オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史:アジアの両端にて

 小笠原弘幸さんの「オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史」を読み終えた。

 中公新書から出ている。

 簡潔で読みやすく、初学者にはちょうどよい。

 以下、考えたことなど。


〇日本史との類似性


 読んでいて一番感じたことは、トルコ共和国の成立と明治維新の類似性である。

 そのために、オスマン帝国の解体から共和国誕生までの流れについて、日本人はイメージがつきやすい。

 逆に他国の者に比べて、トルコ人は明治維新の理解が早いだろう。

 両国とも外国の脅威から国を守るために、多数の犠牲を払いながらも急激な西欧化・近代化を推し進め、西欧列強の植民地にならずにすんだ。

 さらに日本は列強の仲間入りを果たすまでに国力を高めたが、それは欧州から離れていたことがさいわいした面がある。


 トルコ、日本ともに急激な西欧化・近代化を進めた結果、前時代との分断が大きく見えるが、その急激な変革を成し遂げた土台は、オスマン帝国・江戸幕府の時代に準備されていた。

 共和国も明治政府も何もないところに種をまいたわけではなく、オスマン帝国・江戸幕府がまいた種を乱暴に刈り取ったと見立てるのが妥当だ。

 共和国・明治政府は前政権の否定から生まれた権力であるから、その遺産を否定するのは自然であり、それは歴史の常道である。

 しかし、歴史家がそれを受け入れてしまったら、それは情けのない話である。

 オスマン帝国・江戸幕府ともに、長期に渡って地域へ安定をもたらしたのちに、役目を終えて静かに崩壊していった。


〇奴隷の活用


 オスマン帝国と中華王朝のちがいであり、オスマン帝国が長期的な安定を確保できたのは、外戚の排除と貴族・名士層の台頭防止にある。

 歴代の皇帝の母親はほとんどが奴隷身分、後ろ盾をもたない女であった。

 このためにオスマン帝国では、中華王朝で繰り返された外戚による国政への干渉はなかった。

 同じく奴隷から選抜された側近たちは、一族の利害などは考えずに、皇帝と帝国のために職務へ励んだ。

 それらの奴隷たちは、ヨーロッパから連れて来られたキリスト教徒が多かったため、いまのトルコ人から皇帝像をイメージするとまちがえるかもしれない。

 イスラム教徒の奴隷だと宗教面でのつながりが懸念されたので、キリスト教徒の子弟を改宗させるほうが安全であった。


〇諸民族の国家から「トルコ人」の国家へ


 オスマン帝国は多数の「民族」、多数の宗教を包み込んだ国家であった。

 国教であるイスラム教徒以外に対する区別・差別は、当時の他国と比べれば先進的であり、ヨーロッパでの差別に耐えかねたユダヤ教徒が逃げ込むくらいだった。

 オスマン帝国が志向していたのは、オスマン家の支配に従うのならば、その者の民族や宗教にこだわらない国家であった。

 オスマン家に従う意志のあるユダヤ教徒を排斥しようとするイスラム教徒は、皇帝からみれば国家の敵であった。

 この点はモンゴル帝国や清朝などとイメージの重なる部分がある。

 そのオスマン帝国が、イスラム教とトルコ人の国家に変質していった理由はわかりやすい。

 列強に領土を奪われていく中で、イスラム教徒と「トルコ人」がマジョリティになり、自然とその方向へ流れて行った。

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