第一章の三 田んぼでの出来事①

 濃い緑をたたえた青い山々の谷間にある小さな田んぼ。

 かなでとあずさはその田んぼへとやって来ていた。降り注ぐ太陽の日差しを遮るように、あずさは麦わら帽子をかぶって、花柄のマキシワンピースを着ている。対する奏は白いTシャツにジーンズと言うラフな格好である。


「この田んぼにいるのかしら……?」


 額に髪を張り付かせながら言う奏に、あずさはん~……と曖昧な反応をする。あずさには何も見えていなかった。


「あ、あの田んぼ!」


 あてもなく田んぼのあぜ道を歩いていたあずさが指をさした。そこには真っ青な空を背に青々とした青田が広がっている。その青田の中央あたり。そこの稲が倒れていた。


「ここ、いるわね」


 呟いたのは奏だった。


「どうして分かるの?」

「昔から、不思議な体験をしてきているのよ。それで感じることは出来るようになったの」


 奏はにっこり微笑みながら説明した。


「どんな体験したのか、今度話してよ!」

「いいわよ~? 長くなるわよ?」


 くすっと笑いながら話す二人の前に大きなカブトエビが姿を現した。


「えっ……?」


 驚くあずさ。しかし奏には見えていなかった。


「あずさちゃん? どうしたの? 何か出た?」

「何か、大きなカブトガニみたいなものが……」


 実際はカブトエビである。繋がっている両目をぎょろぎょろとさせ、尻尾を左右に振りながら威嚇している。そして驚くべきはその手足だ。たくさんあるその手足はどれもが人間の手のようになって伸びている。


「悪さしに来たな」

「なっ、何っ?」


 今度は奏が驚く番だった。何もない空間から甲高かんだかい声が聞こえてきたからだ。その声は来訪者を歓迎するものではなかったものの、久々の来訪者に喜びを感じているような複雑な声音だった。


「奏、どうしたの?」


 あずさには目の前の大カブトエビが尻尾を左右に振り、手足をばたつかせている様子しか分からない。


「そこにいるのね? あずさちゃん」

「うん」

「その子、アタシたちが田んぼに悪さをしに来たのかって聞いているわ」

「悪さっ?」


 驚いたあずさはぶんぶんとかぶりを振った。


「なんだ、違うのか」


 大カブトエビは少し残念そうに呟いている。尻尾も先ほどまでの勢いをなくし、ゆっくりとパタパタと動かしていた。


「なんだか残念そうな声ね」


 大カブトエビは奏の声に応える。


「最近は田んぼで悪さをする子供たちが減った。田んぼを守護するための私の仕事も少なくなってしまった。寂しいものだ」


 そして尻尾をパタリと倒す。


「子供がいつ来てもいいように私はパトロールをしている。でも子供は来ない」

「あら、そういう理由だったのね」

「奏? なんて言っているの?」


 あずさがきょとんとして奏を見上げる。奏は聞こえてきた声を要約して伝えた。


「子供が悪さをしたらどうするつもりなの? まさか泥田坊どろたぼうのようにさらってしまうとかっ?」

「そんなことはしない。悪さをした子供の背中をちょっと押すだけだ。子供は転んで泥だらけになってしまうが……」


 大カブトエビは自慢の手足をバタバタとバタつかせながら言う。


「アナタが田んぼを守ってくれているのは良く分かったわ。でも、そのパトロールで田んぼがどうなっているか、後ろを向いてみてくれない?」


 あずさの声に、大カブトエビはぐるりと大きな体躯を回転させる。するとそこにあった稲は円形に倒れていく。


「……!」

「分かるかな?」


 あずさの声に大カブトエビは絶句していた。

 そこには自分の歩いたところの稲が倒れている姿が映し出されていた。


「これを、私が……?」


 呆然と呟く大カブトエビに、二人はこくりと頷く。


「これは、申し訳ないことをした。私はここから動かないことをここに誓おう」

「本当っ?」

「あぁ、妖怪は嘘はつかない。嘘は人間がつくものだからな」


 この言葉にあずさと奏はやった! と喜んでいた。しかし、あずさには気になることがあった。


「あなたはここで、ずっと子供たちから田んぼを守ってきてくれていたのに。今は一人なのね。どう? 子供じゃないけれど、人間の背中を押してみない?」

「あずさちゃん、何を……? まさか……」


 あずさはにやり、と笑うと思いっきり奏の背中を田んぼの中へと押した。


「うわわっ!」

「さぁ、大カブトエビ! この人の背中を思う存分! 押しなさい!」

「いいのか……?」


 その声があまりにも喜んでいるように聞こえたので、


「仕方ないわね、いいわよ。汚れ役は男の仕事って、ね」


 奏も渋々了承した。

 しばらく後、


「のわっ!」


 奏は何かに背中を押された感触がして、一瞬で泥の中へ。

 立ち上がると白かったシャツには泥がべっとりとついている。そしてその中世的な顔にも泥がべったりだ。


「さぁ、もう一回よ!」


 あずさが言うと、奏は再びの衝撃の後、泥の中へと沈んでいた。

 それを何度繰り返しただろう。


「ありがとう、人間」


 その声を最後に大カブトエビは消えていった。


「消えちゃった……」


 あずさの声を聞いて、泥だらけの顔を拭いながら田んぼから出てきた奏は、


「でも確かにこの田んぼにはいるわよ。ここで守ってくれているもの」


 そう、奏には感じることが出来ていた。

 久々に人間と触れ合えて喜んでいる大カブトエビの気配を。見えない恐怖は自然となかった。それどころかどこかほっと温かい気持ちになるのだった。


「さぁ、あずさちゃん。今日はいったん帰りましょう! もう、こんなに泥だらけになっちゃって、いやんなるわ~」

「汚れ仕事は男の仕事、でしょ?」

「言うわね~」


 軽口を叩き、笑いあいながら二人は大カブトエビがいた田んぼを後にした。

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