絵本の国と冬のばら

葛野鹿乃子

絵本の国

 春のばらが満開の季節でした。

 天気のいい昼下がり、マサキという青年が町中を歩いていました。マサキはこの町にある大学に通うため、一人暮らしができるアパートを決めに来ていたのです。


 町には花壇や並木が多く、日差しを受けて淡い色彩の花や緑が輝いていました。あちこちに植えられたリナリアやスズラン、スイートピーやアネモネが華やかに咲いています。

 マサキはそんな町の風景を眺めながら歩いていました。

 そのとき、道の端に人形が落ちていることに気づきました。

 細やかな金糸の髪に青い眼。白いレースに縁どられた、赤いドレスを着た女の子の人形です。傷や汚れもなく、大事にされている人形だとすぐにわかりました。


「おにいちゃーん! お願い、そのお人形を拾って!」

 少女の声が空から降ってきました。マサキは上を見回します。ちょうどマサキが立つすぐ傍の家の二階の窓から、少女が顔を覗かせていました。

 雪のような真っ白な肌に、波打つ長い金髪を赤いリボンで飾った、とても可愛らしい少女でした。

「おにいちゃん、お願い!」

 どうやら窓から人形を落としてしまったようです。マサキは少し面倒に思いながらも、このまま少女を無視するのも気が引けたので、人形を拾ってやりました。

 少女はほっとした顔でこちらを見下ろしています。

「お願い、二階までこっそり届けに来て。お人形を落としたことが知れたら、お母さんに怒られちゃう」

 マサキは家を上から下まで眺めて、どうやったら玄関を通らずに二階へ人形を届けられるだろうと思いました。少女は懇願するような目でマサキをじっと見下ろしていて、泣き出してしまいそうです。

 勝手に人の家の敷地に入ってしまいますが、マサキは仕方なく人形を届けてやることにしました。

 家の傍に大きな木があります。背も高く枝も丈夫そうで、少女のいる二階の窓にも届きそうです。マサキは上着の中に人形を入れて木を登りました。子供の頃からやんちゃな遊びばかりしていたマサキは、木登りが得意でした。

 太い枝を伝って、少女のいる窓の傍まで行きます。


 窓から見えた少女の部屋は、まるで絵本の中のようなもので溢れていました。本棚に綺麗に並べられた、凝った装丁の童話集。レースの天蓋のついたベッド。その周りに飾られた可愛らしい人形や動物のぬいぐるみたち。レースのカーテンの傍に置かれた、赤いばらの花を飾った花瓶。小さなピアノ。

 少女の外見とも相まって、まるでこの部屋のものすべてが、絵本から飛び出してきたかのようです。

 マサキは少女に人形を手渡しました。

 少女は人形を嬉しそうにぎゅっと抱きしめます。

「おにいちゃん、どうもありがとう! 木登り、とってもお上手なのね」

 人形を抱きしめる少女を間近で見てマサキは驚きました。

 少女は、人形と瓜二つの外見をしていたのです。

 金の長い髪と青い眼、白い肌。そしてレースで縁取られた赤いドレス。まるでこの少女が人形になったら、ちょうどこの女の子の人形と同じようになるでしょう。それくらい少女と人形は似ていました。

 マサキは嬉しそうな様子の少女にぎこちなく笑い返しました。マサキはあまり愛想がいい方ではないのですが、少女を邪険にすることもないと思って、がんばって笑顔を作りました。

「どういたしまして。それより、大事な人形ならもう落とすなよ」

「違うの。この子と一緒にお外を見ていたら、ちょうどその木にカラスがとまって。急に羽をばたつかせたから、私、驚いてついお人形を離しちゃったのよ」

「そうか。まあ、今度から気をつけろよ」

 マサキは木を伝って下りようとしました。このまま木に登っているところを誰かに見られたら、怒られてしまうからです。

「ねえ、おにいちゃんってこの町のひと?」

「いや、俺は四月からここの大学に行くんだ。もういいだろ? 俺は行くよ」

「待って待って。もっとお話聞かせて」

「もうだめだ。家の人に怒られる」

 少女は人形を抱きしめながら、人形の金の髪を手で梳きました。


「私ね、病気で学校に行けなくてずっとお部屋にいるの。この子やお部屋のみんながいるから寂しくはないけれど、お外には出て行けないのよ。おにいちゃんが何かお話ししてくれたら嬉しいな」

 少女は寂しそうに笑いました。マサキは少女のことを不憫に思いましたが、こんな小さな子が面白がるような話は何もできないだろうとも思いました。

 マサキはぶっきらぼうな態度がわざわいして、今まで学校では孤立していたのです。マサキは少女の真っ直ぐな笑顔や無条件の親愛の視線の受け止め方がわからず、目を逸らしました。

「おにいちゃん、大学へ行くんでしょう? 大学って、難しいお勉強ばかりするんだって、私、知ってるわ」

「まだ入ってないからわからない。けど、勉強なんてやれば身につくものだろ」

「私でもやればできるかな」

「病気でも健康な人でも、やろうって気持ちが本物ならできるさ」

「そうかな? そうだよね、きっと」

 少女は大人びた表情をしました。まるでマサキよりもずっと年上の大人のような、穏やかな笑みでした。

「おにいちゃん、四月からこっちで暮らすのでしょう? ねえ、こっちに来たら私にお勉強教えて。私もできることしてみたい」

「家庭教師ってことか?」

「そう。約束しようよ」

 少女の屈託のない視線は春のように輝いていて、マサキは眩しくて思わず目を細めました。


「見ず知らずなのにどうして頼めるんだ? 俺がいい奴か悪い奴かわからないのに」

「悪い人ならお人形を届けてくれたりしないし、きっとお話ししてくれたりもしないよ」

「無闇に信じていたら、いつか痛い目をみるかもしれないぞ」

「いいよ。信じることは、私が決めることだもん」

 明るい声で言いきる少女に、マサキは何も返せませんでした。

 マサキはいちばん辛いとき、誰からも信じてもらえませんでした。

 人の視線を受け止めきれなくなったのは、そのときからかもしれません。けれど、今の少女の言葉に、マサキは心の暗いところに、光を当てられたような気持ちになりました。

「俺はそんなに頭、よくないぞ」

「できるだけでいいよ。お母さんは私が何もせずにずっと安静にしているように言うの。その方が長く元気でいられるから。でも、それってただ死んでいないだけ。私もできるだけ普通の子と同じことしてみたい。何もしないままベッドにいるなんて、まるでもう死んじゃっているみたいでいやなの」

「いいんじゃないか。自分がやりたいことをやれば」

「ありがとう、おにいちゃん」

 少女は微笑むと、思い立ったように立ち上がって人形をベッドに座らせました。そして窓際にある花瓶の中から赤いばらの花を一輪だけ抜き取りました。

 窓から身を乗り出して、少女は窓越しにばらの花を差し出しました。

「約束のしるし。おにいちゃんにあげる」


 マサキは、本当は赤い色が苦手でした。忘れもしない、いちばん辛い思い出にこの赤い色が深く関係しているからです。以来、マサキは赤を避けていました。

 マサキの大切な友だちが、あるとき階段から転落して亡くなってしまったことがありました。そのとき階段の下に広がった赤い色を、マサキは忘れられずにいます。

 しかもあろうことか、事故のあったときすぐ傍にいたマサキは、人を突き落とした犯人扱いされたのです。やっていないと言ったマサキの言うことを信じてくれる人は、どこにもいませんでした。

 マサキは生まれ育った町を捨てて、この町でひとり生きていこうとしていました。この赤いばらは、色だけでマサキの心を抉るようです。


 無邪気な少女の笑顔を前にマサキはそっとばらの花を受け取りました。それは、マサキに普通に接してくれるこの少女の想いを受け取るということでもありました。

「私ね、この赤い色のばらが好き。おにいちゃんはどう?」

「俺は、赤い色は……。ちょっと嫌なことを思い出すんだ」

「そうなんだ。いつか、赤い色が苦手じゃなくなるといいね」

 少女は頬をばらのように赤く染めて微笑みました。

 マサキは目の前のばらの花を見つめて頷きました。




 四月がやってきて、マサキは再び町を訪れました。

新しいアパートの部屋で荷物を片づけると、あの少女のことが気になって、少女の家へ向かったのです。

 少女の家を訪ねてみてマサキはぎょっとしました。

 家の外観は変わり果て、廃墟になっていました。

 もう何十年もずっと放置されたのが外からでもわかります。窓は割れ、玄関の扉には釘と板が打ちつけてありました。割れた窓から中を窺うとあちこちに蜘蛛の巣が張っていて、ぼろぼろに壊れた家具の残骸に埃がかぶっています。

 とても人が住んでいるとは思えません。あの日登った大きな木はそのまま残っていて、家を間違えているわけではなさそうでした。

 マサキは建てつけの悪い扉を破って、二階へ上がりました。

 二階にはあのとき見たままの、ベッドや本棚、人形が置かれていました。ただ寝具やカーテンは破れ、もう何十年も人が踏み入っていないとわかるほどの埃が積もっています。あの日の少女との出会いがまるで嘘だったかのように、そこには何もありませんでした。


 仕方なくマサキは廃墟から出ました。

 そのとき、マサキの姿を見つけた通りすがりらしい老人が歩み寄ってきました。仕立てのいいスーツを着た、穏やかそうな老紳士です。

「お兄さん、こんな廃墟に入ってどうしたね?」

「いや、ここに、十くらいの女の子が住んでいませんでしたか。赤いドレスを着た、金髪で青い眼の子です」

 老紳士は何かを思い出すように空中を仰いで、そのうち、ああ、と思い出したように声を上げました。

「そういえば、もう四十か五十年前に、病気の女の子がいた気がするがね。でも、心臓の病気で十くらいのときに亡くなったはずだよ」

 老紳士の言葉が続くうち、マサキの全身はどんどん冷たくなって、自分で顔が強張っていくのがわかりました。老紳士は頭を下げて遠ざかっていきました。

 マサキはしばらく、その場を動けませんでした。


 少女と出会ったのは、ほんのひと月前のことです。

それなのに、その少女と思しき病気の子はもう何十年も前に亡くなっているというのです。この廃墟になった家もそれを裏づけるようにそこに立っていました。

 あの少女は、一体何だったのでしょう。

 まるで絵本の中から飛び出してきたような、ふしぎな少女。

 それは、何十年も前に死んだ少女の幽霊だったのでしょうか。もっと別の何かだったのでしょうか。ひょっとすると、本当に絵本の中からやってきた少女だったのかもしれません。

 たった何分かの、とても短いやり取りでした。マサキはそのとき確かに少女と約束を交わし、ばらの花を受け取ったのです。

 まだ、赤は苦手な色です。

 それは当分変わることはないでしょう。

 いつか友だちの死を乗り越えられたとき、ようやく赤い色を受け入れられるのかもしれません。

 そのときまで、マサキは夢のような少女のことをずっと覚えていたいと思いました。そのためにも、あのばらのような赤い色を、いつでも見えるところに置いておきたいと思いました。




「あれ? 大学生活始まったばかりで、もう髪を染めたのかい?」

 通学前、マサキはアパートの大家のおじさんに呼び止められました。

「赤とはまた派手な色にしたねえ」

 おじさんは眩しそうにマサキの髪の色を見つめました。

「できるうちに、やりたいことやろうと思ったんだ」

 マサキは染めたばかりの真っ赤な髪に指先で触れました。

 名前も知らないあの少女の好きな、ばらの赤。

 この色と一緒に、あの少女の思い出と一緒に、マサキは生きていこうと強く思いました。

 春の日差しが、とても柔らかで気持ちいいです。

 一度天を仰ぎ、マサキは大学へと歩み始めました。

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