大罪人の娘・前編
いずもカリーシ
第壱章 前夜、凛の章
第壱節 本能寺の変、前日
その娘の名前は、
はっきりとした顔の
現代では男顔、あるいは濃いめの顔と表現されるのだろう。
当時の常識であったロングヘアに限らず、ショートヘアやアップバングでも似合うはずだ。
ただし。
その外見は、彼女の持つ意思の強さを強調させてしまってもいる。
人によっては近づきがたい印象を与えるかもしれない。
◇
娘の父は明智光秀、母は
互いを深く愛し合う理想の夫婦であったが、娘がまだ幼い頃に一つの悲運が襲った。
母が不治の病に侵されてしまったのだ。
娘は母の無事を真剣に祈り、母は娘の成長を見たいと強く願った。
ところが!
願いも叶わず、祈りも
「
どうして!
どうして、祈りが通じないの?
どうしてよ!
母上、戻って来て!
お願い、母上……
母上!」
娘の必死の呼び掛けにも
有史以来、このような光景は数え切れないほどに繰り返されてきた。
望む望まないに関わらず……
人間の命はいずれ尽き、必ず死ぬからである。
どれほど高い地位を得て、どれほどの資産を築き、どれだけ有名になっても、やがて必ず、何の前触れもなく突如として襲い掛かって来る『死』という
加えて。
人間は、何かに『命』の
命と死が成り立つ仕組みは
人間、あるいは人間が生み出したモノに
ただし。
与えることはできないものの、残すことのできるものが一つだけある。
それは『血』だ。
命は尽きても、血が尽きることはない。
これは親から子へと確実に受け継がれる。
もしかしたら。
血は命を
◇
夫を悲しみのどん底へと叩き落とした
その血は、長女である凛の身体の中に濃く受け継がれていた。
特に。
目先のこと、表面的なことに
これは……
兄弟姉妹の中でも凛が際立って父から深い愛情を注がれ、ついには明智光秀の『
そして。
成長した愛娘は、いつしか一人の男性を愛するようになる。
その男性は父が最も信頼した家臣であり、これ以上に
2人は何の問題もなく夫婦となれるはずであった。
ところが!
父は愛娘を『政略結婚の道具』として手放すことになる。
織田信長という人間に仕えたことが、2人を大きく狂わせたのだ。
「父上。
今までお世話になりました。
凛は、行って参ります」
大粒の涙を浮かべて自分を見上げる愛娘の顔は……
父にとって、この世にこれ以上ないほどの
心の奥底から湧き上がる衝動を抑えることができず、珍しく涙を流し、愛娘を強く抱きしめた。
「凛。
体を大事にするのだぞ」
こうして娘は、
「わしは最愛の妻を失い、その血を濃く受け継ぐ愛娘すら手放さねばならないのか!」
父は
◇
それから、およそ8年後。
1582年6月1日。
日本史上最大の『暗殺事件』、本能寺の変の前日である。
娘が
帰って来る時間にしてはかなり早い。
その足音には
「何かが起こったの……?」
不安を感じながらも、慌てて夫の座る
「凛。
すまない……
急だが、出陣せねばならなくなった」
夫は座るなりすぐに話し始めたが、妻を見る眼差しは思いやりに満ちている。
再婚するよりずっと昔から彼女を一途に愛していたのだろうか。
「どちらに?」
「
羽柴秀吉といえば……
「重大な報告とは、何です?」
「毛利家から『降伏』の申し出があったと」
「降伏!?
それは
「真だ。
あの毛利家が、ついに降伏したのだ」
「それで。
信長様はどうなさるのです?
織田信長は徹底的に滅ぼし、武田一族を
「信長様は、武田家と同じように毛利家を滅ぼすおつもりはない。
ただし、『条件』がある。
それを飲ませるために大軍をもって圧力をかけるようだ」
「要するに……
脅しのための出陣なのですね。
どんな条件なのですか?」
「条件の内容は教えられていないが、毛利家は必ず飲むだろう」
「なぜ分かるのです?」
「降伏を申し出たのが……
あの
「小早川隆景!」
「そなたは……
あの男から、
まさに『宿敵』であろう」
「……」
「そなたの辛さは痛いほど分かっている。
それでも、隆景は毛利家で随一の知恵者だ。
信長様のお考えを全て
「毛利家との
信長様に敵対する大名はいなくなるのでしょうか?」
「信長様の敵はもういない。
戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成する瞬間が……
ついに訪れたのだ」
「……」
「凛。
喜んで欲しい。
これからは、存分に平和を
もう二度と苦しい目に合うことはない」
これで、妻は喜んでくれる。
夫はそう確信していた。
◇
しかし。
妻の反応は正反対であった。
表情は曇り、みるみる不安げに沈んでいく。
「ああ、あなた様……」
「凛。
そなた、一体どうしたのだ?」
夫は戸惑いを隠せない。
「あなた様。
これで、本当に叶うのでしょうか?
平和な世になって欲しいとの願いが……」
「どういう意味なのだ?」
「わたくしは、全く別のことを考えています」
「別のこと?」
「『戦いの黒幕』たちが動き出してしまう……」
「戦いの黒幕たち!?」
「今よりもはるかに厳しい、新たな『闘い』が始まるかもしれません」
「そんな馬鹿な!
今や、信長様の武力は圧倒的ではないか。
「あなた様。
戦いの黒幕たちは、この
「そ、それは」
「戦いの黒幕たちは……
強敵であった武田家や毛利家などよりも、はるかに厄介で強力な敵なのです」
◇
夫は、妻の言葉に何かを感じたようである。
「そなたがそう申すのであれば、信長様のこの命令は……」
「どのような命令です?」
「京の都にある本能寺に寄れという命令だ」
「本能寺に寄って、そこで何を?」
「これが、その命令書だ」
夫は妻に命令書を渡す。
そこには……
信長は、本能寺にて明智軍を閲兵すると書かれていた。
ある直感が、彼女の中を稲妻のように走った。
「あなた!
本能寺で
すぐに止めるよう信長様にお伝えください!」
『
軍の最高司令官が、兵士の前で演説することである。
戦争には必ず勝利しなければならない。
そのためには、全兵士が死を恐れず戦って敵を
要するに閲兵とは、人間を『
まずは兵士たちに一糸乱れず行進させ、一体感を高める。
続いて全兵士の前で最高司令官が演説を始めるのだが……
その演説の内容は、何日もかけて入念に準備されていたらしい。
悪の
続いて名誉やお金をチラつかせて兵士たちの欲を刺激し、兵士たちを十分に『
有史以来ずっと……
閲兵という儀式は、数百、数千、数万の
◇
「なぜ、本能寺で閲兵してはならないのだ?」
「よくお考えください。
明智軍の大半は、ここ数年で属した兵たちばかりではありませんか?」
それを聞くと、夫の顔がみるみる
全てが妻の言う通りであった。
明智軍の兵たちのほとんどは、ここ数年で
しかも……
兵たちのかつての
光秀様のみならず、その主である信長様へ深い『恨み』を持つ者がいないわけがない!
「戦いの黒幕が、兵たちの中に
「あなた様。
その可能性がないと、自信を持って申せますか?」
「……」
「敵が紛れ込んでいる可能性がある状況で、無防備な本能寺で閲兵することが……
どれだけ『危険』な行為かお分かりでしょう?」
「何ということだ!
だが、今からではまずい。
まず過ぎる!」
「間に合わないのですか?」
「京の都に近い
「ああ……」
「ともかく、急いで追いかけるしかあるまい」
「あなた様。
間に合わないなら無理をなさらないで……」
「大丈夫だ。
凛。
わしは……
わしが最も大切にしている、そなたの元へ……
必ず戻って来る」
「はい。
お待ちしております」
その後。
軍勢を率いた夫は、慌てて福智山城を出て行った。
◇
翌、6月2日早朝。
彼女の直感は見事に的中した。
日本史上最大の暗殺事件が起こってしまったのだ!
事件の首謀者は何と、信長と
一夜にして凛は『大罪人の娘』となった。
光秀はなぜ信長を討ったのか?
そもそも、本当に光秀は信長を討った首謀者なのか?
戦いの黒幕とは誰なのか?
もう一度、8年前に
【次節予告 第弐節 政略結婚の道具】
「家臣の娘までも政略結婚の道具になさるのですか!」
凛の悲痛な叫びが響きます。
彼女の『宿命』を知った周りの人々は皆、胸が締め付けられる思いをしていました。
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