第参節 天下布武

この日。


織田信長からの命令は、あまりにも『奇妙』であった。

「明智光秀の長女、凛。

摂津国せっつのくにへ行き、荒木村重あらきむらしげの長男・村次むらつぐに嫁ぐように」

と。


え?

今、何と?

わたしが摂津国へ行って、荒木村重の長男に嫁ぐ?


荒木家は摂津国を治める『大名』のはず。

家臣の娘に過ぎないわたしが、どうして大名の長男に?


凛が最初に抱いた疑問であった。


 ◇


「わたくしは織田家の娘ではありません。

大名の長男といえば……

いずれは後継者となる御方でしょう?

家臣の娘が『釣り合う』相手なのですか?」


凛の言っていることは何も間違っていない。

後継者になれない次男や三男ならまだしも……


「光秀様。

凛様のおっしゃっていること、ごもっとも[その通りという意味]と存じます。

荒木様の身になってお考えください。

信長様の一族の姫君ではなく、家臣の娘が嫁いで来るのです」


「……」

「『一族の娘を、荒木家などに与える必要はない。

家臣の娘で十分だ』

こう見下みくだしているのと同じです。

相手も気分を害し、嫁がれた凛様への風当たりは厳しくなるでしょう。

どうして、信長様は……

凛様をお辛い立場に追い込もうとなさるのでしょうか?」


こう指摘したのは、凛の隣にいる侍女頭じじょがしら阿国おくにである。

10歳以上も年長のためか、その声には落ち着きが感じられる。


阿国の言っていることは正しい。

家臣の娘である凛よりも、信長の一族の娘の方がはるかに価値が高い。

嫁をもらう立場になって考えれば一目瞭然いちもくりょうぜんだろう。

さすがの光秀もこれには反論できない。


信長の一族の娘をもらえば、織田一族の仲間入りができる。

信長から切り捨てられる心配も、粛清しゅくせいの対象となる可能性も低くなる。

将来への安心感はとてつもなく大きい。


では……

なぜ家臣の娘なのか?


なぜ、『明智光秀の愛娘』でなければならないのだろうか?


 ◇


光秀はずっと苦悶くもんの表情を浮かべ続けている。

この結婚の命令は、父にとって本望ではなかったのだろう。


「凛。

荒木村重を摂津国の大名に任命したのは信長様だが……


「父上が仕向けた?

どうして、そのようなことを?」


「『策略』の一環いっかんとして」

「策略?

どんな策略なのです?」


「今は教えられん。

教えれば、策略ではなくなってしまう」


「そんな……

策略だから、黙って摂津国へ行けとおっしゃるのですか?

わたくしは父上の娘でしょう?」


「……」

「理由も教えずに娘を追い出すのですか?

それに……

父上は、わたくしの気持ちをご存知のはず。

あんまりではありませんか!」


娘の目から大粒の涙が流れ始めた。

それを見た父の苦悶くもんの表情が、さらに歪む。


「凛よ。

これは……

今は亡き煕子ひろこに『誓った』ことなのだ」


「母上に?」

「そなたの母の美しさに一目惚ひとめぼれしたわしは……

同時に、そなたの母が並外なみはずれた純粋さを持つ人であることも知った。

わしの考えをすべて理解し、支えてくれる相手はそなたの母しかいないと確信して、一か八かの賭けに出た」


「父上の考えとは何です?」

「そなたは、長く続く『戦国乱世』で大勢の人が苦しんでいることを知っているはず」


「知ってはおりますが」

「『戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成したい』

これこそがわしの願い、わしの使命だ。

この使命を最後までまっとうして見せると……」


「母上に誓ったのですか?」

「うむ。

わしは……

どんな『手段』を用いてでも誓いを守りたい。


 ◇


一方の凛は、父の話を理解できない。


「摂津国とは……

そこまで重要な国なのですか?」


「そうだ。


「どんな強大な武力があるのです?」

「そなたは賢い。

行けば必ず分かるだろう」


「父上。

あるじの信長様も、同じ使命を果たそうとされているのですか?」


「信長様が使っているいん[印鑑のこと]。

そこに全て込められている」


「印?」

「『天下布武てんかふぶ』」


「天下布武?

天下に武をく、武力を用いて天下を取るという意味だと聞きましたが?」


「そうではない。

天下布武の『武』。

この武という字は、海を越えた遠い異国から伝わってきた。

槍に似た武器の『ほこ』という字と、『』めるという字を組み合わせて完成させた字であるらしい。

『武』とは……

武器を止める、つまりいくさめるという意味なのだ」


「つまり。

?」


「うむ」

「父上。

そんな都合の良い話を誰が信じるのです?

武力を持つ者は必ず、おのれの武力に頼ってきました。

こうして意味のないいくさが何度も繰り返されてきたのです。

人がつむいだ『歴史』は、武力を持つ愚かさをずっと証明してきたではありませんか!」


「まずは目の前の『現実』を見よ。

凛。

そなたのような若い娘が城を出て、安心して城下の町を歩けるのはなぜだ?」


「この地が平和だからです」

「なぜ、この地が平和なのか?

申してみよ」


「そ、それは……」

「それは?」


「信長様の武力を恐れて、誰もこの地を『侵略』しないからです」

「うむ。

それはつまり……

?」


「……」

「違うのか?」


「その通りです」

「ならば。

いくさをしている者に対して、

いくさを止めよ』

侵略をしている者に対して、

『侵略を止めよ』

こう命令するには……

圧倒的な武力を見せ付けて相手を恐怖のどん底におとしいれ、戦う意思を完全にぐ必要があるではないか」


「……」

「続いて。

命令に従わずいくさや侵略を止めない者どもをことごとく討ち、『見せしめ』として一人も生かさず根絶ねだやしにする」


「一人も生かさず根絶やし?」

「うむ。

これこそが、平和を達成する『唯一』の方法であろう」


「そこまでしなければ達成できないのですか?」

「従わない者どもを中途半端に見過ごせば、いずれまたおのれの目先の利益に目がくらんでみにくい争いを起こすに決まっている。

『徹底的』にやるしかない」


「徹底的に……」

「中途半端は、かえって事態を悪化させるだけだ。

むしろやらない方が良い。

徹底的にやらねば、結果は出ない」


「ですが……

そんなにうまくいくものでしょうか?

信長様が強大な武力を持てば、相手もそれを上回る強大な武力を持とうとします。

際限さいげんがありません」


「強大な武力を持つ『時間』を、相手に与えなければ良いではないか。

だからそなたが行くのだ。

摂津国の大名と親戚になれば、一瞬で強大な武力を得ることができる」


「でも……

なぜ、わたくしなのです?

わたくしが行っても荒木家の誰も喜びません。

信長様の一族の姫君が行かれた方がずっと良いはずです。

父上、お願いです。

信長様に取りなしてくださいませ」


「凛よ。

荒木村重を摂津国の大名にしたのは、わしの大いなる策略の一環だと申したはず。

これはもう……

変えることなどできない『宿命』なのだ」


「あまりにもひどい!

なぜ、信長様は一族の中から姫君を出さないのですか?

どうして家臣の娘までも政略結婚の道具になさるのですか!」


凛の感情は、歯止めが利かなくなりつつある。


 ◇


侍女頭じじょがしら阿国おくにがもう一度援護した。


「光秀様。

恐れながら申し上げます。

摂津国がそれ程に大事ならば、やはり信長様の一族の姫君を嫁がせるべきではありませんか?

凛様が大きな犠牲を払う意味がどこにあるのでしょうか?」


「阿国よ。

確かに、信長様の一族から姫君を出す方が良いのは明らかだ。

実際に多くの姫君が任務を背負って嫁いで行った。

近江国おうみのくに浅井あざい家に嫁いだいち様、三河国みかわのくにの徳川家に嫁いだ五徳ごとく様、そしてあの甲斐国かいのくにの武田家に嫁いだ御方おかたも……

その一方で、家臣の娘は何の任務も背負わないのか?

?」


「それは……」

阿国は返す言葉を失った。


「我らは、『一つに』なるべきではないのか?

家臣の娘だから関係ないなどと申して良いのか?」


「……」

「阿国よ。

思い出して欲しい。

もう15年くらい前になるが……

そなたに『桶狭間の戦い』を教えた日のことを」


「桶狭間の戦い?」

「あの日。

戦いの本質を見抜けたのは、そなた一人だけであった。

そして。

何よりも大事なことを学んだはずだ」


「一つになることが大事だと……?」

「うむ。

思い出してくれ、阿国」


光秀が言う日のことを、阿国は思い出そうとしていた。



【次節予告 第四節 桶狭間の戦い】

凛の侍女頭・阿国。

幼い頃に戦争で家を焼かれ、両親も殺されて戦災孤児となります。

親戚を頼って隣の越前国へと歩き、何とか辿り着いて保護されますが、実際には『保護』とは名ばかりであったのです。

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