第141話 轍を抉る軍風。4/4


こうして眼鏡を掛けたバジリスクの少女はを外し、親指をくわえるに至る。

されども決して、それは醜くも見える争いを始めた人間達の動きを静観する為の行為ではなく。


「【魔操蛇笛ベルト・フェレグノ】」


ましてや母親の視線にすがりついて甘える仕草でも無く、現状に歯痒はがゆさを感じている訳でも毛頭ない。


彼女は——を吹いたのだ。

ここに至るまで敢えて久しく語らなかった彼女の名は、


現存するバジリスク八姉妹が六女、のアルティア。


手袋で身を包み、隠していた幾つかの黒い穴が開く手の甲——口に咥えた親指から息を拭き入れて鳴り響くのは、空気満面へと伝わるの音。


「「「——‼」」」


「笛……音蛇のアルティアか‼」


「叔父様‼ バジリスクが来ます‼」


知る者ならば直ぐに反応するのは必然。


「聴けば分かる事を今更ほざくな‼」


そして当然、血と悲鳴が足踏みで踊り狂う戦場で何らかの合図——作戦の決行時に鳴り響くような異音に数多の経験を積む者も、漠然とは理解するのだろう。



「音蛇のアルティア、彼女の放つ魔力を帯びた音は周囲の魔素の波長を狂わせ、暴走させる‼」


降り頻る沼の如き柔い地の土だった泥の雨、それを引き起こした漆黒の仮面を身に付ける女騎士は己も泥の飛沫を浴びながらも後方へと跳び退きつつ、己の命を狙う敵となったとは言え、同じく第三勢力である敵の情報共有を試みる。


己よりも先に、共に——も相まって。


「【水棲八岐ミリュロテ・ヤティバ‼】」


そんな折——バジリスクの水蛇、メルメラが八匹とも数えられる猛烈な勢いの水流の鞭を背中から生やす姿が目に入り、増々と状況が己にとって苛烈な物と成る事を容易く想起させて。


募る危機感、うごめき始めた水流が押し寄せる光景——このままでは四対一の構図に等しいまま。



「コチラの魔法の阻害は無論、他者の魔力——他のバジリスクの術も強化できる‼ 目先の情報に囚われず二手三手先を読んだ行動を‼」


それでも尚、それだからこそ試みて二手三手先を見据える思考を続けるカトレア。手に持つ武器はいま湿のみ、されどアルティアの笛の音が何処まで誰までの魔力に影響を及ぼすか分からぬ現状——盛大無配慮に魔法を行使する訳にも行かないだろう。



「——このような状況で尚、その精神‼ その余裕‼ ご立派‼」


 「光栄です、が‼」


逃げるか、いや既に水を纏わせた氷剣の投擲とうてきで牽制していた老兵ラディオッタが現場に復帰し、当然のように背後へと老兵とは思えぬ動きで回り込んでおり、振られた剣を紙一重——いや咄嗟にかがんで後ろ髪の毛先を犠牲にする他は無い。


同時に持っていた腐りかけの重い枝を手放すついでに魔力で生み出す水を送り込んで水風船の如く破裂させる目暗ましの攻撃。殺傷力こそは無いが、枝を内側から爆散させて破片を散らせる避け難い奇襲攻撃は、屈んだ己への追撃を防ぐには充分な効果があった。


「——ギルティア殿‼」


事実、老兵ラディオッタはカトレアが残した宙に浮くような太い枝に亀裂が入った直後に後方へと跳び退け、自身の持っていた双剣の片割れを咄嗟に迫ってきているギルティアに投げて託す行動を起こしていた。


すれば次はラディオッタから双剣の片割れを託され、二種の剣を持つギルティアと、カトレアとの一騎打ちの様相——もうすぐとメルメラの放った水流が状況を押し流すだろうその前の、刹那的な攻防であろう。



「ユカリ‼ 氷で壁を、固めろ‼」


時間が必要だった。

屈んだ姿勢から起き上がる時間、武器を氷で創る時間。



『……ああ、もう——分かったピョン‼【氷壁ボルタリング・アイス‼】』


しかし水気を充分に帯びる沼地の如き柔い大地の土に汚れる己の身なり風体を気にするいとますらも無い。粗製乱造の薄い氷壁を創り出すのがせいぜいといった所。



「そのような壁、足止めにもならん‼」


当然とを見たギルティアの言葉の通り、走りを止めないままに二本の剣を振り構えた後の巧みな剣捌きを前に、創られた氷の壁は哀れ一瞬で瓦礫へと変えさせられて吹き飛ばされる結末を迎える。


「分かっています‼【氷地滑ロヒューラルり‼】」


だが、そうであっても積み重ねるしかなかったのだ、一つ一つ——丁寧に、状況を打破する為の時間を、確実に着実に地道に積み重ねる他に活路は無く——。


「——(利用する前に壊されて。欲張ると調が乱れる……取り敢えず今は分断に集中)」


「前に出なさいメルメラ、アナタの水も私がしてあげる」


 「うん、姉様‼」


今後、様々な勢力が目まぐるしく入り交ざって増々と激しさを増していくだろう多様な攻防に備えて知略を巡らす他も無い。彼女は現在、強き肉食獣たちが鋭い牙や爪を用いて血で血を洗う戦場で最も不利な状況に陥ったに他ならないのだ。


けれど——けれどだ、そんな捕食される運命であるしかない弱き獣の思わぬ動きが、本能が、知恵が、彼女らをへと導かせない事があるのもまた純然たる事実に違いない。


「——殿、頼みます‼」


 「に、無理をさせるもので——ふんっ‼」


「「——‼」」


例えばは、本来は敵対している筈の者の名を呼ぶ事。そんなに呼応して砕かれた壁のから、まるでの如く何かを投げる動作を魅せた



「(——何か投げ……、協力——やはり仲間、いや今はそんな事より——なぜ今、こんなにも早く自らが仕掛けた不意打ちや罠の機会を消費して——)」


あくまでも状況は二対二対一、或いは二。しかしてカトレアらに取り巻く状況を知るよしもない音蛇のアルティアは既に跳び出したメルメラを尻目に、己目掛けて跳んでくるについて思考する。


そして沸き立つ感情が複雑に織り交ざり、些かとこじらせて——


「っ‼ そんなものが——私に届くか‼【魔操蛇笛ベルト・フェレグノ】」


己一人では解りようもない心をスッキリとさせるだろう解答をにされたで口に咥えていた親指を離し、物喰らうストレス解消の如き深呼吸の後に再びと笛の音を響かせるアルティア。


すれば地に這いつくばる重き木の葉が僅かに浮く程の高周波が発生し、飛び込んでくる投げられた掌大の氷の塊も、音の発生源に近付く程に高圧震動を受けたように単なる水へと回帰するのだろう。



そう——、であるならばに違いないのだ。


「——‼ (氷の中に⁉ コイツラ、私の能力を——から聞いたのか‼)」


だが、実際に氷の塊の中にはどうだろう。氷結の結晶に封じられていたゆるい泥団子は投擲とうてきの勢いを残したまま、空気の抵抗にはばまれて威力は無いが確実に飛散する散弾と化す。


「(それでも‼ もう私の演奏は、止まらな……い?)」


単なる目暗ましでしかないが、アルティアの意識を一瞬と他の様々な状況から逸らすには充分——。たとえ汚れる事をいとわずに最短最小限の対処でアルティアが目や口を閉じ、身に付けている眼鏡で泥飛沫を受け止めようと。



「クライド流剣技歩法——【水派ノール打水ジェリノア‼】」


を求めているのだ。四対一の構図によって苦境に立たされていた女騎士カトレア——弱者の兎が選ぶのは、敢えて強者に囲まれる中心部におどり出る事。脳裏に描いたのは獲物を狙う獣が、獲物を横取りされぬように他の獣と争い合う構図。



猛烈な水飛沫を上げながら、真っすぐに全てを通り抜けて賭けて滑り進み始める兎の騎士。


「狙いはか‼ 上等だよ、馬鹿女‼」


内心は尚も怒りに沸々と理性を燃やすメルメラも、そのカトレアの突進と状況を察した二人の人間の騎士の動き、或いは彼女視点では挑発とも取れる行動に呼応した。



——無論、水蛇のメルメラの首を獲れるものならとは思っている。


刹那の攻防で勝負は決する。他愛無い、取るに足らない時間稼ぎが勝敗を左右する事もままある。跳び出して孤立した蛇、一瞬とはいえ気を逸れた後方支援、背後から追いかけてくる利害関係を結べそうな二人の強者、状況は既に好転し、好機には違いない。



「エルメラにやった事——全部吐かせて、殺してやるっ‼」


——だが、良くも悪くもそう上手くは行かないものだ。


。この時、が先んじて。些末な泥をかぶった眼鏡越しに目を見開き、


空気を読まぬ、とある事象。


アルティアは己の能力の性質も相まって尋常ではない程に聴覚が優れていた。反響する自らのの如くあつかい、コウモリやイルカなどがそうするように周囲の状況を素早く把握する感知能力がバジリスク姉妹の中で最も長けている。



だからこそ、いち早く気付けたのだろう。その——これまでで最もに。


そして——それはその瞬間、誰しもの耳に遅ればせながら届く。

果たして、そのを何と表現すればよいだろうか。


「「「「「——⁉」」」」」


擬音を用いてカラカラカラやリンリンリンと表せば、あまりにも陳腐ちんぷ短絡的たんらくてき

すずの付いた紙製の風車が強風にあおられる音といえば些かと軽やかが過ぎて。



しかして——が荒ぶるけたたましく、賑々しい騒音には違いない。

そしてそれらが森の天井を通り過ぎていく



「この……は——」


今にもメルメラと交錯しようとしていた。いや、というべきか。途方もない量の騒音に、誰もがその謎の音の正体や行方を探るべく生物の本能のように一瞬と意識を逸らしてしまったその刹那、誰よりも早く記憶の戸を開くような慟哭どうこくするに至るのだ。


『なにアレ、ピョン。——……』



 「——ユカリ‼ 全力で氷の魔力を放て‼」


唐突に、突然と、突如として空から無差別に何の殺意も無く降り注ぎ始めた——それらの来襲に気を取られたとハッと我に返るメルメラやその他大勢を他所に、カトレアは何故かを突く事を試みず咄嗟に突進を無理矢理と制止させて後方に跳び退き、メルメラから距離を取りながら心内に存在する氷兎ひょううの魔物、友であるユカリに急ぎ呼びかける。


‼ 早く‼」


『は? え、あ、え?』


以前、ユカリがカトレアの身の内で深い眠りに就いていた間に——このような状況があると想定されて示し合わされていた事柄。


女騎士カトレアは、


——そのが、あらゆる戦況の獣や人の残した歴史のわだちを抉るようにくつがえし、状況を一変させるであるという事を。


「アレは殿だ‼ この場所のを早く‼ ‼」


何故だろう。この時、この窮地に、その台詞を並べ立てたその後でカトレアの口角に——僅かなが宿るのは。


生の確信、勝利の喜び、信頼する者との再会への希望、孤独からの解放。


いや、さもすれば——そのような大層な物でもなく——音蛇のアルティア、厄介が極まるに違いない彼女の魔笛の響きを打ち消した鈴の音が、何処か運命的で皮肉が効いていると、はなは滑稽こっけいに、単にそう思えた——思えてしまったからかもしれない。


兎に角と、わらえていた、


まるで——記憶の中にあると同じように。

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