#0044 親の心子知らず (3)【瀬一郎視点】




 私の名前は粕谷瀬一郎という。

 しかし、生まれた時は粕谷竜一という名前だった。


 瀬一郎というのはこの家の当主が代々受け継いでいる名前だ。

 私は父の死後、家督を継いだときにこの名に改名した。



 私や里香が生まれ育った時代、この家のそういう古いしきたりがまだ数多く残っていた。

 両親、特に私たちの母は、古い時代の考えの持ち主だったのだと、今思う。




 粕谷という家は江戸時代から続く商家だった。

 それが私たちの曾祖父の代で大きく成長して以来、この一帯の商工業を代表する素封家になっている。


 私と里香は、この粕谷の長男と長女として生を受けた。

 ほかに兄弟姉妹はいない。



 父は実直な人だったが昔からとても多忙で、家を空けていることも多かった。

 私と里香はもっぱら厳格な母から育てられた。



 私は粕谷の跡取り息子として。

 里香は他家に嫁ぐために。


 私達は物心ついた時から母にそう刷り込まれ、教育を受けさせられた。




 私と妹の里香が通ってた学校は、姪たちが通っている学区内の小中学校ではなくて、もう少し遠くにある国立教育大の附属学園だった。


 大学の教員養成課程のための学校で、特段進学校というわけではないけれど、学区内の中学ではなくわざわざこちらに通わせるということは教育熱心な家庭が多くて、地元の進学校・蓬高への進学率も自然と高かった。

 躾に厳しい両親が、私達子供を附属の幼稚園から通わせるのも自然なことだった。


 その上私たちには家庭教師もつけられて、放課後に友達と外で遊ぶようなことは許されなかった。

 子供心にどうして自分たちは周りよりも忙しいんだろうと思うことはあった。


 しかし私たちはずっとそれが当たり前として受け入れていた。



 私たちは昔からの躾の中で、公私ともに"良い子"であることを求められ、それに慣れ切っていた。

 そんな子供時代だった。



 それでも、やがて私は中学に上がって、剣道部に入った。

 部活に打ち込む中で、学校の中で気の置けない友人が自然とできていった。


 彼らと良い学生生活の日々を送れたと、今になっても思う。



 しかし、里香は部活に入れなかった。

 それはなぜか――



「……ピアノをやっていたから」


 栞ちゃんがその理由を察した。

 私は頷いた。



「この家にいた頃の里香は、勉強だけでなくたくさんの習い事を母から課されていた」


 それは要するに、娘を器量の良い妻に育てるためのものにすぎなかった。

 どんな家に嫁に出しても、見劣りのしないために。恥をかかないために。



 書道、絵画、バレエ、生け花……


 幼稚園の頃に始めたピアノもその一環だった。

 両親は里香をピアニストにしようなんて思ってなかったはずだ。

 興味のあるなしに関わらず幼い事から多くのことに触れさせられた里香は、いつも忙しそうにしていた。



 里香は感情を表に出すことなく、毎日それらを淡々とこなした。

 そして里香はまるで氷のような女の子に育った。




「両親はまだ幼い私たちを未熟な子供として扱うことは無かった。ひとりの人間、それも粕谷家の人間としてしか見なかった。もちろん学校の成績も厳しいハードルが課された。学業も交友もそれに相応しいものしか許されず、従わなければ体罰が待っていた」

「……」

「……」

「幼いころは兄妹で無邪気に遊んでいた里香も、成長するにつれ物静かで内向的な性格になっていった」


 自分たちの母の生い立ちに何か思う所があったのかもしれない。

 姪たちは固唾をのんで私の言葉を聴いていた。




 里香がピアノを習っていたのは吉川先生という、家から歩いて20分ほどのとこで個人教室を主宰する女性だった。

 当時でも40年近く教え続けてるという人で、その経験を買われて両親が見出した先生だった。


 吉川先生は慧眼の持ち主だった。

 里香の音楽の才能に気づいていて、それを伸ばすことにも長けていた。


 里香も真面目にレッスンに取り組んだ結果、小学校の高学年には地方のコンクールで入賞するまでになっていた。

 それでも両親は、自分たちの娘なら当然だという態度で、さして見向きもしなかった。



 ――そして私が中学3年になった年、里香は同じ中学に入学した。


 中学生になった里香の美貌は、比喩ではなく圧倒的だった。


 私は卒業するまでの1年間しか知らないが、里香は学校中のあらゆる人間を魅了しつくしていた。

 学校中のすべての男性を惹きつけてしまったのだ。



 小学校時代からその兆候はあった。

 里香は学年が上がる度に、皆が見惚れてしまうほどの可憐さを開花させていった。


 小学校のうちはそれでも彼らはまだ幼くて、皆が里香のことは淡い憧れとして見つつも大事になることは無かった。

 それが、里香の中学入学で一変した。



「とてつもない美少女が入学してきたという噂はすぐに広まって、登下校や集会の時は遠巻きに里香を眺める人で黒山の人だかりだった。あれは異様だった。里香は入学後から学年問わず本当にたくさんの人から言い寄られ告白を受けていた。その中には、私のクラスメイトもいた。それくらい、里香は他の子と隔絶していた」

「……そのうちの誰かと付き合ったりはしなかったんですか?」

「私達の両親はそんなこと当然許さなかっただろう。それに、里香自身がそういった求愛に首を縦に振ったことはなかったようだ」

「……」


 中学での里香は数えきれないほどの告白を受け、その全てを断り続けた。

 里香の控えめな性格と粕谷が代々続く家ということも手伝って、里香の存在はますます手の届かない特別で孤高の存在になっていった。

 それでも親しくなろうという人間は後を絶たなかった。


 数少ない里香の同性の知り合いも、すぐに離れていった。

 誰も里香の添え物になんてなりたくない。


 たとえその子が心を寄せている男の子がいても、彼の視線の先は里香なんだ……これほど残酷なことはない。


 里香は中学校で、周囲からの羨望と嫉妬の眼差しの中であっという間に孤立していった。



「私は……どうするべきだったのだろうか」

「……瀬一郎さん?」

「里香は学校で、いつもひとりでいた。教室移動のとき、談笑する相手もなくとぼとぼと歩く里香を何度も目撃した。けれど、私が声をかけても里香は"大丈夫"と返すだけだった」


 里香は以前にも増して、無口になっていった。


 口元を引き結んだ里香がようやく話した"大丈夫"という言葉は、空しく聞こえた。

 けれど、学年も性別も違う私は、何もできることは無かった。



 私はその無力感から目を背けたくて……自分の自尊心負けて、結局里香から離れることを選んでしまった。

 部活や受験や、里香が大丈夫だといった言葉を言い訳にして、そして私が高校へ進むとますます里香とは距離が開いてしまった。


 そのことを、今私は後悔している。



「……」

「……」

「……すまない、こんな話をして。話を先に進めよう」



 そして、里香はピアノへと没頭していった。

 里香も学校のことを忘れていたかったのかもしれない。


 その時だけは里香は純粋に自分のために努力することができたのだろう。

 家でも里香は夜遅くまで何時間でも、両親から止められるまで鍵盤の前から離れようとしなかった。


 そして中学2年には2度目のコンクール挑戦にして、全国大会へと出場するようになっていた。

 その頃にはようやく両親も一目置くようになった。



「……里香と一史君が出会ったのはその頃だったはずだ」



 桜一史君は、他の多くの生徒と違って中学から入学してきた生徒だった。

 里香とは2年生になり同じクラスになって知り合ったようだ。


 一史君の自宅は学校から遠く、毎日電車通学をしていた。

 私の通った蓬高校は線路の向こう側にあったが、その帰り道に駅前を歩いていた時、里香と一史君が並んで歩いているのを何度も見かけたことがある。



 一史君は決まって里香の少し前を歩いていて、里香はいつも遠慮がちな足取りでうしろをついていた。

 けれど、この家は駅と中学のちょうど中間の位置にあるから……里香はわざわざ、電車を使う一史くんのために一緒に駅まで歩いていたということだった。


 そして、一史君が何やら言ったこと一つ一つに、里香は驚いて、笑みを綻ばせているのが見えた。

 ひとりの男の子の前で見せていた表情は、年頃の女の子にしてはとても控えめではあったかもしれないが、家での食事時でさえ感情をみせなくなっていた里香を見ていた私には、その姿はとても驚くべきものだった。



 ……やっと、ようやく、里香が心を許しはじめる相手ができた。


 兄として、とても染み入るような嬉しさがこみ上げた。

 その半面、その相手が血のつながった私ではなかったことがとても複雑に思えたのだった。




 そしてある時、里香の帰宅が遅くなった日があった。


 その日、里香は放課後の足で県民会館にオーケストラの公演を聴きに行っていた。

 県民会館なら我が家から歩いて行ける距離にあるから、終了後速やかに帰宅するのならばと、両親は特別に夜間外出を認めていた。


 それにも関わらず、里香が帰宅したのはコンサートがとっくに終演した夜遅くだった。



 当然両親は激怒した。里香が無断で門限を破るなんて前代未聞だった。

 帰宅後理由を詰問された里香は「友人と話し込んでしまった」と言った。



 ……しかし私はその日の部活帰り、夜の駅前のベンチに里香と一史君が仲睦まじく対話しているのを目にしていた。



 秋から冬へと季節が移り変わろうという季節だったのを覚えている。

 外を出歩く人は皆コートに手袋の姿で、足早に通り過ぎて行くような、寒い夜だった。



 私はいまでもその光景を思い出せる。


 ベンチに並んで腰を下ろした里香は、自分から一史君に肩をあずけて、心地よさそうに目を閉じていた。

 一史君はいかにも純朴そうな少年で、戸惑いがちに里香の手を握っていて。


 ふたりが頬を赤らめながら、ぽつりぽつりと交わす言葉まではきこえなかった。

 お互いを慈しみあっていることははっきりと伝わってきた。



 寒空の下、その場所だけが純粋で甘い空気に満たされているのを私は目撃したのだ。


 ……ああ、これは、もう。

 里香と一史君が抱いている感情は一目瞭然だった。



 私は両親が寝静まった後、里香の部屋まで出向いて、問うてしまった。



『里香、今日のことだが』

『……なに、兄さん』

『家に帰る前、駅のところで男の子と話していただろう』

『……』

『あの子は一体……?』


 里香は一瞬目を見開いて、すぐに目を閉じた。

 そして一史君を思い出す里香の表情は、私が見たことが無いくらい優しげだった。



『……桜一史さくらかずふみ君っていう人。クラスメイト』

『コンサートも一緒に行ったのか?』

『……私が誘ったの』


 それから里香は、お母様には言わないでねと前置きしてから、ぽつぽつと彼がどんな人かを教えてくれた。



 ちょっと気弱そうな見た目だけど、とても優しい瞳と心を持っていること。

 中学から入学してきて、気さくで頭も良いのに、家が遠いせいで特定の仲の良い子が少ないこと。

 かといってそのことをさして気にした風でもなく、いつものんびりとしてること。

 最近は、体育でペアになってキャッチボールをしていること。

 運動が苦手で、バッティングセンターでもボウリングでも里香が勝ってしまったこと。

 そして、里香が身に着けているペンダントを学校でなくしてしまった時、雨の中一緒に探してくれたこと。


 そのどれもが私には初耳のことだった。

 思わずいつの間にふたりで外出するまでになったんだと訊くと、吉岡先生のレッスンがあるふりをしているという。



『……その一史君という男の子を、里香は慕ってる、のか?』

『……』


 私の問いに、里香は否定も肯定もしなかった。

 けれどその表情は、かすかに芽生えた恋心を隠しようもなく、里香自身困惑しているようだった。



 私は愕然とした。



『お前……武藤むとう君のことはどうするつもりなんだ』

『…………わかんない』


 里香は俯きながらそう零したのを、私は忘れられない。




 里香には既に、両親が決めた婚約者候補がいた。













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 お読みいただきありがとうございます。

 次話は11/28(日)に投稿予定です。

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