瑛美は必死に走っていた。通学用のリュックが重く感じられたが、それを降ろす時間さえ惜しかった。さっきのあいつは追いかけてきているのだろうか。怖くて後ろを振り返ることができなかった。

「ねえ! 何なのあの化け物!」

 優弦に向かって叫ぶ。

魔獣まじゅうだよ、魔法で作られた怪物! 緑色の奴はウォルマって言うんだ! ……まさか追手がここまで来るなんて」

「は? “魔獣”!? “追手”!?」

 魔獣とは、瑛美が昔聞いた「お化け」とは違うものなのだろうか。それならば、姉の言っていたことと違うのも納得がいく気がしないでもない。この状況を受け入れることはできそうにないが。


 走って走って、瑛美がもう走れなくなったところで、二人はようやく足を止めた。あてもなくデタラメに進んで来たため、住宅街のど真ん中だった。

 自動販売機にもたれ掛かって、呼吸を整える。前髪が汗で額に貼り付いていた。優弦も息が上がっていたが、瑛美よりはまだ余力がありそうに見える。顔を上げて、彼は瑛美に告げた。

「信じてくれるかはわかんないけど、俺、こことは違う世界――異世界から来たんだ」

「……マジで?」


 バゴン


 音は目の前のコインパーキングから聞こえた。ウォルマが空から降ってきたのだ。着地の下敷きになった黒い乗用車は、紙のようにひしゃげた。

「クソッ!」

 優弦が足元の空き缶を拾いながら、背中に瑛美を庇う。

「発・【硬化こうか】!」

 彼の手元の空き缶が、一瞬赤く光ったような気がした。

 魚を連想させるウォルマの口が大きく開き、長く赤い舌がざらりと覗いた。

 鈍く光った舌先は鞭のようにしなり、優弦めがけて素早く伸びていく。それは彼が正面からウォルマに向かって走り出すのと、ほぼ同時だった。

 優弦は寸前で攻撃をかわすが、舌は即座に軌道を変えて今度は背中を狙う。しゃがんでやり過ごし、大きくジャンプした。人間とは思えない跳躍力で跳ね上がる。

 尚も向かってくる赤い舌を、優弦は空き缶を両手に握り、殴りつけた。敵は怯んだが、缶も粉々に砕け散った。

「キャア!」

 自動販売機に、優弦が叩きつけられた。

「がっ……は……」

「優弦くん!」

 明らかに、彼ではウォルマに敵わない。

「ダメだ……逃げ……」

 優弦は身体を起こしながら瑛美に言う。

 二人の上に大きな影ができた。

 見上げると、車から高く飛び上がったウォルマが、こちらを目がけて落下してくるところだった。


 瑛美は、目を見開いて、閉じた。

 そして再び瞼を上げる。その瞬きをする僅かな時間、思考も感情も、止まった。

 優弦が逃げろと叫んでいた。

 眼前に迫った化け物は赤い舌を覗かせて、まるで笑っているようだった。

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