#0034 栞と旅行 (4)




 町並みの中、山裾まで続く細い道を歩いていくと、やがてお寺へと続く階段の上り口が現れる。

 おれと栞は他の参拝客につづいてお寺の境内へと入った。


 その正面にあったのは古くて大きな麓の本堂で、根本中堂と呼ぶらしいそれの前におれと栞はまずは並んで手を合わせた。

 そして緑豊かな境内の左手方向へと進み、芭蕉を記念する像や句碑、大きなイチョウのご神木なんかを横目にしばらく歩く。


 やがて登山口となる立派な山門が目の前に現れる。

 おれと栞はそこで巡拝料をお納めして、果てしない山の参道へと足を踏み入れたのだった。



「んんー、涼しくて良い気持ちだ」

「そうだね」


 大きくのびをする栞。


 思わず深呼吸したくなるほどの綺麗な空気が森全体に満ちていた。



 道は石畳や石段で整備されていて、その端は滑らかな苔で覆われている。

 左右の地面からは見上げるほどの大きな杉や広葉樹が生え、生い茂った葉ははるかな天空を遮る緑色の天井を形成していた。


 道は彼方の頂上まで延々と続いていて、路傍の草の中には石灯籠のほか、古い石塔や小さなお墓やお地蔵さまが数多く佇んでいる。

 この場が神聖な場で、山全体が霊場なのだと感じ取ることができた。



 ヒグラシの鳴き声がうやうやしく聞こえてくる。

 この森のもつ静謐な霊感は、すっと心を落ち着けて鎮めるのだった。



「森の中の木陰がこんなに涼しいとは思わなかったよ。心が澄みわたるみたいだ」

「うん。これは来て良かったよ」

「この山の上にもお堂がいくつもあって、そこからの眺めが絶景らしいんだ。最後まで行ってみようよ」


 そう言うと、栞は足を踏み出して石段を上りはじめる。

 大股で一段一段踏みしめる栞の健脚は頼もしくて、勇みながら一歩ずつ山道を攻略してゆくようだった。


 おれも栞のあとに続いて、歴史ある参道を登り始めた。




 栞は軽やかな足取りで石段を上ってゆき、路傍に建てられた小さなお堂や塚なんかを見つけては「うわぁ~」「へぇー」と感嘆の声を漏らす。

 この自然の生命と宗教的な情感にあふれた空間は、栞にとってたくさんの発見があるのだろう。


 後ろ姿だけど、栞が目を輝かせながら周囲を見渡しているのが伝わってくる。



 さながら、深い森の中に迷い込んだ高貴でちょっとお転婆なお姫様みたいだ。


 とても可愛らしい。

 その姿を見つめていると、おれは自然と頬が緩みっぱなしになるのだった。




 長く続く階段の途中、おれは歩きながら汗を拭い、さっき駅の売店で買ったお水を口に含む。

 そしてふと目線を上げると、いつの間にかずいぶん前を歩いている栞がちょうどこちらを振りかえっていて、目が合った。



「あおい~っ」


 栞はおれに向かって、疲れを感じさせない笑顔を向けて手を振っている。


 その笑顔は夏の果実のように爽やかで、周囲の目を引いた。

 もちろんおれも栞の姿から目が離せなくて。



「早く来ないと置いていくよ?」


 栞と目が合った瞬間、得意げでいたずらっぽい表情に変わる。



 栞がその楽しげな表情を向ける先はほかの誰でもないこのおれだ。

 何より嬉しかった。


 おれは手を振り返しながら、負けてられないなと石段を踏みしめるペースをあげるのだった。




 やがて、目の前に見上げるほど大きな岩の崖が現れる。

 その前はすこし開けたスペースになっていて、たくさんの参拝客が岩を見上げていた。


 栞も立ち止まってずっと岩を見上げていて、おれは栞のそばに追いつくことができた。



「お疲れさま、栞」

「葵、葵。この岩、仏さまに見えたらその人に幸福がおとずれるらしいんだ」

「え、本当に?」


 なにそれ、と思っていると栞はそばに立っている看板を指さして教えてくれる。



弥陀洞みだほらというらしいんだ。大きな凝灰岩が雨に削られて、仏さまのお姿になったんだって」


 看板の説明文には、確かにそのようなことが書いてある。

 岩の高さは1丈6尺 ≃ 4.85 mもあるらしく、たしかに高さ2 mくらいまではお墓? みたいな彫刻が埋め尽くされているけれど、それよりも上――手つかずの部分は自然の風化によって削られ玄妙な形をしていた。

 すぐ脇にはたくさんの石塔と卒塔婆が立っていて、岩肌の小さなくぼみにはお賽銭が無数に挟まっている。


 たくさんの信仰を集めるお岩みたいだ。



「ちなみに1丈6尺というのはお釈迦さまの身長だよ。これよりも大きな仏像のことを大仏って言うんだ」


 栞がおれの知らなかった豆知識を教えてくれる。

 どうだ、えっへんと胸を張る栞。愛らしい表情だった。



「そういうわけでボクは岩を眺めてたんだけど、仏さまの姿にはどうにも見えないんだ」


 栞がそう言うので、おれも岩壁を見上げてみるのだけど――



「うーん、どこだろう……」

「ね? 見えないよね?」


 岩肌の表面はは大小の形にえぐられていて、なかなか変な形をしている。

 だけどその形から何かを見出すのは……ちょっと難しかった。



「そうだね……おれには分かりそうもないかな」

「せめて、どのへんを見ればいいのかが分かればいいのだけど」

「……たぶん、昔の人は想像力が豊かだったのかも。たとえば星座だって、星の並びから動物や人の形にはとても見えないでしょ?」

「……なるほど」


 栞は納得したように頷いてくれた。



「まあ、今と昔じゃこの岩の形も少し違うかもしれないから、昔の人が見ていたものは消えちゃってるかもしれないよ」

「……でも、せっかく来たんだから頑張って見てみたいよ」

「栞は、そういう迷信とか占いって信じるほうなの?」

「ううん、全然」


 栞が非合理なものを信じるのはなんか意外だなと思ってたら、栞はあっけらかんと否定する。



「ボクはただ、こういう珍しいモノとかイベントとかが好きなんだ」


 ミーハーっていうやつさ、と栞は笑って見せる。

 だけど、目の前のことに何でも興味を持って楽しめるのは、明るい生き方だと思った。



 そして栞ははにかみながら、こう続けた。



「……葵とこうしているだけで、ボクはすでに幸せなんだ」


 栞の言葉におれははっとする。

 そして栞は、仏さまは見えなかったけどね、と舌を出して笑った。

 健気な笑みだった。


 おれは岩から目線を外して互いを見る。

 麦藁帽子の下から宝石みたいな瞳がおれを見上げていた。

 奥ゆかしい光を湛えていた。



「おれも、楽しんでるよ。今日はありがとう」

「今日はまだまだこれからだよ」

「そうだね、たくさん満喫しよう」

「うん」


 おれたちは笑いあった。

 栞の表情に心が奪われそうになった。


 今日何度目だろうか。



 隣に栞がいるだけで幸せな気持ちで満たされていた。

 おれたちはとても良い雰囲気だった。












 ……でも、おればかりが栞に魅せられているのはちょっと承諾できなかった。



 話題を変えて攻勢にでることにした。

 実は、さっきから密かに心配していたことでもあった。


「栞。ここまで一気に上ってきたけど、疲れてない?」

「え? ううん、全然平気だよ」



 道中はずっと日陰で涼しかったし。

 そう言って栞はケロリとしているけれど……



「曇りとはいえ日差しはあるし、少しは汗かいてるでしょ?」


 おれは自分のために買った水を栞に差し出す。



「おれの飲みかけでよければだけど、栞にあげるよ」

「なっ……!」


 ばっとおれを振りかえる栞は、あわあわと顔を赤らめていて。

 ……なんて可愛いんだろう。



「朝、栞がおれにお水をくれてから、何も飲んでないでしょ? 駅で栞のぶんの飲み物もおれが買っておくべきだったとさっき気づいて」

「そ、そんなこと気にしてくれなくてもいいんだっ」

「栞、熱中症は本当に怖いから」

「っ!」


 はい、とおれは栞の手を取って、半分ほどになったミネラルウォーターを持たせる。

 栞はおれから受け取って硬直していた。


 わなわなと口元が震えている。

 本当に思いがけなかったんだろう。



「いいい、いやっ、ボクは大丈夫だよ!」

「熱中症は見くびったら本当に大変なことになるから。飲んで」

「ほ、本当に大丈夫だから!」


 栞は受け取ったペットボトルを突き返そうとするので、おれはその手を掴んで再度栞の胸元に押し返す。

 少し乱暴かもしれないけど、おれは栞と顔を近づけて念を押す。


 ……見れば見るほど、神話の女神さまみたいな美人で、息が止まりそうになる。



「だめ。飲んで」

「葵……っ! ボクは」

「それとも……さっきの、飲みかけでも気にしないってのは、おれに気を使った方便だった?」

「~~~~っ!!」


 栞は身体が震わせて、なんだか紅潮している。


 さすがにいじわるな言い方だったかな。

 内心そう思いつつ、おれは栞のおでこに手を当てて体温を確かめてみる。


 とどめの一撃だった。



「……さっきから顔赤いよ? 本当に大丈夫?」

「ああああっ、わかった! わかったから飲むからっ!! 飲めばいいんだろう!?」


 栞の表情はあっという間に沸騰して、半ば叫びながらおれの手からペットボトルをひったくって後ろを向いてしまう。

 そして大口を開けて中身をゴクゴクと飲み干す。


 その姿は完全にやけだった。


 やりすぎたかな。

 栞は空になったボトルをおれに渡して、



「どうもありがとう! ごちそうさま! とてもおいしいお水だったよ!」

「栞? まって。またはぐれちゃうから、一緒に行こうよ」


 栞はぶっきらぼうな台詞を吐き捨てると、身を翻して岩の前を後にしようとする。


 おれはあわてて栞を追いかけるのだった。




 頂上まであと半分くらいだ。










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