#0004 顔合わせ会 (2)
「……コホン、ちっとも話が進まないんだけど。4年前の話がしたいんだよね?」
栞が可愛らしい咳払いをして話題を修正する。
「その話だけど、ここで話して大丈夫? たぶん栞の機微にかかわる話だと思っておれは今まで父さんには話してなかったんだけど」
「はーい、あたし達には栞姉みずから何度も話してくれてることだから、今更だと思います」
萌さんがフランクに挙手しながら教えてくれる。
……それにしても、言葉上は敬語で喋ってるはずなのにどうしてこんなに軽い印象の話し方ができるんだろうこの子は。
「……なんでそんなにやにやしながら言うんだ」
「別になにも? 栞姉が葵さんのこと語ってるときのこと思い出してただけだよ」
「ふーん……? まあそういうわけで、ボクはぜんぜん気にしてないから大丈夫だよ」
「そっか。じゃあおれが説明しようかな」
「あ、あたしも葵さん視点で聞いてみたいです。栞姉の話は思い出が美化されすぎてるので」
「美化って……」
苦笑いしながら、当時のことを思い出してみる。
「といっても、ここまで勿体ぶったほどのことをしたわけじゃないよ。4年前にピアノのコンクールに出てたのって父さんは覚えてる?」
おれは小学5年生の終わり頃まで、ピアノを習っていた。
うちの周りには教えてくれるような先生がいなかったので、週1回の頻度で市内まで来て先生のレッスンを受けていたのだ。
大手の音楽教室とかではなく、個人で教室を開いている先生についていて、結構本格的だった。
1度だけコンクールにも出たことがある。それが4年前だ。
「小学5年生の時だよな? 覚えてるぞ。それこそここの近くにあるホールでやってなかったか?」
「そうそう。そこのオホリホールっていうところだよ。まあ父さんは見にこれなかったし、今まで言ってなかったから今からいう出来事は知らなくても当然なんだけど――」
おれが出た唯一のコンクールで、おれはたしか演奏順が一番最後で楽屋で自分の出番が近づいてくるのを待っていた。
おれがエントリーした
審査がはじまってプログラムが進行して、何人かの演奏が終わった頃合いだったと思う。
本来誰も訪れないはずの楽屋部屋の扉が突然開いて、大粒の涙で表情をゆがめた女の子が逃げ込むように入ってきたのだ。
その女の子は真っ赤なドレスを着ていて、手にはしわくちゃになったハンカチが握られていた。
「その子が、栞。ちょうど肩から肩甲骨くらいの長さの髪で、いまと変わらないから一目見てすぐあの時の女の子だって分かったよ」
本番で失敗しちゃってロビーとかで泣いてる子は、コンクールでは結構見る光景だ。
応援してくれた親や先生に合わせる顔が無くて、一人になりたいという気持ちは、痛いほどよく分かる。
その時の栞も、たぶん家族の誰にも会いたくなくて、たまたま人気のない楽屋に逃げ込んできたんだと思う。
「誰もいないと思って入った部屋におれがいたから最初は驚いてたみたいだった。それでおれは、泣いてる女の子のこと放っておけなくて、落ち着くまで少し慰めていたんだ。知らない相手だからか、いろいろ愚痴みたいなのも聞いてあげたよ。じつはおれも出番待ちで緊張してたんだけど、ふたりで話してるだけでリラックスできたから、結果的におれも助けられたんだ」
「そんなことがあったのか。わが息子ながら偉いな」
「普通だよ、誰だってそうすると思う」
「それで、栞さんは葵のことを覚えていてくれたのか。納得した」
という感じで父さんには平和的に納得してもらえそう、というところで、
「……ちょっと葵さん、大事な部分話してないんじゃないかと思うんですけどりもしかしてリハーサル室のくだりって栞姉の妄想?」
「そんな、まさか葵は忘れててしまったの?」
と、粕谷家の皆さんからの抗議が入る。
……まあ当然だよね。話さないわけにはいかなかった。
「続きがあるのか?」
父さんからも質問される。
「えーと、まあ、全然大したことじゃないんだけど。泣き止むまで話を聞いてあげたあと、ふたりでちょっと別の場所に移動したんだよ」
「それがリハーサル室か?」
「そう。ホールに併設の練習室」
おれたちが出場してたコンクールは、各出場者に対して本番直前の30分くらいの時間だけ楽屋部屋そばの練習室が割り当てられて、指慣らしや最後の練習に使用できることになっていた。
楽屋で胸をかしてあげた甲斐もあって、しばらくすると栞は感情的な落ち着きを取り戻すことができた。
だからといって、本番の舞台上で失敗した悔しさが消えることはなかった。
むしろ周りが見えてきたからこそ、ほかの子たちがうまく弾いているのが聴こえてしまうたびに、栞は一層落ち込んでいった。
おれはそんな栞の姿を無視することができなかった。
大変な練習をこなしてコンクールまで出てるんだから、きっとピアノが好きなはずなのに。
このままだと、もうこの子は弾くのを辞めてしまうんじゃないか。
そう考えると子供ながらに、なんとかしてあげたいという思いに駆られた。
「――それで、ちょうどおれのリハーサル時間が近づいていることに気づいて、おれの練習時間をつかって栞に弾かせてあげることにしたんだ。"聴いててあげるからもう一回本番のつもりで弾いてみなよ"って。リハーサル室の使い方は自由だし、本来は先生とか家族も一緒に入って最後の確認をするための場所だから、知り合いの女の子を連れて入っても全く問題ないし」
「よかった、覚えていてくれたんだね。あのとき葵がボクの手を引いてくれたおかげで、どれほど救われたか」
「そんなに大したことじゃないんだけど」
「ううん、とてもすごいことだよ。大会の本番前の最後の練習時間を、出会ったばかりの、しかも本番を失敗で終えてしまった人間のためにあっけなく分け与えてしまえるんだから」
「そうかな? そこまで言ってもらえると、やって良かったよ」
「……あのね、葵」
正面に座っている栞は、おれのことを見据えて居住まいを正して、言葉を紡ぐ。
「ボクはあの時本当に救われたんだ。葵のおかげで今もピアノを続けているし、葵がいなかったら間違いなくやめちゃってたと思う。……あの時ボクは、本来葵が練習するはずだったピアノに向かって、本番で間違えてしまったところを悔しくて何度も何度も弾いたんだ。今はこんなに間違えずに弾けるのにって思うとまた涙がこらえられなくなって、鍵盤の前でまた泣き出してしまって……その時キミは、ボクを後ろから優しく抱きしめてこう言ったんだよ?」
――大丈夫だよ。
――たとえ本番でうまく弾けなかったとしても、君がこんなに上手く弾けるってことは僕が知ってるから。
――たとえお客さんが知らなくても、僕だけは君がこんなにすごいってことをちゃんと知っているから。
――だから大丈夫。次はきっと上手く弾けるよ。
「その言葉でボクはまた号泣しちゃうんだけど、今となっては良い思い出話だよね。もしかしたら、葵は覚えていないかもしれないけど」
いや、覚えている。
間違いなく覚えている。
彼女が何度も弾きなおしていたのは、ベートーヴェンの月光ソナタの第3楽章の再現部だ。
憎しみを込めるように、同じ小節を執拗に何回も繰り返していた。
彼女が鳴らす音は流れ星みたいにキラキラしていたのに、こんなにむきになって泣きながら弾き続ける姿が不憫で、耐えられなかったのだ。
「あの時からボクはずっとお礼を言いたかった。また会いたいとずっと思っていたんだ。まさかこんなところで再会できたのは本当に思いがけないけど、本当に嬉しかった。一目見て、すぐ分かったよ」
「おれの方こそ、栞に会えて嬉しいよ。今や全国コンクールで優勝してしまうくらいにまでなって、本当にすごいと思う」
「うそ、知ってたの……?」
「もちろん、有名人だよ。その意味でも会えて光栄だよ」
最後は冗談っぽく笑って言ったけど、間違いなく本心でもある。
あの時泣きながら誰もいない楽屋部屋にやってきた女の子は、いまや去年の全国の18歳以下の優勝者にまで成長したのだ。
クラシック音楽なんて関心のある人は限られるし、その中でも学生向けコンクールに注視してる人なんて一部ではあるけど、日本のピアノ界の未来を担うとまで言われたりしている。
いま目の前にいる粕谷栞は、とてもとてもすごい女の子なのだ。
「なんだか無性に恥ずかしくなってきたじゃないか……、でもこれだけはずっと言いたかったんだ。あの時ピアノを嫌いにならずにすんだのも、今のボクがあるのも、すべて葵のおかげなんだ。本当にありがとう」
「どういたしまして。また会えておれも嬉しいよ」
お礼を言ったときの栞の表情は、満開の花が咲いたような笑顔だった。
「それで、結局ボクが泣き止むまでまた胸を借りてしまったせいで葵の練習時間が無くなってしまったんだよね。それなのに葵はぜんぜん気にしてなくて、『今朝ここに来る前に家でたくさん練習できたから大丈夫。このあたりに住んでるんだ』って」
「……あれ、そういえば葵さん今日電車できませんでしたっけ? 確か遅刻したのも電車が遅れたからって」
萌さんが横から指摘する。
あー……、やっぱり気づかれてしまった。
「萌さんがお気づきの通り、うちは市内じゃなくて隣の町にあるんだよ」
「えっと、じゃああのとき言ったのって……」
「罪悪感を抱いてほしくなくてとっさに言った嘘。本当はその日起きた時から本番までまったく練習できてなかったんだ。ごめんね」
「それは……っ、ボクのほうこそ本当にごめん! とんでもない迷惑をかけてしまった」
「でも、栞が元気になってくれたから。そっちのほうが良かったよ」
「待ってください、確かその時のコンクールって葵さんの1位、でしたよね……?」
確かに。おれはどういうわけかその時優勝してしまった。
あくまで県レベルの小さな大会だったけど。
「あの時は、練習できかなったんだから失敗しても仕方がない! って開き直って弾いてたんだ。それまでの栞とのやりとりでいつの間にか緊張もなくなってたし、のびのび弾けたってのも結果的に良かったのかも」
「ボクもあのとき客席で聴いてたよ、あんな楽しそうなトルコ行進曲は初めてだったよ」
「おれも弾いてて楽しかったよ。楽しく弾ける本番なんて人生であの一回しかない」
「ボクは一回もないよ、残念ながら」
冗談を言い合って笑いあう。
本当に、話してて楽しくなる女の子だ。
「葵さんは、最近はコンクールとかには出てないんですか?」
今までおれたちのやりとりを温かい視線で見守ってた綾さんが、その透き通った声で尋ねてきた。
さっき以上に答えづらい質問に、間をおいてしまった。
「……実は、おれはもう習うの辞めちゃったんだ」
「えっ」
「コンクールに出たのは4年前のあの時が最初で最後だよ」
「そんな! あんなに上手かったのに、どうして辞めちゃったの」
「……習ってた先生があの後亡くなったんだ。あの時、栞にリハーサル部屋のピアノを弾かせられたのも実は、おれが習ってた先生の具合が悪くて来られなかったからなんだ」
「そう、なんだ……」
正直に伝えると、栞は目に見えて悲しそうに肩を落としてしまう。
空気が気まずい感じになってしまった。そんな意図はなかったんだけど。
当時は確かに悲しかったけど、今はもう気持ちの整理もついてるし、そこまで深刻に考えてもらう必要もないんだけどな。
「特定の先生に習ってはいないけど、弾くこと自体は細々と続けてるよ」
「……よかったら、また葵の弾いてるところを聴かせてほしいな」
「それはもちろん歓迎だよ」
「本当? うれしいよ」
「さすがに全国で優勝した人には全然敵わないけど、それでもよければ」
「葵の弾くピアノが聴きたいから」
「あはは、じゃあ……連絡先交換しようよ」
「……連絡、先?」
栞は、何を言ってるのか分からないみたいな表情で硬直した。
そんな反応されると、交換を持ちかけた身としては非常にショックなんだが……
「えっと、交換しとかないとまた会えなくなっちゃうと思うけど、嫌だった? もちろん無理強いはするつもりないから断っても全然いいけど」
「するっ! 絶対するよ! ……本当にいいの?」
「言い出したのはおれなんだけど……」
あたふた、というコミカルな動きで自分のバッグから慌ててスマホを取り出す栞。
それを見た姉と妹、なんとお母さんまでもが肩を震わせて笑いをこらえていた。
おれも自分のスマホを取り出してメッセージアプリを起動して、自分のバーコードを栞に提示する。
「交換できたみたいだね、ありがとう」
「葵の連絡先を入手してしまった……、これは夢なのだろうか?」
「現実だとおもうけどなあ」
なんだか震える手でスマホ画面を見つめる栞に苦笑して指摘すると、またもや萌さんが吹き出していた。
「あ、じゃああたしも交換してもいいですか?」
「もちろん」
「綾姉はいらない?」
「私も頂いていいですか?」
「大歓迎だよ」
流れで、3姉妹全員と交換してしまった。
画面には新しい友達の名前に、『粕谷 綾』『Shiori Kasuya』『もえ』という名前が並んでいた。
「なんだかボクのせいで随分と長いこと時間をとらせてしまったね。せっかく葵が駆けつけてくれたのに、まだ料理を一口も食べてない」
「確かに、食事しながらお互いに話し合うっていうはずだったのに、料理を運んですらもらってない」
時計をみるとなんと1時間近くも経っていた。
ということで、父さんが店員さんを呼んで予約していたコース料理の前菜から運んでもらうようオーダーした。
店員さんも遠目におれたちのやり取りを見ていたようで、「やっとですかお客様」みたいなまなざしを向けられていた。
……いやあ、あんな会話割って入れないですよね。
若干気まずいというか気恥ずかしい気持ちにはなったけど、父さんはまったく気づかずに平然と店員さんとやりとりしていた。鈍感め。
それからは、非常においしいイタリア料理を頂きながら向かい合った粕谷家の皆さんとも会話が弾んで、楽しい会食となった。
主には子供たち同士――つまりおれと3姉妹間とでやけにハイテンションに質問が飛び交った。
内容はたわいもない事柄だったけど。例えば、放課後はいつもどんなことをしているか、普段どんな音楽を聴くか、とか。
それなのに、おれの答えるのを真剣に聞こうとする栞の表情がなんだかおかしくて、つい笑ってしまったのだ。
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