いたむ本

 天気のいい、ある秋のことでした。

 紅葉し始めた街路樹が、夕暮れ時、石畳と一緒に赤く染まる景色はどこかもの寂しさを漂わせていました。

 そんな景色が見られるようになると、わたしは不思議と懐かしい気持ちになって、よく昔のことを思い出したりします。


 子供の頃、夜眠れないときは、父がベッドの傍で色々なお話を聞かせてくれました。「昔むかし……」や「この世界のどこかに……」という文句で始まる伝説やおとぎ話を、父は本を開きながら何度も語ってくれました。

 そんな父の優しい声も目の色も、今でもはっきり覚えています。それらの本は今でもわたしの部屋の棚に並べられていて、眠れない夜に時折開くこともあるのでした。


 赤く染まった空が暗くなり始めた頃、ドアベルが軽やかな音を立てました。ガラスが嵌め込まれた扉を勢いよく開けて入ってきたのは、ショートの栗色の髪をふわりと揺らした女性です。

 王立図書館で働いている方で、今も館員の証である緑色の制服を着ています。


 彼女はエカテリーナさん。学術都市から王都まで、遠出のお仕事が多い図書館員さんです。王都にいらっしゃるときはいつもわたしの宿を使ってくださっている、いわゆる常連さんです。

 エカテリーナさんは茶革のトランクを持っています。あの鞄の中には旅行道具の他に、王都の職人さんに破損を直してもらうための本が何冊も入っているのでしょう。エカテリーナさんは眩しいくらいの笑顔で微笑むと、張りのある元気な声で言いました。


     ***


 こんにちは、ご主人!

 ……うーん、ご主人って呼ぶとやっぱり堅いし、レティシアさんでもいい?

 ありがと! あたしとレティさんの仲だもんね。


 うん、一泊お願い。あ、名前ね。このお宿の記帳って、あたしの名前が一番多かったりするのかな。それは秘密? そうだよねえ。そういうのお客さんに漏らしたりしないよねえ。

 あ、そうだ。実はもうお腹空いちゃって。夕食今からお願いしてもいい? ありがと。いつものアレ、トマリギ亭の特製スープお願い! 折角だから温かいハーブティーもね。うん、それじゃ荷物置いてくるから!


 それにしても、王都と学術都市を往復するのって結構大変よねえ。ここで美味しいごはんとお茶がいただけるのは嬉しいんだけど。

 それはともかく、今日はちょっと不思議なことがあったの。

 今回直す本を持ってきたときにある人に会ったんだけど、それがきっかけで、ずっと気になっていたあたしの悩みがようやく解決したのよ。


 話せばちょっと長くなるけど。レティさん、気になってるでしょ。

 ふふ、あたしもじっくり話すつもりで来たから、安心して!

 あ、お茶ありがとう。わあ、ローズティーだ。バラのいい香り……。

 えーと、それじゃ子供の頃からずっと抱えていた悩みから話そうかな。


 あたしの親はどっちも研究棟で働いているの。あたしは学術都市生まれで、ずっと本に囲まれて育った。ずっと昔から本が大好きだったわ。

 子供の頃から家中の本を読んで、難しい大人の本だって読んでいたくらいよ。


 でも、そんな子供時代からずっと悩んでたことがあったの。

 家や図書館にいるときだけ、どこからともなく声が聞こえるのよ。

 ――……しくしく、……しくしく。

 誰かが泣いているような、か細くて湿っぽい声。それはひとりでいるときと、本が傍にあるとき、決まって聞こえてきた。


 怖かったわ。誰もいないはずなのに、誰かの泣き声がずっと聞こえるのよ。親に言っても信じてもらえないし、誰に相談しても気のせいだとか言われて、真に受けてもらえなかった。だからあたしはきっと頭がおかしいんだと思って、そのことは誰にも言わなくなったわ。


 その声は大人になってもやまなかった。

 同じようなか細い泣き声は、あたしが王立図書館の館員になってもずっと聞こえていたの。むしろ王立図書館で働くようになってから、それはもっと増えたような気がする。

 夜、暗くて誰もいない館内を見回っているときにもざわめきのように聞こえてきたこともあって、あたしは疲れていった。

 でも、仕事は辞めなかったわ。本に囲まれて仕事することに、ずっと憧れていたから。


 あたし、これでも手先が器用でね。図書館の本で、簡単な修復作業を頼まれることが多いの。

 ひどいものは専門の職人さんじゃないと駄目なんだけど、ちょっとしたらくがきを消したり、とれかけたページをくっつけるくらいならあたしにもできるわけ。

 そのときにも、その声は聞こえるのよ。

 ――……しくしく、……しくしく。

 ――……いたい、……いたい。

 そういえば、本の修復作業をしているとき、その声を聞くことが多かったような気がする。今思えば、あれは破損している本が痛くて泣いているみたいだったな。



 それで、ひと月ほど前のことなんだけど、図書館の本を大々的に整理したのよ。

 そのときにね、変な本が見つかったわ。図書館の書庫に紛れていたものなの。蔵書印もスタンプもないし、蔵書覧にも載ってないものだったわ。つまり、どう考えても図書館の本じゃないのよ。どこかで紛れ込んだのかもって話になったわけ。


 で、何の本かわからないうえにぼろぼろ。結構頭いい人や、昔の言葉が読める人もいたのに、誰にも内容がわからなかったの。変でしょ?

 で、どうしようもなくて研究棟に送られたんだけど、そこにいた学者もみーんなわからなかったんですって。きっと鍵の魔法がかけられた魔法書なんだろうって、研究棟にいた魔法使いに言われたの。


 鍵の魔法? ああ、大抵の魔法書は悪用を防ぐために、魔法の鍵がかかっているんですって。

 だから誰も解読できなかったのよ。きちんとした方法で開けないと読めないうえ、暴発してとっても怖いことになるんだって!

 カスティア国内の魔法使いじゃ解読することも鍵の封印を解くこともできなくて、手の打ちようがなくて図書館に返されたわ。


 それでね、何故かあたしにお鉢を回してきたのよ! 今度王都へ行くとき、魔法書をどこかしかるべきところへ収めてこいって言われたの。あんまりじゃない?

 どうしてそうなるのよって感じ! どうにもできないからって、扱い間違ったら暴発するような代物をあたしに押し付けて片付けようなんてひどすぎるわよね!


 でも他にどうしようもなかったし、職人さんに直してもらう本と一緒に王都に持ってきたの。

 それで本の修復を専門にやってくれる馴染みの職人さんに見せに行ったわ。職人さんは王立図書館御用達の、腕の確かなおじいさんよ。

 直してもらう本と一緒にその本も見せたんだけど、ベテランの、その道の長い職人さんでも、魔法書はどこに持っていけばいいかわからないんですって。カスティアは元々魔法使いも魔法書も少ないから、仕方がないんだけれどね。それでどうしようってことになったの。そのときだったわ。


 ――しくしく……、しくしく……。

 微かだけど声が聞こえたの。あの湿っぽい、泣いているような声。本がたくさんあるから不思議じゃなかったけど、あたしは驚いた。

 だって、それが自分の手元から聞こえてきていることに気づいたんだもの。その声は、確かに魔法書の中から聞こえてきていたのよ!

 あたしはその本を半ば投げ捨てるようにして床に放り出してしまったわ。床にページを広げて、本が落ちた。

 ――しくしく……、しくしく……。

 ――……いたい、……いたい。


 あたしはぞっとして、固まってしまったわ。

 おじいさんはあたしがどうして本を放り出したのかわかっていないみたいだった。あたしにしかあの声は聞こえてなかったのよ。本は相変わらず湿っぽい声を小さく漏らしていた。


 どうしていいかわからずに固まっていると、そんな状態を打ち壊すようにお店の戸が突然開いたの。そしてひとりの女の子が入ってきたわ。

 ふわふわの、火のように赤い髪を流した女の子よ。スカートがひらひらした黒い服を着て、大きなつばのついた帽子をかぶっていた。あたしより年下に見えたけど、綺麗な子だったわ。

 不思議というか、存在感が強いというか、うまく言えないんだけど、独特な雰囲気がその子にはあった。

 他のお客さんかと思ったけど、本を直しにきたような様子じゃなかったわ。女の子は言ったの。


「――この本は」

 女の子は床に落ちたままの本を大切なものを扱うように拾い上げて、表面についた埃か汚れを優しく払った。

「この本は魔法書の中でも特殊なものね。……あなた、本の声が聞こえたのかしら?」

 あたしは突然のことで何が何だかわからなくなって、「ええ」とか気の抜けたような声を出したような気がする。女の子は本を眺め回しながら言ったわ。


「この魔法書はそこらへんのものとは質が違うわね。記述の魔法使いイストリアが著した貴重な品だわ。本物だったらの話だけど。これをどこで?」

 女の子は視線を本からようやくこっちへ向けた。

 嘘を言ってもしょうがないし、あたしは答えたわ。

「カスティア王立図書館本館ですが……」

「学術都市か。あなたそこの館員さんね」


 女の子の目があたしを見たの。赤い髪も、くりくりした大きな目も、宝石がきらきらしているように見えるほど鮮やかな色だったわ。

「あたしは旅の魔法使いアシェリーよ。覚えておいて」

 アシェリーさんは笑った。不思議と惹きつけられるような子だったなあ。

「ねえ、この本見たところ図書館の蔵書印がないみたいだけれど……」

「あ、その本は書庫に紛れていたもので、しかるべき場所に寄付したいのですが、どこに収めたらいいものかわからなくて……」

 アシェリーさんは「なるほどね」と言った。


「カスティア国の連中に渡すには惜しい代物だしね。それにこの本にかかっている鍵の魔法はかなり上等よ。カスティアの魔法使いでは絶対解けないわね。無理やり中を読もうとして研究棟が爆発するのが関の山かしら」

 ころころと笑うアシェリーさんに対して、一応カスティア国民としては少し言い返したいこともあったんだけれど、実際誰も鍵の魔法は解けなかったのよね。彼女の言う通り、ちゃんと力のある魔法使いに預けた方がいいと思ったわ。


「あたしはこの本の泣き声を聞いてここへ来たのよ。ねえあなた、お名前は?」

「エカテリーナですが、あの……」

「本の声のこと、よく分かってないみたいね。色々説明しなくちゃいけないことがあるかしら。ねえ、エカテリーナさん。時間があるならあたしについてきてちょうだい」

「……えっ?」

「ここでお話しするわけにはいかないわ。こちらの店主さんのお仕事の邪魔になっちゃうし、この本のこと、知りたいんでしょ?」


 あたしは逡巡して、それでやっぱり本のことが気になるからその人についていくことにしたわ。これでも少しは人を見る目はあるつもり。この人は悪い人じゃないと思ったの。それに、もしかしたらあたしがいつも聞く泣き声のことも何かわかるかもしれないと思ったしね。


 アシェリーさんは本を抱えてお店を出て、早足で歩いていってしまった。あたしはとりあえず、店主のおじいさんに直す本のことをお願いしてからお店を出て、急いでついていったわ。

 アシェリーさんは王都の細くて入り組んだ路地を、猫のようにすいすい進んだ。あたしは王都のことをよく知らないから、まるでアシェリーさんに誘われて、別世界に迷い込んでいるような感覚になったわ。


 辿りついた先は、小さな花屋だった。

 何故か幻を見たように外観がよく思い出せないの。でも中は覚えているわ。植物だらけ。まるで温室だったわ。カウンターには眼鏡をかけた男の店主さんがいた。

「――おや、魔女アシェリー。今日は薬草でも入り用かな?」

 店主さんとアシェリーさんは顔見知りみたいだった。


「マグノリア! 見てよ。記述と追憶の虜囚イストリアが書いた魔法書よ! 多分!」

「な、何だって! イストリアの魔法書?」

 マグノリアと呼ばれた男の人はカウンターから身を乗り出してきてね。二人はとても盛り上がっていて、あたしは二人の会話についていけなかった。


「王立図書館に紛れてたんだって! この人が王都まで持ってきたそうよ。そうそう、こっちがエカテリーナさん。この本の泣き声が聞こえたんですって」

 アシェリーさんはあたしの腕を引っ張って、「この人はこの花屋の店主マグノリアよ」と店主さんを紹介してくれた。マグノリアさんは目を細めてあたしを見たの。

「ほう、本の声が聞こえたか。あんたなかなかのもんだな。カスティアにもまだそんな者が残っていたか」

 マグノリアさんは穏やかな顔をしていたわ。安心したような様子だったかな。


「本の声が聞ける者は稀だ。昔は人間の方が本の声を聞ける者は多かったが、本を大事に扱わない者ばかりが増えて、それもほとんどいなくなった。アシェリーのように、魔法使いの中でそれができる者もほとんどおらん」

 マグノリアさんは言葉を続けた。


「……筆者の想いや知識を身に刻んだ本には、常人には聞こえぬ言葉を持つという。この声を聞ける者は、本を何よりも大事に想う者であるといわれている」

 そのときわかったの。あたしが今まで聞いていたのは本の声だったんだって。

 あの「いたい」と泣いている声は、破損した本や読まれない本の小さな嘆きだったんだわ。

 子供の頃から聞いていた声は、不気味なものでもなんでもなかったんだ。それがわかってあたしはすっきりした。長年の疑問が氷解したんだもの。


 アシェリーさんがカウンターに本を置いて、その表紙をそっと撫でた。

「あたしは本の声が聞こえるから、魔法の研究しながらあちこちでこういう未発見の魔法書を探したりしてるの。そうして専門の職人に見せにいけば直してくれることもあるし、魔法使い専門の図書館に寄贈したり、魔法道具屋さんに売ったりすることもできるしね」


 アシェリーさんはマグノリアさんと顔を見合わせて、溜息を吐いた。

「でも問題ね。この魔法書、鍵がとても厳重だわ。そこらへんの魔法使いには絶対解けない」

「アシェリーでも無理か? それなら英知の城の管理人に解除を任せた方がいいんじゃないか? あの人は本に関わる魔法の第一人者だろう?」

 そうねえ、と答えながらアシェリーさんはあたしへ顔を向けて、懇願するように手を合わせた。


「この本ね、どうにか譲ってもらえないかしら? お願い! カスティアに置いておいて、変な扱いされたらとても危ないものなの。冗談抜きで、建物ひとつが事故で丸々吹っ飛んでもおかしくないのよ! あたしが責任もってちゃんとしたところに持っていくから!」

 そういえば、一応まだあたしの所持物なのね。

 アシェリーさんが持って色々話してるから、もう譲ったような気持ちでいたわ。


「……といいつつ、イストリアの著書が気になっているだろう?」

 にやりと笑うマグノリアさんを背に、アシェリーさんはどきっと肩を震わせていたわ。

 二人の様子を見ていると、この二人になら本を預けてもいいと思ったわ。それに魔法書は元々どうにかしないといけなかったしね。


「……わかりました。お二人に譲ります」

 あたしがそう言うと、アシェリーさんはぱっと顔を輝かせた。

「本当にいいの?」

「いいんです。図書館はしかるべく場所に収めたいと言ってあたしに預けましたから。専門の人に管理をお任せしましたってあたしの方から図書館に言っておけば大丈夫です。こちらこそ、ちゃんとこの本を扱える人に会えてよかったです」

「かたじけない」

 マグノリアさんがほっとしたようにお礼を言ってくれた。


「この本を持ってきた人が、本の声を聞ける人でよかったわ。これはお礼よ」

 アシェリーさんはマグノリアさんに頼んで、小箱を持ってこさせたの。

「これは目の疲れを取ってくれるハーブよ。お茶を淹れるときに使ってね」

 アシェリーさんはあたしの目を覗き込んだわ。


「暗いところでたくさん本読んでいるでしょ。目が悪くなりかけているわ」

 あたしは思わず目元に手をやっていた。まさか最近目が悪くなっていることを見破られるなんて思わなかった。最近図書館の暗いところで仕事していたから、目が疲れるなって感じていたんだけど……。魔法使いってすごいのね。そんなことまでわかっちゃうなんて。

 それからマグノリアさんは小箱を包んで、綺麗なリボンで結んでくれた。


「ここの店には多分もう来ることはないだろうが、みだりに言いふらしてはいかんよ。さあ、もうおゆき」

 マグノリアさんは最後にもう一度お礼を言ってお店の外に送り出してくれた。

「マグノリア、また後で来るから!」

 そう言い置いて、アシェリーさんはあたしを元の場所まで送ってくれたの。

「この本のこと、本当にありがとうね。……これからも本の声を聞いて、本を大事にしてあげて」

 アシェリーさんはそのまま、軽やかな足取りでどこかへ行ってしまった。


 あたしね、今回本の声のこと、わかってよかったって思ったの。

 長年の疑問が解けたことも、声が不気味なものじゃないってわかったことも嬉しかったんだけど、それよりも嬉しかったことがあるわ。


 本の声が聞こえるってとっても素敵じゃない?

 あたしは子供のときからずっと、本の声を意識せずに聞いていたんだって思うと、とても嬉しくなったの。だって、まるで本と対話できるみたいなんだもの!

 あたしくらい本が泣く声を聞いて、そのいたみを見つけて直して、大事にしてあげたら、もっとずっと長い間、本は先の未来の人も読むことができるのよね。


 仕事は大変なことが多いけれど、やっぱり本が好きなんだもの。本の声を聞きながら、ずっと本に囲まれて暮らして、これからも本を大事にしていけたらいいな。

 そうしたら、いつかきっと、泣き声じゃない声も聞こえるようになるかな?


 ――……ありがとう。

 そんな言葉がいつか聞こえてきたら、素敵ね。

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