第112話 あの日。3/4


***

 恐らくはクレアが敵を蹴散らす為に放った攻撃によって、山林の木々を震え上がらせる狂風が一陣と爆発の余波の如く川のほとりまで遅れて届く。


「始まったな……クレアがデュエラと合流した。アッチの方も問題は無いだろ」


戦の兆候——或いは開始の合図と悟るイミトは、狂風のきたる方向へと遠くを見据える瞳を向けたまま洞穴の入り口に風が入らぬように傍らの岩壁に背を預けながら暖簾を掴みつつ、洞穴の中へと言葉を投げ掛けている。



「イミト殿⁉ い、——‼」


「分かってるよ……覗かねぇっての。覗いたってアンタの体を思い出しながら欲情を発散させたりもしねぇから安心しろって」


すると洞穴の中から木霊するように声色が引っ繰り返った様子の戸惑いが返り、イミトは呑気な溜息を漏らして木々の隙間から垣間見える光明を見上げて辟易と目を閉じる。


その後で、腰裏の鞄に入れていた水筒を滑らすように取り出して蓋を開ける平穏具合。


「——カトレアさんの肌にが立った」


「かっ、嫌われたもんだ。獣なりに襲い掛からない自制心を崇め奉って欲しいもんなんだが」


されどもふたを開けども彼は水筒の中身を直ぐには飲まず、洞穴の中から届くカトレアの着替えを行うセティスの——着替えの前に汗を掻いたカトレアの裸体を濡れタオルで拭いているのだろう淡々とした声に水筒を握る手を止めて洞穴の中の状況を軽快に笑い飛ばす。



「デュエラは兎も角……お前らだって人間なら性欲が溜まったりするだろ。旅の途中で一人になってる所を見た事ねぇけど、夜中に密かに発散させてたりするのか?」


そして彼は水筒の飲み口に冗談口調の己を自嘲する鼻笑いを残したままの瞳を向けて、肩の力を抜いた装いで軽口に息を飲み、その後に彼は喉奥に水を流した。



「——デュエラと三人の時は、彼女に絶対に気付かれるからしていない。カトレアさんも私が知る限り、そんな様子は無かった」



「せ、セティス殿⁉ あ、ちょっと——は‼」


「アナタもデュエラも、胸の下に死角があってうらやましい」


すればイミトの些か口にするのもはばかる話題に対し、一考して平然とした声色で応えたセティス、殊更に戸惑うカトレア。薄布の暖簾のれん一枚——向こう側、遠く畜生と戦う荒ぶる気配は今も尚と川のほとりに届く状況、カトレアの戸惑いに混じる危惧が獣の息遣いの如く確かにここにもあるのかもしれない。



「——……悶々とするなぁ。いや悪い、失礼な質問をしたわ。その内、腹を切ってび——そういや、今まで気にしてなかったけど生理とかは大丈夫なのか?」


しかし、口ほどにも無く何処か晴れやかな賢者の如く普段と変わらぬ白雲越しの蒼天を眺めて洞穴の横の壁に背を預けたまま彼女らとの会話を続けたイミトは、何やらと思い至り少しバツが悪そうに頬を掻く。



「……また、貴殿は婦女子に対して失礼な事を。セティス殿、後は自分で出来ますから」


そうしている内に洞穴の中では着替え前の汗を拭く作業が一段落といった様相で、僅かに体調を持ち直しているらしいカトレアの疲れた声が辟易と放たれる。


「俺だって聞くべきじゃねぇとは思うが、体調不良は今後の動きに影響するだろ。俺は男だから、どのくらい影響するかも分からねぇ訳だし。言いたくないなら、まぁ何となく察する」


暖簾越し一枚、耳を傾け素知らぬ顔を下地にした困りげな表情のイミトも失礼は重々承知と弁明を砂時計の如く洞穴の入り口にこぼせど、途中で引っ繰り返す始末。


扱うには繊細が過ぎる男女の差異にまつわる人情の機微きびに、確かに探り探りと言った風体ではある。


「——私は生理中、三日目。あと三日くらいで終わると思う」


「なんだ、この後で一緒に風呂入ってアイツらが戻る前に抱いてやろうと思ってたのに生理中なら控えた方が良いな」


例えば、カトレアの傍らに居るセティスのように倫理道徳よりも利害合理を優先するならば多少なりとも冗談めかしく会話をつむげるものの、一般常識的に羞恥を感じる人物に述べれば怒りや嫌悪に直結しかねない話題。


ただ——


「……安心して嬉しそうに聞こえる。ムカつく」


前者に後者のが何一つ無いかと言えば、また別の話でもあって。


「はは……。カトレアさんもか? もしかして生理が原因で熱や体調不良が起きたとか、そんな感じでもないよな。あ、いや言わなくていいや、悪い」


あわやと地雷原を歩くが如き面持ちで僅かにおそれを抱えるイミト——咄嗟に感情の破裂を避けるべく話し相手を安易に変えながらの屈伸で足下の石ころを一つ手に取り、しかしも触れるは汚れが過ぎると放り投げるに至った。



「——……はぁ、私はロナスでの戦いの頃に始まって既に終わっています。ですが当然アナタのような失礼な人に抱かれるくらいなら舌を噛み切って死ぬつもりですよ」


「悪いとは思ってるよ。仕方ねぇだろ、俺だって知らねぇ事の方が多い——って奴さ。昨今じゃ、そんな言い訳じゃ有無を言わさず喉元を掻っ切られるんだろうがな」


重く深いカトレアの恐らく服を着つつの溜息が圧し掛かってくるような情景に、或いは遠くから狂風が未だに届き続ける状況に板挟まれ、嘆くように体勢を立て直すイミト。


そうしている内に病に伏せるカトレアの看護を終えて、洞穴の暖簾がフサリと開く。



「となると……後はデュエラか。ひと月以上は一緒に旅してるはずなんだが……そんな感じになってる所を見た事が無い訳で。まぁ……人に気を遣い過ぎて無理する奴だからな、も」



「それとなく、聞いといてくれよセティス」


片手にぶら下げられたバケツの中に沈むタオルが踊る中、冷淡なセティスが鉄面皮の感情の読み取り難い顔を出し、何事も無かったかの如く川のほとりに淡々と歩み出て、イミトの傍らを通り過ぎても行って。


「——クレア様に御願いすれば。私も、そろそろ休みたい。バルピスでの話は、その後で」


「ほんのりととげを感じる言い方だ……分かった。ゆっくり休んでくれ」


イミトに一瞥もくれぬままに通り抜けゆくセティスの態度に僅かに気圧されて、ややと頭を抱える仕草を魅せるイミトも、小休止していた己の作業に戻るべくセティスの向かう方向とは若干と違う場所へと足を向けた。


「カトレアさんもな」


「——分かっています‼」


「あらまぁ元気になった事……さて、どうしたもんかね。このタイミングでフォロー入れるのも、あからさまに機嫌を伺ってて火に油を注ぎそうだしな」


去り際に投げかけて跳ね返ってくる罵声の如き物言いに、ほとほと呆れさせられる己の不器用具合に苦笑を浮かべ——それでも尚と密やかに角ばる関係に小指をぶつけぬ内に丸く出来ぬ物かと思案を巡らす人間模様。


そうして道すがら無意識の間に軽く後頭部を掻いていた右手を自覚したイミトは、抜け毛は無いかと恐れたかの如く己の掌をそろりと見つめて深々しい息を吐く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る