どこにもいけない君を待ってる、海の底
ハビィ(ハンネ変えた。)
四枚の羽根
この世は、最初から最後まで不平等である。
朽ちた花を見ると安堵するようになったのは、もうずっと昔のことだ。
起源の位置すら記憶に薄いけれど、桜の花が嫌いになったのが最初で、いつの間にか絵画に描かれた世界以外が大嫌いになった。
桜がすっかり散り落ちて、緑葉を茂らせるまでの三ヶ月弱は、教室に悪意が満ち満ちるまでに充分な期間だ。
二年A組の教室の生徒達は、教師の指図に応じて教科書を開いて鉛筆を動かしていた。
俺は唯一無事な灰色のペンケースを机上に乗せる。
机の中からノートを取り出すと、ビリビリに破られていた。
プリントはくしゃくしゃになっており、教科書はとうの昔に紛失している。
幸い俺は頭の出来が悪くはなかったので、学業成績に大した支障はない。
自分が受けているものがいじめというものだということは理解していたが、目立つ方が嫌だったので黙って過ごすことにした。
加害者の目的は分からないけど、すぐに飽きるだろう。
隣の席にちらりと目を向けると、女子生徒の一人がサッと顔を背ける。
クラスメイト達は徹底して傍観者であり続ける姿勢を貫くようだった。
昼休みの時間になると居心地の良いとは言えない箱型を抜け出して、屋上へ繋がる階段に向かう。
屋上への扉は鍵が掛かっていて出られないが、一人になりたいだけなら人通りが少ない狭い踊り場で十分だ。
「ねえ!ねえねえねえ!遠志(えんじ)くん!どうしていじめられてるのに、顔色ひとつ変えないの?悲しくはないの?嫌でしょう!こんな理不尽な世界!」
大声で喚くのは兎田谷希良(とたたにきら)という同級生である。
ミントグリーンの長髪を三つ編みのおさげにして、眼鏡をかけており、いかにも真面目そうな風貌の女子生徒だ。
兎田谷の属するクラスはいわゆる特進クラスというもので、俺のいる普通科のボロボロの古い校舎と違って、ピカピカの新校舎に教室がある。
特進クラスと普通科は、合同授業でも無ければクラスの空気からまったく異なっていた。
特進クラスの教室は常に張り詰めた空気が充満しており、優等生という一度得た肩書きを手放すことを恐怖し、部活に所属することもなく、成績維持の為に青春の全てを費やす生徒も少なくない。
「遠志くん!私の話を聞いてない?聞いてるのかな!?どうしてこんなことを……とか、なんでこんなことに……とか、考えたりするでしょう!犯人が憎くはないのかな!?ねえ、憎いでしょう!?攻撃的なことを考えているでしょう!?」
「はァ……、……いや、別に……」
「なんでぇ!?」
兎田谷は、昼食の焼きそばパンをへし折るのではないかという勢いで握り締める。
未開封の袋から透ける焼きそばパンは、ぐしゃりと潰れてパンから焼きそばが飛び出ていた。
「なんでって……そんなの、……どうだっていい」
俺は家から持ってきた一斤用食パンの袋から、八枚スライスされたうちの一枚を取り出して齧る。
パンの袋を留めるバッグクロージャーも、放課後には紛失しているかもしれない。
加害者による盗難対象は、俺から見ると一貫性がなかった。
「遠志くんがされてるのはね!いじめだよ!いじめ!言い訳の目処がないくらい!貴方は相手を憎んでいい!傍観者全員を呪ってもいいくらいなんだよォ!?」
肩に垂れる三つ編みを両手でグイグイ引っ張って、兎田谷はヒステリックに叫ぶ。
子供は常にスケープゴートを欲している。
誰かのせいにするのがみんな好きなのだ。
「……そうかな、俺はどうでもいいけど」
自分の手を見ると、爪が鬼の子のように鋭く伸びていた。
平日は学校に行って、帰ってきたら家事をして俺を認識しない咲璃さんに話しかけて、運が悪いと暴力を浴びせられる。
それが俺の日常だ。
休みの日はさらに図書館に行って、あとは布団にくるまっていれば勝手に一日が終わる。
俺の人生は、いじめっ子に振り回されてる暇なんてない。
いじめをする人間の気持ちなんて、わざわざ知りたいとも思えなかった。
「はじめまして、こんばんは」
鈴を転がすように、澄んで美しく響く声。
瞬きをすると、目の前に一人の女性がいた。
向き合うように正座して、ハワイアンブルーの髪を白い雲の上に垂らしている。
……白い雲?
俺と彼女は雲の上で、辺りを見回すと空がインクの青色に染まっていた。
当惑する俺をよそに、女性は目の前に置かれた一台の小型ブラウン管テレビを撫でる。
令和の高校生からすれば、電子レンジのように厚みがあるテレビは漫画の中でしか見たことが無い代物だろう。
両手でリモコンを握った女性は、操作に慣れてないのか手当り次第にボタンを押しまくっていた。
「これかな、こうかな?……あれ、違う……うーん、せめてマニュアルが読めれば……そもそも何語なんですか、もう……」
女性はテレビ画面に反射した己を睨みながらブツブツと独り言を漏らしている。
「……手際が悪いですね」
「あら、酷いですね。新人には優しくしてくださいよ。わたしだって、やりたくてこんな仕事をしているわけじゃありませんし」
振り向いた女性は、虫も殺せぬような可憐でうつくしい外見とは裏腹に棘のある悪態を吐いて、シニカルな笑みを浮かべていた。
「それは失礼……そのテレビで何をするんですか?」
「それはもちろん、映像を見ます。あなたがよく知っている人とその人に関連する人物の映像を見なくてはならないのです。映画の方がお好みですか?人生なんて、傍から見たら大半が売れない映画みたいなものですけどね」
「俺がよく知ってる人……?誰のことですか?あんま言いたくないですけど、俺は学校の友達すらいませんよ。避けられてるんで……」
「切り傷に打撲。お怪我が酷いですね。天草遠志さん。まだ痛みを感じることは出来ていますか?わたしはその痛みが、ある時から何も痛くなくなることを知っています」
「アンタ、一体……」
明晰夢を見るのは初めてだ。
人間は自分の夢の中の人物と、こんなに会話が成立をするものなんだろうか。
「わたしですか?……そうですね、わたしはあなたの天使です。なーんて、今だけですけど。呼び名が困るなら、三十七番で……サナとでも呼んでくださいな」
「……。……これは……夢、ですよね」
「さあ、どうでしょう?現実(リアル)かもよ。生きてることと死んでることの境界を、あなたはどこで定めるの?」
俺が何かを言い返す前に、ぷつんと音を立ててテレビに映し出されたのは、兎田谷が俺のノートを破いている姿だった。
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