第144話 血迷いの霧。2/4
「さぁ、皆……もう、もう行って。アルティちゃんとメルメちゃん、ガルメちゃんの怪我が治るまで支えて上げてね……」
兎角——こうして状況の
「——っ。行くよ、アンタたち」
足手纏いになるのは解っていた。ドロドロと溶け始めていく黒の球体は世界の全てを飲み込み、溶かしていくような液体で大地を再びと黒に染めながら渦中に存在していたのだろう核とも言っても良い唯一存在のシルエットへと変貌を遂げていく。
——人の形。ソレに形が近付く度に、黒の液体が世界に広がっていくからか禍々しさは一層と届く範囲を増して、気化するアルコールのような濃度の高い魔素の気配で肌を刺し、嗅覚を潰し、喉を焼くような圧力を強めていく。
——生まれ出でるのは人の形をしているだけの、紛れもない化け物に違いない。
「……メデ姉様」
先程までの人と魔の戦いの
「行きましょう、メルメラ。姉様なら大丈夫だから」
「う、うん……——」
彼女たちは選んだ。
——。
そんな妹たちの選択を背に受けて、跳び去っていく妹たちの気配を感じながらにメデメタンは思いもよらぬような言葉を紡ぐ。
「——……ありがとう。い、妹たちを見逃してもらって」
ただ不気味に佇んでいただけの黒き塊。今や気品ある漆黒絹地の衣に似た魔力を纏う——メデメタンと比べれば猫背で地を見つめるような小さき人の形をした化け物。
それに、彼女は礼を言った——距離も相まり、その声が届いたかどうかも
『……アンタ、良い女だな……いや、失礼した。良いお姉ちゃんか』
しかしてメデメタンから思わぬ言葉を受け、黒い球体から零れ落ちた黒き
そして男は顔を上げたのだ。些かと大きめな黒フードがスルリと滑り落ちる程に天を仰ぎ、露になるのは白黒の髪——、
「そうやって、一人……また一人、崖に……滝に追いやられていった」
まるで降りもしていない雨が降り出したかと錯覚させるような情感溢れるゆるりとした挙動——声色は寂しく、僅かに重く、しかし何処か清々しくもあって不思議と距離も
「イミト殿‼」
その声は、紛れもなくイミトの物ではあったのだ。強大に進化した多くの
だが、彼は反応しなかった。
「——戦って死んだ。
禍々しかった。
そういう他に表現が無いのかもしれない。
「……ふぅ……ふぅ……」
平静な男の佇まいとは裏腹に、漂う気配——忍び寄る威圧は重く
揺れる顔の全てを覆い隠す紫味のある黒前髪、男が言葉を一つ紡ぐ度にそれは
意味があったのだろう——男の唐突とも言える独り言は、メデメタンの過去——或いはバジリスクという存在に関連する物だったに違いない。
与えられる過負荷は、濃度の高い魔素などによる物理的な物ばかりでは無く——さもすればそれらを基にした精神的な圧迫の方が割合として大きいのかもしれなかった。
「ちゃんと、妹たちは家に帰っただろうか。お姉ちゃんを心配して、戻って来やしないかな」
他者の不安を
——それを放つ者の、最も
そんな化け物は天を仰いでいた顔をユルリと正位置に戻し、やがて荒れ果てそうな息を整えながら手に汗を握り締めるメデメタンに向けて穏やかに小首をカクリと傾げる。
「ザディウスの時代よりもずっと昔、何代か昔の魔王が居た頃の話。泣きたくなるぞ、眠る前に聞かせてやろうか?」
平々と口にするは
彼らしいが、はたして彼なのか。答えを出すは未だ尚早。
「イミト・デュラニウス‼ 貴様なら返事をせよ‼ なぜ逃がした‼」
親交の深い女騎士からの問い掛けすらも無視してメデメタンとばかり向き合う男に
されば、いよいよと無視し続けるのも忍びなかったのか。
「……なぜ逃がしてはならない?
それとも或いは——単純な不快感に眉を
まるで、彼の心のようだった。
動き始めた感情は
そして、彼は振り返ったのだ。
「——ふふ、俺の配下に君らの名など無い筈だが。上司のような口振りも避けて頂けるか、ギルティア・バーニディッシュ」
「「「「——⁉」」」」
ほくそ笑み、以前の彼のような冗談交じりの口角は健在——しかして彼の顔を見た者たちが一様に同じ表情を浮かべた理由——それは顔中に張り巡らされた
魔物特有の燃えるような赤い瞳も無く、いや——眼球そのものが存在していないような黒き涙を延々と流し続ける不吉極まる暗き眼底だけが己らに向けられたから。
「い、イミト殿……?」
『飲まれた……もう、あいつはもう……』
敵意も無い、悪意も無い。ただ絶望という概念そのものが、そこに佇み、沈み陥ってくる者を観察し続けているような面差し。
少なくとも人では無かった。
明らかに生者の輝きは失われ、死者の慎ましさも存在しない。
——ただの、まさしく動く
「ふ、ふ……ふふ、さて——話を戻そう、優しい蛇の娘さん。確か、メデメタンとか言ったか」
「……」
その存在の
「コチラの要求はデュエラの身柄の返還、降伏の享受。そうすれば貴様らの母の首ひとつで、コチラは手を引き——他の家族は見逃してやってもいい。くくっ——母が死んだその後で、ツアレストの雑魚どもの血で母を失った哀しみを拭えばいい」
買って貰ったばかりの雨靴を見せびらかされたかのようにバシャバシャと
「……こ、断ると言ったら」
宙に浮き続ける泡が彼の声の振動を視覚化し、時折と
問うた言葉は、恐らくと虚栄の一切無い提案——
ああ、去ったばかりの妹達がこの場から、目の前の敵の影響が及ばない範囲まで離れる時間を稼ぐ為の物である事も確かだ。
しかしその実と、一番の理由は——きっと自分が、ここでこの男に殺されるから。
「——抵抗しないなら殺す理由は無い。殺さない理由も、同じく」
その覚悟を決める時間を必要としたからだったのかもしれない。覚束なくなった足が、いよいよと立つ事すら
それほどに、化け物が薄気味悪く——
「……私は、デュエラの返してあげられる立場じゃない。それに——」
自制をしようとも汗が止まらない。
何度と握り締めて絞り出そうとしても手汗が滲み、拳が滑る感覚が残る。
——
「あ、あの子も——私の妹……家族だから‼」
こうして、もはや既に幾度も殺されているような錯覚さえ感じるメデメタンは、大柄な肉体にこれでもかと力を込めて——これまでに類を見ない程の全霊で全力の魔力の圧を解き放つに至る。
腹から噴き出したような魔力の上昇気流の如き放出に顔の全てを覆い隠していた長い紫味のある黒髪が逆巻き、いよいよと
「——そうか」
彼女の——皮を剝がされて焼き潰された後のような腐りつつあるような、過去の愛憎の全てを表現しているような表情を、しかしそれまで薄ら嗤いを浮かべていた彼は
「ゴメンな」
ただ薄弱の感情の中で美しいものを見つめるように、倒れたまま微動だにせず、自らが産み出している黒き泉に顔半分を沈ませて——ただ見上げ、そう己の虚脱具合を見比べて呟くのみである。
きっと心はもう、動かない。
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