アインホルンの士官候補生 3

 ルフトは酷い痛みで目を覚ました。痛みで目が覚めるのには慣れている。ニコラやエメリヒは木剣の練習でも容赦なく打ち込んできたし、それ以前のこともある。逆に最近のこともあった。だがこの目覚めはいつもより悪かった。体が痛いのはいつものことだったが、頭がはっきりしないのは珍しい。まるで頭を殴られた後みたいだった。

 ルフトが目を開くと、見知らぬ部屋にいた。広い、と感じたのは長いこと木箱の中にいたからだろう。実際にはシュタインシュタットの自分の部屋よりも小さな部屋だ。衣装箱の上に横たえられ、毛布を掛けられていた。天井には灯りが閉じ込められた容器が釣り下がっていて、ぶらぶらと揺れている。視線を下ろすと一冊の本を食い入るように読んでいる一人の女がいた。

 ルフトの親よりも年は上だろう。だがそれほど年を取っているという感じはしない。一心不乱に本を読んでいる横顔は少女のようですらあった。聖円教会の治癒術士であったエマと同じような法衣を着ていて、長い髪を編み込んで背中に流している。

 彼女は静かに本を閉じ、こちらに向き直った。


「おはよう、小さな密航者くん」


「……おはようございます」


 自分の立場を考えると最大限敬語で応対するべきだった。密航者の命は船長や船乗りの気分次第なのだ。


「気分はどうかな?」


「悪くありません」


「やせ我慢しなくともいいよ」


 彼女は右手を伸ばしてルフトの額に触れた。触れられた額からじんわりと温もりが全身に広がっていくような気がする。痛みは変わらなかったが、頭は少しはっきりとした。


「えっと、聖円教会の治癒術士様、ですよね?」


「そうだね」


「今のは治癒魔法ですか? 私には払えるような対価はあまり……」


「払える者には寄進をお願いしているけど、払えない者からお金を取るようなことはしないよ」


 ルフトは首を傾げた。聞いていた話と随分違うからだ。それを見て女性はため息を吐いた。


「シュタインシュタットの教会が腐っているというのは本当のことのようだ。なんとかしなくては」


 彼女は難しい顔でルフトの額から指を離した。


「治癒魔法は傷を治したり、病を癒すことはできるけれど、体力を回復させることはできないし、痛みも消えない。だからしばらくは寝てなさい。お腹は空いてる?」


「いいえ、いえ、はい。空いています。すごく」


 言われた途端に空腹に気が付いた。苦しいほどにお腹が空いている。


「なにか作ってもらってこよう。君はここで寝ていなさい。自分の立場は分かっているかな?」


「密航者をどう扱うかは船長に一任されていると聞いています」


「そうだね、でも君は少々、いいえ、かなり特殊な立場に陥っているよ。そのことについては後でゆっくり話をしよう。ひとまず君の身柄は私が預かっているから、安心なさい」


「分かりました。治癒術士様。その、ありがとうございます」


「レンカと呼んでくれ。すべては神の御心のままに」


 彼女は両手の指で円を作る聖円教会の挨拶をして部屋を出ていった。一人で部屋に残されたルフトには少し余裕ができていた。レンカに施してもらった治癒魔法の効果もあるのだろう。強い倦怠感があったが、体が動かないというほどではない。しかしレンカの言葉に逆らう理由も特になかったので、大人しく衣装箱に横になっていることにした。

 ひとまず最初の山は越えたということみたいだった。

 船乗りから聞いていた話の中で最悪なのが見つかってそのまま船から突き落とされるというものだったから、こうして聖円教会関係者に身柄を確保してもらっているというのはかなりいい待遇だと言えるだろう。

 船は相変わらずゆっくりと揺れていて、慣れないその感覚にルフトは気分が良くなることはなかったが、治癒魔法のおかげか、今のところ吐くほどに気持ち悪くはなっていない。もっとも今は胃液が出るかどうかすら怪しかったが。

 とにかくこれからどうなるかを決めるのはルフトではない。レンカの手を離れれば、そのあとは船長がルフトの命運を握る人になる。それがどんな人なのか、自分はどうすればいいのか、レンカに確認しておかなければならないだろう。そんなことを考えているうちに、木皿を手にしたレンカが部屋に戻ってきた。


「スープを作ってもらってきたよ。体は起こせる?」


 ルフトは寝返りを打って体を起こした。かかっていた毛布が落ちて、そこでようやく全裸であることに気が付いた。慌てて毛布を引き上げようとして、衣装箱から転げ落ちてしまう。


「おやおや、大丈夫?」


「大丈夫です。その、私の服は……」


「汚れてしまっていたから洗濯に回してもらっているよ。心配しないでも変なことはしていない」


「変なことって?」


 ルフトは体を起こし、体に毛布を巻き付けるようにして、衣装箱に腰かけた。レンカは目をぱちくりさせて、それから不意に微笑んだ。


「つまり不必要に触ったりしていないということ。君を辱めるようなことはしていない。ただ怪我の具合を見なければならなかったし、汚れも酷かったから、全部脱がしたけれどね。それで確認しておきたいのだけれど、君の体の傷、新しいものだけじゃないね」


 ルフトの視線はレンカの持つスープに注がれていたが、彼女はこの話題を終わらせるまでは木皿を渡す気はないらしい。

 ルフトの体に残る傷跡はいくつもあるが、レンカが言っているのはその中でも古いもの、つまりはニコラやエメリヒと出会う以前のもののことだろう。


「殴られるのはいつものことでしたから」


「誰に……、とは聞かないよ。そうか」


 そこで少し考え込んでからレンカはようやく自分がスープを手に持ったままであることに気付いて、ルフトに差し出してきた。ほとんど具の無いスープだったが、それでも久しぶりに口にする食料は、喉を通るとそのまま全身にいきわたるようだった。ルフトが夢中でスープを啜るのをレンカはじっと見つめていた。少し居心地が悪かったが、空腹の前には些細なことでしかない。ルフトはあっという間に木皿を空にした。

 まだまだ空腹だったが、おかわりを要求してもいいものだろうか?

 ルフトが未練がましく空になった木皿の底を見つめていることにレンカは気が付いた。


「今はそのくらいにしておきなさい。急にたくさん食べると気分が悪くなる」


 レンカはルフトの手から木皿を取り上げると、それを小さな机の上に置いた。


「それじゃあ、本題に入ろうか。横になってもいいよ」


「いえ、このままで大丈夫です」


「分かった。それじゃまず君の言い分を聞こうかな」


「はい」


 そこでルフトはなぜ密航を決意したのか。あらかじめ用意しておいた話をした。ほとんどは本当のことだ。それはニコラやエメリヒに出会うよりも以前の、まだ両親と暮らしていた頃まで遡る。

 ルフトが生まれたのはシュタインシュタットの鉱夫の家だった。シュタインシュタットの主要な産業は鉱山だから、ルフトの家はごく一般的な家庭だったと言えるだろう。特に貧しいというわけではなく、特に裕福というわけでもない。薪が買えなくて冬の寒さに震えることや、食料が買えなくて飢えに苦しむようなこともなかった。

 家族は父親と母親、それだけ。

 それぞれ遠くの土地から仕事のためにこの地に来て出会ったルフトの両親には、親戚と言える人との付き合いは無く、ルフトは祖父母やその他の親戚と会ったことは一度もない。しかしそれを寂しいと感じたことはなかった。物心ついた頃には母親は二人目を妊娠しており、ルフトは兄になるのだと何度も言い聞かされていたからだ。まだそのことの意味が分かるほどの年ではなかったが、大きく張った母の腹の中に新しい命が宿っているということはなんとなく分かった。ルフトは兄になる日を待ちわびていた。

 しかし生まれてきた弟は、その年の冬を越えることができなかった。思い返せばその頃から家族の歯車がずれてきたのだ。例えば、それまでも情緒不安定なところがあった母親が、平手の代わりに木の棒を使い始めたこと。そのことを知っていながら無関心を貫き通す父親のこと。

 そんなだったから自然とルフトは家を出ることを考えるようになった。友人宅を頼り、何日か家から逃げたことがある。しかしそうすると母親はどこかからかその家を探し出し、その家の大人たちに謝り倒してルフトを家に連れ帰り、そしていつもの二倍ほど木の棒を振るった。実を言えば聖円教会を頼ったこともある。すると司祭は優しい顔でルフトを保護し、母親を連れてきてルフトの目の前で母親に悔い改めるように説教した。

 母親は泣いて神に許しを請い、悔い改めた後、家に帰ってルフトが気絶するまで殴り続けた。何度かそういう経験をして、ルフトは一時的な避難では解決できないことを悟った。

 しかしそれは簡単なことではなかった。ルフトはまだ子どもで、自分自身たちに対する権利すら持っていなかった。

 シュタインシュタットでは子どもに対する権利は親だけのものであり、領主ですらそれに口出しすることはご法度だ。そのほとんどが移民かその二世で占められていたシュタインシュタットでは、家ごとに習慣が異なるのが当たり前であり、それを無理に抑えつけようとすれば反乱が起こることすら考えられたのだ。

 だから母親の教育方針は誰からも黙認されていた。そしてルフトがどこにそれを訴え出ても、最終的に待っているのは母親の振り下ろす木の棒だった。

 この町を出る。

 そう心に決めたところで生活の何かが変わるわけでもなかった。母親の癇癪は収まらなかったし、父親も相変わらず無関心だった。日々は何も変わらないように過ぎた。ルフトは友人らと遊ぶのを止め、町で様々な仕事の手伝いをするようになり、ほんの少しの駄賃を貯めていたが、それが町を出る運賃に届く日は気の遠くなるような先のことだった。

 そして一年が過ぎる頃にそれは起きた。

 最初はただの口論のように見えた。

 その頃のルフトには分からなかったが、思い返してみるとそれは母親の不貞を父親が糾弾している内容だった。母親には父親と結婚する前から別の男とも繋がりがあり、それが結婚後も続いていたということであったらしい。しかし母親は反省の言葉を述べるでもなく、むしろ父親のような男と結婚してやったことを感謝されてしかるべきという態度だった。普段は寡黙で大人しい性格の父親をそれで言いくるめられると思っていたのだろう。

 しかしこの時の父は普段の彼ではなかった。

 母親の不貞とその態度を激しく糾弾し、ついには暴力に訴えた。父親は母親の顔を拳で殴りつけ、母親は椅子に体を打ちつけて床に倒れた。うめき声をあげ、やめてと叫ぶ母親に馬乗りになった父親は、その顔を何度も殴りつけた。何度も、何度も、何度もだ。

 やがて母親はうめき声すらあげなくなった。

 父親はぐったりとした母親の体から起き上がり、血まみれの手で、壁に備え付けられた彼の仕事道具であるツルハシを手に取った。そして父親はためらうこと無く、それを母親の顔を目掛けて振り下ろした。母親の顔はざくろの実のようにぱっと割れ、鮮血と脳漿が飛び散った。

 即死であったのは間違いない。

 しかしそれでも父親は満足できなかったのか、母親に向けて何度もツルハシを振り下ろした。その度に鮮血が飛び散り、ツルハシと父親と辺りを血で染め上げていった。やがてあちこちに骨の突き出した肉塊と化した母親にツルハシを突き立てたまま、何度も荒い息を吐くと、父親は何事もできずに突っ立っていたルフトのほうをじっと見つめてきた。

 その目は木のうろのように虚ろで、何も映してはいないように見えた。父親が母親の体からツルハシを引き抜き、ルフトに向けて一歩を踏み出した。次は自分が母のようになるのだと思ったとき、ドンドンと激しく家の戸が叩かれ、大した間も置かずに衛兵たちが家に踏み込んできた。

 後で聞いた話によると、激しい口論を聞いた隣人が心配になって衛兵を呼んだそうだ。

 家の中の惨状に衛兵たちは一瞬顔をしかめたが、すぐに状況を理解して父親に槍を向けて捕縛した。その間、父親は普段の彼のように大人しく状況を受け入れていたように見えた。

 大丈夫か? 怪我はしてないか? と問う衛兵に、ルフトは何も答えることができなかった。なにかを言おうとはしたのだが、どうしても言葉が喉を通ることがなかったのだ。その衛兵はルフトの体に触れてどこも怪我していないことを確かめ、子どもは無事だと他の衛兵に報告した。

 それを聞いた父親は、俺の子じゃない。と、言った。衛兵たちは困惑してルフトに、君はどこの子なんだい? と聞いてきた。

 この家の子です。とルフトは答えようとしたが、やはり言葉は出てこなかった。

 それから父親は殺人の現行犯として、ルフトは身元不明の子どもとして衛兵たちに連れて行かれ、別々に聴取を受けることになった。

 だがどうしても言葉を発することができず、通報者でもある隣家の夫婦と引き合わされ、かの家の子どもであることが証明された。その時になってようやく涙が溢れてきて、それなのに泣き声は出なくて、ルフトはあーだとか、うーだとか、ただ嗚咽を漏らして泣いた。

 その後に連れてこられた医者に診られ、質問に首を縦横に振って答えることで応じることしかできないルフトは、ショックによる失語症だと診断された。行き場の無いルフトはその夜を衛兵の詰め所で過ごした。しかし翌日になっても状況はなにも変わらなかった。母親は死に、父親は母親を殺した犯罪者で、その父親は相変わらずルフトのことは自分の子どもではないと言い張っていた。

 さらに悪いことに父親にも母親にもこの町には身寄りが無く、ルフトの引き取り手はどこからも現れなかった。教会の孤児院に、という話も出たが、孤児院は満員でこれ以上孤児を受け入れることはできないということだった。しかし衛兵の詰め所にいつまでも世話になることもできない。しばらくしてぽつりぽつりと言葉を発することができるようになったルフトは自分の家に帰ると衛兵たちに言った。彼らは心配する言葉をかけてくれたが、一方でその表情にはようやく厄介払いができるという安心感が滲んでいた。

 構うものか。と、ルフトは思った。これまでだって1人で生きてきたようなものだった。両親がいなくなったところで何が変わるというのか。

 しかし家に帰ったルフトを待っていたのは現実の厳しさだった。父親を失い収入を絶たれた生活はあっという間に困窮した。貯めていた金もすぐに底を尽き、家を売らねばならなくなった。殺人のあった曰くつきの家は二束三文でしか売れず、そのままルフトは路上生活者になった。そのわずかな金もその日のうちに追い剥ぎにあって失った。命があっただけ儲けものだったに違いない。それでも昼間は働き、わずかな賃金で飯を食って、夜は路上で寝る生活を続けた。

 先の見えない日々、それにもやがて転機が訪れる。それがニコラとエメリヒとの出会いだった。ルフトと同じ浮浪児だった2人はルフトを仲間として迎えてくれた。それから4年、順調だとは到底言えなかったものの、少なくとも生き延びることには成功していた。金も少しだが貯まった。しかしそれもエメリヒの裏切りによってすべて失われてしまった。

 そこでルフトの語りは止まった。

 エメリヒに裏切られたこと、ニコラを殺されたこと、自分は逃げ延びたことは伝えた。しかしその復讐を果たしたことまでは伝えなかった。ルフトはそうやって逃げるしかなくなり、密航を決意したのだとレンカに伝えた。


「まずはシュタインシュタットの教会が君を受け入れられなかったことを詫びよう」


 ルフトの話を聞き終えたレンカは最初にそう言った。


「シュタインシュタットの現状には私も心を痛めているが、孤児院を増設する予算がおりないんだ。このことは央都の教会本部に必ず伝えよう」


 礼を言うのもおかしいと思ったのでルフトはそれよりもさしあたった問題に話題を切り替えることにした。


「それで私はこれからどうなりますか?」


「自分で立って歩けるまでは私が預かることになっている。そこまで回復したら艦長の前で今の話をもう一度することになるだろう。そこで君の処遇を艦長が判断することになるわけだけど……」


 レンカは少し言いよどんだ。


「君が船乗りから聞いた話はまったく参考にならない。まず船乗りとして雇われることにはならない。そんなことをすればこの船が大混乱に陥るからね」


 崖から突き落とされたような気分になった。


「どうして、ですか?」


「簡単な話だよ。この船に乗っているのは全員女性だから。君は船上生活で飢えた獣の中に自ら飛び込んできた哀れな子羊なんだよ。小さな密航者くん」


 レンカは本当に哀れそうな瞳でルフトのことを見つめていた。


 ルフトは今度こそ本当に崖から突き落とされた。

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