! 漫画やドラマだってそこまで」


 「言われると思った。まあ、私だってそう思ったけど……。でも、信じられそうな気がするんだ」


 彼女は意味ありげな笑みを浮かべたあと、ベンチに腰掛けた。


 「その……根拠は?」


 「カンだよ」


 少し冷たい風が吹いた。僕もミルクティーが飲みたくなったので、また自販機の前に立った。


 「お店に来たとき、私に聞こうとしてたでしょ? ほらプロデビューを目指して……って。前はね、歌えるだけで十分だった。でも今は違う」


 彼女は缶に口をつけ、少し顔を顰めた。


 「あ、ごめん。冷たかったね。さっきまで暖かったから……急に寒くなったね……俺の温かいやつだから変える? まだ口つけてないし」


 「ううん……そうだ! ねえ、ちょっと遊んで帰ろうか」


 「えっ? ああ……そうだね、三つしかないけど、せっかくだしね……」


 それから僕達は、本当にちょっとの時間だけ園内で遊んだ。それでも日が暮れるまで過ごすには、事足りたけど……。




 青空の下、坂道に並んだ桜の木も赤煉瓦の外観も、今僕が開けようとしている木製のドアも、ついこないだ見たばかりな気がする。


 「おお! いらっしゃい、久しぶりだね」


 店内に入り最初に目に映った店長の姿も、一年前とまるで変わりはない。服装だって最初に会ったときと一緒だ。


 もしかしたら、同じタイプの衣類しか持っていないのかもしれないけど。


 「お久しぶりです、お元気そうで」


 「いやいや、あなたこそ。あれから、どうしてるのかなあって、時々考えてはいましたよ。そういえば髪の色も変わったね」


 「はあ……ちょっと仕事に差し支えるもんで」


 「そうかあ、もう就職か。早いもんだね……ちょっと待ってね、コーヒーでも淹れるよ。あっ、いいからいいから、遠慮しないで座ってて」


 先客でもいたのか、カウンター前にパイプ椅子が置かれていた。僕は店長が奥へ消えるのを見計らい、そこに腰掛けた。


 広げられたスポーツ新聞の見出しが目に入る。


 「『園山の歌姫失踪』か……あなたも彼女を探してここへ来たんでしょ」


 奥から店長が問いかける。


 「はい……あの、ここへは……?」


 「来てないんだ。他の店には行ってみた?」


 「はい、いくつか。でも、これからまた探してみようかと思ってます……」


 「そう……はい、砂糖もミルクも切らしちゃったみたいでね、ブラックだけどいいかな?」


 「あ、全然……ごちそうさまです」


 店長は両手に持ったマグカップを新聞紙の上に置くと、薄いサングラスを外した。


 「あの娘からは、掛けてない方がいいって言われてたけどね、これ。一応容姿を褒められてたのかな? たぶんね、戻りたかったんじゃないのかな……あの娘」


 「え?」


 「またレコードに囲まれた生活に……」


 「それは……例のお父さんの……? じゃあ、実家に戻って……」


 店長はコーヒーを一口飲み、しばらくカップを眺めたあと「無いよ」と言った。


 「無いんだよ、もう彼女の実家は……。デビューが決まった頃には、取り壊しが始まってたらしい。そうか、やっぱりあなたにも何も伝えてなかったか……」


 「そんなことが……。じゃあ、帰る場所だって……」


 「疲れきったときに、帰って休める場所……そんなところが、まだあの娘にもあればいいんだけどね……」


 休める場所……僕の頭に、ミルクティーを飲む彼女の姿が浮かんだ。


 「僕が彼女にとって、どんな存在だったかなんてわからない……いや、どう思われててもいい……。僕は初めてあの曲、『水虎の涙』を聴いたときから、ずっとその歌声に惹かれていた……ただのファンであって、あのとき……」


 「あのとき、唯一の観客だった。遊園地でのステージのことは……」


 店長が一気にコーヒーを飲み干す。


 「あの娘、本当に喜んでいたんだ。あなたが、ずっと聴いていてくれたのをね」


 「僕、今からあの場所……銀銘遊園に行ってきます! もちろん、行ったところで何かあるとは思わない。ましてや"彼女がベンチに座っていて”なんて展開、御都合主義にも程がある。ただ、なぜだか……そうしなくてはいけないような気がするんです……」


 「そうか、行ってみるかい……。これがドラマだったら、ここで彼女の曲が流れたりするんだろうけど、あいにく今も手元にCDが無くてね……。というか、スピーカー自体が壊れてるから、有線も何も流せない」


 そう言うと店長は相好を崩し、僕にコーヒーを推めた。一口飲んだだけで、心が和らいだ気がした。


 「ありがとうございます……。そういえば、一度だけ『水虎の涙』のCDを都内にある店で見かけたことがあるんです。でも、とんでもない値段になってて、僕には手が出せなかった」


 「らしいね。CDでそれならレコードだと、うちの店の売り上げ何ヶ月分もの値で売られてるんだろうね」


 「えっ、アナログ盤も出てるんですか?」


 「ああ、販売用では無かったらしいし、何枚作ったかも知らないけどね……。そうだ、これを持ってきなよ、あの娘からもらったんだけど、使うあてもないしさ。あと、それだと日が暮れてから寒くなるよ」


 こうして僕は、銀銘遊園のフリーパスと砂色のポンチョを受け取ると、店を出てバス停に向かった。




 入るとすぐに一望出来る園内も、一年前と変わっていなかった。


 予想通りと言いたいところだが、いつ閉園してもおかしくないような気もしていたので、正直胸を撫で下ろした。現に、他に入園客の姿も見えなかったし、時間帯もあるのかもしれないがニーズの無い施設に変わりはないのだろう。


 ひとまず中央広場に行き、自販機の前に立つとミルクティーのボタンを押した。


 「いらっしゃーい。珍しいですねー、一年振りくらいですかー」


 どこからか男の声がした。だが周りを見回しても、それらしき人影は見当たらない。


 「ここですよー、木馬のとこでーす」


 ここから数百メートル先の、恐らく園内の東端に当たる部分にメリーゴーランドがある。


 その手前にある遊歩道から、声の主らしき人物が手を振っているのが、微ながらに見えた。それにしても、よく通る声だ。


 僕はミルクティーを飲みながら、男のいる方へ歩いた。


 段々と姿を確認する事が出来たが、それは全く見覚えの無い中年男性だった。


 「いやあ、どうもー。御無沙汰してまーす」


 僕がどんなに距離を近づけても、男の口調は変わらなかった。


 「あの……どこかでお会いしました?」


 「はーい、一年位前に木馬にも乗ったでしょー? そのとき対応したのが私でーす。はーい、この格好を見ればわかるとおり、ただの係員でーす」


 「それだけ……? よく僕のことなんて覚えてましたね」


 「だって、一緒にいた娘が可愛いかったし、あなたの髪も金色だったし目立つカップルでしたからねー。あとほら、客も少ないうえに同じ人しか来ないから、自然と顔も覚えちゃうんですよー。あとそれと……」


 男はズボンのポケットから出したティッシュで鼻をかむと、咳払いをして


 「もう、普通の喋り方で大丈夫ですよね」


 と、真顔で言った。


 「はあ……そういえば昔から気になってたんですけど、なんで建物も馬も全部黒塗りなんですか? いや、子供が乗るものって、もっとポップな感じだから……」


 「そりゃ、『黒馬舘』って名付けられてるくらいだから……黒くするでしょ。まあ、ここで話しててもなんだし、乗ってきます?」


 「何を?」


 「木馬の他にー何があるんですー?」


 男の口調がまた戻った。だが、馬鹿にしてるというわけでなく、本当に驚いた様子だった。


 「そう……ですよね。でも男ひとりで乗るのもなあ……いや、せっかくだから、じゃあ」


 「はーい。では、どうぞこちらへ。荷物はそこら辺に置いて下さいね……ああ、そこの段差気をつけて下さいね、脆いから。あと馬に跨がる際は、更に気をつけて下さい、下に落ちないように」


 男の再三の忠告で、入念に足元を確認しながら、五台のうちの一台に跨がった。内側の床も天井も無味乾燥な黒一色で、それが不思議と高級感を漂わせている。


 「はーい、それじゃあ、レッツーゴー」


 間延びした掛け声と共に木馬が廻りだし、聴き覚えのある音楽が流れ始めた。その音は耳で聴くというより、体の中を流れていくような感覚だった。


 前奏が終わり歌唱部分に入ると、僕は目を瞑り、彼女の存在を感じた。


 「やっぱり、ここに来て正解だった。ずっと君を探してたんだ…」


 背中から首筋にかけて温もりを感じる。僕は体を少し横に傾けて、彼女の肩を抱いた……。


          ※


 「危ない」


 耳元で声がして、目を開けた。


 「ほらー、気をつけてって言ったでしょ。落ちたら割れてしまいますよ」


 そう言って、係員が人差し指を下に向けた。


 そこで僕は、黒い床の正体が巨大なレコード盤であることに気がついた。


 「これって……?」


 「ええ、実は少し改築しましてね、廻転の動きを利用した蓄音機の役割も備えてるんですよ。馬に付いてる棒の先っぽを見てご覧なさい」


 係員に言われ、木馬の棒の下部分を見るとどれも針の先端のように細くなっており、盤には接していなかった。


 「この中から重量がかかったとこだけ反応して、溝に落ちる仕組みになってるんですよ。聴こえたでしょ? 『水虎の涙』が」


 「どうりで上下運動をしていなかったわけか……いやそれよりも、これが店長の言ってたアナログ盤てこと? 色々とおかしいけど……まず、何でここにあるの?」


 「あなたを見かけたからですよ。本当は一緒にいた娘が、その後の流行歌手だというのを知っていたんだけど、サプライズっていうのをしたくなりましてね。セットしてから声をかけたんですよ」


 「いや、そういうことを聞いてんじゃなくて……」


 「着た方がいいですよ」


 「はい?」


 「寒くなってきましたからね。せっかくお洒落なポンチョを持っきてるんだから」


 辺りはいつの間にか薄暗くなっており、係員の言うとおり肌寒くもなってきたので、木馬から下りて店長のポンチョを被った。


 「今って、何時頃です」


 「夕方の六時八分です」


 「そんなに! 三四時間も乗っていたってこと? じゃあ本当に僕は木馬に乗りながら夢を観ていたのか……。だが、彼女のあの感触は……」


 「いや、二十八時間乗ってましたね」


 「はえ! 今度は何言ってんの?」


 僕の反応がツボにハマったのか、係員は腹を抱えて笑いだした。


 「いひひひひー、いやーごめんなさーい。ゴホン、失礼ですよねこんなの。いや、当然の反応ですよ、二十八時間も木馬に揺られてたなんて知ったら、誰だってそんな反応をします。えーと改めて言うと、あなたは一日と四時間、この廻転木馬に乗っていたということです」


 「だからそんなこと聞いてんじゃないって! それに信じられるか! 一日と……何時間だっけ?」


 「四時間です。なんだったら、もう一度乗ってみますか?」


 係員は道を譲るような仕草をして、フェンス扉を開けた。


 「いや、いいです……。もう時間も遅いし、とりあえず……」


 「お客さんは何をしに、こちらへ来られたんです?」


 「何を……? それは……」


 「いや、愚問でしたね。遊園地に来る理由なんて、そりゃ決まってますよねー」


 「乗ります……。乗らせてください、もう一度……」


 彼女に会うために。


 僕はまた、ミシミシと音をたて階段を登り、木馬に跨がった。


 「それじゃあ、またレッツーゴー」


 店長の言葉どおりだった。彼女はここで"レコードに囲まれた生活”をしたかったのだ。




 「不思議と、お腹が減らないんですよね。何ででしょう?」


 僕の隣で、のり弁当を頬張る係員に訊いた。


 「たぶん、木馬の上で過ごす時間と周りの時間の流れが違うからじゃないですかね。あれから、ずっと乗りっぱなしだったでしょう」


 「それだとしても妙なんです。僕は曲が流れている間、ずっと……その……彼女を抱いていた……。でも『水虎の涙』の演奏時間は四分弱なはず、終わってリピートされた覚えもない。今日は何年何月の何日なんだろう……」


 「えっと、今日はですね……」


 中央広場から二時を知らせる音が聞こえてきた。僕は立ち上がり係員に礼を言うと、正門ゲートに向かった。


 「またー来られますよねー? そのためにー、もう準備してあるんですよー」


 「準備?」


 距離に相応しい声の出し方に、思わず振り向いた。


 「また改築でもしたんですかー?」


 「改築って程でもないですよー。あのレコードを裏返しただけでーす」


 「裏返すって……あれは一曲入りでしょー。ならB面には何も入ってないでしょー」


 「じゃあ、もう一回乗ってきますー? そうすればわかりますよー」


 僕の返事を待たずに、係員は木馬を廻す準備を始めた。僕はポンチョをはためかせながら小走りで戻り、階段を駆け上った。


 「あー! もっと落ち着いてくださいよー! 転んで怪我でもしたら、つまらないでしょー!」


 「す、すいません。あ、もう大丈夫です。廻してください」


 作動音が響き、木馬が廻転する。


 だが、演奏は流れずに歌声だけが聴こえてくる。目を瞑れば、背中に温もりと同時に違和感を覚えた。


 違う、これは彼女じゃない……でも、不思議と心が温かくなっていく気がする。


 そうだ、僕はこれからずっと守っていかなくてはいけないんだ。


 この、母親譲りの歌声を。



 (了)

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