第152話 待ち人。1/4
全てを隠し、染め上げていた
まるで時すらも吹き飛ばしたようだった、月光の白光を溜め込んでいた霧が盛大に扇を開くが如く其処にもあった夜の黒を暴き、白霧が華の如く世界に咲き乱れたままに。
「——いい加減、しつこさに吐き気を
「……」
明かされた霧の隠した闇の先、生繁る森の湿度の高い
返る波の如き霧が重くジリジリと再び周辺を埋め尽くそうとする状況で急ぐ事もなく、イミトは進行方向の夜の深淵に気怠そうに首を鳴らしながら言葉を投げ掛けた。
「相手して欲しいなら、堂々と来いよ。こちとらテメェだけは何度でも真正面から戦ってやるつもりなんだから」
「ザディウス」
そこに居る。そこに居るのだろう。僅かに残る白霧の
見えてくるのは、霧の中に隠されていたもう一つの人影か。
『ふふ。渾身の一撃で仕留められなかった事を恥じる必要は無いぞイミトよ……運の良し悪し、全てはそれに尽きるだけだ。現に——今の余は燃えカスの
かつての魔王——本日の戦争の日和、その昼日中にイミト自身の手で全霊を以って倒したはずの強大な敵、今は遠い昔に存在していた王の残響。その声は、あまりにも静やかで——しかし夜に溶ける事は決して無い力強い物であった。
『夜の
何故、憎悪の結集たる魔の王が此処に居るのか。
その意思が、命が、絶えていないのか。
それを問う事も無いまま、さも当たり前のように続けられる
だが知っていたというには、あまりにも荒唐無稽な出来事に違いない。
『いつから……気付いていた。やはり最初からと
イミトが確実に王を討つべく、全霊を尽くした事に嘘偽り無く——確実に生命がその形を維持できぬだろう強烈な一撃で消し飛ばしたはずであったのだ。
だが、彼は居る。
純然と、整然と、健全と——そこに居る。
倒れて久しく、蔓に巻かれ雑草に包まれる
「流石に考えないようにはしたかったよ。消し飛ばす方角を選ぶ余裕も無かったからな……可能性を考え出したのは途中から」
知っていたというには、あまりにも荒唐無稽な出来事に違いない。
それでも、さも知っていたかのように知ったかぶって——平静を装いながらも気怠さを隠さないイミト。
吐き捨てた溜息は重く、周辺上空——まだ遠方の滝より吹き下ろされる風も相まり徐々に足下に忍び寄るように戻りつつある霧の重みを容易く
白黒の髪が、風に揺れた。
目先で揺らぐそれを嫌って片手で掻き上げる。露になるイミトの
「確信したのは、俺の最期……上手く誤魔化してたけど、絶対に俺の居た位置からじゃ見えない角度の記憶があった。あの霧からも思ったよりも敵対行動が見えなかったし……そりゃ疑うだろ? 第三者の介入」
思考を匂わせる俯き気味の瞳の行方、今後の憂いと覚悟の整理を一瞬で表した仕草、緊張感を持って歩んできた霧の中の雰囲気が平穏であったかと思える程に漂う気配は鋭く尖り、周囲の空気を張り詰めさせる。
僅かばかり微笑んで居ようと、瞳の奧に宿る威圧も言わずもがな鋭く、真剣の煌きを想わせていた。
だが、だが。
知っていたというには、あまりにも荒唐無稽な出来事に違いない。
イミトは動揺を隠していた。予期の遅れた事態に際し、彼は常に平常を装おうとしていた。
知らなかった。
故に——間違っていたとて不可思議な事でも無いのだろう。
『ふっふ……なるほど確かに。愉快——』
月明かりは静かに照らす。
霧が隠していた真実を、静かに見据える。
「——罪人様、いったい誰と……お話になっているのですか」
そこには誰も居なかった。
『変わらず愚か者だ、人の子よ。安心したぞ』
ここまでのイミトは、霧を晴らしてからのイミトは、誰も居ない森の空気と唐突に言葉を交わし合っていたのだから。
「——……しまっ——ぐはっ‼」
そして気付けてしまえど時すでに遅し。
いや、まるで見計らっていたかのように突然とイミトは全身から黒い血を噴き出し、嘔吐を溢し、体を崩して両膝を地に堕とす。
意思はあった。確かに在った。
「……罪人様‼」
返り血が跳んで頬を染めるまでの僅かな刹那、イミトの肢体が地に崩れ落ちたと悟るアルキラル。まるで遅効性の毒が今になって発病を
「がはっ……ぐっ、くそ……ったれ……オフェッ‼」
アルキラルの駆け寄る枯れ枝を踏む足音に振り向く事も出来ぬまま、目や耳や鼻の穴——全ての古傷をも開かせて全身からも
『万命を抱え、妄執に囲まれ、それらを己の我欲ひとつで
その苦悶の
「魔境化……何という濃度、これ程までの凝縮を身の内で——‼」
いつだ。いつからだ。思考が走る——原因を探る、解決を求める。何者かの掌が背中を
咄嗟にイミトは、自らの容態を確認し何らかの対処を思案しようとしたアルキラルの己の背中に触れていた掌を撥ね退けて彼女の肢体を遠慮も無く突き飛ばすのだ。
何故ならば——彼が吐いた、体外に排出した全てが彼の抱えていた力の根源——生きとし生ける物、全てを恨む——憎悪の結実であったから。
「うぐっ……コレだから調子に乗るとロクな事がねぇ……ああっ、ぐそ‼」
僅かばかりアルキラルの銀髪が散った。
地を握ったイミトの掌が渦を巻き、創り出すのは形も歪で今にも折れ壊れそうな不出来な漆黒の槍。
夜よりも暗い——黒き血の池から跳び出す光を弾く刃が乱雑にイミトの肢体を
月明かりが——無慈悲に深き森の木の葉らを掻い潜り、自業自得を照らして魅せた。
「罪人様……アナタは——」
「わ……悪い、アルキラルさん。先、行っといてくれ……この馬鹿どもを抑えつけたら直ぐに追いつく」
それでも笑うのだ、それでも嗤うのだ。
生き物のような何かが自らの吐いた血の池から這い出ようと
『
「うるせぇ……やれなきゃ勝てねぇんだよ……待ってる奴が居る……んだ、待たせちまってる奴がいる……手段があるのに行かねぇ……なんて格好、付かねぇだろ‼」
軋む音は確かに聴こえていた。
活き方の歪みで魂が悲鳴を上げて空虚な世界に耳鳴りの如く鳴り響き続けていた。
夜の暗がりの何処にでも存在する魔の声に抗い、恐怖も、苦痛も、何一つと省みずに続く死の行軍の足音。
目の前まで伸びてきた溶け
『らしくもない……やはり英雄に焦がれるが人の
『力を手にし、目の前に希望が溢れ、目が
魔王はそれを嫌ったのか。それを哀れと思ったのか。
『
その言の葉を合図にしたように黒き悪魔の翼は弾け散り、彼の者の血の池は増々と広がりを見せる。
残るのは、地に突き立てた槍を支えに倒れぬように体を支える——何一つ拾い上げる事の出来ない——たった一人の人間のみ。
黒き血に濡れる男の姿は、既にあまりにも凄絶な現実の滝の流れに打たれたような、衆目に嫌悪の眼差しで後ろ指を指されるだろう酷い有様であった。
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