霧の中の犬
冬になってしばらく経った、肌寒い夜のことでした。
わたしはカウンターに頬杖をつきながら、天井の薄明るいランプの光をぼんやりと見つめていました。ひとりきりで喋らずにいると、まるでお店全体から音が消えてしまったかのようです。
元々住宅街の中にお店があるので、朝から晩まで静かなのですが、こんなに静かで寒い夜ばかりは、ちょっとだけ寂しくなるときもあります。
宿を掃除して、お食事を作ってお客様をお迎えする父を見て、わたしは育ちました。父は穏やかな人で、男手ひとつで私を育ててくれた人です。
実は母のことで覚えていることはほとんどなくて、どんな人なのかも、顔も名前も知りません。物心ついたとき、既に母はいなかったのです。
父は母のことを何も教えてくれませんでした。時折寂しそうに何かを見つめていたような気がするのですが、それは一体何だったでしょうか。
今晩はお客様もいない静かな夜だから、きっと色々と考えてしまうのです。わたしは心の奥の思い出から離れるようにそっと立ち上がり、窓を少しだけ開けました。
「それにしても、今晩は霧が濃いわ……」
わたしは窓の外を覗き込みながら呟きました。
王都で霧がかかるのは珍しいことです。夜が更けるにつれ、段々と深くなってきた霧は町を覆い、すっかり王都全体が白い濃霧に浸かっているようです。
外は周囲の窓から漏れるオレンジ色の明かりがぼんやりと見えるばかりで、お向かいの建物の輪郭すらよく見えません。
わたしは窓を閉じて、カウンターの脇に置いてあるケープを肩に羽織りました。
そのとき扉を開けたのは、白いローブ姿の、フードで顔を隠した方でした。お店へ入ってこられたその方は、戸を閉めてからフードを取り払いました。短い黒髪の男性で、深い瑠璃色の瞳がわたしをじっと見つめました。
***
……一晩お願いしたいのですが、大丈夫ですか?
ああ、本当によかった。ありがとうございます。
最近、夜は冷え込みますね。もう冬です。
カスティアは暖かい国ですが、やっぱり冬というのはどこも冷えるものですね。あ、そうだ。何か温かい飲み物をくれませんか? 手足の先まで冷えきってしまって……。助かります。
ええ、僕は遠い国からここに来ました。ちょっとした用がありまして。長旅でしたよ。よく荒れる海原を渡り、オスタールを経由してようやくここまで来たんです。
はい、僕はロレスタ国の者です。
ロレスタはずっと昔の戦争で大打撃を受けて、首都はほぼ壊滅し国はなくなってしまいました。
けれど自然豊かなロレスタの大地はそのまま残っていますから、今でも多くの同胞が大自然の中で生きていますよ。
みんな自分勝手に生きていますが、集落ごとに決まりごともありますし、困ったら助け合っています。法はないが、無法地帯というほどひどい場所ではありません。
ああ、飲み物もありがとうございます。ホットココアですか。
……あったかいですね。こんなに甘いものは本当に久しぶりに飲みました。
ロレスタからの客は珍しいですか? 確かにカスティアまで来る者は少ないでしょうね。どんな国かって?
ロレスタは薄暗い地で、自然環境が険しい場所です。他の地ではみられないような大きな生き物もたくさんいて、危険も多い。薄暗い樹海と高山に囲われ、外から来る人もほとんどいません。
ロレスタは他国と比べて魔法使いが多いといわれています。自然とともに暮らす者はその恩恵を受けやすく、魔法使いの素質に恵まれているからだといいます。
いえ、僕は魔法使いと呼べるほど魔法はできません。ただ生薬の知識に長けている、薬師なのですよ。簡単な治療の魔法を使える程度です。
え? ああ、すっかり申し遅れてしまいました。僕はウィリアムといいます。
僕はロレスタの首都だった町に住んでいます。
あの町はもうぼろぼろで、今では退廃都市なんて呼ばれていますが、なんとかみんな生きていますよ。僕は町外れの古い教会に住んでいて、畑を耕したり、薬を作ったりして町の者の治療をしています。
ご主人、ロレスタはね、ただ暗いだけではなく世界で一番寒い土地なのですよ。
ただでさえ暗くて肌寒いのに、冬になるともういけない。どこもかしこも冷たい雪と氷に埋もれて、長い夜を耐えながら春を待つんです。
あれはそう、今と同じような時期で冬になった頃でしたか。
ちょうど今晩のように霧が立ち込めている、とても寒い夜でした。空気が凍えていて、そういえばちらちらと雪も降っていたように思います。
元々夜が深いロレスタですが、冬の夜は墨で塗り潰したような暗闇になるんです。
町の明かりなんてありませんしね。
深い闇と霧に覆われたある真夜中、僕は突然目を覚ましました。また寝ようとしても目が冴えてしまって、僕は寝起きしている教会の一室から出ました。
何か変な気配のようなものを感じたのです。ローブを羽織り、ランプと杖を手に教会をぐるりと回ってみました。特に何もなく、部屋に戻ろうとしたそのときです。
犬の声がね、したんですよ。
確かに犬の遠吠えを聞きました。こんなところに犬は出ない。まったくいないわけではないんですが、こんな時間に犬の声を聞くのは初めてでした。
何かあるのかもしれないと思って、僕は再び教会の外に出ました。
霧が立ち込めていて、深い闇の中で小粒の雪が舞っていました。僕は白い息を吐き、ランプの明かりで先を照らしながら、教会の周囲を再び回ってみたんです。
そうしたら、やっぱりどこからか犬の声が聞こえるんですよ。
やっぱり何かいる。そう思ったときでした。
暗闇の彼方から、それが姿を現したんです。
そいつは闇と同じ色をした、大きな何かでした。
爛々と、月の光のような両目が光ってこちらを見ていたんです。
僕はただ驚いて固まりました。立ち込める霧がそいつから逃げるように薄れ、雲間から月の光がさっと差し込みました。
月光に照らされながら、そこに黒くて大きな犬が立っていたのです。
それは背筋が凍るほど不気味な姿でした。墓場に立つ犬を見て、僕はすぐに覚った。
あれは墓守犬――チャーチグリムだとね。
姿は不気味でも、墓泥棒や邪悪なものから墓の下で眠る者を守ってくれる存在なんです。
けれど、チャーチグリムというものは教会があれば自然に生じるような存在ではないのです。いわゆる、チャーチグリムはその墓地で埋葬された死者の魂から生まれるものなのですよ。
僕がそれを知ったのは、ロレスタにある英知の城――魔法使いのための古い図書館で文献を見つけたときでした。
けれど僕にはわかっていたんです。
あのグリムが墓の下に眠る、死者のひとりだということに。
それを知るには、あることをお話しなければなりません。僕が教会に身を置いて間もない頃のお話ですから、六十年ほど前のことです。
ああ、僕は人間ではありませんから、外見と違って少し長生きです。
僕はこれでも八十過ぎですよ。僕の本当の姿は……ちょっと秘密です。びっくりするでしょうから。今は魔法で人間の姿になっているんですよ。王都だとちょっと浮いてしまうので。
六十年ほど前、戦争が終わったロレスタにも平穏が訪れました。
僕はその頃、首都の荒廃や戦争の後のどさくさに紛れて住処を失っていました。
困った僕はあちこち彷徨い、無人の廃教会を町の外れで見つけて棲むことにしました。これで一応司祭ですから、ぼろぼろでも教会を見つけられたのは僥倖でした。
それから棲みやすいよう部屋を掃除したり、畑を耕して野菜や薬草を作り始めたりしました。僕が野菜や薬草を町で売ったりするうちに、町の人は病気や怪我を診てもらいに教会を訪れるようになりました。そうして僕は教会での暮らしを始めたのです。
その頃、身体が弱い男の子が教会に通っていました。
その子は山羊の子でヨセフといいました。戦争で親を失くしていましたが、前向きで、ひとりで生きていこうとしている強い子でした。
額に変わった模様があって、両親に彫ってもらった身の安全を祈るおまじないなのだといつか話してくれましたっけ。
ヨセフは僕に懐いてくれて、具合が悪くないときも教会に来ていました。それで掃除や畑の手入れを手伝ってくれたんですよ。
ひとりで稼ぐこともできない子供だから、僕は手伝ってくれたお礼に食材をあげたり、薬草の使い方や生きていくのに使える知恵をその子に教えたりしていました。
僕の薬草と魔法でヨセフは少しだけ元気になりました。
けれど生来の病弱さが治ったわけではなく、月に何度も薬を飲まなければ元気でいられませんでした。でも少しでも元気なあの子を見て、あの子の力になってあげられるのは嬉しかったですね。
僕は司祭で薬師ですから、ヨセフにも町の人にも、できるかぎりのことをしました。僕のささやかな魔法と薬で、助かった人がいること。それが僕にとって唯一誇らしいと思えることでした。
あるとき、ヨセフが僕に言いました。
「ウィルはどうして、僕みたいな身体の弱い人のために一生懸命になれるの? 町にいたら誰も僕を助けてくれないよ。弱肉強食だからって、それが自然の在り方だからって、周りはみんなそう言うんだ。それじゃあ弱い人は死ぬしかないの?」
あのときのあの子の無邪気な目は今でも忘れられません。
僕はあの子の、山羊の角の生えた小さな頭を撫でながら答えました。
「ヨセフ、どんなに強い人も、とても弱い人も、自然の恵みで生きているから、世の中には死んでいい人なんていない。生きている者はみんなそれだけでとっても尊い。身体の弱い君は、同じような身体の弱い人のことをわかってあげられる優しい子なんだよ」
「それじゃ弱い人を助けているウィルも弱い人なの?」
僕はくすくすと笑いました。
「そうなんだよ。だから怪我をしてる人や病気の人が、放っておけないんだ。君も、そんな人を助けてあげられるようにおなり」
……僕はね、ご主人。些細な疑問を投げかけただけの純粋なあの子に、ああやって言ったことが正しかったのか、今でもわからないんですよ。
「うん。僕、ウィルみたいな人になるよ!」
強く頷いたあの子の純粋な瞳が、今でも脳裏に張りついて僕を責めるんです。
それからしばらく後のことです。
戦争が終わったばかりで、みんな自分の生活で精一杯だった頃です。
険しい自然とともに生きているロレスタ人にとって、死体は時とともに自然の一部になるものでした。だから戦争の後放置されていたたくさんの骸が町の端に積み上げられたままになっていたんです。
その後、町に疫病が発生しました。
それはすぐに町中に広がって、町の人はみんなばたばた倒れてしまったんです。
こうなるともう手がつけられない。町中の人の病をきれいさっぱり治すなんてことは誰にもできませんでしたし、僕もあまりに無力だった。
とにかく遺体はみんな燃やすことになりました。僕と町の者で遺体の山を燃やし、その骨を教会の敷地に運んで埋めました。今もそこは墓地になっています。
法も秩序もなくなった町で、それも戦争の傷跡が生々しく残った町では、みんな自分が生きることで精一杯でした。だから助け合うことが少なかった。
ある人は早々に町を離れ、ある人は誰も助けようとせずに家に篭った。助けも受けずに死んだ者もいれば、教会を頼った病人もたくさんいた。僕を頼りに来てくれた病人たちを放っておくこともできず、僕は教会でひとり、病人たちの看病をしました。
看病の甲斐なく、僕の無力さを見せつけるかのようにひとり、またひとりと死んでいきました。悲しんでいる暇も自分を責めている暇もありません。僕は薬や魔法を何通りも、何度も試していきましたが、結果はまるで出なかった。
看病に明け暮れる中、気になっていたことがありました。
それは、疫病が広がってからヨセフの姿を一度も見ていないということです。
あの子は町に住んでいるから、とっくに疫病にかかっていてもおかしくない。
何より、あの子は僕の魔法や薬で何とか元気になっているんです。その効果が切れたら、身体の弱いあの子の身体が疫病に勝てるはずもない。
あの子の姿が見えないことに、嫌な予感がしていました。
僕は時間を見つけては町に行って、他に病人がいないか捜しながらあの子も捜しました。あの子が住んでいるはずの家を何度も覗きましたが、見つけられませんでした。
病人たちの看病をする忙しい生活の中で、病人たちは次々と減っていきました。みんなすぐに死んでいってしまうのです。
そして何度目になるかわからない、町を歩いていたある日のこと、僕はヨセフをようやく見つけることができました。
あの子はある家の中で倒れていました。
急いで駆けつけましたが、もう、冷たくなっていました……。
ヨセフがいた家の中にもうひとり、ベッドの中で老人が死んでいました。
あの辺りの家に聞き込みをして後から分かったことですが、ヨセフは病にかかったあの老人を看護していたんだそうです。老人はもう歩けず、外に出ることができなかった。だから教会に連れていけずに、ヨセフはずっと傍で看病をしていたんです。
僕に言ってくれればいいのに、あの子は僕がたくさんの病人の世話をしているから、僕が大変になるからと思って遠慮してしまったのかもしれない。あの子も病にかかって、それで苦しみながら死んでいったのでしょう。
ヨセフは、町に住む老人や子供たちの世話をよくしていたのだそうです。
ひとりで生きていけない人たちの家をよく訪ねては、話し相手になったり僕が教えた範囲で薬を作ったりしていた。それで疫病が広がったときも、その人をずっとお世話していたんです。
あの子は僕が言った通り、周りの弱い人々を助けようとしたんでしょう。
――そんな人を助けてあげられるようにおなり。
僕がああ言ったから、素直なあの子はそうなろうとした。僕があんなことを言わなければ、あの子は教会に来ていたはずです。
病が感染して倒れても、僕が何とかできたかもしれない。
病人を一人も救えなかった僕なのに、そんなことを考えました。
疫病が鎮まるまで、結局僕は誰も助けることができませんでした。病に倒れた者をみんな燃やして、教会の墓地に埋めることしかできなかった。
ヨセフだって、ひとつ何かが違えば助けることができたかもしれなかったのに。
僕がもっと優れた魔法使いだったなら、もっと力の強い魔法を使えたら。もっと町を捜していたら。あのときあんなことを言わなければ……。
後悔はいくつもあるのに、すべてが終わったとき、手のひらから零れた命を二度と掬うことはできない。
僕は、あのときのあの子の無邪気な目を、今でも忘れられないんです。
強く頷いた、あの大きくて純粋な瞳が、今でも脳裏に張りついて僕を責めるんです……。
病に倒れた人を墓地に埋め終えた頃、ようやく疫病も去りましたが、町はひどい有様でした。
人口は激減し、ぼろぼろの家々は補修されずにそのまま。草木が家や道の隙間から生えて、まるで遺跡のよう。
以前はかろうじてあった活気も失せ、排他的な者と行き場を失った者が住みつきました。首都としての面影を失くした町は、それから退廃都市と呼ばれるようになりました。
それから何十年もかけて、少しずつ人も増えて、前よりは随分ましな町になりましたけれど、戦争前の大都市の姿はもうそこにはありません。
商人がオスタールで貿易を始めてからは物も増え、少し豊かになりました。
まだ一部ですが、家も新しく建てられ、道も整備され始めました。自由が気風のロレスタだから、ちゃんとした町になるのは何十年も先でしょうが。
僕は変わらずあの廃教会で、畑を耕しながら怪我をした人や病気になった人を診ています。
ここ数十年間、ずっと。
だからあるとき、チャーチグリムを見たときは驚きました。
僕がチャーチグリムを見たのは、疫病が去って季節がひと巡りした頃です。
疫病の後悔を引き摺り、僕は魔法や薬の勉強に打ち込んでいました。平穏になってしばらくしたある晩、僕は墓地に立つチャーチグリムを見ました。
チャーチグリムというのはね、その教会の墓に埋葬された者の魂なのですよ。それが墓守の精になり、その教会が朽ちるまで永遠にその墓地の番人をしなければならないのです。
月に照らされたあのグリムを見て、僕は背筋が凍りつきました。突然グリムを見て驚いたのも本当ですが、一番の理由はもっと、別のところにあったんですよ。
あの黒いチャーチグリムの額にね、見覚えのある金色の模様があった。
あれは間違いなく、ヨセフの額に彫られたおまじないの模様そのものでした。あれと同じおまじないは、やり方さえ間違えなければ誰にでもできることです。
でも、当時ですらそうした古いまじないをする人は少なかった。僕の知る限り、その模様を額にしている者はヨセフだけでした。
それから夜になると、チャーチグリムは毎晩現れて教会の周りや墓地を歩き回り、墓守をするようになりました。たまに教会内に入って大人しく過ごしているときもありますが、僕に懐くようなことはありません。
あのグリムが本当にヨセフの魂によって生まれたものなのかわかりません。確かめようがないですからね。額の文様だって、確かな根拠にはならない。
けどね、ご主人。僕が必要な薬草を摘みに行こうとすると、目当てのものが部屋に置いてあるときがあるんですよ。散らかった本が端に寄せてまとめられていたり、寒い夜に僕が勉強しようとしていたら、いつの間にか毛布が置いてあったりするんです。
まるであの子が生きていた頃のように、教会のお手伝いをしてくれていたときのように。
僕のあの言葉はあの子を殺したけれど、あの子はずっと、僕の言葉を守って生きていくのかもしれません。
だから僕は、あの子に恥じないように生きていくんですよ。これからも、ずっと。
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