#0091 引っ越し (3)





 翌日も1日中が引っ越しに費やされた。


 里香さん、綾、栞に萌も荷物運びに加わって、朝からわいわいと暮らしの準備を整えていった。


 前日運びきれなかった萌の私物の残り――大量のマンガと雑誌類、それからおびただしい数の女性物の靴。

 5人ぶんの食器類に栞愛用の料理道具、5人のマグカップ。


 そして一番最後に麗さんの荷物が入った段ボールが来た。


 それらすべてを運び終えるとみんなは一旦市内に引き上げていった。

 うちに運ぶ必要のないものの最終的な処分を纏めてするのだそうだ。



 おれはその間、父さんのあとに入浴を済ませ、まだ整理の追いついていない練習部屋にひとり籠もっていた。


 吉川先生が遺した膨大な楽譜資料に里香さんが所持していたものをあわせると、今ある棚には到底収まりきらない。

 ひととおりタイトルや目次を確認して、有用そうなものや読んでみたいものを取捨選択し、残りは段ボールに戻して収納の奥底に仕舞う。


 そんな作業を黙々と進めていると、それだけで1時間ほどが経っていた。


 やがて、里香さんの運転する車で粕谷邸に戻っていたみんなが戻ってくる。

 玄関の戸が開き5人が足を踏み入れたその静かな瞬間が、おれたちの新しい生活の正式なはじまりだった。


 しかし、その時みんながどんな表情でどんな会話をしていたのか、おれも父さんもその場で直接見聞きすることは叶わなかった。


 なぜなら、麗さんがこの家までたどり着いた瞬間でもあったからだ。





 深夜。

 控えめなノックの音がイヤホン越しに聞こえた。


 おれは寝室のデスクで、さっきの資料整理の時に見つけたエドウィン・フィッシャーの古い平均律の録音を聴きながら、感想を書き留めようとしていた。


 イヤホンを外しながら、どうぞ、と短く答えると扉が開く。

 尋ねてきたのは綾だった。



「お家の中の案内、おわったよ。いまはお部屋の中に落ち着いてる」


 誰が、とは言わずとも分かった。



 麗さんをこの家まで連れてくる。

 それがこの2日間の一番の難題だった。


 麗さんは2年もの間外出を避けつづけてきた。

 今日、本当にここまでたどりつけるのか、最後まで誰もが不安だった。



 おれはもう入浴を済ませてパジャマに着替えているけど、ずっと麗さんに付きっきりだった綾はまだ昼間の街着――ミント色のプルオーバーに藍のロングスカートのままだ。


 壁にかけた時計の針はすでに日付が変わったことを知らせている。


 この人目につきづらい夜中に、里香さんと綾たち全員の手助けで、なんとか車に乗せてあげることができたという。


 その間おれと父さんは部屋から決して出ないように厳命されていた。

 ただ、玄関の戸がスライドする音や、階段を登りながら栞が熱心にかける声はこの寝室にも聞こえてきた。


 おれは部屋の中でひとり、緊張で自然と心身が張り詰めてしまって、静寂に耐えかねていた。



「様子は、どう?」


 おれは慎重に尋ねた。

 口の中が乾く。


 綾の顔に笑顔は無く、視線はうつむいて、床の木目をじっと見つめている。


 綾はひとつひとつ記憶を言葉にした。



「……家をでてからここに着くまで、ほとんど目を開けられなかったの。手足がすっごく冷たくなって、萌と栞が手を引いてあげて、わたしは方に手をのせてずっと落ち着かせてた。車を降りてからも足が震えてて、どうしても一歩一歩に時間がかかっちゃって」

「滑って転んだりはしてない?」

「うん」

「なら良かった。無事にたどり着けたのが何よりだよ」


 綾のそばでそう声をかけると、綾はそっと顔を上げて「ありがとう」と答えた。

 透明な声は苦味に耐えるようだった。


 きっと、想像を超える苦労がこの1時間の間にあったのだろう。


 麗さんはやはりまだ、自力で外に出ることができない。

 たとえまだ会ったことがなくても、おれにとって麗さんは同じ家族だ。


 その自覚をあらためて強く噛みしめる。



「いまは、部屋で休めてそう?」

「うん。だいぶリラックスできてると思う。広くて綺麗なお家だって」

「そっか。それは良かった」

「ただ、やっぱり疲れてて、あんまり元気はない、かな……」


 綺麗な声は小さな泡のように消えていった。


 麗さんがこれまでより穏やかな生活を送れるか、綾も確信が持てないのかもしれない。


 ましてや男であるおれにできることはほとんど無い。

 麗さんのことを直接支える綾やみんなを、無力な言葉で励ますくらいだ。



「まずは最初の1日から、何事もなく過ごせることを目指そう」


 おれの言葉に綾は少しだけほっとした表情を浮かべてくれたのだった。





 それからおれは部屋にある小さなテーブルで綾と向き合って、麗さんの生活のことを教えてもらった。


 おれが麗さんのために日々何をすべきか、あるいはしてはいけないか。

 それを知っておかなければならない。


 おれの気持ちに応えて麗さんの日常をひとつずつ話す綾は、終始しおらしかった。



 綾はまず、麗さんはこの半年の間も学校には全く行けていないということから教えてくれた。


 担任の先生は定期的に訪問していたのだけど、麗さんに会ったり言葉を交わしたりは無かったらしい。

 学校からのプリントは萌がまとめて届けていて、勉強は綾が教えているという。


 会うことができるのは、里香さんと綾、栞、萌の4人だけだ。


 そして麗さんの生活リズムは昼夜逆転がちだという。

 ここ数日も夕方に目が覚めて、眠るのは朝方のようだと綾は語った。



「起きている夜中もほとんどの時間はお部屋で過ごしてるんだけど、100パーセントってわけじゃないの。誰も起きてない時間に、お手洗いとお風呂をひとりで済ませてる。たぶん、麗はそのために夜に起きていたいんだと思う」

「なるほど……できれば太陽の光を浴びたほうが健康に良いんだけど」

「平日の誰もいない時だったら、お昼に1階に降りてくることもあるみたい。でも今は春休みだから……どうしてもって時は、葵くんにお部屋に戻ってもらうようにお願いするかも」

「全然平気。気にしないで」


 トイレは2階にも新たにできたけど、廊下に出なければいけない。

 バスルームは1階にしかない。


 麗さんの不自由が少しでも解消されるのなら、そのくらいどうってことない。


 それでね……と綾はひどく心苦しそうに述べる。



「葵くんとお父さんには、夜中お部屋から出ないで欲しいの。12時……できれば11時には。麗はまだ、わたしたち以外と会うことがこわいから」

「そうだね。それが一番大事なことだとおれも思う」


 綾は驚きに一瞬あっけにとられていた。

 しかし、おれは何も特別なことを言っていない。そう思う。



「麗さんの生活を保証するって約束したのはおれたちだよ」

「……ありがとう。ほんとうに」


 綾はほっと頬をほころばせる。

 感謝の籠もったまなざしがまっすぐで、少しくすぐったかった。



 研究所にダラダラ居続ける父さんにはさっさと帰ってくるように言いつけないと。

 あるいはいっそ仕事場で眠ってもらうか。


 そんなことを考えながらもうひとつの疑問を尋ねる。



「食事はどうしてるの?」

「朝、麗のお部屋の前にご飯を置いておくと食べてくれるよ。食欲のない日は全然手を付けてくれないんだけど」

「1日1食だけ?」

「わたしも心配してるんだけど……」


 綾の瞳はおれと同じ不安を抱いて、なすすべなく揺らいでいた。


 それだけの食事で平気なのだろうか。

 食事と睡眠は生きるためのいちばんの基本なのに。



「今までは綾と栞が、麗さんの食事も用意していたんだよね?」

「うん」

「おれも分担することってできないかな」


 おれの申し出に綾はおれを見つめ返した。



「大抵の家事ならおれでもできるからさ。少しでも綾たちの負担を減らしたいし、それ以上に、麗さんとの接点がひとつでもできたら嬉しい。それくらいしか、おれにできることが見つからない」

「……そのくらいならたぶん、麗もOKしてくれると思う。明日、麗が起きているときに訊いてみるね」

「ありがとう」

「ううん、こちらこそ。とっても助かるよ」


 おれはほっと胸をなでおろす。

 綾もようやく優しい微笑みを浮かべてくれた。



 家族になったのだから、綾やみんなと支えあって生活したい。


 とりあえず明日の食事は綾が作ってくれるということに決めた。

 ただ、この家のキッチンのことを色々説明しないといけないので、おれも一緒に早起きすることになった。


 今日はもう遅いので、麗さんやみんなの好き嫌いとか、料理以外の分担のことも明日話し合おう。



 ふと会話が途切れ時計に目をやると、もうだいぶ長い時間綾と話し込んでしまっていた。


 綾は昨日からずっと動き通しだ。

 疲れもあるはずなのに、おれはこうして休む時間を割かせてしまっている。



「……栞ってまだ起きてるかな」

「えっと、うん。さっきお風呂にいったから、もう上がってると思う」


 ――けれど、いちばん大切な話がまだ残っている。

 それが少しだけ申し訳なかった。


 唐突に栞の名前がでて困惑した綾に、おれは落ち着いて告げた。



「おれの気持ち、綾と栞に話しておきたいんだ」


















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