シュタインシュタットの浮浪児 8
エマが立ち去ってしばらくすると扉の開く音がして誰かが部屋に入ってきた。身構えつつ、薄目で確認すると朝に遭遇した修道女だ。ルフトは身を起こした。
「エマ様を悲しませましたね。この浮浪児」
「誠実に対応した結果だ。それとも嘘を吐いて煙に巻けと?」
「そうです。罪を背負うのはあなただけで良かったのに」
「なるほど。一理あるな。だがもう手遅れだ。今なら出て行けるのか?」
「ええ、付いてきなさい」
ルフトは修道女に付いて孤児院の敷地を歩く。途中、数人の修道女とすれ違うが、誰もルフトを見咎めなかった。どうやら話は通っているということらしい。聖堂の付近を避けるようにして、ルフトたちは新市街の路地に出た。
「助かった。次は無いと肝に銘じておくよ」
「忘れなさい。何も無かったのです。何も」
長居は無用だ。ルフトはすぐに旧市街に向けて歩き出す。ルートは難しい。カスタエニファミリアの勢力範囲に入っていいかどうかが微妙だからだ。エメリヒがカスタニエファミリアを味方に付けたのであれば、ルフトのことをどう報告しているか分からない。連中に都合の良いようになっているだろうから、ルフトにとっては不本意な形になっているに違いない。しかしそれがどんなものかを知らなければ、身動きが取れない。
結局ルフトはカスタニエファミリアの勢力範囲を避けつつ、カスパーの事務所に向かった。他に当てが無かったからだ。カスパーがエメリヒに取り込まれていれば、そこで一巻の終わりということになる。
左腕は傷跡による見た目とは裏腹に思ったように動く。だが痛みはどうしようもない。不思議なものだ。傷は治っているというのに、痛みだけが残る。治癒魔法はそういうものだと聞いているが、実際に体験してみると奇妙なものだった。
なんとか阿片窟に辿り着き、カスパーの事務所の戸を叩く。用心棒たちはルフトを見てぎょっとした顔になった。
「おやおや、死人が復活してきたぞ。聖者の再来か?」
「いつから聖円教徒になったんだ。カスパー」
「その口の利き方はルフトで間違いないな。いいのか、こんなところをウロウロしてて。エメリヒは裏切り者のニコラとルフトを処分したとファミリアに報告しているぞ」
「つまりアンタに報告したわけじゃ無いんだな。頭を飛び越えられたか」
「相変わらず賢しい奴だ。その通り、エメリヒは若頭のところに直接乗り込んだ」
「ファミリアは乗ったのか? エメリヒと一緒にいるのは空賊だぞ」
「それは大した問題じゃない。そうだ。ファミリアはこの仕事に乗った。詳しいことは俺も知らされていない。で、こんなところにおめおめと顔を出すということは裏切ったのはエメリヒか」
「ああ、こいつはでかい爆弾だ。導火線に火が付いている。空賊たちの狙いはシュタインシュタットに滞在中の王国のお姫様だ。エメリヒは嘘をついてファミリアを巻き込んでいるはずだ。事が終われば空賊と一緒にトンズラする約束だからな」
「それがお前の主張か。エメリヒは違う意見のようだぞ。ニコラが言うなら信じてやってもいいが」
「ニコラは死んだ。死体を確認したわけじゃないが、胸を銃で撃たれた。致命傷だったはずだ」
「ああ、そいつは残念だ。得難い奴だったのに」
「アンタがニコラをそう評価しているのは知らなかったな」
「旧市街まで落ちてきて、スレない奴なんて滅多にいないからな」
「確かにそうだ」
カスパーは奥の棚から酒の瓶とグラスを持ってきて注いだ。2杯。
「ニコラに」
「ニコラに」
2人は杯を掲げて呷った。焼けるような熱さが喉を抜けていく。
「それでどうする? 俺は協力できない。ファミリアでの立場がある」
「エメリヒの裏切りを知らせた分の情報料をくれ。後は自分で落とし前をつける」
「いいだろう」
そう言ってカスパーが用意したのは金貨だった。ルフトは銀貨数枚くらいを予想していたので、これはかなりの大盤振る舞いだと言える。立場上、口にはできないが、ルフトの言うことを信じているというようにも受け取れる。
「恩に着る。連中は変わらずあの部屋に?」
「部屋を移ったとは聞いていない。糸は切ってあるので確実にそうだとは言えないが」
「助かった。すぐに姿を消すよ」
「ああ、そうしてくれ」
そうしてルフトはカスパーの事務所を後にした。分かったのは自分の潔白をファミリアに対して証明するのは難しそうだということだ。ルフトはすぐにその足で古着屋に向かう。顔を隠せるフードの付いたローブを買う。鍛冶屋にも立ち寄って短剣を買って腰の後ろに隠し持った。
用心に用心を重ねながら、旧市街でも西寄りの一角に向かう。路地から確認すると、ルフトが突き破った窓には木板が打ち付けられ、やっつけの修理が施されている。ルフトはぐるりと路地を回り込んで、人目が無いことを確認してから、向かいの建物の屋根によじ登った。外から見る限り室内に人の姿は無い。全員が出払っているのか、すでに別の場所に拠点を移したのか。おそらくは前者であろう。ルフトが協力していた時から連中は昼間は情報収集に勤しんでいた。それに連中はルフトが生きているとは思っていまい。例え生きているかもと思っていても浮浪児如きのためにわざわざ拠点を移すことも無いはずだ。
ルフトも空賊が揃っているところに襲撃を仕掛けるほど馬鹿じゃない。連中のたった1人、それも女性に手も足も出なかったのだ。空賊たち相手では一矢報いることすら難しい。分かっている。それでもエメリヒへの落とし前はつけずにはいられない。
ルフトは屋根に身を潜め、じっと待った。エメリヒを追うのに有望な手がかりはここくらいだ。エメリヒが空賊とともにこの町を逃げ出すつもりなら、空賊たちの傍を離れないはずだ。ただルフトとニコラの手が無くなった分、他の協力者グループが案内人として付いていることも考えなくてはいけない。エメリヒが1人になるタイミングがあるだろうか? 最悪の場合、差し違えてでも、と言うことになるかも知れない。
それからどれくらいの時間が過ぎただろうか。すでに日は沈み、辺りはすっかり暗がりに覆われている。部屋の灯はつかない。まだ帰ってこないのか。それとももう帰ってこないのか。夜の寒さにルフトは身を震わせた。ローブを買っておいて良かった。流石にこの寒さの下で普段着のまま一夜を過ごすなんてことは考えたくない。だが昔はそんなことが日常茶飯事でもあった。カスパーから部屋を借りるまでは仲間たちで寒い夜を身を寄せあって路地の隅で眠りについたものだ。それを思い起こすと、より一層エメリヒへの憎しみは増した。
信じていたのに!
いや、それは信じる等と生易しいものではなかった。一蓮托生のはずだった。同一だったはずだった。だがそのルフトの思いは裏切られた。あるいはとうの昔に裏切られていたのかもしれない。エメリヒはルフトたちを利用してのし上がるチャンスがあればいつでもそうしようと思っていたのかもしれない。いや、そうに違いない。でなければあんなに簡単にニコラを撃てるはずがないのだ。
ルフトは無意識のうちに腰の後ろの短剣の柄を握っていた。
愛用の剣と手触りが違うことに違和感を感じ、それが愛用の武器を失ったというだけでなく、大事だった仲間を失ったという悲しみに繋がって、自然と涙が溢れてきた。
この夜、結局部屋の灯りがつくことはなかった。連中は根城を変えたのだと思うしかない。ファミリアの客分扱いになったのかも知れない。そうなればカスタニエファミリアの所有するもっと良い部屋に移動、ということもありえるだろう。
翌朝、路地に人通りが出始める前にルフトは屋根から降りる。彼らが根城を変えたのであれば選択肢は限りなく少なくなってくる。自分たちの部屋に戻るか? いや、それは危険すぎる。エメリヒも知らない隠し貯金など惜しいものもあるが、ファミリアの裏切り者扱いになっている自分が、のこのこと自分の部屋に戻るなんて悪手に過ぎる。
結局、旧市街には居づらくて、ルフトは新市街にやってきた。すると新市街の様子がいつもと違う。大通りに一杯だったはずの露天がまったく出ていない。代わりに仕事をしているはずの市民たちが路上を埋め尽くしている。
「すみません、何かあるんですか?」
たまたまそこにいた若い女性をルフトは呼び止めた。
「王女殿下がお話をされるのよ。みんなそれを聞くために集まっているの」
「そうなんですか。ありがとうございます」
大通りは人が多すぎて背の低いルフトは周りがよく見回せない。なんとか見えた建物の屋根には衛兵が詰めていた。怪しい連中がいないか徹底的に目を光らせているのだろう。ルフトも同席したいところだったが、追い払われるのがオチだ。
そもそもルフトは空賊が王女に何かをすると言うことだけを知っていて、肝心のその何かを知らない。殺害か、誘拐か、そのどちらかだとは思う。殺害が目的なら王女が人前に姿を晒すこんな絶好の機会を空賊が逃すとは思えない。一方でこの大観衆を前に事に及ぶのかという疑問もある。余りにもリスクが大きすぎるからだ。
しかし今は他に手がかりがあるわけでもない。空賊たちの目標である王女の近くにいれば、何か事が起きた場合に身動きも取りやすいだろう。そう思ってルフトは人波を押し合いながら、前へと進んだ。
人波は新市街の中心部である大広場に向かっていた。普段なら露天が並んでいる大広場の一角を衛兵ががっちりと守っていて、その奥に演壇が用意されている。ルフトは衛兵たちが作る規制線の前に人波から弾き出された。衛兵に槍を向けられて、慌てて人波に身を寄せる。どうやら子どもであることが幸いして最前列に位置取れたようだ。大人たちが文句を言うこともない。ルフトの身長では彼らの視界の邪魔にはならないからだ。緩やかなカーブを描く最前列を見回すとルフトと同じように子どもたちの姿が目立った。大人も子どもも目を輝かせて貴人の登場を待っている。貴い人を間近で見る機会など辺境に住む一般市民では生きているうちにあるかどうか怪しい。それも王国の礎、王家の直系、正真正銘のお姫様だというのだ。こんな状況で無ければルフトもただただ王女を一目見ようとこの場を訪れていたかも知れない。
だがそうはならなかった。
そうはならなかったのだ。
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