#0053 桜家にご招待 (5)





 そのあと、感激した栞からの要望に応えて他の曲も何曲か披露して、気がつくともうお昼時だった。

 なので一旦昼食をとってから仕切りなおすことになった。


 おれがひとりキッチンで4人分の麺を茹でている時、ダイニングの方から声がした。



「葵くん」


 里香さんだった。

 見たところ綾と栞はいないようだ。



「ひとりでやらせてしまって悪いわねえ。4人分は大変でしょう」

「いえ。おれひとりだけだったら適当に済ませちゃうことも多いから、むしろ良かったです」

「立派だわ。一史くんとおばあさまから、たくさん愛されて育ったのね」

「ええ、まあ……」


 ばあちゃんのことに言及され、おれは鍋の湯を箸でかき混ぜながら曖昧な返事をした。



「綾と栞はまだ部屋ですか?」

「ええ。吉川先生の……葵くんのピアノで遊んでるわ」


 ダイニングキッチンは廊下を挟んでピアノ部屋の向かいにある。

 栞が弾くパッセージの断片がここまで聞こえてきていた。



「私もすこし弾かせてもらったわ。あんな重い鍵盤だったかしら? ちょっとびっくりしちゃった」


 里香さんがしみじみと言う。



「楽器も私の記憶も、きっと長い月日のうちにだんだん変わったのね。象牙の鍵盤もずいぶん擦り減ってたわ」


 おれが吉川先生から譲ってもらったグランドピアノは、60年近く前に生産された古いピアノだ。

 経年でかなり褪せているけど白鍵は象牙。黒鍵は黒檀……いまではもう作れないものだ。


 鍵盤の蓋裏の隅には竪琴の印に"Limited Edition"――限定生産品の文字。

 こんな貴重なピアノを、自分たちは誰も弾かないからと処分してしまうのはあまりに勿体ない……先生のご遺族はそんな考えで、当時唯一の生徒だったおれに快く譲ってくれたのだ。



「私、さっきはあんなこと言ってしまったけど、やっぱりあのピアノはあなたが持っているべきだと思うわ。葵くんが弾くバッハ、吉川先生の演奏にとても近いもの」

「そうですか……?」


 おれが訊き返すと、里香さんは頷く。



「先生が持ってたモノを、葵くんに託したくなった気持ち。私にはなんとなく分かったの」


 おれが高学年くらいの頃……やっと本格的な曲を練習できるまで上達した頃、吉川先生はすでに高齢で体力も落ちてしまった。

 先生の家のピアノをおれが弾く後ろから、安楽椅子に腰かけたまま言葉だけであれこれ忠言をするだけのレッスンだった。


 それはとても機知に富んだ言葉だったのだけど、おれの記憶には吉川先生の演奏はほとんど無いのだ。


 そもそも『平均律』の大部分は先生が亡くなったあとに自分で試行錯誤して弾けるようになったレパートリーだ。

 I巻の4番もそのひとつ。



 そんなおれの演奏が、先生に似てる……だろうか。

 なんだか現実感が持てなかった。


 その時、麺の茹で時間をつげるタイマーの音が鳴る。

 おれはあわてて現実に戻り、ざるに上げた麺を流水ですすいでいた。



「理知的で、繊細で。どの旋律にもちゃんと歌があって。葵くんの丁寧な心遣いが伝わってきたわ。それに、トンと鳴らした1音がとても綺麗に透き通ってて、感心しちゃった」

「……」

「吉川先生もそう。1つの音を鳴らしただけで澄みわたるように響くの。きっと背筋がまっすぐで、腕が完璧に脱力していると鳴らせる音なのね」


 黙々と麺を洗いながら里香さんの講評を聞いていた。

 おれは湯の熱さとはまた別の熱が頬に浮かぶのを感じた。



「何より……葵くん。あなた、バッハが好きでなんしょう。他のどの作曲家よりも」

「……はい。思い入れはあります」

「珍しい子。大抵みんな、インヴェンションを弾かされてバッハなんか大嫌いになるものなのに。48曲も暗譜してるなんて」


 よく練習したのね、と里香さんは半ばあきれたように息をついた。



「吉川先生も、バッハが好きだったのよ。バッハを教えるのが誰よりもうまくて、コンクールや発表会のたびにほかの先生から課題曲のバッハを褒められて、得意気にニコニコしてたわ。生徒の私らはみんな嫌いなのに……それでもうまく弾かせてしまうのよ。困っちゃう人よ」


 おれは里香さんが言った光景を頭にうかべて、……妙に納得感があった。





 その後、あらかじめ準備してた具材と一緒に4人分の深皿へと盛り付けている時。



「ねえ」


 里香さんはいつの間にかダイニングの椅子に腰をおろしていた。



「葵くんは綾と栞、どっちがタイプかしら?」

「…………」


 思わず手が止まった。



「いきなり……なんてこと訊くんですか」

「あら、よく見ると可愛いエプロン使ってるのね。似合ってるわ」

「そ、そんなことはどうでもいいです!」


 おれは家庭科の授業で縫ったエプロンの柄をあわてて隠した。

 里香さんは愉快そうな笑みを向けてくる。



「葵くん、あの子たちに見惚れてるでしょう。何気なく振る舞ってるけど、視線を向けたままフリーズしちゃってる時があるわ」

「それは…………」

「別に責めてる訳じゃないのよ? むしろ男の子なら普通よ。あれだけ可愛い娘たちなんですもの」


 娘たちと仲良くしてくれてありがとうね、と笑う里香さんの瞳は、おれを妖しく射貫いて逃がさない。



「で。どっちが好き?」

「え、選べないですよそんなの」

「どっち選んでも良いのよ? ふたりとも掛け値なしの美人だし、ああ見えて意外とおっぱいもおっきいのよ~」


 おれは冷や汗が出た。

 確かに、ふたりが実は着痩せしてるっていうのは以前思い知ったけど……って、そうじゃなくて!



「おれたちはこれから家族になるんですよ、そんな質問答えられるわけないですよ……!」

「あら。連れ後同士なら結婚だってできちゃうのよ。あなたも知ってるでしょ?」

「それは、知ってますけど……」

「あ、ハーレムも大歓迎よ? なんなら萌も麗も葵くんが貰っちゃえばいいわ~」


 里香さんの口から衝撃的な言葉が出ておれは絶句した。

 ハーレムって……自分がいまなんて言ったのか分かってるんですか!?



「そっ……それこそダメですよ、法律的にも」

「でも、葵くんのことを取り合いになるより仲良く分け合うのが平和じゃない。負けた子が可哀そうよ」

「取り合いって」

「この間うちの栞が長年の想いをついに告白した相手はあなたよ。それに、萌にもよく"懐かれた"みたいじゃない」


 栞のことはともかく、萌との一件まで把握されてるのか……



「どうしておれのことをそこまで信用できるんですか? また初対面からそんなに経ってないですよ?」

「この短時間で、ずいぶん仲良くなってるからよ。栞とは同じベッドで一晩過ごして、想いも伝えられたのよね?」

「…………そんなことまで知ってるんですか」

「葵くんと一緒に泊まるよう栞に助言したのは私よ? その後何があったか問い詰めない訳ないじゃない。あんなに頬を赤らめた栞は初めてだったわ。本当に可愛くて、満たされてるって感じだったのよ」


 今までの出来事を思い返して、おれは顔から火が出るほど恥ずかしかった。



「それでいて一線は超えずに栞を返してくれたのだから、葵くんはやっぱり紳士よ。ほかの子たちのことを考えてのことでしょう? だから信用できるの」


 もはや乾いた笑いしかでなくなっていた。

 今すぐこの場から逃げ出したい。



「でも、綾もとってもいい子なのよ? 栞と違ってあんまり自分からアプローチするタイプじゃないけど、人の機微にうんと敏感で、寄り添ってあげるのがうまいの。学校でも慕ってる子多いみたい」

「ちょ、待ってください。里香さんは一体おれにどうしてほしいんですか?」


 おれが話を遮ると、里香さんはおれをまっすぐ見据えた。

 一瞬、懐かしむような、柔らかい眼差しに見えた。

 おれははっとする。



「……学生時代の出会いっていうのは、一生の財産になるの。だから、あの子たちには幸せな恋をして、想いあう同士結ばれてほしいと思ってる。後悔してほしくないの」


 昔の私みたいに……と、里香さんは呟いた。



「葵くんみたいな素敵な男の子って、そういないのよ? それも今度からひとつ屋根の下で暮らしていくのだから、正直羨ましいくらい」

「……でもやっぱり、そういうのって本人の気持ちが大事ですよ。栞はまあ、特殊かもしれませんけど、綾とおれははそういうんじゃ」

「綾が男の子の家に来るのは今日が初めてなの。しかもこれから歌の練習しに頻繁に来るんでしょう? そこまで心を許してるって時点で、なかなか親密な間柄じゃないかしら」

「…………」

「私が葵くんに言いたいのはね。栞と萌みたいな自分からアプローチできる子とちがって、おとなしくて優等生な綾とか麗は仲を深めるための大事な一歩が大変かもしれないの。だから、葵くんが手をとって仲良くなってほしいのよ」


 台所を挟んで見つめられる。


 ――姉妹がみんな、おれに恋愛感情を抱く、なんて。

 そんなことってあるのだろうか。あっていいのか。


 里香さんの言葉は俄には信じられなかった。


 おれももちろん、姉妹みんなと仲良くなりたい。

 できれば、まだ会ったことのない麗さんとも。


 ……それは家族としてだろうか? それとも、異性として?

 その境目はあるのだろうか。



「難しく悩む必要はないのよ」


 里香さんはおれに優しく笑ってみせた。



「葵くんなら女の子を泣かせることはしないって信じてるわ」

「それは、もちろん」

「あと、これだけは伝えておきたいんだけど……」


 里香さんは何かをふと思い出したようにそう言った。

 頭の中に疑問符を浮かべていると次の瞬間――とんでもなく蠱惑的な笑みをおれに向けた。




「これは私の経験上、私の娘だから言えるんだけど……あの子たち、きっと"死ぬほど気持ちいい"わよ?」



 色気と悪戯心たっぷりにクスリと笑う里香。

 おれは一瞬おくれてその意味することが分かって、頭が真っ白になり。




 ――その後みんなに振る舞った冷やし中華の味がまったくわからないほど動揺していた。
















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