初夏色ブルーノート
小桃 もこ
第1話
深い色をした木の扉。色とりどりのステンドグラスが嵌め込まれているそれは開閉の度に美しく光り、同時にドアベルが軽快な音を店内に響かせる。
【喫茶マリンバ】
両親の行きつけで幼き日から馴染んだ店。通りかかる度に店先のショーケースに飾られたパフェやフロートを指さして熱くねだると「今回だけだよ」と家族は眉尻を下げたものだった。
小学校に上がるのと同時に父親の仕事の都合でこの地を離れた私は、当然この店にも来なくなった。新たな土地での出会いや思い出にすっかり上塗りされて、かつての記憶は彼方へと霞み、この【マリンバ】という名前も現在の私の中には留まっていなかった。
それでも憶えているものはある。大きな扉に嵌め込まれた色とりどりのステンドグラス、心地よいドアベルの音、そして店内に満ちるこの芳醇な香り。
ああ、そうだ、私はここを知っている。全身でそれを感じた。
『懐かしさ』というものは不思議だ。子どもにはない、過去を持つ大人だけの感覚。
目の前のアイスカフェオレを眺めながら、一緒に出された豆菓子をひと粒摘んだ。
その瞬間ふいに耳を掠めたのは、女性の歌声。外国の言葉でしっとりと歌われるそれは、喫茶店のBGMらしく芳醇な香りを纏い、同じ香りに満ちる深い色をした木製の壁や、ボルドーカラーのソファへと溶けてゆく。
しかし私の耳に『それ』は、徐々に全く違う音の色を見せてきた。
この曲、──
瞬間、軽く聴き流されるはずの女性の歌声は、聴き覚えのある男性の鼻歌へと変わり、空間に満ちる芳醇な香りは、初夏の陽射しを
忘却の彼方に霞んでいた記憶が、一気に色を取り戻す。──
「ねえ
「『智くん』ってゆーな」
「じゃあ
「なんでそうなる。それもダメ」
「えー、なんでよー」
「ブーブー言うな。『ブー子』って呼ぶぞ」
「な!? 私は、め、い、こっ!」
「はいはい。なあ暑くね? 手、繋いでなきゃダメ?」
「ダメ! ……イヤなの?」
「嫌」
「な!?」「ふ、嘘嘘、くく」
「……性格悪いよ智くん」
「智くんってゆーな」
「ねえ、さっきの歌、なんて曲?」
「え? 歌?」
機嫌がいい時に彼はいつも同じ曲を口ずさんでいた。それは私が普段テレビなどで耳にするものではなく、どこか大人びた、外国の雰囲気を感じる曲。歌詞はなくて、いつも鼻歌。本当は歌詞はあるのかも知れないけど、彼もきっと知らないのだろう。
「ほら、いつも歌ってるやつ」
「ああ、あれ。……題名わすれた」
「ええー?」
初夏の陽射しは眩しくて、明るくて。大好きな
「えっ引越し!?」
父親の口からいきなり予期せぬ言葉を聴いて目を剥いたのは、街路のツツジが汚く散って、茂る葉の中で大量に茶色く朽ちた頃だった。
「家をね、買ったんだ。思い切ったよ」
わはは、と四角い眼鏡に照明を反射させて父親は笑った。
デッキがあって、海が一望できる。夏には花火も見えるらしい。学校も今より近いし、少し出れば街だから不自由は一切ない。
悠々と語られる説明は右から左へと流れた。その時の私の中はすでに別のものでいっぱいで、新たな音は一切入らなかった。父親と母親の楽しそうな会話が、徐々にどこかわからない国の言語のようになって耳に触れ始めた頃、私の中に溜まったそれはじわりと体内から溢れ出し、言葉となった。
「なんで……相談、してくれなかったの?」
えっ、と驚いた両親の顔をしっかり見ることもなく、私は寝室へと駆け込んだ。暗いままの部屋で、布団に顔をうずめて泣いた。
「明子、大丈夫かしら」
届かなかったはずの両親の声が、遠ざかってくぐもるとかえってよく聴こえた。
「まあこうやって物理的に距離が出来れば、自然と離れるよ」
「そうね。新しい環境で、新しい出会いがあれば、智昭くんのこともだんだんと忘れるわよね」
酷い話だ。こんな酷い話、きっとほかにはない。
「
彼はなんの感情もないというような声の調子でそう訊ねてきた。
「……もう知ってるんだ」
か細く返すと「なに、楽しみじゃねーの」と意外そうに言うからまた私の元気がひとつ無くなる。
「いいよな。新居の画像見せてもらったけど、すげーよ、リゾートみたいだった」
へへ、と心底羨ましそうに笑う彼はたぶんもう私を見てくれていない。
「ねえ、智くん」
「『智くん』って……」
その胸にしがみついて、泣いていた。離れたくない、行きたくない。このままここで、ずっと智くんと一緒にいたいのに。なんで、なんで、なんで──
「
「智くん、…………好きだよ」
彼は答えずに、静かに息を吐いて私の頭をそうっと二度撫でた。
「遊びにいくから」
「……うん」
「連絡するし」
「……うん」
「泣くなよ」
「……」
赤く腫れた目で見上げると、智くんは寂しげに笑った。そしてどこか遠くを眺めるようにして、またあの歌を口ずさんだ。
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